『満つる月の日に』
『満つる月の日に』
春の陽気に出逢い、命は扉を一杯に開いて剥き出しの赤い夢を見せつける。他所者が忍び込んで夢を食べれば、華やかな世界にさようならを告げ、扉を固く閉ざして渾身の愛を育む。
動物も植物も、男はどれだけ吠えたところで、女無しでは生きてはいけない。男には、女を従えている様に思わせておいて、その実、女は、自然の摂理を用いて、男を自分の僕に従えているのである。
こんな事を思考するのは、私が生殖前に女にまんまと逃げられたからに他ならない。私は惨めな男である。
【散歩】
私はいつもの様に、リードの先に“Kenta”を従えて散歩をしていた。すると、1本目の伝言柱に、私の名前が記してあるのに気づいて立ち止まった。しかし、“Kenta”はいつものごとく自分の前足の“sumaho”ばかりを見ていて、私が止まっている事に気づかないので、私はやがて迫り来る衝撃に備えて踏ん張らなければならなかった。
(はうっ!)
私の首は、瞬間的に増した、リードの張力に打ち勝ち、引き続き位置を保たせる事で、私の欲しい情報を収集する事が出来る。“Kenta”は一瞬私の方を見たが、また“sumaho”に視線を戻し、少しだけ私を待つ事にしたようだ。
[ドロシーよりスコットへ愛を込めて]
2017/05/11,08:50
《ごめんなさい。私の時の中で、いつ迄も貴方がそばに居てくれると思って安心し過ぎてた。ただちょっと今流行りのツンデレを試してみたかったの。もうしないから戻って来て、お願い。今日は満月。リングを外してやって来て。あ、デビッドが来たわ。じゃぁ、またね。》
彼女の伝言が本当だとすると(女は小悪魔だから真意は私には判別出来ないが)私は惨めな男ではなく、取り敢えず、見込みある男という事になる。
(やったー!)
“Kenta”が再び私を一瞥したので、制限時間一杯の様だ。しかし、この後のデビッドの伝言が気になる。
[デビッドからスコットへ憎しみを込めて」
2017/05/11,08:52
《てんめ、フザケンナ。ドロシーとは有りえん言うとったやんけー。今度会ったらぶっころーす。》
(マジかい!)
私は“Kenta”に激しく引きずられ、この場を諦める他は無かった。それにしても、デビッドを本気で怒らせたのは不味い。奴は私がドロシーと別れたのを知って、私に、
「俺がアタックするから縁を戻そうなんて考えるんじゃねーぞ」と言うので、私は、
「私は振られたんだから、もう有りえないよ」と言ってしまっていた。
奴の体は私の倍ほどもあって、体は黒く、巷では【ブラックパンサー】の異名を持つ猛獣の様な奴である。
それから散歩が終わるまで、いつもはノロノロ歩く“Kenta”を引っ張っていく私が、もの影に怯えてはトロトロ歩くものだから、“Kenta”に何度も引っ張られながら歩く事になり、だんだん恐ろしさが増して来たので早々に城へ引き返した。
【召使い】
城に帰ると、既に食事が用意されていたのだが、私は食欲を無くし、口をつける事が出来なかった。様子を見に来たメイドの“Oka-asan”は私の皿を覗き、心配そうに私の額に前足を当ててしきりに首を捻っていた。そこへ“Oto-osan”が足音を響かせながら近づき、何やらベラベラ吠えたので、“Oto-osan”の匂いが嫌いな私は、
(それ以上近づかないで欲しいなぁ)と思っていると、何を思ったか、事もあろうに私に抱きついて来た。
(うわっ!こいつ!)
