第1話『起床』
仰向けじゃないと射精できない。
つい数日前に発覚した、まさに青天の霹靂としか形容しようのないその事実は、しかし、こと新道拓生の手慰みになんら支障をもたらさなかった。
もしこれがうつ伏せだったのなら、もしかすると多少なりとも差し支えが生じたのかもしれない。下着ならまだしも、シーツが汚れるのは勘弁してほしい。マットレスから引き剥がす作業は極めて面倒だった。
「——ぅ」
音もなく一直線に打ち上げられた生命の原液は一瞬にしてその勢いを失い、自然界の法則に則って垂直に落下していく。
いつも通りの刹那的な興奮に、いつも通りの緩やかな虚脱感。
鈍麻する思考と呼応するかのように、急速に萎んでいく陰茎が煩わしい。新道拓生、二十一歳。一日一回限りの快楽が、無情にも終わりを告げる合図である。
骨ばった腹筋にアメーバのごとくへばりついた白濁液を、拓生は焦茶色に濁った眼差しで見つめる。白くて透明で薄汚れたアメーバは、己の存在を主張するように、徐々にその領域を拡大していった。
「——」
やがて臍の中へと侵入していく精液を、拓生は他人事のように傍観する。体外へと射出された途端、ソレは己が体液ではなく、ただの無機質な物体だとしか思えなくなる。悪質極まりない放精だった。
この時間を『賢者タイム』と名付けた者の功績は大きい。それはつまり『性欲がないことイコール賢者』ということで、それはつまり世の中に蔓延る人間様の大多数は賢しくないということの証左だ。
その虚構が、何より拓生を安心させてくれる。彼にとって手淫とは、字面通りの意味での自慰行為であった。
「——ぁ」
精液が空気に触れるにつれ、臍のあたりが冷気を持ち始める。臭いも強くなってきた。ここらが潮時である。
枕元に置いてあるティッシュ箱から、二枚ほどティッシュペーパーを抜き取る。拓生の精液よりも真っ白く着色されたティッシュペーパー。腹の筋から亀の頭を優しく丁寧に拭き取り、雑に丸めてゴミ箱に捨てる。
薄黄色のティッシュしか入っていないゴミ箱は、すでに一杯になっていた。果たして次のゴミの日はいつだったか。
スマートフォンを閉じる。先ほど発射されたモノよりも、量も濃度も桁違いの液体画が液晶から消え失せ、代わりに明度と粘度が桁違いの成人男性の顔面が映った。
道端で干からびた蛙のお腹を思い出す。靴裏にへばりついたガムだと思わない程度には、拓生の自尊心の絞滓は残っていた。
ずり下ろしていたパンツを引き上げ、再び液晶画面に明かりを灯す。時刻は十九時を少し過ぎた頃だ。そろそろだろう。
「千明ー。拓生ー。ご飯ー」
案の定、階下から母親の呼ぶ声がした。
こちらの返事を待つことなく、階段からキッチンへと引っ込む気配がする。少しして、隣の部屋のドアが開く音がした。千明が出て行ったのだろう。
ポケットにスマートフォンを突っ込み、拓生も自室を後にする。無論、部屋の換気も忘れない。開け放たれた窓から、栗の花の邪な香りが初春の夜空へと溶けていく。
たった今、自ら手放した蛋白質を補給するため、拓生は階下へと降りて行った。
* * * * *
今宵の新道家のメインディッシュは肉や魚などではなく、スーパーで安かった野菜をふんだんに使った煮浸しだった。栄養だけは満点であるが、肝心の蛋白質は望むべくもない。
密かにため息を吐く拓生。その横で、親愛なるお母様はテキパキと食卓の準備を整えていく。
拓生の自慰行為など、彼女からしてみれば知ったことではないのだから当然である。無断で部屋を掃除した時の異臭とか、ゴミ袋の奥に捨てられた黄色味がかったティッシュとか、不自然に広がったパンツの裏側のシミとか、家中に蔓延る性の気配を認識した途端に海馬に指を突っ込んで掻き回し、記憶ごと消去してくれるのが世のお母様方が有する愛の形なのだ。
