9.修と琉聖
その後戦った四セットもすべて惜しい負け方をして、この日は五戦全敗と、多くの課題を残した練習試合となった。
星工の小山田監督から「七月の愛知県選手権で戦えることを楽しみにしています」と激励の言葉をかけてもらったけれど、煌我は挨拶を終えて体育館を出てすぐ「悔しいーッ!」と近所迷惑なくらい大声で叫んだ。
校門で仲間たちと別れ、琉聖は一人、母親の迎えが来るのを待っていた。徒歩だと二十分はかかるが、車なら五分で来られる距離に琉聖の自宅はあった。
「お疲れ、琉聖」
背後から声をかけられ、琉聖は静かに振り返った。修が笑顔で近づいてくるところだった。
「いやー、びっくり。ちゃんと強いじゃん、実里丘」
なにを言い出すかと思えば。琉聖は思わず笑みをこぼした。
「そう?」
「うん。言っちゃ悪いけど、今日は楽勝だなぁって思ってたのよ、おまえらのこと」
「俺だってそうだよ。今日は相馬さんにボコボコにやられるんだろうなって思ってた」
相馬の名前を出すと、修の顔色がかすかに変わった。どうやら修は、相馬のことを話しに来たようだ。
「上手に目覚めさせてくれたね、相馬先輩のこと」
「あん?」
「知ってるでしょ、あの人の悪いところ」
あぁ、と琉聖は少しだけ考えてから答えた。
「傲慢無礼、傍若無人……いや、唯我独尊が一番しっくりくるかも」
「琉聖……それはさすがに殴られるって」
真剣に首を振る修の姿がおかしくて、琉聖は小さく声を立てて笑う。ちょっと大袈裟な言葉を使ったけれど、相馬がそういう人であることに変わりはない。
自分のトスが絶対的に正しくて、間違っているかもしれないと疑うことを知らない。アタッカーと噛み合っていないことを自覚しながら、原因はアタッカーにあると考える。
機械を制御するならそれでいい。だが、人間は機械じゃない。
感情がある。言葉を操り、話ができる。歪みやズレを直すには双方の歩み寄りが必要だが、相馬はどうか。少なくとも琉聖には、相馬のトスが独りよがりなパフォーマンスに見えていた。
「徹底してたもんな、あの人が必ず二本目を触れるような守備を」
相馬には一本目をレシーブさせない。セッターへの返球率の高い修に拾わせ、相馬が確実にトスを上げられるようにする。
そんな星工の作戦を、結局最後までうまく崩せないまま終わってしまった。わかっていても対応できないのが今の実里丘の実力で、それが無性に悔しかった。
「気持ち悪いだろ、正直」
修は困ったような笑みを浮かべて肩をすくめた。
「やりすぎだよ。特に三年生はみんな相馬先輩の言いなりでさ。おれのレシーブへの期待も、チームのためというより相馬先輩のためなんだよな。とにかくあの人へAパスを返せ。それがおれへの指示なの」
「だろうな。去年戦った時よりもさらに徹底されてる気がしたし」
「あの人がキャプテンになったせいだろうね。別にセッターがボスでもいいんだけど、おれたち下の人間の話を聞かないってのは大問題だよな。まぁ、それも今日で少しは改善されたけどね」
変わるよ、相馬先輩は。修は確信を持った口調でそう言った。
「今よりもっとすごくなる。心が変わると、技術も同じように変わるから」
そうだろうな、と琉聖も思っていた。今日の相馬は、これまでとは少し違う目つきをしていた。
星工はこのあと、夕方いっぱいまで練習を続けるのだという。午前中の実里丘との練習試合から彼らがなにかを得たのだとしたら、来週のインターハイ予選の結果になんらかの影響があるかもしれない。
「ありがとな、琉聖」
修がささやかな笑みを湛えて琉聖に言った。
「おまえのおかげ」
「なにが」
「おまえがまたバレーを始めてくれたから。やっぱりすごいよ、おまえは。周りに与える影響がデカすぎる」
