1.ヘッドコーチ
たとえ相手が部活の顧問だとわかっていても、先生に呼ばれて職員室へ行くというイベントは美砂都の心を無駄にドキドキさせるのに十分すぎることだった。
星川工科高校との練習試合から二日が経った翌週の月曜日。昼休みの午後一時に職員室へ来るようにと、練習試合の帰りに顧問の浜園から言われていた。美砂都だけではない。雨宮と伊達も含めた二年生全員で来てほしいというのが浜園の指示だった。
「なんなんだろうなぁ、話って」
廊下を行く美砂都の隣で、雨宮が漆黒のスラックスのポケットに両手を突っ込みながらつぶやいた。今日の最高気温は二十二度とあたたかく、学ランを着ている伊達とは違い、雨宮は長袖のカッターシャツ一枚で過ごしている。美砂都も今日は濃紺のセーラー服ではなく、長袖の白い合服を選んだ。白い布地に、水色のリボンはよく映える。
「おおむね見当はつくけどね」
雨宮の向こう側で、伊達が眼鏡を押し上げながら言った。
「久慈のことでしょう、どうせ。一年のうちから監督の仕事までさせるなんて、とか、そんなようなことを言われたんじゃないのかな、星工の監督さんから」
「あり得るな」
職員室のある校舎へとつながる渡り廊下を歩きながら、雨宮は伊達の意見に同意した。
「確かに、うちのチームの大きな欠点ではあるからな、俺たちにバレーを教えてくれる大人がいないってのは」
「浜園先生が今から勉強して、久慈を超える知識と指導力を身につけられるとは思えないしね。だからといって、ぼくらに相談されても、って感じだけど」
「だよなぁ。コーチの当てがあるならとっくに声かけてるし」
職員室に到着し、雨宮が扉をノックしてからスライドさせる。「失礼します」と三人揃って室内へ入ると、雰囲気を察した浜園がデスクから顔を上げ、立ち上がった。
「すみませんね、貴重な休み時間にお呼び立てしてしまって」
三人を職員室内に併設されている進路指導室へ招き入れると、一人向かい側に座る浜園はいつもと変わらない穏やかな口調で話し始めた。
「このタイミングで皆さんを集めたのですから、私の話したいことはすでにお察しかもしれませんね。時間もないので、手短に」
前置きを据えると、浜園はまっすぐ美砂都と目を合わせた。
「時田さん」
「はい」
「ヘッドコーチ、という言葉をご存じですか」
唐突に飛び出した横文字に、美砂都は目を白黒させた。だが、知らない単語ではなかった。
「聞いたことはあります。父がプロ野球のファンなので」
「そうですか。でしたら、話は早いですね」
浜園は満足そうにうなずいた。
「競技によって言い方はさまざまですが、プロ野球におけるヘッドコーチとは、いわゆる『監督の右腕』です。選手個人の健康状態や仕上がり具合を把握したり、練習や試合のスケジューリングをしたり、あるいは、ゲームにおける作戦を立てることもありますね。監督が対外的な部分も含めたチーム全体のまとめ役とするなら、ヘッドコーチは部内の動きに特化したリーダー、といったところでしょうか」
美砂都は何度かうなずきながら浜園の話に耳を傾け、同時に一抹の不安を感じた。浜園の眼差しは柔らかいけれど、瞳の奥にきらりと輝く、射貫くような一点の強い光を見た気がした。
「今の久慈くんが背負うものは、彼一人ではとても支えきれないほどの重さがあります」
伊達の読みどおり、浜園が二年生三人を呼び出したのは琉聖の話をするためだった。