性欲から産まれた愛の結晶に生まれる性欲。うっとりするようなリビドーの連鎖は、しかし我が子に対して認められることはない。若かりし頃の自分は棚に上げ、純真潔白な息子娘を期待する。いつだって我が子は特別だ。
「二人とも、お皿と箸並べてー」
母親から指示が飛ぶ。その間も手を休めることはない。
『二人とも』と口にしつつも、それは拓生一人に向けられた言葉であることを彼は理解していた。血を分けた妹であらせられる千明は、ソファにでっぷりと座って端末を弄るお仕事で忙しい。
ちらと横目に見ると、端末の向こう側では人工的な雀斑まみれの女子高生が教育番組の端っこで泣き喚く餓鬼みたいなダンスを踊っていた。
表情筋ひとつ動かさずにそれを眺める千明。面白くもないのに、何故母親とのコミニュケーションを無視してまでのめり込むのか理解できない。もっとも、こと彼女に関することで拓生に理解できる事柄など皆無なのだが。
「俺、やるよ」
「うん」
ありがとうはなかった。
言われた通りに三人分の食器と箸を並べていく。父親は今日も帰りが遅いようだ。早かったためしがない。
準備を終え、拓生は自分の席につく。斜向かいの席に母が座ったタイミングで千明もようやくソファから離れ、対面の席に腰掛けた。
確信犯、という言葉が頭をよぎる。
「いただきます」
食材への感謝の言葉は、言わずもがな二人分だった。
カチャリ、カチャリと、箸と食器が触れる音がダイニングに響く。拓生の背後では、申し訳程度の音量でゴールデンタイムのクイズ番組が流れていた。
オープニングのクイズに正解が出たところで、今度は正面の方から軽快なBGMが流れ始める。音の発生源は、千明がテーブルに立てて置いたスマートフォンだった。拓生の側からは画面が見えないが、どうやら動画アプリを起動したらしい。フリー音源のSEとともに、若い男性の「ということで本日の企画は……」という声が流れたと思ったら、すぐに聞こえなくなった。
視線をスマホの画面に固定したまま、千明は器用に味噌汁を啜る。汁に浸かりそうになっていた髪を掻き上げると、右耳にワイヤレスイヤホンが覗いた。
一瞬、母が顔を顰める。しかし顰めただけで何か言葉を口にすることはなく、開いた口には代わりに萎びたほうれん草が放り込まれる。皺が刻まれた喉の奥に、ほうれん草と我が子への思いが同時に飲み込まれていった。
「——」
母が何を飲み込んだのか、拓生には解る。
あれは数日前か、数年前だったか。一度だけ、父が千明に注意をしたことがある。今と同じように動画アプリを視聴しながら食卓を囲う千明に対して、「食事中にスマホを見るのはやめろ」と、結構な剣幕で怒鳴ったのだ。その時は大人しく端末を閉じた千明だったが、次の日の食卓でも平然とアプリを開いていた。まるで怒られた事実など存在しなかったかのように。
当時は反省していないのかと思ったが、どうやら違う。それから父がいくら注意しても、注意しても、次の日には当たり前のようにスマホ片手に晩御飯を食べている。次第に父は何も言わなくなり、そもそも晩御飯に顔を出すことが少なくなり、妹の行いは黙認されるようになった。
母も言いたいことがあるような素振りを見せるだけで、結局は何も言わない。思春期の娘との接し方に悩んでいる母親の姿は、側から見ている分にはあまりに滑稽だった。あまりに滑稽で、あまりに惨めで、だからこそ愛おしい。
今この場で彼女を救えるのは、拓生ただ一人なのだ。
「うん、美味い」
醤油の味しかしない煮浸しを口にして、拓生は心からの賛辞を送る。冗談じゃなく、本当に美味しい。それはそうだろう。こんなどうしようもない子どもたちのために、赤くひび割れた指先に鞭打って作ってくれた料理だ。美味しくないわけがない。