褒められていると受け止めていいのか、微妙なラインだなと思った。いい影響を与えられているのなら嬉しいけれど、その逆なら、やっぱりバレーはやめるべきだったのかもしれない。
車のエンジン音が聞こえ、琉聖は校門から顔を出す。母の運転する黒いミニバンがハザードランプを焚いて琉聖の前に横づけされた。
修は地べたに置いていた琉聖の荷物を拾い上げた。手渡してくれるのかと思ったけれど、車へ積み込んでくれるつもりらしい。
「お疲れ。ゆっくり休めよ」
「うん。ありがとう」
「なぁ、琉聖」
母が車に乗ったまま開けてくれたサイドドアを背にした琉聖に、修は真剣な眼差しを向けた。
「おまえは、今のチームに入ってよかった?」
二人の視線がまっすぐ重なる。修がなにを求めてこんな質問をしたのか、琉聖はとっさにはわからなかった。
いろんな意味の含まれた問いだと感じた。
去年の中学ナンバーワンセッターが、実績ゼロの弱小高校でバレーをやって満足なプレーができるのか。
星工に入学し、小山田監督や相馬の下で、そして修とともにボールを追いかける生活のほうがよかったのではないか。
新たに出会ったチームメイトたちとはうまくやれているのか。
中学の頃とは違い、心からバレーを楽しめる環境に身を置けているのか。
琉聖は静かに空を仰いだ。
十二時を回り、朝と比べて気温は七度ほど上がっている。風は相変わらずさわやかで、医者が許せば今すぐ走り出したくなるような気持ちのいい気候だ。
「あぁ、よかったよ」
どんな意味で問われたのだとしても、返す答えは変わらなかった。
「あいつらと一緒じゃなかったら、もう一度バレーをやろうとは思えなかっただろうから」
星工でバレーを続ける道をまったく考えなかったわけではない。星川東中で正セッターになり、順調に勝ちを重ねていた頃には、将来はバレーボール選手として大成したいという気持ちが確かにあった。そのために選ぶ高校はバレー強豪校がいい。ぼんやりと考えていた進学先の候補には高階も星工も入っていた。
それが今では、名北予選ですらろくに抜けられないようなチームでバレーをしている。昔の琉聖を知る者が心配するのも無理はない。あきらかにレベルが合っておらず、積み上げてきた力をいかせる環境にない学校に琉聖はいる。そんな風に思われているのだ。
だからなんだ、と琉聖は思う。
琉聖にとって、丘高バレー部ははじめて居心地の良さを感じられた場所だった。ケンカをすることもあるけれど、みんなで一つの目標を目指し、同じほうを向いてバレーができる。下は見ず、後ろを振り返ることもなく、互いに手を取り合って、ただ前だけを見て進んでいける。
もしかしたら心のどこかで、そんなチームでバレーができたら幸せだろうなと思っていたのかもしれない。蹴落とし合いが当たり前、常勝が当たり前のチームで、毎日肩肘を張ってボールを追いかけていたあの頃にはすでに、勝つことができていた時期でさえ、バレーをやめたいと思い始めていたのだと今はわかる。
だから、これでいい。
今のチームに入部できて、仲間に入れてもらえてよかった。
結果はついてこないかもしれない。夢は叶わないかもしれない。
それでも、バレーをやめたいとは思わない。あいつらと一緒なら、絶対に。
それでいい。十分だ。
バレーを楽しむことができる。それこそ、琉聖が真に求めていたことなのかもしれないから。
「そっか」
修は納得したようにつぶやき、ニコッと歯を見せて笑った。
「だったら、いいや。ほんとは高校でもおまえと一緒にバレーやりたかったけど、今のチームがいいチームなら、それが一番だ」
修のこぼした本音で、琉聖はさっきの質問の意図をようやく察した。
