5.さよならの雨音
部活禁止期間に入り、朝練のない早朝の学校内は閑散としていた。雨が降っているせいもあるかもしれない。
午前七時四十分。ひとけのない静かな校舎に足を踏み入れ、美砂都は無駄に響く自分の足音を聞きながら階段を上った。自身のホームルームは三階だが、用があるのは二階の一室だった。
二年G組の札のかかる教室の前で立ち止まり、ひょこっと中を覗き見る。窓際の席に、目的の人はいた。
「みっけ」
声を上げると、教室の中に唯一いた男子生徒が頭を上げ、美砂都を見やった。
「美砂都」
「おはよう、公恭くん」
美砂都は伊達の座る窓側の前から四番目の席に歩み寄った。朝練がある日は朝練に、そうでない日はこうして教室で自習をする。それが伊達の朝の習慣だった。
「大丈夫? 熱、下がった?」
「うん。おかげさまで」
「よかった。疲れが出ちゃったんだね」
「うん」
伊達はあまりしゃべろうとしなかった。調子がよくないせいか、美砂都とは話したくないと思っているのか、今は判断がつかなかった。
「大変だったんだよ、昨日の練習」
美砂都は誰のともわからない伊達の隣の席へ勝手に座りながら話した。
「公恭くんが来られなかったら、琉聖くんがレシーブ練習ばっかり詰め込んだの。そうしたら煌我くんが怒っちゃって」
「そう」
伊達は短く相づちを打ち、シャープペンを握る右手に力を入れた。視線がノートへと向けられ、美砂都が来るまで解いていた三角関数の問題の続きに取り組み出す。
やっぱり、わたしとは話したくないんだ。美砂都は胸に痛みを覚える。
言葉が出てこない。もっと、もっと、彼と話をしなくちゃいけないのに。
「それだけ?」
「え?」
美砂都が黙ってしまっていると、伊達は問題を解きながら口を開いた。
「ぼくになにか話があって来たんでしょう。朝練がない日のきみは、いつもギリギリに登校してくる」
話を聞く気がないわけではないようだった。しかし、うつむいて見づらいけれど、眼鏡の奥の伊達の瞳がひどく濁って見えることが美砂都には気がかりでならなかった。
美砂都になにを言われるかをすでに悟り、それに対する拒絶の気持ちが映し出されているかのような、泥水みたいにくすんだ茶色。普段はもっと澄んでいて、常に物事の本質を見透かしているかのようなのに。
伊達の姿から視線をそらすと、今日はいつものポニーテールにしていない、胸の下まで長く伸ばした美砂都の黒い髪がかすかに揺れた。
心配しているのだと伝えたい。でも、それがかえって彼の負担になってしまうことが怖い。
雨宮は、テストが終わってからゆっくり話をすればいいと言った。テスト週間を挟むことで、気持ちを切り替えるきっかけになるかもしれないと考えたようだ。
でも、美砂都には心配でたまらなかった。昨日熱を出したというのも、もしかしたら部活を休むための口実だったのではないかとさえ考えた。
どうしても忘れられない一瞬があった。五月の終わり、いつもの帰り道でのこと。
不安でいっぱい、怯えすらいだいているかのような彼の目を見た。あの時から少しずつ、彼の心に見えない錆がつき始めていたのだとしたら。
勝って、勝って、最後は全国の頂点に立ちたいと願うチームにありながら、勝てない日々が続いている。琉聖がコートを降りたその時から、実里丘は勝てないチームに変わってしまった。
代わりにセッターとしてコートへ立ち始めたのは伊達だ。責任なんてこれっぽっちもないけれど、彼に自責の念を覚えるなというほうが難しい。
錆は広がり、ついに彼の心をバレーボールへ向かわせるエンジンを動かなくしてしまった。
それが昨日、伊達が部活に来なかった本当の理由だとしたら。
「ぼくを責めに来たのかい」
黙りこくる美砂都に、伊達は勉強の手を止めて話し始めた。
「かまわないよ。好きなだけ責めればいい」
「公恭くん」