「そう?」
母からの返事はそれだけだった。それだけで十分だった。拓生にとって大事なのは、決して「ありがとう」なんて陳腐な感謝ではない。
拓生はただ伝えたかっただけだ。伝えて、示したかったのだ。自分は目の前のワイヤレスイヤホン女とは違うということを。母親を慮る賢良方正な心根の持ち主だということを。
兄としてではなくあくまで人として、この世の誰にも期待されていないお手本を秘密裏に見せつけているのだ。お母さんの手料理に「美味しい」と伝えるだけの行為を高尚だと勘違いし、バラバラに散らばった絞滓を掻き集めることに神経を注ぐ。
「最近、大学はどう?」
拓生の一言で調子づいた母は、お茶碗を片手に世間話を振ってくる。我が意を得たりとばかりの表情が、これまたたまらなかった。
「どうって、別に、普通だけど」
「そう。授業はちゃんと出てるの?」
「出てるよ、大丈夫。あ、ちゃんと進級もしてるから」
「それは、当たり前でしょう」
「もう三回生だからね……そろそろ卒論とかも始まるし」
「卒論、ね。それって難しいんでしょ? お母さんは大学行ってないからよくわからないんだけど」
「俺もまだよく知らないけど、まあ、多分大丈夫だよ」
「多分って……」
呆れた声とは裏腹に、母の顔には不安の色が見当たらない。「拓生なら大丈夫だろう」という意識が透けて見えた。
「そういえば、就活の方はどうなの? それこそ三回生でしょ? そろそろ……」
「あー、うん。まあ、そうだね。それも、ぼちぼち」
「ぼちぼち?」
「うん、そう。ぼちぼち。大丈夫」
「そう。それならいいけど」
それきり会話は途切れ、ひたすら皿に盛られた栄養素を摂取する作業が続けられる。
クイズ番組はまだ続いていた。今は国語、それも四字熟語の問題のようだ。
ただ今売り出し中のアイドルが「無味乾燥」と回答したところで、拓生はテレビの音量を五段階上げた。
* * * * *
「お前、なんで一限来なかったんだよ」
鵜飼進の一言は、非難がましい視線とともに発せられた。
場所は学食である。
午後からの講義に備えて軽く腹ごしらえを、ということで、拓生は正門近くに位置する生協食堂へとやって来た。並盛のたぬき蕎麦が載せられたお盆を両手に座れる場所を探していた折、手近のカウンター席から拓生を呼ぶ声が聞こえた。
声の主は鵜飼進。拓生の友人の一人である。
「進級早々サボりとはいい度胸じゃねえか、天才」
「起きられなかったんだよ」
こちらを睨む進の目を無視して、カウンターの隣に腰掛ける。ここのカウンターは椅子が高すぎる上に硬いからあまり好きではない。
「起きられなかったって、お前実家だろ? 母ちゃんに起こしてもらえんじゃないのかよ」
「そんなわけないだろ」
確かに拓生は生まれてこのかた実家を出たことはないが、それとこれとは話が別だ。高校に入学した頃から、拓生は毎朝アラームで起きている。彼にとって大事なことは施すことであり、施されることは管轄外なのだ。一方で料理は作ってもらっているあたり、見事なまでのダブルスタンダードぶりだった。
ガイダンスは先週で全て終わり、今週からは通常の講義が始まっている。今日の拓生の予定は一限と三限。朝が早いのでなるべく一限の講義は取りたくなかったのだが、シラバスの内容が面白いと感じたのだ。履修登録の時点では。
「頼まれても教えてやらんからな」
「別にいいよ。一回くらい出なかったところでレポートに支障ないし」
「うーわ、余裕じゃん。これだから天才は」
恨みがましく吐き捨てる進に、拓生は肩を竦めてみせた。