少しだけ胸が痛む。求めてもらえることは素直に嬉しいけれど、道を違えたという事実は覆らない。
かつてのチームメイトは、今や全員が敵になった。
修のことも、次に顔を合わせる時には必ず倒す。一緒にやりたいと言ってもらえた嬉しさを、感謝を、プレーに反映させて勝つ。
出し惜しみせず、全力でぶつかり合うことこそ、中学時代、野生の勘で何度も窮地を救ってくれた修に対する最大のリスペクトになるはずだ。死に物狂いで勝ちに行く。それくらいの気持ちで臨むのが、星工相手にはちょうどいい。
琉聖も笑い、車のほうへと向き直る。修が「ちわー、お久しぶりでーす」と母に挨拶をしながら荷物を車へ積んでくれて、琉聖が腰をひねらないよう慎重に乗り込む時にも手を貸してくれた。琉聖は「ありがと」と修に小さく礼を言った。
「がんばれよ、県大会」
「おう、さんきゅ。高階ぶっ倒してくるわ」
気合いの入った顔で笑う修とグータッチを交わす。いい目をしているなと思った。今年のインターハイには本当に星工が出場するかもしれない。愛知県絶対王者、東堂大学附属高階高校を破って。
「あぁ、そういえば」
ドアを閉めようとボタンに指を伸ばした時、修が思い出したように言った。
「博斗、また入院したんだって」
唐突にもたらされた元チームメイトの情報に、琉聖は一瞬動きを止めた。
「白石が」
「うん。インハイのこと聞こうと思って連絡したら、『今、部活休んでるからわかんない』って言われてさ。よくよく聞いたら昨日まで入院してたとか言い出して、もうびっくりよ。どこからツッコんでいいかわからんかった」
へぇ、と琉聖は曖昧に返した。白石の虚弱体質が折り紙付きだということはわかっていても、入院と聞くと、これがはじめてのことではなかったとしても心配になる。
「今度はどこが悪いって?」
「肺炎だってさ。風邪をこじらせたとかなんとか」
「肺炎か。きついな」
「ひっどい咳してたよ、電話の向こうで。『東京の水がまずすぎて生活できない』って嘆いてた」
「あいつらしいな」
「ほんと。でも、国体には出るつもりでいるみたい」
国体。八月におこなわれる全国大会の一つで、各都道府県単位で選抜された監督と選手が故郷を背負って出場するのだが、白石が出るつもりというなら、東京都代表は彼が進学した私立碧水学園東京高校の選手を軸に構成されたチームということなのだろう。碧水東京は昨年の春高覇者だ。東京都代表の名を背負うにふさわしい。
「出るって」
琉聖は思わず訊き返してしまう。
「試合に、って意味?」
「そりゃあそうだよ。あいつも呼ばれる予定なんだって、チームに。東京代表の監督は今年も碧水の監督さんで、『国体までにからだを作り直してこい』って言われたってさ」
「ふぅん。一年なのに選ばれたんだ」
「ね。まぁいつものことだけど、本人的には当然って感じみたいよ。『せっかく春高で優勝した高校へ行ったのに、ぼくと黒矢くんよりうまい人がいなくてつまんない』って言ってたから」
修は苦笑いしているが、琉聖は背筋にすぅっと寒いものを感じ、頭の中には昔の面影――白石の背中をにらむ黒矢の姿がはっきりと蘇っていた。
正反対の二人だった。一七八センチというバレーボール界においては低身長ながら、天性のセンスでなにをやらせても人並み以上にできてしまった白石博斗と、中学二年の夏には一八五センチを超えていた長身に、全身がばねでできているかのようなしなやかでダイナミックな跳躍、そして自力で身につけた骨太なパワーを兼ね備えた黒矢誠司。小学生の頃、体質改善と体力増進を目的として母親に近所のバレーボールクラブへ連れられたのがバレーとの出会いだった白石と、当時二十一歳だった愛知県出身のバレーボール男子日本代表の選手が世界を相手に大活躍する様子をテレビで見て憧れ、中学からバレーを始めた黒矢。
