1-2.地続きの悪無を振り切って
「楽しみだな、星工との練習試合!」
ネットを張りながら、琉聖の隣に立った煌我がウキウキ顔で言った。話題はくだんの練習試合の相手、星川工科高校についてだ。
「強ぇんだろ、星工って。正南より強いって聞いたぞ、伊達さんから。ホントなのか?」
「過去の大会の成績だけ見ればな」
琉聖はネットの端に軽く手をかけながら答える。
「だけど、正南と星工じゃプレースタイルがまるで違う。どっちが強いか、じゃなくて、どっちも強い。今年のインターハイで全国大会に出るのは星工かもしれないし、正南かもしれない。それくらい強いチームだと思う。どっちも」
「いいや、おれたちだ」
煌我がネットの紐を固く結びながら声を張った。
「おれたちが全国制覇する」
「聞けよ。インターハイの話だって。俺たちはもう負けてる」
俺のせいで。その言葉を、琉聖は喉につかえるのを感じながらのみ込んだ。
相変わらず全国全国とうるさい煌我は放っておき、琉聖は星川工科高校との練習試合について改めて考えてみる。
愛知県立星川工科高校。通称、星工。
琉聖たち実里丘と同じ名北支部に所属するチームであり、『愛知四強』の一角を守る強豪校だ。昨年度の試合成績から、先般のインターハイ予選会の出場は免除され、彼らのインターハイは来週末に開催される愛知県大会から始まる。
ちなみに、昨年度のインターハイ、春高予選ともに星工は県大会準優勝という華々しい成績を残している。彼らが敗北を喫したのは、不動の愛知県ナンバーワンチーム、西三河支部の東堂大学附属高階高校だけだ。
こうして彼らの大会成績を振り返ってみると、改めて琉聖の心の中に「なぜ」という疑問がはっきりと浮かび上がってくる。
全国大会出場まであと一歩というところに立っている星工が、なぜ実里丘のような弱小チームと練習試合を組んだのか。それも、インターハイ予選の県大会を目前に控えた今週末に。
雨宮から聞いた話では、星工サイドから練習試合の申し込みがあったのは、インターハイ名北予選会の結果が出揃った翌日のことだったという。
星工はくだんの大会に出場していなかったから、琉聖たち実里丘が古豪・正南学園と互角の戦いをくり広げたところは見ていなかったはずだ。それでも実里丘と練習試合がしたいと言うのだから、彼らは風の噂で「今年の実里丘は強そうだ」という話を耳にしたということになる。
うぬぼれているわけではない。ただ、そこまで話が見えてくると、おのずと答えは絞られる。
星川工科高校男子バレー部で指揮を執る小山田監督は、琉聖がいるチームだからという理由で実里丘との接触を図った。そう考える以外にない。
琉聖の吐息がわずかに震える。
あの人はまた俺のことを、あの地獄の空間へと引きずり出そうとしている――。
「そういえば、星工って『星川』だよな」
煌我が思い出したように大きなひとりごとを口にした。
「てことは、近いんじゃないのか、星川東中と。なぁ、琉聖?」
煌我の問いかけに、琉聖は答えなかった。
答えられなかった。煌我の声は、額に汗をにじませる琉聖の耳には届かなかった。
「琉聖」
煌我が琉聖の肩に手を触れる。焦点を失った琉聖の瞳に光が戻り、顔を上げて、煌我を見た。
「……あ、ごめん。なんだっけ」
「おい、大丈夫か。なんか顔色悪いぞ」
琉聖は反射的に右手で自らの頬に触れた。平気な顔をしようとして、失敗して、引きつった笑みを浮かべながら首を傾げる。
「なんでだろう。手術のせいかな」
「バカ野郎。さすがにその嘘はヘタすぎるって」
煌我はそっと琉聖を抱き寄せ、医療用コルセットに覆われた小さな背中を軽くたたいた。
「すまん。おれ、言っちゃいけないことを言ったみたいだな」
背中に触れていた煌我の手が頭のほうへ上がってきて、髪をくしゃくしゃにされながら撫でられる。いつもなら速攻で振り払う琉聖だけれど、今だけはそんな気力も湧いてこない。
情けない。涙が出そうになるほど、煌我の手のぬくもりは優しかった。
琉聖の入部をめぐり、はじめてこの体育館で煌我と話をした四月、琉聖は臆せず煌我に伝えた。絶望した過去の記憶が消えず、バレーと向き合うことが苦しくてたまらないのだと。
告白した日からおよそ一ヵ月。いろいろなことがあり、顔を上げてバレーに取り組める時間が少しずつ長くなってきてはいた。今のチームメイトたちのおかげだ。
とはいえ、まだまだその程度だ。今日のように、ちょっとしたことですぐに昔の嫌な思い出は蘇る。
今度の練習試合の相手校である星川工科高校はまさに、琉聖の暗黒時代を象徴する場所だった。できれば二度と行きたくなかった。
思い出すたびに苦しい。自分で自分が許せないほどの大失敗をした全中決勝戦の記憶も、中学時代の一部の過ごした星工でのできごとも、蘇るたびに消えてしまいたくなる。
誰にも会いたくない。後ろ指をさされることはわかっている。
だけど。
「俺こそ、ごめん」
琉聖は煌我から静かに離れ、腹に力を入れて顔を上げた。
「おまえは悪くない。俺がもっとしっかりしなくちゃいけないだけ」
「琉聖」
「大丈夫」
自分自身に言い聞かせるように、琉聖は言った。
「俺、もう逃げないって決めたから」
バレーなんてやめてしまいたい。悪い夢を見続けて、そんな風に思ってしまうほどの苦しい時間を過ごしたことは事実だ。
けれど今は、そうやって逃げている場合じゃない。
勝たせてやらなきゃいけない仲間がいる。打たせて、打たせて、何度でも打たせて、高校バレー界の頂点に立たせてやりたい仲間がいる。
そいつのために、そいつとともに作り上げるチームのために、琉聖はこの場所へ戻ってきた。手術を受け、なんのためらいもなくバレーボールができるからだになって帰ってくる。そう決めた。
そいつだけじゃない。
ここにいる仲間たち全員と目指す場所がある。
そこに立つまで、負けるわけにはいかない。試合にも、自分自身にも。
悪い夢は、いつか覚める。覚めるように、自分から動く。
俺も変わるんだと、先日の正南学園戦の時に決めたから。
仲間と一緒なら、一人じゃないなら、きっと変われる。前に進める。
今なら、そう信じられる。
「そっか」
煌我はニカッと白い歯を見せて笑い、琉聖に向かって拳を突き出した。
「つらくなったらすぐ言えよ。一人で苦しむのはナシだ」
力強い笑み。暑苦しいほどの優しさ。
こいつには敵わないなと何度も思わされる、まるで太陽みたいな明るさと元気。常に前向きな心。
「……ったく」
なんて腹立たしいヤツだ。
俺の持ってないモン、全部持ってやがる――。
琉聖は小さく笑みをこぼす。素直にこたえてやるのは癪で、ついつまらない嫌味を返してしまう。
「おまえに俺の気持ちなんてわかんねぇよ」
コツン、と煌我と拳を重ねる琉聖。煌我は満足そうにガハハと笑い、練習の準備へと戻っていった。