拓生は自分のことを天才だと思ったことも、ましてや秀才だと思ったことも一度もない。天才とは読んで字のごとく、天から与えられた才能だ。別名を潜在能力とも言う。俗に『天才』と称される人間は、限られたきっかけを掴んで自らに眠る潜在能力を開花させ、それを最大限に活用して社会に寄与できる者のことを言う。生憎、新道拓生にはこれっぽっちも身に覚えがなかった。
しかし、進にとっては違う。彼にとっては、二年間かけて六十点のレポートを量産して必要単位を恙無く取得し、早起き出来なかったという理由で講義を蹴ることを歯牙にも掛けない行為は十分『天才』認定に足るようだ。
端的に言うと、鵜飼進は『天才』という言葉を軽々しく使う男だった。
「それにしても、俺たちももう三回生かぁ。これから卒論やら何やらで忙しくなるんだろうな」
「まだ、普通に単位も取らないといけないけどな」
「それを言うなよぉ」
頬杖をついて嘆息する進に苦笑して、拓生は両手を合わせて「いただきます」と口にする。誰にも聞かれないように小声で呟くのがポイントだ。
蕎麦を啜りながら、そういえば昨日もこんな話題になったなと思い出す。
そうだ。拓生はこの春から三回生。大学に入ってもう二年が経過したのだ。
「——」
横目で進を盗み見る。進はぼんやりと窓の外を見つめながら、ワンコインの親子丼を頬張っていた。
鵜飼進との出会いは入学まで遡る。学科の全体ガイダンスで偶然隣の席に座った二人は、お互いにサッカー経験者ということで話が弾み、意気投合。そのままの流れで昼食を共にした。
それからも講義で一緒になることが度々あり、その度に他愛のない世間話をするようになった。あくまでキャンパスの中限定の仲であり、空きコマを利用してどこかに遊びに行ったり、休日にわざわざ予定を合わせたりすることはない。
そんなビジネスライク加減がお互い性に合っていたのだろう。入学してから二年が経った今も、こうしてタイミングが合えば交流する関係が続いている。
進もまた、母親や千明とは異なる意味で拓生を満たしてくれる貴重な友人だった。
「あ、そうだ。卒論といえば」
丼に残った最後の鶏肉を飲み込んだところで、徐に進が口を開いた。
「拓生、お前、ゼミはどこにしたんだよ」
ゼミ。あるいは研究室とも言う。二人が通う大学では、三回生に進級する前にゼミの所属希望を大学へ提出する。大学側は希望やGPA、成績を加味した上で、学生を各教員のゼミに割り振るのだ。
三年次から四年次にかけては、基本的に学生は自身の所属するゼミで研究活動や卒論執筆に勤しむことになる。その後二年間の大学生活が決まる、学生にとってはある種の一大イベントであった。
「俺は及川ゼミ」
拓生が答えると、進は露骨に嫌そうな顔をした。
「うっわ、よりによって及川先生かよ。最悪じゃん」
「なんでだよ」
「いやだって有名だろ、及川先生の厳しさは」
「なんだそれ」
「あー、やっぱり知らなかったのか。いいか? あの先生はな、無断欠席しようもんなら即落第だって噂だし、レポートの採点も鬼って評判だぞ。それで毎年何人も泣かされてるらしい」
彼の発言には自分の意見が一切なかった。存在すら疑わしい名無しの権兵衛から発せられ、塵や埃と一緒に空気に乗って運ばれてくる手垢に塗れた情報を根拠に人様を『最悪』と結論付ける。およそ学究の徒とは思えない、最低最悪の論理体系が完成した。
さらに特筆すべきは、彼自身がその欠陥を自覚していない点にある。噂。評判。らしい。実態のないバイアスに支配され踊らされ、気付かぬうちに傀儡と成り果てた憐れな大学生の姿がそこにはあった。語尾を断定調にしていないところが、せめてもの救いだろうか。