このとき私は匂いに微かに混じる事実に気付いてしまった。“Oto-osan”はどこかの雌と密会している。しかし、こいつは“Oka-asan”と出来ていた筈。人というものは何とも破廉恥な。まあ、犬も大して変わらないが。この二人の行く手に待ち構えている波乱の物語に興味をそそられる。そういうわけで私は食欲が戻りそうになって、深呼吸をすると、また奴の加齢臭を嗅いでしまって食欲を失い、何だか分からないままに車に乗せられある所に着いた。
(信じられない!なんとデビッドがあちこちに伝言を残してるじゃないか!)
車を降りるといくつもの伝言柱にデビッドの名前があったのだ。“Oto-osan”に抱かれているので読むのに苦労するが、
[デビッド/呟き]
2017/05/11,14:25〜
《あんのやろー、絶対ぶっころーす》
《何だここ、あ!俺ここ嫌い!マジ?ちょっと“Papa”ここだけはやめてよ、お願いだからさー、注〜射、嫌ぁい!》
《あの全身白い“Sense-e”の野郎、生まれ変わったらゼッテー、注〜射し返してやる》
(え?ここ、注射すんの?イヤんやめてん!)
私は注射が怖くなって、リードがつけられていなかったのを良い事に、“Oto-osan”の腕から飛び下りて逃げた。そして駐車場から道路へ出ようと思った瞬間、何故か世界がスローモーションになる。
私は犬という生き物に生まれた筈なのだが、生まれて間もなく、私は人間に親兄弟から引き離された。そして私の召使いの人間たちに囲まれて生活するコロニーが出来上がった。私の意思に反してである。しかし、みんなよくやってくれた。だから私はこれまで彼らの労をねぎらってきた。
言語能力の低い人間たちが、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感の全てを使う私たち犬の総合言語が分かる筈もなく、大抵の犬はそのあたりを察してあげて、人間達に優しく接してあげているようだ。私もその一犬なのだが。しかしそれにしても、人間達の(口から発する)声だけを頼りに伝えようとする言語は非常に曖昧で分かり辛い。だからこそ、彼らの本当の名前を知ることは難しい。私が生まれた時、母に仕えていた人間の雌が私にこんな事を言っていた。
「Uma le te omedetor, ata she mika. Nde kimi wa johnny dayo. What cut ah?」
そして兄弟達にも同じ事を言っていたのだが、“johnny”のところが違うのだ。そこで人間が呼ぶ私固有の名前が“ジョニー”であることが分かった。そして更に、同じような顔をした雌(姉妹?)が言った場合、“mika”が“mina”に変わる。つまりそこで人間の雌達の名前が分かる訳だ。しかし、犬社会では人間の名前は大抵の場合分からない。それ故、召使い同士が呼び合う言葉を解析して彼らの名とすることが慣例なのである。
ある時、“Kenta”(我がコロニーの雄の召使いの小さい方)は、私が交差点に向けて走った時、彼は、
「Johnny,stop!」と言った。
私は訳が分からなかったが、止まって振り向いた後ろを、大きな車が突然過ぎ去って行ったのだ。驚いて振り返ったが、私が立ち止まったすぐそばが私の生死の境だったと知ったのだ。もしあの時“Kenta”が「stop」と言っていなかったらと思うとゾッとする。
今、その「stop」が“Oto-osan”の口から発せられた。
「Johnny, ma-te, stop!」
私はその声にゾッとして、必死になって体を止めようとする。景色がゆっくりと向かってくる。道路はすぐそこ。肉球がコンクリートに引っ張られ後方に激しく偏って、擦れ、痛い。と言うか、あとから痛くなるのだろうと思いながら、それでも止めにかかる。ようやく止まりかけたところで車の影が見え、車が横切る。
車のエンジンの音がして時間が戻った。私は棒立ちの状態で止まっている。“Oto-osan”が私を抱き上げて何か言っている。私は放心状態のまま、車に撥ねられるよりはマシな場所へと運ばれた。
デビッドの言う“Sense-e”とは私にとってての“Ju-uisan”であった。
(生まれ変わったら絶対“Ju-uisan”に注射してやる!)
