サンタクロースになりたくて
隣で寝ている女の顔が見える。
妻とは似ても似つかない顔に安堵と罪悪感が胸のうちに込み上げる。情事の最中はそんなこと微塵も感じなかった癖に落ち着くとそんなこと考えてしまう自分のクズさに笑えてしまう。胸を痛めるくらいならやめればいいのである。だが、俺――田中悟はずるずると彼女との関係を続けている。
あなたも少しは家事を手伝ってよ――と、毎日のように唯子はこぼしている。どうして、会社でくたくたになるまで働いて家に帰ってまで働かなければならないのか。言葉には出さないが、自分にはどうにも納得いかない。その場しのぎの生返事をする俺を黙って見つめる唯子の視線が、ときおりすべてを知っていて黙っているのではないかと、思いドキリとする。
だが、この女と別れるような気持にはならない。
十歳年下の彼女は押しに弱い女だ。こっちが押し続けている間はいくらでもどうにでもなる。唯子のような気が強いところもなく。文句も言わない。これは恋愛ではない。それは明白だ。結局のところ自分は若い身体に溺れているのだ。いつかは溺死するそんな単純なこと分かっている。それでもやめられない。
ただ一つ懸念があるとすれば、金がないことだろう。
中堅サラリーマンとしてほどほどの収入はある。だが、一つの家庭ともう一人。女を囲い続けるにはやはり金がいる。唇が自嘲的に歪む。会社の接待費で落せる金額も限りがあるし、なによりも時勢柄その手の予算は減らされ続けている。いつの日にかは終わりが来るだろう。もしかするとそれがすべての終わりなのかもしれない。
言葉にならない甘いうめきとともに女が眼を開ける。幸が薄そうな色白な肌と頭の悪そうな垂れた目がこちらをとらえる。どうしたの? 舌足らずなゆっくりとした調子で彼女が口を開くが、唇を押し付けて黙らすと、さきほどまで考えていたことがどうにでも良くなる。いらないことを考えたものだ。
思考を閉ざすとあとは原始的な衝動しか残らなかった。
終電で家に帰ると唯子はすでに寝ているのだろう。真っ暗なリビングにラップに包まれた夕食が置かれていた。十二月だから腐ったりすることはないのだろうがあまり気持ちがいいものではない。息子の雅人が小学校にあがるのに合わせて無理して買った家のリビングは家族三人だと少し狭い気もしたが、一人では広く感じる。寂しさをテレビでもつけて紛らわそうかと思ったが、音に釣られて唯子が起きてくればまた小言をもらうことになりそうでリモコンに伸びていた手を引っ込める。
冷え切った料理をレンジに入れる。
妻との関係がこの料理のように冷め切ったのはいつからだろうか? 恋人が、新妻になったときか。新妻が母親になったときか。考えがまとまる前にレンジがよく響く音で電子音を立てる。こんなに大きな音だったかと驚きながら料理を取り出して机に置く。ラップを外して初めて俺はそれが生姜焼きだと気づいた。
唯子の手料理のなかで最初に褒めたのは生姜焼きだった。そのときはお互いに学生で何をしても楽しかったし、彼女の少し気の強いところも魅力だと感じていた。それがいまではどうだろうか。生姜焼きに箸をつける。同じ味であるはずなのにあのときのような感動はなかった。
考えることが嫌になって一気に皿にかぶりつくように生姜焼きをかきこんでいるとリビングのドアが開いた。唯子かと気が重くなりながら視線を向ける。そこにいたのは唯子ではなく雅人だった。
「雅人、どうしたんだ?」
声をかけると雅人は眠たそうな表情のまま「お父さん」と俺を呼んだ。
いまではようやく慣れつつあるが自分がお父さんだという感覚になれるまでずいぶんと時間がかかった。それはむかし俺が思っていた父親像と自分が違うからだ。一言で言えば子供っぽいのだ。父親というのはもっと大人だと思っていたが、いざ自分がなってみるとたいして大人になったとは思えない。これでお父さんと呼ばれるのだ。言葉が自分を指していることさえしっくりこないはずだ。それでもようやく慣れだしたのは雅人が小学生になって一年を過ぎたくらいからだろう。
雅人は俺の正面の椅子に座ると「おかえりなさい」と言って微笑んだ。
