忌々しい勇者
忌々しい。
隣で安心しきったような表情で眠る勇者の、この世界の人とは違う、星の間に広がる夜空のような黒髪から覗く、まだ幼さの残るその顔を見ながら魔女は微笑みながら呟いた。
「人に見張りをさせておいてグースカ寝てるなんて、本当に忌々しい」
王城に召喚された勇者と旅に出たあの日から、魔女はもう幾度同じ言葉を吐き捨てたのだろうか。
薪の間で踊る炎が森の中の木々を赤く染めるのを眺めながら、魔女は勇者をこの世界に呼び寄せることになったあの日からのことを回想し始めた。
「ああ、これはいかん。もう儂じゃ勝てんのう」
勇者を召喚する幾日か前のこと。魔女の師匠である大魔導士は不意に本棚で囲まれた部屋を透かすように彼方を見つめると、そんなことを口にした。
その師匠の呟きに、まだ年若い魔女は耳を疑う。大魔導士は未来を見通す目を持ち、時と同じくらい古くから生きていると噂されている、この世に並ぶものなど何一つないほどに偉大な存在だ。
そんな師匠が、勝てない?
「魔王が女神様を取り込んでしもうた。この世に並ぶ者ないと言われる儂と言えども、神はさすがに相手が悪いのう」
大魔導士は長く伸びた白い髭を撫でながらかかと笑いそう言うと、弟子である魔女に旅支度を整えるようにと言った。長い旅路になるから、なにが起きても対応できるようにしっかりと準備をするように、と。
魔女は師匠が魔王を退治しに行くのだ、そして自分もその旅について行けるのだと思い、それだけで自分が神話やおとぎ話に出てくるような英雄になったような、そんな高揚した気分になった。
しかし大魔導士は魔王退治の旅へとは出なかった。代わりに、弟子の魔女を連れて王城へと向かったのだ。
この世に並ぶ者のない偉大なる魔導士が尋ねてきたということで、国の重鎮が集まる玉座の間の中心で、王はどこか落ち着かない様子で尋ねる。
「今日は一体、どのような用で我が城に?」
「うむ。ここよりはるか北方の地にて魔王が産まれおったわ。しかもあやつめ、女神様を取り込んどる。この世界の理の中にいる者では魔王には勝てん」
大魔導士の言葉に、玉座の間に集まった者たちは一斉に息を飲む。しかしある若い家臣が声をあげた。
つまり我らに代わり大魔導士様が退治してくださるのですね、と。
はるかな古代から生き続ける偉大なる魔導士。なるほどたしかに彼ならばこの世の理を踏み越えた存在だ。
しかし大魔導士は首を左右に振ると、儂とて理の内におると言った。その言葉に先ほどよりも大きな騒めきが玉座の間に広がる。
「あなた様がわざわざこの城に来られたということは、なにか方法があるのでは?」
その騒めきの中心から、王は大魔導士にそう尋ねた。大魔導士はにっこりと笑い、うむと頷く。
「この世界の理の中にいる者には勝てぬのであれば、この世界の理の外から魔王を討つ者を、すなわち勇者を、呼び寄せればよいのだ」
そうして理の外から、一人の男性が呼び出された。細身で、どこか幼さを残した顔つきであったが、身長は大人のそれと同等である。
なにより特徴的だったのは、その髪だった。王国の人間は金や赤、銀の髪が一般的である。大森林に住むエルフたちは緑の髪をしている。大鉱山を住処とするドワーフは茶色の髪だ。
だが勇者の髪は、夜のような黒だったのだ。
これこそがこの世界の理の外にいる証かと城内が騒がしくなっていた頃。
大魔導士は城の貴賓室で死に瀕していた。
理の外から人間を、それも魔王を討つほどの素質を持つ人間を連れてくる大魔術。いくら時を超越した大魔導士と言えども、その命の全てを振り絞らなければならないほどのものだったのだ。
魔女は大魔導士の手に縋り付き、顔中を涙で濡らす。
幼い頃に捨てられた魔女にとって、大魔導士は師匠であると同時にたった一人の家族だった。
普通の人間でしかない自分はいつかこの師匠を置いて死ぬことになるだろうと思っていた。その覚悟はしていた。
だが、師匠が先に死ぬなんて覚悟は、していなかった。
大魔導士は弱々しい声で魔女の名を呼んだ。
「は、はいっ。な、なんでしょうか」
魔女は無理に泣き声を抑えようとしたせいで少しどもりながら返事をする。
大魔導士は、彼女の唯一の家族は、優しく魔女の赤く少し癖のある髪を撫でながら、師から弟子へ向けるものではなく、親から子へ向けるような優しい愛情を込めた眼差しと声で言った。
「あの少年と共に魔王を討つ旅に出て、彼を支えてやりなさい。死が二人を分かつまで、そばにいてやりなさい」
それが、偉大な魔導士の最期の言葉だった。
そうして修行を終えた勇者が城を出るとき、魔女はその旅に同行した。
だが魔女は勇者のことが嫌いだった。
たしかにこの男は魔王を討つ存在かもしれない。世界を、人間を救う存在かもしれない。だが魔女にとっては、彼女の最愛の家族を奪った存在でしかないのだ。
旅が始まってすぐ、なにもない草原を二人で歩きながら勇者は魔女に、なぜ自分の旅に同行するのかと尋ねた。
「私の師匠はあんたを呼び出すために死んだ。だから私はあんたが嫌い。だけど、師匠の遺言だから、私はあんたの旅について行くの」
足を止めず、勇者の方を見もしないで歩く魔女の言葉に勇者が息を飲んだのが分かった。そして、おそらく足を止めていたのだろう数歩分後ろから、勇者の弱々しい声が聞こえてきた。