「練習メニューを考え、一人一人に技術的指導をし、試合になれば作戦を立て、実行に移す。彼は三月に中学を卒業したばかりの一年生です。今でこそ腰のリハビリ中でいろいろなことに目が行き届きますが、選手として復帰すれば、彼は自分の面倒も見なくてはならなくなる。これだけのハードワークが長く続けば、どれだけタフな人でもいずれ必ずつぶれてしまう。責任感が強く、一人でかかえ込んでしまう性格をしている久慈くんならなおのことです。この一ヵ月、彼のことを見てきて、彼の紙一重の危うさをこのまま黙認するわけにはいかないと感じました。ちょうどいい機会でしたので、星川工科の小山田先生に相談したんです。コーチの当ても、父母会などの支援団体もない我々は、この先どのようにして上を目指せばいいのでしょうか、と。そうしたら、小山田先生はとてもいいアドバイスをしてくださいました」
浜園は深い笑みを湛え、一つの案を提示した。
「分業制です」
「分業制」
雨宮がつぶやくようにくり返す。浜園は大きくうなずいた。
「要するに、複数の人間で役割分担をしながらチームを運営していくのです。チーム全体の指揮官かつ顔役である監督の他に、チーム内のまとめ役としてヘッドコーチを配置しているプロ野球を例にするなら、監督とヘッドコーチは二人三脚、ヘッドコーチは監督に意見できる立場にあります。監督は、チームメンバーの状態を事細かに把握しているヘッドコーチ、あるいはポジションごとに配置されるコーチ陣の意見をもとに、その日のベストメンバーで試合に臨む。監督一人だけでなく、複数の人間の頭で考えたことが、チームの動きに反映されているというわけです」
浜園の言いたいことが、美砂都にもようやくはっきりと見えてきた。
琉聖にも、同じチーム運営スタッフ目線で動けるパートナー的存在を作るべきだ。浜園は小山田監督のアドバイスを受け、そう考えるに至ったのだ。
「私なりに、いろいろ考えてみたのですがね」
浜園は腕を組みながら、彼の現時点での考えを示した。
「雨宮くんは、キャプテンとしてチーム全体をまとめる役割をすでに担っています。伊達くんは新たにセッターというポジションの練習中で、今はそちらに集中するのがいいでしょう。一年生では唯一高木くんが広く冷静な視野と豊富な知識を持っていますが、彼を久慈くんの側近的ポジションに据えてしまうと、佐藤くんとのパワーバランスが崩れてしまう。あの二人に関しては、互いににらみ合っている今の状態を維持するのが現時点ではベストと考えますが、いかがでしょう。でなければ、おそらく雨宮くんは今以上に大変な思いをすることになります」
それは困る、と雨宮はまじめな顔をして言った。伊達は笑っているけれど、美砂都は頬がこわばるのを感じ、生唾をのみ込んだ。
琉聖のパートナー候補が次々と消えていく。
残っているのは、二年生では、美砂都だけ。
美砂都の予感は的中した。浜園の視線が、再び美砂都へと戻ってくる。
「時田さん」
「はい」
「中学生の頃は、あなたもバレーボールをやっていたのでしたよね」
素直に首を縦に振ることができなかった。浜園は目尻を下げ、なにも怖がることはないと伝えるかのように微笑みかけてくる。
「私と違って、あなたには知識と経験という下積みがある。私の老いた脳みそで一から勉強するよりも、あなたの若くて柔軟な頭脳のほうが、久慈くんをサポートするによほどふさわしい」
「待ってください」
思っているよりも大きな声が出て、美砂都は自分で驚きながら首を振った。
「無理です、わたしに琉聖くんのサポートなんて。わたし、ただのマネージャーなのに」
「そうでしょうか。私には、あなたが『ただのマネージャー』で終わっていい人材だとはとても思えないのですが」
雨宮と伊達の視線を感じ、美砂都は左を振り向いた。二人とも驚いた顔をしているけれど、なにかきっかけをつかんだ時のような目をしているようにも見える。
「久慈くんのような、大人顔負けの高度なことをしろと言っているわけではありません」
浜園は諭すように話を続ける。