【脱走】
当面の問題はデビッド対策である。殺されないようコロニーでおとなしくしているか、あるいはドロシーに会いに行く途中にデビッドに見つかって一生をそこで終わらせるか、はたまたデビッドが檻に入れられている夜中に(そうだそれだ!)首のリング(首輪)を外してドロシーとの情事に勤しむ。
(やったー!それしか無い。早速今夜決行だ!)
元気になる注射をされた日に抜け出さないでどうするといったところ。
そして、夜が来る。満ちきった月の影がドロシーのアヒル顔になっている。
(嗚呼、切ない)
首輪に両手を当て、首を左右に振りながら外し、その後で小さな別荘を出る。そうすると備え付けのリードが別荘の中に入っていて、召使い達は、私が中で寝ていると認識する。いつもの手である。首尾よくコロニーの門を出ると、道は月の光で明るい。今日は特に気持ちの良い夜だが、近くで猫が睨み合いを始めて雰囲気が一変した。
「やあ、やあ、やあ、やあ、我こそは、この近帯に城を構える、猫三郎と申す者。そのほう、遠い先祖の代より受け継ぐ拙者の城下を、我が物顔に徘徊するには、それなりの覚悟が御座ろう。もし、場所を違えて入ったとあらば、我が鋭牙の餌食になる前に早々に立ち去られよ!」
「やあ、やあ、やあ、やあ、我こそが、この国を治むる者なり。よってそのほうの城も我が物。且つそのほうも我が家臣。もし、我に粗牙を向けるとあらば八方に切り刻んで八つの川に流し、輪廻転生を止めるものなり。」
何とも回りくどい猫の喧嘩である。猫どもは犬と違って、永代、首輪に繋がれておらず、古代から受け継ぐ戦闘様式をそのまま現代に伝えていると伝言ペディアで見たことがある。つまり、名乗りを上げてからの合戦である。そろそろ始まるので、私はその場を過ぎ去ろうとするのだが、時既に遅し。
「覚悟致せ!」
「望むところだぁーっ!」
(しまった!始まった)
突進し合う二匹の猫が衝突すると思われた瞬間、どちらも右に交わして共に腹を狙う一騎打ちの作法。が、双方とも牙に掛ける事が出来ずに通り過ぎ、空かさず振り返って相手に飛びかかる。一匹は低く、もう一匹は飛び上がって空中から。上の猫が辛うじて牙に掛けた尻尾を噛み、噛まれた猫は引き千切るように回転して首に牙を入れる。噛まれた猫は驚いて引く。尚も襲いかかる猫に回転して逃げ惑う猫。激しい肉弾戦はどっちがどうなったか分からぬままに、一匹が、我を失って私の方へ逃げて来る。いきなりで驚いた私は反転して逃げるが、それを追い越す猫、更にまた猫、そして生垣に突っ込む私。
【出逢い】
木の枝に引っかかれて顔が痛い。気を取り直した道すがら、今度は同士、総合言語が通じる相手がこちらに向かっている。私は、
《素晴らしい月でございますね、何と言いますか、こんな夜は女が恋しくなるものでございます》
などと匂いを飛ばしてはみたが、向かい風、そして丁度月が雲に掛かっている。相手は無言。不気味な気配が漂う一本道。猫の二の舞いは御免だが、覚悟はしなければならない。いろんな葛藤をしていると、間はどんどんつまっていく。
相手がピタリと立ち止まる。驚いた私も立ち止まる。
(え?今気づいたの?マジ?遅くない?)
そして、相手は匂いにメッセージを混ぜながら近づいて来る。
《先ほどまで月が鏡のように研かれておりやして、手に入れたいなんぞ思っておりやしたが、いえね、あっしの昔の女に土産物でもと思ったんでござんすが、それは叶わぬ空の月。あはは。》
(何を言っているんだこのおっさん)
私は吹き出しそうになりながらも、首輪の無い(今は自分もしていないが)渡世犬風のおっさんには関わらない方がと思い、良い犬ぶって、
《御機嫌よう》
とメッセージを送って横をすり抜けようとする。しかしその時、私が親しみを表現する為に横に振っていた尻尾が相手の顔に当たってしまう。
「あにさん、ちょっと待っておくんなまし。」
老犬が渋みを利かせて唸る。
(やば!)