「……ごめん。僕なんかを呼ぶために、君の師匠が」
「なんかなんて言うな!」
魔女の怒声が、弱々しい勇者の声を遮る。数歩分離れていたのが幸いしたかもしれない。もう少し近づいていれば、振り向いた魔女は勇者に殴りかかっていたかもしれないから。
しかし杖でもすぐに殴れない距離であることに気が付いた魔女は、さらに声を張り上げる。
「なんかなんて言うな! 師匠は、なんかなんて卑下するような相手を呼び出すために死んだんじゃない! おま、お前は、世界を救うんだ! あの師匠が呼び出したんだ! それくらいはしろ!」
我ながらめちゃくちゃなことを言っていると魔女にも分かっていた。だがそれでも、怒鳴らずにはいられなかった。
そして急に懐かしい師匠の声を思い出してしまい涙が溢れ、しかしそれを勇者に見られるのが嫌で、魔女は急いで勇者から顔を背けると速足で歩き始める。
後ろから勇者のごめんと謝る弱々しい声が、風に乗って微かに耳に届いていた。
忌々しい。
これから先何度となく吐き捨てることになる言葉を、魔女はこの時初めて吐き捨てた。
それからというもの、魔女は何度もこの言葉を吐き捨てた。
初めて魔物を殺し、その感触と血の匂いに、胃の中身を吐き出した勇者に対して。
ある街で財布をスられたというのに、困った顔で笑いながら「きっとあの子はお金に困っていたんだよ」と言うだけの勇者に対して。
非合法な商売に巻き込まれて困っているという孤児院を助けるという勇者に対して。
「僕を呼んだ大魔導士様に恥じないような行いをしたい」などと語る勇者に対して。
きっと似合うからと言って、魔女に対してアクセサリーのような護符を買った勇者に対して。
立ち寄った貧しい村が盗賊に狙われていると知り、報酬も見込めないのに助けると決めた勇者に対して。
村にいた猫に触ろうとした魔女が引っかかれているのを見て笑う勇者に対して。
初めて人を斬ったあの日から、何日もうなされ飛び起きては、寝ている魔女を気遣い必死に泣き声をこらえながらどこかへと行く勇者に対して。
寝ながらに、もう帰れない故郷を思い出すのか、涙を流す勇者に対して。
パキリ。焚火が音を立てて爆ぜる。その音で物思いから覚めた魔女は、勇者の方に火の粉が飛んでいないことを確認すると、森の奥にそびえる大きな禍々しい城に目をやった。
明日、勇者と共に魔王を討つ。そう心を新たにした。
「ああ、もう。忌々しい」
魔女はそう呟く。目の前では勇者と魔王が必死の戦いを繰り広げていた。
どちらも一歩も譲らず、全く互角の戦いに見えた。一介の魔女が手出しできるような隙など、まるでなかった。
魔王も勇者も、魔女などまるで眼中にないように見えた。
ここまで蚊帳の外であるのならば、なんで自分はここにいるのだろう。なぜ師匠は勇者についていけなどという遺言を残したのだろう。
そう考えていた魔女は、唐突に自分がなすべきことを理解した。
同時に師匠の遺言を思い出す。
『死が二人を分かつまで、そばにいてやりなさい』
「師匠、私もそちらに行ったら、恨み言を聞かせます。いくら何でも遺言の意地が悪すぎますよ」
未来を見通す目を持つ大魔導士の遺言。それはすなわち予言に他ならない。
そしてあの言葉は、命を懸けて、自分の命を捨てて、魔王の隙を生み出せということに違いないのだ。
魔女は少しずつ目立たないように魔力を練りながら、少しずつ戦いの場に近付いていく。
そして勇者が魔王からほんの少しだけ離れたその一瞬を狙い、自身の全ての魔力を矢の形に変えて魔王に向けて放った。
魔女の殺気に魔王はすぐさま反応し、魔女の渾身の一撃を、自身の持つ膨大な魔力でかき消して魔女に向けて反撃した。
しかしそれは、勇者から意識が逸れるということに他ならない。
魔女は自身に向かって迫りくる致死の魔法を見ながら、その魔法の向こうで勇者が魔王の胸に剣を突き立てているのを見ながら、呟く。
「忌々しい」
ようやく、自分の気持ちが分かったのに。これから先も、勇者と、彼と一緒に歩めると思ったのに。
せめてこの気持ちを打ち明けるくらいは、したかったのに。
まあ、でも。
「あんたが生きれるなら、それで良いのかな」
「まじょさまとゆうしゃさまは、そのあとどうなったの?」
私がここまで語り終えると、四歳になる娘はそう尋ねてきた。私がどう答えようか迷っていると玄関から「ただいま」という声が聞こえてくる。
私は娘の癖のある黒髪をくしゃくしゃと撫でると「ほら、お父さんのお迎えに行きなさい」と言ってその背中を押した。娘は私のお腹にまだ小さい手を当てて、そこにいる弟か妹になにか話しかけると、とたとたと走って玄関に向かった。
私もまた杖にすがって立ち上がると、まだうまく動かない足をゆっくりと動かしながら玄関に向かう。この杖も昔は魔法に使うのに使用していたというのに、いまではすっかり歩くのを補助するための道具だ。
「師匠、あなたに会いに行くのは、もう少し先になりそうです」
玄関で娘を抱き上げる旦那を見ながら、私はそんなことを呟く。ああ、それにしてもうちの旦那ときたら。畑仕事をした直後の土で汚れた手で私のかわいい娘を抱き上げるなんて。
まったく、いつまで経っても。
「本当に、忌々しい人」
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