「ただいま」俺は何とも言えない表情で答えた。「こんな時間まで起きてたのか?」
「ううん。お父さんが帰ってくるの待つって言ってたけど、お母さんが寝なさいって」
首を左右に揺らすと雅人はまだ眠いのか目をしばしばさせた。
「ああ、じゃーおこしちゃったかな?」
起きたとすればあのレンジの音だろう。
「いいの。お父さん、ぼくお願いがあるの」
少しはにかんだような様子で話す雅人を見て俺はピンときた。この時期に子供が大人にお願い事があるとすればそれはクリスマスプレゼントとのことだろう。俺も子供のころ父親だったか母親にプレゼントをねだった覚えがある。あれはまだサンタクロースを信じていたときだろうか。それともあとだっただろうか。
いま考えてみれば何歳までサンタクロースを信じていたかなんてその後の人生に影響しなかった。大人になれば、世界中の子供の元にプレゼントを配布するような人員もいなければ、予算もないことが分かるからだ。なによりそんなことをする意味がない。だから信じたい歳まで信じればいいし、信じたく無くなれば信じなければいい。それだけの話だ。
「なんだい? サンタさんにお願いでもあるのかな?」
雅人は少しだけ目を丸くしてこちらを見ていたが、頭を左右に振ると「違うよ」と言った。俺は雅人が何を求めているのか分からず首を傾げた。
「あのね……。ぼくお父さんともっと遊びたい。だから、だから、たまにでいいから少し早く帰ってきてほしい」
はっとして息が詰まる。
こちらをうかがうように雅人はちらちらと俺の顔を見た。まるで悪いことでもしているかのようだ。だが、彼は何一つ悪くない。悪いのは俺だ。三十後半になっても大人になり切れない親だというのに慕ってくれる子供をみて俺はようやくズレていた何かがかみ合うのを感じた。
雅人を抱きしめてみる。大きくなったと思っても身体はまだまだ小さい。いつか俺の身長など抜かして生意気なことを言うのかもしれない。だけどそれは俺自身も通ってきた道だ。そんなことと笑い話にできる日だってくるのだろう。だとすれば今という時間がとても愛おしく思えた。
「……ああ、いいよ。ちゃんと帰ってくる」
俺が言うと雅人は「うん」と大きくうなずいた。
抱きしめていた手をはなして、頭を撫でてみる。細かくさらさらな髪が気持ちい。
「じゃーそろそろ寝ような。明日も学校だろう」
雅人はもう少しだけ俺といたそうだったが、明日も学校があると思ったのだろう。「おやすみなさい」と小さく手を振って自分の部屋に戻っていった。物音がしなくなったのを確認して俺はまた冷えてしまった生姜焼きに手をつける。
冷えて固まった油脂が舌の上でざらリと転がるが、最初に食べたときよりもはるかに美味しく感じた。食器を台所にシンクに沈める。よく冷えた水が指先を刺激する。ゆっくりと手を水から引き抜くと俺はシャワーを浴びて唯子が眠っている寝室へ入った。
唯子は寝ていたようだったが俺が扉を開けたのに気づいたらしく「あぁ、おかえりなさい」と夢と現をさまよいながら言った。俺は一言だけ「生姜焼き美味しかったよ」とだけ言って布団の中に潜り込んだ。唯子は何も言わなかったが俺の手を握りしめた。
久しぶりに握った妻の指は昔と変わらずほっそりしていた。
ああ、こんな感じだったかと、納得して俺はゆっくりと夢の中に沈んでいった。
翌日、仕事をしながら雅人と何をして遊べばいいのだろうかと考えた。子供が遊ぶテレビゲームは俺が遊んでた頃よりもはるかに進歩しすぎていてまともにできる気がしない。そんなことを考えながらオフィスを見回すと女子社員の机の上にちょこんと小さなクリスマスツリーが置いてあるのが目に留まった。
――うちにはクリスマスツリーなかったな。
会社帰りにクリスマスツリーを買った。俺の身の丈よりも少しだけ大きなツリーだ。色とりどりなLEDがついて大きな星やチリンと可愛らしい音をたてるベル。真っ赤な球体に靴下を模した飾りがついている。店から持って帰るのには難儀したが雅人がツリーを見たときどんな顔をするのか楽しみで重いとかめんどくさいという気持ちはなくなっていた。