もっとも、拓生もその瑕疵を声に出して指摘することはない。むしろ、このような手合いは大歓迎だった。わざわざ学食まで出張った甲斐があった。硬い椅子がふかふかのソファに思えてくる。
人間とは欲深い生き物だ。答えなど解りきっているのに、拓生は駄目押しの一言を放った。
「その話って、誰から聞いたの?」
「いや別に誰ってわけじゃないけど……とにかく有名なんだよ」
最高だった。
「……おい、何笑ってんだよ。え、何、お前ドMなの?」
「いや、別に。……まあ、ぶっちゃけやりたかった研究に近いことやってるのが及川先生ってだけで選んだから、その辺はどうでもいいやって思って」
「ふーん? 天才の考えはよく解らんな」
論理破綻のお次は思考の放棄ときた。これ以上拓生をときめかせるのは勘弁してほしい。
すっかり温くなってしまった蕎麦を平らげる。火照った身体にはこれくらいが丁度良い。
鵜飼進。相も変わらず、この男は大切な友人である。
* * * * *
鵜飼進のほかに、拓生には愛してやまない存在がもう一人いる。
「——とまあ、こんな感じで、多項式同士も筆算して割っていくことができる。文字と次数を一致させるように注意してね」
ホワイトボードに書き連ねられた数式。その隣に答えとなる商を書き加え、拓生は持っていたマーカーに蓋をした。
パチパチパチパチ。
拓生の目の前から、しっとりと濡れた拍手が起こる。
「おー、凄い。さすが新道先生」
そう言ってキラキラした瞳でこちらを見つめてくるのは、冲方咲。拓生が担当講師を務めている女の子である。
最寄駅にほど近い学習塾で、拓生は二回生の頃からアルバイトをしている。いくら実家暮らしとはいえ、大学生ともなればお小遣いは貰えない。健全なキャンパスライフを送るためには、多少なりとも収入源は必要だった。
ここは小学生から高校生を対象にした、個別指導を売りにしている学習塾である。生徒一人に対して担当の塾講師が一人つく、マンツーマン方式。採用面接で受け持ちたい学年を尋ねられた際、拓生は真っ先に高校生を希望した。
咲は去年から担当している、このあたりの偏差値そこそこの女子高に通う女子高生だ。担当になった時点で一年生だったから、この春から二年生。本日は数学IIの予習の時間である。
「相変わらず、新道先生の話は解りやすくていいね。面談で塾長に続投させてってお願いして良かったよ」
満足そうな顔で咲は笑う。
生徒は、年度末の塾長面談にて担当講師との相性調査——端的に言えば、担当変更の希望をヒアリングされる。一応、塾長と生徒の間でしか共有されない機密情報のはずなのだが、子どもの口は水素より軽い。情報リテラシーなど皆無だった。
「いや、冲方さんの理解力が高いおかげだよ。俺なんて、大したことはしていない」
「まったまたー。謙遜しちゃってー」
「本心だよ」
実際、その通りだった。
咲は飲み込みが早い。学校側の進捗に合わせて数学以外の科目も教えているが、どの科目でも一度教えたことはすぐにインプットしてくれる。加えてアウトプットのレベルも高い。基本問題を通して覚えたばかりの知識を定着させつつ、自分なりに解法を解釈して応用問題へと当てはめていく。
記憶力、思考力、対応力。そのどれもを高い水準で有しているのが、冲方咲という女子であった。
「この前の進級テストでも、学年順位一桁だったじゃん。俺、さすが冲方さんって思ったんだから」
「そう? ありがと」
この前見せてもらった成績表を思い出して言うと、咲は照れくさそうにはにかんだ。
打てば響くコミュニケーションは心地好い。しかし残念ながら、拓生が彼女を好ましく思う理由はそれではなかった。
「じゃあ、次のページの練習問題を解いてみて」
「はーい」
言われた通りに問題に取り掛かる咲。しばらくの間、カリカリとシャーペンが走る音だけが響き渡る。