「みんな思ってるんだろう、試合で勝てないのはぼくのせいだって。きみはそれを告げに来た。違う?」
「違うよ。そんなこと誰も思ってない」
「遠慮しなくていい。はっきり言って。おまえはチームのお荷物だ、ってね」
美砂都は右手でおもいきり机の天板をたたき、椅子を蹴って立ち上がった。驚いて顔を上げた伊達をにらむように見下ろす。
「いい加減にして」
誰も伊達を責めていない。そんな話をしに来たんじゃない。
「みんな心配してるんだよ、公恭くんのこと」
「心配?」
涙で目が潤みそうになるのを必死にこらえている美砂都を見上げ、伊達はどこまでも冷めた微笑を浮かべた。
「そりゃあ心配もするだろうね。このままぼくがセッターとして試合に出続ければ、勝てる試合も勝てずに終わってしまうんだから」
伊達が話し終えた直後、二人きりの教室に割れるような乾いた音が響き渡った。
美砂都の右手が、伊達の左頬を張った。
違う。
わたし、こんなことをしに来たんじゃないのに。
互いにうつむけた顔に、それぞれの前髪が影を作る。隠された美砂都の目もとに、こらえていた涙がついに浮かんだ。
誰も伊達を責めてなどいない。心配しているのは体調のこと、メンタル面のことだけだ。雨宮は厳しいことを言っていたけれど、彼なりに伊達を励ましているだけ。琉聖の代役なんて、ヘタをすれば誰一人やりたがらないポジションを引き受けてくれた伊達に対し、お荷物だなんて思うはずがない。
悔しかった。伊達に言葉が届かない。
どうしたらわかってもらえるだろう。雨宮の言うとおり、テスト週間を挟んだあとで話をするほうがいいのだろうか。
知らないうちに雨脚が強まり、雨粒が窓をたたく音が大きくなる。
いつまでも顔を下げたままの伊達に背を向け、美砂都は二年G組の教室から駆け出た。
どうしようもなく悔しくて、廊下を少し行った先にしゃがみ込んで泣いた。
あんなの、公恭くんじゃない。
いつもの公恭くんは優しくて、気づかいのできる人で。
特別な才能はないけれど、バレーボールが大好きだという気持ちを決してなくさない人だ。
それがどうして、こんなことに。
大切な仲間にらしくない発言をさせてしまっている現状が、美砂都には苦しくてたまらなかった。
テスト週間が明けたあと、ちゃんと話ができるかどうか、今から不安で仕方がなかった。
一週間の準備期間と五日間の試験期間が終了し、暦はまもなく七月へ移り変わろうとしている。
三時間目の最後の試験が終わると同時に、学校内は生徒たちの晴れやかな笑顔でいっぱいになった。苦しかったテスト地獄から解放され、ようやく穏やかな日常に戻れる喜びに、美砂都の頬も自然と緩んだ。
試験終了と同時に部活動が解禁になり、男子バレー部が今日体育館を使えるのは午後三時半からだ。それまではラグビー部と調整をしてトレーニングルームを使わせてもらえる約束になっていて、一時半にクラブハウス前に集合するよう雨宮が指示を出していた。
テスト明けの清々しさをもっと味わっていたい気持ちを押し殺し、美砂都は荷物をまとめると、足早に二年C組の教室へと向かった。一刻も早く雨宮と合流したかった。
C組の教室の中を後ろの扉から覗く。雨宮の姿はすぐに見つかって、教室の真ん中で数人のクラスメイトとのんきに談笑しているところだった。椅子にどっぷりと腰を落ちつけ、しばらくその場を離れる気はないように見える。
美砂都は足音高く教室に入り、雨宮の席のすぐ後ろに立った。
「裕隆くん」
やや声を張って呼びかけると、振り返った雨宮はキョトンとして美砂都を見上げた。
「おう。どうした?」
「どうした、じゃないってば! のんびりしてる場合じゃないでしょ」
「なに怒ってんだよ。集合時間までまだ余裕あるだろ」
「はぁ?」
呆れた。この人、なんにもわかってない――。
「もういい」