いつもよりずっと早い十九時に家に帰ると雅人は飛び上がらんばかりに喜んで俺に飛びついてきた。その後ろでは唯子が苦笑いを浮かべているが嫌そうな感じはない。夕飯までにちゃっちゃっとツリーを組み立ててしまおうと雅人とツリーの組み立てを始めるがなかなかうまくいかない。ああでもないこうでもないと二人でやっていると唯子が台所からきて「夕飯のほうが早くできちゃったわ。一旦、手を止めてご飯にしましょう。食べ終わったら私も手伝うから」と微笑んだ。
家族三人でご飯を食べたのはいつぶりだっただろうか? 仕事ない土日はちゃん皆で食べていたと思ったが唯子と雅人が一方的に話しているのに適当な相槌を打っていた記憶しかない。いまではそれがもったいないことだったと激しく後悔した。
食事を終えて三人でツリーを組み立てる。
細かい飾りつけを唯子と雅人がしてくれる。俺はツリーを組み立ててLEDが光るように線を繋ぎ合わせる。すべての準備が終わり、コンセントプラグを雅人に渡す。
「さ、つけてみよう」
雅人は心底から嬉しいのか満面の笑みを俺と唯子に繰り返し向けるとプラグを差し込んだ。
俺が子供のころあったような電球の周りを色とりどりのプラスチックで覆ったような安っぽい光ではない。細かく小さな雪のような光が青や黄、白とゆっくりと色を変えていく。家庭で見るツリーがこんなに綺麗だったかと俺は驚いた。
それは唯子も同じだったのか「綺麗」と後ろで小さくもらした。
雅人は自慢げに「綺麗だね!」と笑った。
その夜、唯子は俺に言った。
「ありがとう。ツリー買ってきてくれるなんて思わなかった」
「そう。そうかもしれないな。もしかして邪魔だった?」
「ううん。違うの。雅人からツリー飾りたいって聞いてたけど、私ひとりじゃ運ぶのも大変そうだからずっとほっていたの。だから、あなたが買ってきてくれて良かった。それに……」
唯子がなにか言おうとして言葉を濁す。
「それに?」
「……付き合ってるころにも一度、小さなツリー買ってきてくれたよね」
「ああ、あの小さな」
学生時代のことだ。唯子のワンルームマンションでも小さいくらい小さなツリーをプレゼントしたことがある。あのときはまだ俺も学生でロクな金もなかったころだ。それでも唯子は喜んでくれたのを俺はいまさらながらに思い出した。
「あのときも嬉しかった」
「俺はあんな小さなツリーしか買えないんだって少し恥ずかしかった」
「そうね。あなたはヘンなところで見栄っ張りだから」
クスリと笑う唯子はひどく楽しそうだった。俺は話題を変えようと「雅人はクリスマスに欲しいものあるのか?」と訊ねた。唯子は少しだけ考え込んだあと俺があまり知らないおもちゃの名前をあげた。どうやらいま子供たちの中で流行っているアニメのおもちゃらしい。
次の休み。俺と唯子は雅人にバレないように二人でクリスマスプレゼントを買った。久しぶりに二人で出歩くのは恋人時代に戻ったようでひどく新鮮だった。変わったことがあるとすれば若いころよりもお互いに気が長くなったのか、商品を選ぶ時間が長いとかで喧嘩するようなこともなかった。
買ったプレゼントは雅人に見つからないように車のトランクにしまい込んだ。
クリスマスイブの夜に俺が車に取りに行ってツリーの下に置く予定だ。子供のための準備がこんなに楽しいとは思ったこともなかった。買い物の途中、愛人からクリスマスイブの予定をどうするのかというメッセージが流れてきたが俺は返事を出さなかった。
それからはイブが来るのが楽しみで仕方なかった。
もしかしたら子供以上に俺がクリスマスを待ち遠しく思っていたかもしれない。仕事中でも視線がカレンダーに向かう。同僚のなかにはそれが一年の速さを嘆くものだと勘違いして「年を取るごとに一年が早くなりますね」という奴もいた。俺は「そうだな」と愛想笑いを入れながらイブが早く来ないかと腹立たしく思った。
イブの前日になっても愛人からは連絡はなかった。
だから、俺はイブを思う存分に家族と過ごすことができた。