私が振り向くと、おっさんは渡世犬の類に漏れず、ゆっくりと振り向きながら、上に上げた眉を下にじんわりと下ろし、不敵に微笑む顔を軽く歪めて犬歯をキラリと光らせた。
「え?何か?」
私はとぼけて見せるが、おっさんの片眉が上がる。少し間を置いておっさんが再び唸り始める。
「何か?とは、ご挨拶じゃあござんせんか。相手が堅気のあにさんだと思えばこそ、平穏に通り過ぎようとしておりやしたものを、尻の尾っぽでもって顔を叩かれたひにゃあ、黙って通り過ぎるのもどうかと思いやしたもんで。なぁ、あにさんよぅ。」
私は次の言葉を探しながら、先ず、逃げるルートを決め、「いやぁ、」と一言長めに伸ばしながら、戦った場合の勝率を弾きだしながら「すみません、あのぅ、」と繋げ、体格では勝ち目があるものの、渡世犬根性に負けてしまう確率が高い事を確信し、加えて、逃げ切れたとしても、近所に住まう者としては、やはり争いごとを避け、平和的解決に向けて、
「あにさん、あにさん、大丈夫ですかい?何か話したそうにしていなさるから、じっと待っておりやしたが、一向に〈すみません、あのぅ、〉の後が続かねえ。あっしゃぁまた、ゼンマイでも切れたんじゃぁねぇかと思ったりね、」
「あゝ、これは失礼しました。実は私、恋する女の事で頭が一杯で(よし、良い言い訳だ)これから会いに行くんですが、久しぶりなもので、どう言葉を掛けようかなどと考えていたのです。色々と失礼致しました。」
咄嗟の思いつきだが事実だ。
「何でぇ、何でぇ、今から夜這いですかい。そいつぁ足止めして申し訳ねぇ、じゃあ、歩きながら話を聞きやしょう。」
「(はぁ?)いや、でもぅ、(このおっさんついて来るのか?)」
「まあ、まあ、女の事なら任せておくんなせぇ。いいですかい?女ってぇもんは、」
どこで間違ったか、いきなり見ず知らずのおっさんに恋の手解きを受ける羽目になってしまった。
「大抵の場合、追いかけりゃぁ逃げて行き、外方を向きゃぁすがりつく、ってぇもんで、昔っから、急いては事を仕損じる、何てぇ事を申しやす。」
「はっ、確かにそうですねぇ、ほんとだ。」
つい、話に合いの手を入れてしまった。
「ほら、そうでやんしょう?早い話が〈何だ、居たのか、邪魔するよぅ〉ってな具合で、やる事やってりゃぁ、もうぞっこんってぇ寸法でさぁ。」
「ううわ、なるほっどぅ。おっさん凄いなぁ。」
(あ、しまった!)