「要するに、久慈くんのかかえている仕事の一部を肩代わりしてあげればいいのです。久慈くんにしかできない仕事……たとえば、技術的指導や作戦の立案。それらは今のまま久慈くんにまかせるのがいいでしょう。その他のこと……練習メニューの考案やスケジュール管理、部員一人一人のコンディションの把握などであれば、時田さん、あなたにもできるはずです」
「練習メニュー」
「そうです。現状、久慈くんは中学時代に培った経験と勘に頼って皆さんに練習をさせているのだと私は思っています。ですが、久慈くんがやってきたことがそっくりそのままこのチームにとって最適な練習になるとは限りません。あなたが中学時代に取り組んできたトレーニングや、他のチームが取り入れている練習方法がぴったりハマることもあるはずです。そうそう、栗林くんは元バドミントン部員でしたね。彼がかつてどんな練習をしてきたのか、話を聞いてみるのもおもしろいかもしれません」
「いいですね、それ」
雨宮が前向きな声を上げた。
「バドとバレーじゃ使う筋肉が違うかもしれないけど、サーブとか、スマッシュとか、動きに似たようなところは多い。いつもと違う練習ができたほうが気分転換にもなるし、一回話聞いてみるか、眞生から。な、美砂都」
「裕隆くん」
「うちの中学は、先生がよくビデオを撮ってたよ」
伊達がなにげなさを装った口調で雨宮に続いた。
「自分たちの動きを映像で見返して、改善点を明確にするのが狙いだったんだと思う。勉強でもそうだけど、悪いところや苦手なところに自分自身で気づけたほうがいいっていうのは間違いないからね」
それもアリだな、と男子二人はすっかりその気になっている。心の整理が追いついていないのは自分だけなのかと、美砂都はすがる思いで浜園を見た。
浜園は、どこまでも優しく微笑みかけてくれた。
「難しく考える必要はありません。どうしたら久慈くんの負担が少しでも減らせるか。私があなたに求めるのはその一点だけです。いい練習メニューの候補を調べ、スケジューリングし、久慈くんに提案する。そこまでお膳立てをしてあげれば、あとは久慈くんが適切に取捨選択してくれるでしょう。そうやってあなたが彼の時間を浮かせてあげることで、その分彼は自分の練習に長く打ち込むことができるようになります。チームがより強くなるためには、久慈くんの今以上の成長も不可欠ですからね」
それはそのとおりだと美砂都も思う。琉聖だって大事な選手の一人なのだ。チームメイトたちの心配ばかりしているわけにはいかない。いくら彼がすでに実力者だとしても、練習量が減ればこれからさらに伸びるはずの力がつかないまま終わってしまうことになりかねない。それこそ、チームにとって一番のマイナスだ。
「ちなみに」
浜園がおもむろに右の人差し指をピンと立てた。
「私にもなにかお手伝いできることはないかと思いまして、ひとまず、ラグビー部が普段使っているトレーニングルームの使用許可を取ってきました」
「マジですか!」
雨宮が机に身を乗り出した。
「信じられん……あそこはもう何年もラグビー部が占拠して譲らないって話だったのに。 『全国大会に出る者の特権だ』とかなんとか言って」
「はい。ですので私も『今年は男子バレー部も全国大会に出場する予定です』と、ラグビー部の鈴木先生に宣言してきました」
涼しい目をしてとんでもないことを口にした浜園に、三人はギョッとした。浜園は声を立てて笑った。
「実は鈴木先生とはお互い若かった頃からの付き合いでしてね。あの人ならわかってくれると思ったのでおもいきって話をしてみたところ、鈴木先生も、ラグビー部によるトレーニングルームの占領状態についてはいつかメスを入れなければならないと以前から思っていたそうなんです」
おぉ、と雨宮と伊達の表情が明るくなる。浜園も自信を覗かせる顔でうなずいた。