唯子が作った少し濃いビーフシチューに買ってきた大きな鶏の焼き物。雅人には甘いぶどうジュースをワイングラスに注ぎ、俺と唯子は少しだけいいワインを開けた。最後に唯子と雅人が作ったというクリスマスケーキを食べた。デコレーションの生クリームがグネグネと不思議な模様を描き、スポンジは微妙に膨らんだところと膨らまなかったところがある。だが、それさえも楽しかった。
こんな日々が続くのなら毎日がクリスマスでもいい。ケーキの食べ過ぎで太るから唯子は少し怒るかもしれない。十一時になって雅人に寝るように言うと珍しく嫌そうな顔をしたがさすがに小学生が起き続けるのは難しいのだろう。すぐに子供部屋へ入っていった。
俺は唯子に先に風呂に入らせて最後に風呂に入った。
風呂をあがって時計を見ると十二時を少し回ったころだった。唯子に目配せをする。
「そろそろいいかな?」
「ちょっと待ってね」
唯子はそっと子供部屋の扉を開けると雅人が寝ているのを確認したらしく手を小さな丸を作って見せた。それを見て、俺は音をたてないように勝手口から家の外に出ると駐車場に向かう。流石にホワイトクリスマスにはならないらしく、空を舞い散る雪は見えない。
しかし、かわりに空は澄みわたっていて星々が白い光を放っている。しんとした住宅地の静けさと冷たく冴えた冬の空気でそれはひどく綺麗に見えた。俺はしばらくのあいだ空を見上げていたが、寒さに震えて慌てて車に向かった。
車のトランクから綺麗にラッピングされたプレゼントを取り出す。
雅人のプレゼントとは別に小さな箱もある。これは唯子へのプレゼントだ。俺はわくわくした気持ちに顔を緩めながら家へ戻ろうとした。だが、家の前で足が止まった。それは小さな陰だった。小柄な女性よりももっと小さい。まるで子供のような影だ。
俺はその影をじっと見つめたまま近づくとそれが雅人だと分かった。あまり分厚くもないパジャマが寒そうで俺は慌てて駆け寄った。
「どうしてこんなところに?」
雅人は何も言わなかったが、こちらを向いてにぃっと微笑んだ。
天使のような愛らしい姿だ。プレゼントを地面に置いて雅人の手を握る。冷え切った指先が彼が長い間ここで待っていたことを意味していた。
「サンタさんを待ってたのかい?」
俺が声をかけると雅人は違うとばかり顔を振った。
「ならどうして?」
少しでも温めてやろうと雅人を抱き寄せる。小さな身体は俺の両腕の中にすっぽりと納まった。雅人は俺と一緒にいれるのが嬉しいのか笑い声をあげる。それがどうしようもなく愛おしくて俺は抱きしめる腕に力を込めた。
「さぁ、家に帰ろう。このままじゃ寒いだろう」
家のほうに向かうようにうながすが雅人は腕の中が良いのか動かない。俺はそれでもいいかと思ったが、このままで風邪でも引いたらまずいと雅人の顔を覗き込むように「家に入ろう」と強めの声をかけた。雅人は声に応じるように俺の胸にうずめていた顔をあげる。
雅人は笑っていた。
だが、それは子供の無邪気なものではない。こちらを侮蔑したような歪んだ笑顔にねじれた唇。俺は雅人を突き放そうとしたが手が吸い付いたように離れない。むしろ、少しづつ吸い込まれる。あるいは沈み込むそんな感覚だった。
本能的に感じることは俺が抱きしめているものが雅人ではない、ということだ。
違う。
違う。
違う。
そうであるはずがない。
拒絶したいのに身体はどんどんとそれに飲み込まれていく。腕はもう肩口まで雅人に似た何かに引きづりこまれている。自分の手が、腕がどうなっているのか分からない。どろどろに溶けてそれに混ぜられているような感じもするし、違う気もする。
ただ、一つ分かるのはもう俺はこれと切り離されることはないという絶望だった。
どれほど地面を蹴っても身体をゆすっても俺の身体は飲み込まれてゆく。笑っている。それはただ笑っていた。俺が溶けていくことが愉快なのか。それとも別の何かがあるのか分からない。溶け込み溺れるように俺は何度も顔だけはひっつけないようにしたが無駄な抵抗だった。
溺れている。
そんな感覚だった。生ぬるい何かに飲み込まれている。
見えるのは雅人の笑顔だ。
気持ち悪い。どうしてそんな笑いをするんだ。
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
ああ、笑わないでくれ。