つい口を滑らせた。
「御免なさい、私、とんだ失礼なことを、」
「あぁ、あぁ、構わねぇでおくんなせぇ。実際、おっさんに違えねえ、いや、じいさんと言われてもおかしくねぇところでさぁ。」
私の意に反して、おっさんは話せば話すほど私に打ち解けてきている事が分かる。
「また“おっさん”と言わないで済むように、お名前をお聞かせ願えますか?私はスコットと言います。」
「おっと申し遅れて失礼さんにござんす。」
おっさんはそう言うと、突然体を低く構え、右手を出して“ote”のポーズ。
「お控ぇなすって。」
「えぇっ?(マジかい!)あ、よく分からないもので失礼でしたらご勘弁下さい。では、控えさせて頂きます。」
まさか生涯で仁義を切られる事があるとは思いもよらず、勉強不足で赤っ恥的心地なのだが、取り敢えず私も“ote”くらいは知っているので手を出した。
「早速お控ぇ下さり、ありがとうござんす。向かいやしたる兄さんには初めての御目通りでござんす。手前、粗忽者にて前後間違いやしたる節は、まっぴらご容赦願いやす。手前、生国は九州、太宰府にござんす。天満宮参道沿いの梅屋の五男坊。性を天神、名を梅五郎と発しやして、文字通りの“五郎付き”(ゴロツキ)にござんす。御賢察の通り、しがない老犬にござんす。後日にお見知り置かれ、行末万端御熟懇に願います。」
おっさんが鋭い上目遣いで仁義を切っている間、口上のあと私はどう返そうか考えていた。結果、事もあろうに、
「有難うさんでござんす。」
などとぬかしてしまい、それでもおっさんは真面目顔で続ける。
「こちらこそ有難うござんす。どうぞお手をお上げなすって。」
とおっさんは言うが、確かここで手を先に引かず、何度もやり取りをするような記憶がある。
「いえいえ、おっさんこそ(しまった、また言った)どうぞ、お手をお上げ下さい。」
「それでは困ります、兄さんが先にお上げなすって。」
「分かりました。」
と繰り返す度胸もなく早々に手を引っ込めた。
「有難うござんした。」
おっさんは締めくくると、満面の笑みで話した。
「久しぶりに仁義を切りやしたが、堅気の兄さんがこうもキチンと受けて下さるなんざぁ思いもよりやせんでござんした。」
「いやぁ、私も初めてで緊張しましたが、面白い体験でした。」
私は、渡世犬の世界に引き込まれてしまうんじゃないかと何処かで心配しながらも、不思議な事に、このおっさんの魅力にひかれて行くのだった。
「ところで兄さん、女が待っていなさるんでしょう?」
すっかり忘れていた。
「ああ、そうでした。では親分さん、お達者で。」
「兄さんこそお達者で。女と首尾よくいきやすように。えへへ。それじゃぁ御免くだせぇやし。」
【贈り物】
私は、おっさんと別れて、再びドロシーのコロニーへと向かった。先ほどまで隠れていた月は雲から顔を出していて、うまい具合にこれから暫くは隠れそうになかった。角を曲がると、突然彼女の肉体の曲線美が頭の中で再現され鼻が広がって仕方がない。彼女の匂いが漂っているのである。心臓が耳元で煩い。しかし匂いからではドロシーの所在が分からない。おかしいと思いながら近づいて門外から覗くと姿が見えない。五感を集中させても、どこに行ったか手掛かりがまるで無い。いや、微かにドロシーの寂しさの念が地面に落ちている。
(まさか、寂しさを紛らわせるために他の男と⁉︎)
疑ってはいけない。今朝、彼女は私を誘っていたのだ。胸の奥に火が着いたように臓が焼ける嫌な感覚。私は気を晴らすために、少し戻った先の公園へ向かった。当然、ドロシーが居ないか探しながら。
先ほどの交差点を左に戻らず、真っ直ぐに抜け、暫く行った、公園の手前の敷地から男女の声が聞こえて来た。当然ドロシーではない。しかし、男の声と匂いに覚えが。
「おっと、兄さんじゃぁござんせんか。まさか、この女が兄さんの女って事たぁございますまい。」