「そういえば、新道先生さ」
ふと、咲が口を開いた。
「彼女は出来たの?」
そう、これだ。これこそが、拓生が冲方咲を愛する理由だ。
言わずもがな、それは恋愛的な想いではない。それは塾講師と生徒という関係を慮っているわけでも、大学生と高校生という関係を危惧しているわけでもない。自分も含めて、拓生は餓鬼本人には興味がない。
拓生が唆られるのは、彼女の感情と、それを感じ取って回転する自分の思考だ。
去年の秋口からだろうか。咲は、こうして拓生に彼女が出来たかどうかをしきりに訊いてくるようになった。
それまでも、授業の合間に世間話をすることはあった。学習スペースはパーテーションで区切られているので、余程大きな声を出さなければ私語が外部に漏れることはない。飲み込みが早い咲は、問題を解くのにかかる時間も短く、その分ほかの生徒に比べてお喋りの時間も多かった。
最初は今日学校であったこととか、今学校で流行っているものが話題の中心だった。しかし最近では、一言目からこれである。
「いや、出来てないよ」
初めてこの質問をされた時と同じ返事を口にする。否、初めての質問は「彼女いるの?」だった。その時は「いない」と答えて、その後大学にはどんな女性がいるのか、と訊かれた記憶がある。
「ふーん」
変わらず練習問題に取り組みながら、気のない相槌を打つ咲。しかしながら、その口角が僅かに持ち上がったのを見逃す先生ではなかった。
板書中、ことあるごとに背後から注がれる熱い視線。「解った?」と振り向いた時、視界に飛び込んでくる濡れた瞳。学校ではきちんと着こなしているだろうに、塾のドアを開ける前にわざわざ胸元を着崩したセーラー服。
それらすべての状況証拠が、冲方咲から新道拓生への好意を肯定していた。
「——」
眼下、可愛らしい旋毛を見つめながら、拓生は思考を巡らせる。
もし仮に、拓生に彼女がいたとしたらどうなるのだろう。この子はそれを訊いてどうしたいのだろう。
そもそも、彼女は新道拓生のどこを好きになったのだろう。
モノを教える姿だろうか。塾が独自に発行しているテキストを事前に読み込んで、その内容をただ出力するだけの行為がそんなに格好良いのだろうか。自動音声AIに恋をする時代が、すぐそこまでやってきているのか。
それとも大学生だからだろうか。産まれた年が少し前後しただけなのに、所属する教育機関が異なるだけで人間的な魅力度が変化するものなのか。
はたまたこの容姿だろうか。きちんと服を着て腕だけを見せていればスタイルが良く映り、TPOによっては眉目秀麗に見えなくもない顔面がお好みか。
多項式の割り算なんかさっさとやめにして、彼女に教えてやりたい。
君が好きになった目の前の男は、オナニーした後は干からびた蛙の腹のような顔面になっていることを。電子書籍の本棚が十八禁漫画で溢れていることを。拭いきれなかった白濁液がパンツの裏側にへばりついていることを。
君の好意に気づきながら、それに応えようとしない自分に酔っ払っていることを。
でも駄目だ。もしそれをしてしまったら、彼女は気づいてしまう。この耽美な時間が消えて無くなってしまう。ほかの誰でもない、拓生だけが知っている——その事実こそが重要なのだ。
勉強ができて可愛くて素直で愛嬌があって、なのに新道拓生なんかを好きになってしまう。そんな彼女のひたむきな不器用さが、そしてそれを自覚していながら何もしない自分自身が、何よりも何よりも愛おしい。
両親。妹。友人。生徒。
愚かな他者への知ったかぶりと、それを自覚した上でのうのうと生きる、彼ら以上に救いようのない自意識への陶酔。
この二つで、新道拓生は出来ている。