二人きりの湖
荷馬車の中では、少女は空の木箱に身を隠していました。
ところが、落石がゴロゴロしている未舗装の崖路を進んで行く途中、車輪の一つが割れ、荷馬車は横転してしまいました。
驚いた馬が逃げ出そうとしたので、馭者は慌てて馬を追い掛けました。
その間に、少女が隠れていた木箱が滑り落ち、崖下の湖まで転がっていたとも気付かずに。
*
陸に上がった少年は、そのまま川沿いの街道を歩いていました。
川は、途中から人里を離れた山へ向かって行くようでした。
慣れない地上での二足歩行に疲れてしまっていた少年は、人気が無いことを確かめると、雪解け水で増水した川に飛び込み、そのまま流れに逆らうように泳いでいきました。
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壊れた木箱から出た少女が最初に目撃したのは、湖畔で濡れたシャツを絞っている少年の姿でした。
少女は、その少年の見た目が、これまで目にしてきた村人たちと違い、自分によく似た特徴を持っていることに気付きました。
ひょっとしたら敵意を持っているかもしれない。けど、もう、ひとりぼっちは嫌だ。
そう思った少女は、ワンピースのポケットに石を一つ入れてから立ち上がり、少年に近付いて声を掛けました。
「あのっ。あなたは?」
「うわっ。そういう君は?」
他に誰かいると思っていなかった少年は、驚いてシャツを湖の中に落としてしまいました。
時は折しも、春爛漫の頃。
湖の周囲の草原には、食用に向いた植物が多くあり、水中に潜れば、蛋白源を獲得することが出来る季節でした。
住めば都というように、二人は互いに協力し合い、そのまま湖畔で暮らしていきました。
そのまま誰にも邪魔されることなく、生長の夏、実りの秋と過ごすうちに親睦は深まり、いつしか二人の間には、固い信頼の絆が生まれていました。
それと同時に、互いを異性として意識するようになっていきました。
「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
少女は、食糧の獲得に行く少年の頬へ、小さくキスをしました。
少年は、照れ臭そうにはにかむと、急いで湖へと向かいました。
これが、二人にとってさいごの会話となるとは、この時点では知る由も無かった。