やはりおっさんだった。女と会っているところだった。
「梅五郎さんじゃないですか。またお会いしましたね。あ、彼女さんですか?失礼しました。私はお邪魔でしょうから、」
足早に立ち去ろうとすると、
「なぁにを仰いますやら、兄さん、“おっさん”で結構でやんす。それより、あっしの古い女に会ってやっておくんなまし。ほら、おめえ、早く兄さんに挨拶しやがれ。」
おっさんが彼女を甘噛みして表に引っ張り出して来ると、なんとも淑やかな女性が私に丁寧に挨拶をしてくれた。
「あにさま、こんばんは。ようお越しやした。」
私はにっこり笑い深々と頭を下げて挨拶を返した。
「ところで、梅さん。」
その時々で呼び方を変えてみる。
「だぁから“おっさん”で良うござんすよ。」
「じゃぁ、おっさん(怒らないでよ)、例の贈り物は持っていらっしゃいましたか?」
おっさんは間の抜けた顔を向け、
「その事は言いっこなしですぜ、兄さん、」
と話を合わせながらも真意を掴めていない様子。すぐさま私ににじり寄り、小声で言って来る。
「兄さん、何の事を言ってなさるんで?」
私も小声で答える。
「えっ?月でしょ?」
私は面白がって相手がどう出るか試した。
「はぁ?いや、そのぅ、ご冗談を。でも、兄さんならどうなさるんで?」
「用意してますよ。」
私は一芝居打つ事にして、今度は女性に聞こえるように言った。
「おっさんから頼まれたものを用意してますから、こちらへどうぞ。」
と女性を公園に案内する。おっさんは少々挙動不審気味。
「では、そちらの石のテーブルに並んでお付き下さい。」
おっさんは何が何だか分からない様子。女性は目を輝かせている。
私は水飲み場に行き、地面に転がっているお椀を咥え上げ、十字の蛇口を叩いて噴き上って落ちて来る水を注いだ。それを溢れないように石のテーブルに持って行き、差し出して言う。
「心安まる二犬の時を、このまま波風立てずに待ちましょう、さあさあそろそろ覗いてみれば、そこには、まん丸未来が見えて来る。では、私はこれにて。」
と私は公園を後にすると、公園の方から声が聞こえて来る。
「まあ、梅五郎さん、お椀に月が、まん丸な月が映ってますわ。梅五郎さん、そして噴水も。おおきに、嬉しい。」
(お控ぇなすって、万事万端、お幸せに)
【決闘】
さて、ドロシーの行く先が気になる。もう一度彼女のコロニーに行ってみるが、やはり居ない。じわじわとあの無骨なデビッドの顔が頭に浮かんで、再び内臓が焼けただれて行く感覚に襲われた。
(寂しくてデビッドの所に行き、そして、)
少し考えただけで心に蕁麻疹が出来そうで、首を激しく回転させ、胴、尻尾へと邪念を祓う。
(もしそうなら、「ぶっころーす」とぬかしたあの豚野郎を、どんな手を使ってでも八つ裂きにして八本の川に流してやる!)
焼けただれた内臓は油になってメラメラと燃え始めた。私は意を決して、デビッドのコロニーに向かう。
先ほどから、いつものように人影も犬影も猫影も無い道だが、嵐の前の静寂のように思えて息苦しい。伝言柱がある度に白紙の尿をかけながら、毎回の残尿感に次の伝言柱を探し続ける始末。今回ばかりは平和的解決は有り得ない。
次の角を曲がればデビッドのコロニーの有る通り。ふと、ここで初めて、ドロシーの呟き伝言を見つけた。
[ドロシー/呟き]
2017/05/11, 20:45
《ねえ、どうして来てくれないの?どこに行っちゃったの?もう、あたし達は終わりなの?そんなの悲しすぎる!もう、知らない!》
私達はどうやらちょっとしたすれ違いで会えない状態になっているようだ。恋の道はお互い思い合っていたとしても、一筋縄でという訳には行かない。しかし、ぼやぼやしては居られない。有ってはならない事が起こらないとも限らない。