からだのつくりも、プレースタイルも、バレーに対する価値観も、あの二人はなにもかもが背中合わせだった。センスだけですべてを片づけようとし、圧倒的な実力で他の追随を許さなかった白石を、努力を重ねることでしか白石と互角に渡り合えなかった黒矢は心の底から嫌っていて、その余波はセッターだった琉聖に及び、今に至る。
結局のところ、チーム全体として琉聖への当たりが強くなっていたのは、黒矢と白石がぶつかり合っていたせいだったのだ。
白石を超えるための力がほしい。そのために黒矢は琉聖にトスをこだわらせた。
白石よりもたくさんの得点を挙げなければならない。白石よりも他人の目に止まる攻撃ができなければならない。琉聖にトスを調整させればそれが叶うと黒矢は考え、実際、琉聖にはそれだけの力があった。
黒矢が要求値を上げる姿を見ていた他のメンバーも、次第に琉聖の実力に気づき、その魔力に当てられ始めた。おれにももっといいトスを。ぼくにはもっとトリッキーなトスを。右に倣えと、白石を除く他のチームメイトたちも次々と黒矢のような繊細なトスを琉聖に求めるようになった。琉聖はその一つ一つに馬鹿正直にこたえていった。
あの二人と同じチームじゃなかったら、今頃自分はどうなっていただろうと最近よく考える。天才なんて呼ばれるまでの成長はできなかったかもしれないけれど、まともに息もできないくらいの悪夢にうなされることにはならなかっただろうと思うと、どちらがよかったのか、簡単には決められない。
ただ、あの二人と同じチームだったからこそ、今の仲間たちと出会えたことは間違いない。それだけが唯一の救いだと思えた。
バレーをやめようと本気で思わなかったなら、琉聖が実里丘高校に進学することはなかっただろうから。
「誠司はどうだろうね」
修が遠く岡崎の地を見つめるような目をして言った。
「国体はともかく、今度の春高にはスタメンで出るかもしれないよな、あいつなら」
東堂大附高階は、愛知県でもっともスポーツが盛んとも言われる三河地方の岡崎市にある。江戸幕府を開いた徳川家康公の生まれ故郷でもあるその地には、白石と同じく小学生の頃からバレーボールに親しんできた子どもたちが多くおり、高階でスタメンの地位を獲得するためにはそうしたバレー歴の長い選手たちを押しのけていく必要がある。
だが、黒矢なら。
あいつにとって、バレー歴の短さなどウィークポイントでもなんでもない。理想のバレーと、立ちたいポジションを手に入れるためにどこまでも努力でき、実際につかみ取れるだけの強さを秘めているあいつに、弱点なんてあるのだろうか。
欲しいと思ったもののためならなんだってできる男が、愛知県ナンバーワンチームでスタメンに選ばれることをゴールに設定するとは思えない。見据える先は、一年後、二年後に待つインハイ連覇、春高連覇。そうした高すぎるほどの場所であるはずだ。
次の春高予選、黒矢は必ずコートに立つ。
もしも県大会の決勝まで駒を進めることができたなら、あいつは必ず、俺の前に現れる――。
修と別れ、走り出した車の中で、琉聖はシートに深く沈み込むようにからだを預けた。黒矢のことを考えると、なにをするよりも疲れてしまう。
今日もまた、あいつは誰かの心を踏みにじってバレーをしているのだろうか。
誰よりも上を目指すために、新しいチームでも琉聖のような犠牲者を出すのだろうか。
ため息をつき、琉聖は静かに目を閉じた。
黒矢とまた同じチームでバレーをするのは嫌だから。高階への推薦入学の誘いを断った時、そうはっきり言ってやればよかったと、今になって後悔した。