この人はいつもそう。大切なことに気づくのは、それを失ったあとになってからだ。
美砂都は雨宮を置き去りにし、急いで二年G組の教室へ向かった。「おい、美砂都!」と雨宮が慌ててあとを追いかけてくる気配を感じたけれど、振り返っている余裕はない。
「どこ行くんだよ、なぁ」
雨宮の声にはこたえず、階段を駆け下りる。階段脇の教室が目的地だが、どうやら一足遅かったようだ。
「うそ」
伊達の姿はすでになかった。息を弾ませた美砂都がつぶやくのを聞き、雨宮はようやく状況を悟ったようだった。
「公恭」
美砂都よりも早く、雨宮は廊下を逆戻りした。美砂都もそれに続き、校舎を出て、校門へ向かう。
夏らしい空の下を全速力で駆ける。見つけた伊達の後ろ姿は、まもなく校門を出るところだった。
「公恭!」
雨宮が声をかけると、伊達はかすかに肩を震わせ、ゆっくりと二人を振り返った。
その表情は、テスト明けとは思えないほど暗かった。頭上に広がる梅雨を忘れた青空とは真逆の、かかる雲の厚い、今にも土砂降りの雨が降り出しそうな顔。
「どこ行くんだよ」
一歩踏み出した雨宮の声は震えていた。
「メシ食おうぜ。弁当、持ってきてるよな」
当然のように、ノーという答えは最初から求めていないかのように雨宮は問う。伊達は雨宮からそむけた顔をうつむかせ、耳を澄ませなければ聞こえないくらいの声で答えた。
「持ってきてない」
「え、なに」
「部活、行かないから」
雨宮の表情が固まった。言葉を失い、呆然とその場に立ち尽くす。
美砂都も同じだった。喉をふさがれているように声が出せない。
部活には行かない。
そう言った伊達の声が耳の奥でループする。
素直に受け入れられる回答ではなかった。からだが勝手に、伊達の声を拒絶した。
「ふざけんじゃねぇ」
雨宮が絞り出すようにつぶやいた。
「俺に黙って部活サボるつもりだったのかよ」
「まさか。あとで連絡を入れるつもりだったよ」
「嘘だろ、そんなの。なんにも言わずに帰ろうとしてたじゃねぇか」
雨宮は伊達を見ている。でも、伊達は雨宮を見なかった。
交わらない。二人の間に、見えない壁が築かれようとしている。
「言えよ、公恭。どうして部活に来ない?」
雨宮はもう一歩伊達に近づく。からだ半分を校門に、もう半分を雨宮に向けている伊達は、ちらりとだけ雨宮に目を向けて答えた。
「言わなきゃわからない?」
「は?」
「そうだよね。きみは人の心の機微に疎いほうだ」
伊達が背を向けて歩き出す。彼が校門を出るまで二十メートル弱しかない。
美砂都は下唇をかみしめる。
まだ間に合うと思っていた。でも、遅かった。
伊達はとっくに、光の届かない奈落の底まで落ちていた。瞳はどこまでも冷めきって、いつもしゃんと伸びている背も、今はすっかり小さく見える。
足が竦む。呼び止めなければならないのに、声をかけるのが怖い。
名前を呼んでも、振り返ってもらえないかもしれない。あの頃のように、たくさんの仲間たちが辞めていった一年前と同じように、彼もこのまま、二度とバレー部に戻ってこないような気がしてくる。
このままじゃ、三人だった仲間が、雨宮と二人になってしまう。
そんなの、絶対に嫌なのに。
「……あぁ、そうだよ」
雨宮が駆け出し、追いついた伊達の腕をつかんで引き留めた。
「わかんねぇんだ、俺には。なんでおまえの中に『部活に行かない』なんて選択肢が生まれたのか。俺たちの中にあるのは、『部活へ行く』っていう選択肢だけだったはずなのに」
伊達は足こそ止めたけれど、雨宮を振り返りはしなかった。口も開かず、雨宮の次の言葉を待っている。
「約束しただろ、実樹也たちがやめてった時に」
伊達の背中に、雨宮は声に力を込めて語りかける。
