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0.越えたい壁と、現れる天才

 中学を卒業した頃と比べて、ずいぶん日が長くなった。午後六時を過ぎても空はまだ明るい。

 気づけば四月が終わろうとしていた。数日後にはゴールデンウィークに入るけれど、練習が休みの日はないと聞いた。練習試合の予定も組まれているらしい。


 愛知県立実里丘(みのりがおか)高校ラグビー部は伝統的に強いチームだった。高校ラグビー界では全国的に名が知れており、一方で選手のほとんどは高校からラグビーを始めた者ばかりと言うから驚きだ。愛知では中学校にラグビー部のある学校が少ないからというのがその理由の一つで、実里丘ラグビー部の入部者のうち、毎年だいたい五人に一人という割合でしか経験者は入ってこないのだという。


 高木たかぎかいも多くの部員と同じく、高校に入ってはじめてラグビーという競技に触れた新入部員だった。ラグビーがやりたくて入部したわけではなく、体格を買われて先輩たちに強制入部させられた。他の部活の見学に行くことを許してもらえる雰囲気ではなかった。

 とはいえ、始めてみるとラグビーも案外悪くないなと思った。長い距離を走ったり、選手同士の接触プレーが多かったりと、これまで取り組んできた球技とは百八十度異なるプレーを求められるところもまた刺激的だった。

 新しいことに夢中になれれば、思い出したくないことを思い出さずにいられる時間も増える。それもまた、快にとっては都合のいいことだった。


 朝九時からスタートした休日練習は午後五時に終了し、ようやく自宅の最寄り駅に着いたところだった。家まで五分。全身にほとばしる痛みや疲れを感じながらゆっくりと歩く道の途中、信号待ちをしていると、学ランのズボンのポケットが振動した。

 長い。電話がかかってきているようだ。

 取り出して、震えるスマートフォンの表示を見る。中学時代の同級生、花田はなだ宏太こうたの名が液晶画面で躍っていた。


「もしもし」

『あ、快ちゃん? やっほー、久しぶり』


 応答した途端、高校生になってもまるで変わらない元気な声が聞こえてくる。


「久しぶりというほどでもないだろう。ついこの間まで同じ中学にかよっていたんだ」

『あー、懐かし。そういうクソ真面目なとこ、いかにも快ちゃんって感じだわー』


 なぜか花田は嬉しそうに笑った。わざわざ電話をかけてきたのだから急用かと思ったのだが、無駄口をたたく余裕はあるようだ。


「それで」


 青になり、快は歩き出しながら先を促す。『そうそう』と電話の向こうの声が大きくなった。


『快ちゃん、なんで今日いなかったの?』

「いなかったって、どこに」

『インハイの予選。……って、あれ? もしかして快ちゃん、バレー部じゃない?』

「あぁ。ラグビー部の体験入部に強制連行されてな。そのまま入部させられた」

『えぇ! 嘘でしょ、なにやってんだよ』

「なにと言われても」


 バカじゃないの、と花田は電話の向こうで頭をかかえているらしい。どうにも要領を得ないが、花田は快の疑問などおかまいなしに、まくしたてるように続けた。


『ダメだよ、快ちゃん。バレー部に入らなくちゃ』

「は?」

『ラグビーなんてやってる場合じゃないんだってば。まだ入部したばっかでしょ? 転部して。今すぐ!』

「ちょっと待て。どういうことだ?」

『どうもこうもないって。久慈くじ琉聖りゅうせいだよ』

「なに?」

『だから、あの久慈琉聖がいるんだ、実里丘のバレー部に!』


 快のつぶらな瞳が大きく見開かれた。

 自分の耳を疑う。久慈琉聖だと?


「そんなはずは」

『そうでしょ。そう思うでしょ。おれも最初は見間違いかと思ったよ。でも、違うんだ。本当にいたの、あいつ。なぜだか知らんけど、実里丘のバレー部でバレーやってたんだって』

「今日の大会で見たのか」

『見た。隣のコートで試合してた。みんな見てた。そりゃあ見るよな。なんであの天才が無名の高校でバレーしてんだ、ってなるよ、普通』


 快は混乱していた。実里丘に入学して三週間。新たにラグビーを始めたのだからバレーボールとは距離を置こうと意識的に目をそらしてきたせいか、あの天才セッターが同じ高校にいることにまったく気がつかなかった。いるかもしれないという想像さえしていない。

 できるはずもなかった。彼をはじめ、昨年の全中――全日本中学校バレーボール選手権大会の準優勝校である星川ほしかわひがし中のレギュラーメンバーは全員、高校バレーの強豪校からスカウトされているに決まっている。当然のように、久慈琉聖もどこかの強豪校でバレーを続けているものだと思い込んでいた。