「ということで、今回はラグビー部の練習時間中という条件つきではありますが、我々もあの立派なトレーニングルームを使わせてもらえることになりました。彼らは普段、練習後に筋トレをするそうですので」
「マジか、すげぇ。ありがとうございます、先生」
雨宮が瞳を輝かせて頭を下げた。
「その条件ならむしろ都合がいいですよ。俺たちは毎日体育館で練習できるわけじゃない。体育館を使えない日にトレーニングル―ムを借りればちょうどいいし、ラグビー部の邪魔をせずに済む」
「ベンチプレスとかやれるの、ぼくたちも」
伊達がめずらしく声のトーンを上げて言う。
「すごい。何キロまで持ち上げられるんだろう、ぼく」
「な。俺も気になる、今の自分の筋肉量」
わくわく顔で、男子二人が筋トレ談義に忙しくしている。二人のこんなにもキラキラした、希望に満ちた横顔を見たのは、四月、美砂都たちの想像以上にたくさんの新入部員が入ってくれた時以来ではないだろうか。
浜園が動いたおかげだ。バレーのことはわからないけれど、それでもチームのためにできることがあるのならやりたい。助けたい。そんな浜園の思いが、二人に笑顔を運んでくれた。
わたしも、なにかやらなくちゃ。
浜園先生だけじゃない。試合には出られないけれど、わたしだって、丘高バレー部の部員なんだ――。
「困難は、分割すればいいんです」
瞳の色を変えた美砂都に、浜園はいつもの調子で語りかける。
「一人でできることと、一人ではできないことがあります。がんばれば一人でできることも、二人でやればもっと楽に達成できるでしょう。あなたたちには仲間がいます。苦しいこと、難しいことを一人でかかえる必要はありません。時田さん、あなたに久慈くんのサポートをお願いしようと思ったのは単なる私の一案に過ぎない。今日の練習の際、皆さんでよく話し合って、皆さんで最終判断を下していただければ結構です。もしかしたら、他に適任者が見つかるかもしれませんし」
「いえ」
美砂都は静かに立ち上がった。
「わたしがやります」
雨宮のように、チームをまとめろと言われているわけじゃない。
伊達のように、経験のない難しいポジションをまかされたわけでもない。
琉聖の肩の荷を下ろし、チームのみんなのために一番いい練習方法を探すこと。みんなのコンディションを整える手伝いをすること。
これくらいなら、わたしにもできる。やってみたい。
やりたい。
わたしも、このチームの一員だから。
浜園も立ち上がり、美砂都の目をまっすぐに見つめた。
「あなたは目端の利く女性だと私は思っています。ぜひ、プレイヤーの皆さんのことをよく見ていてあげてください。おかしいなと思ったら積極的に声をかけてあげてください。あなたたちはたった十人のチームです。デメリットも大きいですが、一人一人の心身の状態に目が行き届きやすいというのは最大のメリットと考えていい。生かすも殺すも自分たち次第ですが、あなたならきっとうまく生かしてくださるでしょう」
雨宮と伊達も席を立ち、「頼むな」と雨宮は美砂都の肩に手を載せた。「ぼくも手伝うよ」と伊達も声をかけてくれる。
大丈夫。二人がついていてくれる。美砂都は「ありがとう」と少しだけ照れながら礼を言った。
一月の終わり、部員が三人になってしまった時のことを思い出す。
なにがあっても、三人で支え合って切り抜けよう。自分たちだけは、最後まで丘高バレー部の部員でいよう。
あの日交わした約束を、二人はちゃんと覚えてくれている。
だから、きっと大丈夫。二人がいてくれるなら、どんな困難にも立ち向かえる。
四人だけの小さな会議を終え、教室へ戻りながら、さて、どこから始めようかと美砂都はさっそく頭を動かした。
最初は驚きと不安ばかりだったけれど、気づけばどこかわくわくしている自分がいて、図太いなぁ、と美砂都は自分で自分のことを笑った。