角を曲がると、ドロシーが、デビッドのコロニー辺りに居る事を、彼女の新鮮で芳醇な香りが物語っていた。声は聞こえない。全速力で向かうと二犬が向かいあっていた。
「ドロシー、ここだったんだね。」
ドロシーは振り向いて私に言った。
「スコット!どこに行ってたの?デビッドに痛い目にあわされてるのかと心配してここに。」
檻の闇の中でデビッドの目だけが月のように光って、不気味に笑い始めた。
「ちょっと違ったなぁ。痛い目にあわされてるんじゃなくて、」
檻の端に近づくと、足から徐々に見えてきて、頭まで見えたかと思うと、首を伸ばし、檻を素通りして外に出てきた。
「こいつは、今から、痛い目に会うんや。」
私は、空を突く黒い大樹の根元で、壁に描かれた絵を見上げるように心が落ち着いていた。生命は、逃げてこそ永らえられる。しかし、逃げたとすれば、ここに存在する、ドロシーに恋い焦がれるスコット、おっさんとその女の関係に憧れるスコット、コロニーで召使い達に慕われるスコット、その全てから逃げていく、ただの一犬ぼっちのスコットになってしまう。デビッドに軽々しく約束したスコットは、逃げたスコットなのである。もう、逃げない。罪滅ぼしに一度だけ奴に噛ませてやる。それで命を落とすのならばそれが私の運命。しかし、そこに私の命を残すのなら、死を前に、命をすべて一度に燃やして、奴を私の炎の燃えかすにしてやる。
「来い!」
「何を!テメーが足元にすがりついて泣き叫びながら許しを請う姿が目に浮かぶぜ!死にな。」
黒く光る空高く、怪しく滑る銀牙の星、命を劈く衝撃は、夥しい数の星を集めて、光渦巻く銀河を創造する。中心に滾る宝石は、烈火の飛沫を宇宙の彼方へと放ち、そして夏の夜空の花火のように闇へと消え去る……
戻らない筈の私の意識が、デビッドの足の下で戻った。奴は戸惑っている。そんな奴の気持ちが口に咥えるように分かった。恋仇でありながらも、私とは幼馴染なのである。だからこそ、私は反撃に打って出なければならない。首から滴り地面に沁みていく血は、月の光を浴びて妖しく美しい色に見え、その向こうにドロシーが見える。何か言っているが聞き取れない。
私は最後の力を振り絞った。頭に乗っている奴の足先をいきなり咥え込んで素早く引き摺り、大車輪に振り回して、とどめに檻へと放り投げた。檻はユニゾンのメロディを一度だけ大きく奏で、デビッドは地面に崩れた。奴が、体の痛みを堪えながら含み笑いをして立ち上がろうとした時、
「やれやれ、お二犬ともそれくれぇにしといた方がよござんすよ。」
おっさんが門から入って来て私たちに近づいてくる。私は声も出せずに地べたに這いつくばったまま。デビッドは結局起き上がれずに突っ伏したままの格好で“おっさん”に向かって言った。
「梅五郎の親分さんじゃぁございませんか。」
「おうおう、無理しなさんな。あんさんも最初っからこの恋に勝ち目が無ぇ事くらい承知でやんしょう。」
デビッドが目を瞑っておっさんに答える。
「へへ、そうと分かってはいても、心が暴れてしょうがありません。しかし、こいつの根性にはかなわねぇ。もう諦めますぜ。」
「いやあ、恋というものは美しくて嬉しくて哀しい。あっしにも分かる。二犬とも死なすには惜しいお犬らでございやすからね。あとはゆっくり休みなせぇ。じゃぁ、あっしはこれで、御免下せぇやし。」
ドロシーが駆け寄って私の首を舐めてくれている。血は止まったようだ。
「じゃあ、二犬ともとっとと帰ってくれよな。俺は檻に帰るぜ。」
デビッドはそう言って、ぎこちなく立ち上がり、ゆっくり檻に入って行った。私もようやく立ち上がり、二犬はその場を後にした。
満月はどこか冷ややかに辺りを照らしていたが、巷の猫たちは私たちに何が起ころうとお構い無しのようで、相変わらず威勢良くそれぞれに順番よく名乗りを上げていた。
結局、ドロシーとは暫くの間“ma-te”だな。