 あるいは、あの男のいる、あのチームで。


「なぜ」


 だから快は、その疑問を拭い去ることができなかった。


「なぜ、久慈は実里丘に」

『さぁ、そこまでは。ただ、昨日の試合はケガで途中交代しちゃったんだけどね。腰を痛めたみたいで』


 腰のケガ。それがバレー強豪校への進学をあきらめた理由なのか。たとえば持病として慢性的な腰痛をかかえているのだとすれば、それなりに筋が通る話ではある。しかし。


『ねぇ、快ちゃん』


 電話の向こうの花田の口調が神妙なものに変わった。


『おれはヘタだったから、快ちゃんの力を百パーセント引き出してあげることができなかった。でも、実里丘のセッターはあの久慈琉聖だ。あいつとコンビを組めば、快ちゃんはこれまでの何倍も強いスパイクを打てるはずだよ』

「花田」


 快は声を絞る。

 試合のたびに、セッターだった花田は悔やみ、苦しんでいた。打たせてあげられなくてごめんね、快ちゃん。そんな言葉を何度も聞いた。聞かされるたびに、快も一緒に苦しんだ。

 だが、花田とともにボールを追いかけた日々は楽しかった。技術はなくても、バレーが好きだという気持ちを彼はいつだって忘れない男だったから。


 それももう、過去の話だ。すべて思い出に変えてしまった。上書きするつもりはない。

 バレーボールは、もうやらないと決めたのだ。


『今の実里丘には、快ちゃんの力が必要だと思う』


 電話の向こうで、花田は真剣な口調で快を諭した。


『セッターはバカみたいにうまいけど、他はたいしたことなかったもん。人数も全部で八人しかいなくてさ。しいて言うなら、エースがすごいかな。一年生だって聞いたけど、すげージャンプ力でさ』


 ほう、と相づちを打ちながら、そういえば体験入部期間の頃、男子バレー部の入部希望者を募って歩いている男がいたな、などということを思い出した。快よりも背が高く、ガタイもいい。けれど口を開けば頭の悪そうな文言ばかりを並べ立てる男だったと記憶している。

 彼はバレーボール経験者を探しているようだったが、快は名乗り出なかった。高校では違うスポーツをすると決めていたし、なにより、実里丘の男子バレー部は廃部寸前の危機的状況にあると入学式の時にもらったビラに書かれていた。そんなチームでバレーをしたって、刻まれて離れない胸の傷がさらに深く抉られることになるだけだ。


 わかっているのに、なぜか後悔の念があふれてくる。

 久慈琉聖という名の大波が、自ら沖へと出た快をバレーボールのできる岸まで押し戻そうとしている。


『とにかく』


 花田が続ける。


『おれの直感っていうか、なんとなくそう思うってだけの話なんだけどさ。あのチームに快ちゃんが入ったら、めちゃくちゃおもしろくて、どこにも負けないくらい強いチームになれそうだなって思うんだよ。それこそ、高階たかしなに勝てちゃうような奇跡を起こせるチームに』


 高階。東堂とうどう大学附属高階高校。

 快にとっては、あまり耳にしたくない名前だった。


『チャンスだと思うよ、快ちゃん』


 快が口を開く前に花田は言った。


『久慈琉聖がいれば、ぜんくんを超えられるかもしれない』


 くだんの高校名以上に聞きたくなかった名前が飛び出し、快は立ち止まって目を閉じた。

 まぶたの裏に、あの男のすかした笑みが蘇る。誰かに負けることを知らないその笑顔を映した鏡を想像し、右の拳でたたき割る。


 ゆっくりとまぶたを上げる。今この目に映る現実の世界で、あの男をぶっ倒すチャンスが巡ってきたと花田は言う。

 信じられないと思う一方で、この機を逃したら一生悔い続けるような気がした。


 久慈琉聖。

 バレーを知る者なら一目で天才だとわかるプレーをする、研ぎ澄まされたバレーセンスの持ち主であるセッター。彼がバレーボールをする姿を快も試合会場で見たことがある。敵ならば誰よりも恐ろしい存在だが、彼が仲間として同じコートに立ってくれるのなら。

 もしもそんな奇跡的な状況に身を置けるのなら、あるいは花田の言うとおり、本当にあの男を倒せる日が来るかもしれない。


 夢が、夢で終わらないかもしれない。


「……考えておく」


 短く答えて、快はほとんど一方的に電話を切った。身を包む漆黒の学ランの下で、熱いものがほとばしる。


「久慈琉聖、か」


 握りしめたスマートフォンに向かってぽつりとつぶやく。


「なぜ、俺の前に現れる」


 バレーボールはもうやらないと決めていたのに。

 あの男に勝てる可能性がほんの少しでもあるのなら、やめるわけにはいかないじゃないか――。


 吐き出した快の細い吐息が、初夏の夕闇に溶けていく。

 かつてのチームメイトがくれた一本の電話が、心の奥底で眠っていた快の闘争心に再び赤い火を灯す。

 どれだけ目を背けても消えない炎は、一歩踏み出すごとに存在感を増していった。

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