「忘れたとは言わせねぇぞ。隠しごとはしない。困った時はすぐに相談する。なにがあっても、どんなにつらくても、三人で支え合って、最後まで実里丘のバレー部員でいようって。俺と美砂都と、おまえ。俺たちだけは、引退するまでずっと一緒だって」
伊達の吐息が揺れた音が、美砂都の耳にかすかに届いた。
そうだ。みんなで約束した。
苦しい時には支え合い、つらい時には正直につらいと言おう、と。
たった三人の仲間だけれど、いろんなことを分かち合える、そんなチームになれるようにがんばろう、と。
大丈夫。雨宮の言葉は届いている。
忘れていない。伊達はちゃんと覚えている。
あの日、三人で組んだ円陣を。
この三人で、最後まで走り抜けるのだと決めたことを。
まだだ。まだ終わっていない。
わたしたちなら、話せばきっとわかり合える。
「頼むよ、公恭」
すがるように、雨宮は伊達の腕をつかむ手に力を入れた。
「ちゃんと話そう。文句でもなんでも、全部聞くから」
「そうだよ、公恭くん」
美砂都も雨宮を援護した。
「言ったでしょ。誰も公恭くんのことなんて責めてないよ。苦しいことがあるなら話して。一人でかかえ込まないで」
伊達は答えない。振り返る素振りもない。
だけど、美砂都にはわかる。
彼が自分たちを見ないのは、雨宮の言葉がちゃんと届いているからだ。
話し合うことができたなら、問題はきっと解決へ向かう。そう信じていたかった。
けれど、
「そうだね」
伊達は静かに、つかまれている腕から雨宮の手をほどき、下ろした。
「話そう、いつか。今日この瞬間を笑って話せるようになる日が来たらね」
最後まで光の戻らなかった瞳で雨宮と視線を重ね、伊達は雨宮の手を離した。再び二人に向けられた背中が少しずつ遠ざかっていく。
「待てよ」
雨宮が、消え入りそうな声で言った。
「待ってくれよ、公恭」
伊達は足を止めなかった。聞こえているのかいないのか、彼の歩調は変わらない。
「無理だよ、俺」
伊達が校門をくぐり、ゆっくりと坂を下り始める。
「おまえまでいなくなったら、俺は、どうすればいい」
その姿はやがて二人の視界から消え、雨宮の言葉だけが虚しく宙を漂った。うつむき、長く吐き出された雨宮の吐息は震えていた。
「裕隆くん」
美砂都が隣に寄り添うと、雨宮は虚ろな目をして、譫言のようにつぶやいた。
「まただよ。また一人いなくなった」
「待って、裕隆くん。まだ公恭くんはやめるって決まったわけじゃ……」
雨宮の正面に回り込んだ美砂都は目を見開いた。
いつも凜々しい雨宮の両の瞳から、大粒の涙がこぼれた。
「ちくしょう」
拳を握り、雨宮は声を震わせた。
「俺が悪いのか」
「違うよ、裕隆くん」
「だったらどうしてみんなやめちまうんだよ!」
悲痛な叫びが校舎に反響し、下校する生徒たちが遠巻きに目を向け始める。
かまうことなく、雨宮は顔をうつむけて泣いた。
「なんでだよ。なんで俺には、みんなを引き留められる力がないんだ」
悔しい気持ちが、涙になってあふれ出す。見ているのがつらくて、耐えられなくて、美砂都も雨宮と一緒になって泣いた。
――話そう、いつか。
伊達の残したその言葉が、二人の胸を締めつける。
ぼくは戻らない。面と向かってそう宣言されたようなもので、そんなこと、全然受け入れられなくて。
約束したのに。
わたしたちだけは、絶対に最後まで丘高バレー部の部員でいようって。
ちゃんと約束したはずだ。
なのに、どうして――。
雲一つない青空が嘘のように、雨宮と美砂都のもとには大粒の雨が降りしきる。
一人校門をくぐった伊達の耳にも、鳴り止まない雨音が深く響く。
同じ頃、琉聖たち一年生は、煌我の呼びかけで全員が一年A組の教室に集まり、仲よく弁当のふたを開けていた。
こののち彼らは、雨宮たちの涙の理由を知ることになる。
今は弾ける七つの笑顔が消えるまで、残り二時間を切っている。
【CHANGE ~県立実里丘高校男子バレーボール部の瓦解~/了】




