久留和胡桃の事情
修学旅行から戻ってきて、迎えた週末。
私はある女の子の自宅に足を向けていた。肩に掛けた鞄の中には彼女へのお土産が入っている。
正直に言うと、緊張の気持ちが大きかった。私が決めたことであるのに、とてもナーバスになっていた。
どんな反応をされるか全く予想できなかった。
もちろん事前に訪ねることは伝えていた。私はてっきり病院にいるものだと思っていたのだが、彼女は家に来るよう私に言ってきた。
メールを打ってきた彼女の顔も気持ちももちろん見ることはできない。
彼女はどういう気持ちで私のことを迎えるつもりなのか。あのときのことを彼女はどう考えているのか。
まだ気持ちの整理がつかないうちに、家の前に着いた。
立派な家だった。駅の近くにしては大きな敷地に、二階建ての白い洋風の家が立っている。
私は一人だった。
思い返してみれば、一人で彼女に会うのは今日が初めてだ。
すーはーと深呼吸をしてから、私はドアホンを鳴らした。
「はい」
すぐに家の人の返事が聞こえてきた。機械越しだと彼女か彼女の母親なのかよく分からない。
「あ、安曇梓と申します! 胡桃ちゃんに会いに来ました」
「うん、今開けるね」
どうやら本人だったらしい。
一分くらいしてから、扉が開き、彼女が顔を覗かせた。
「ごめんね、門開けて入ってきてくれる?」
私は車椅子の彼女が玄関まで出てきたことに呆気にとられたが、すぐに我に返って、言われた通り敷地の中へと入った。
私はそのまま扉の前まで行き、半開きのドアに手を掛けたのだが、もっと驚くことがあった。
「胡桃ちゃん、立ってる……」
そう。彼女は杖こそ突いてはいたが、車椅子ではなく確かに彼女の足でそこに立っていた。
私は驚きを隠せないでいるというのに、彼女はこともなげに
「まあね。まだこれはいるんだけどね」
と杖をカツカツさせた。
「とりあえず、入る?」
「あ、うん」
彼女に促され、私は家の中にお邪魔した。
胡桃ちゃんは杖を使って、立つどころか一人で歩けるようになっていた。立てるようになったのは僅か数週間前らしいが、立ってからはみるみる歩行能力も回復して、今では家の中を歩く分にはほとんど問題ないらしい。
「胡桃ちゃん……すごいよ。頑張ったんだね」
私は心から感心して言った。
「うん。ありがとう……。あと、ごめんね。私、ひどいこと言ったよね」
「……ううん。気にしないで」
「……言い訳に聞こえちゃうかもしれないけど、私も色々必死だったんだ」
「……そうだよね」
胡桃ちゃんはそれから寂しそうな視線を私に向けてきた。
「また来てくれるとは思わなかった」
「……私じゃ心許ないかもしれないけど、勉強見るってまるもんと約束したし。……それに私達、友達じゃん」
「……友達。……そっか。……じゃあ、また、仲良くしてくれる?」
私の言葉に対し、彼女は訥々と返してくる。
私は微笑んで答えた。
「当たり前じゃん。友達だもん」
「……そっか」
「あ、そうだ。今日は修学旅行のお土産持ってきたの。広島のお菓子」
私はそう言って袋からチョコレート菓子を取り出して、彼女に渡した。
彼女はにっこり笑った。
「ありがとう!」
彼女はそれをテーブルの上に置いてから、お茶を淹れると言った。
流石に杖をつきながらお茶を運ぶのは難しいだろうから、私は手伝いを申し出た。
持ってきたお菓子を食べながら、お茶を飲んで、しばらくは旅行中の他愛ない思い出話をした。
鍾乳洞を見学したこと。見渡す限り草原が広がっていた秋吉台のこと。サファリランドで小さな猿に餌を挙げたこと。海に浮かぶ厳島神社はテレビで見たとおりだったこと。
胡桃ちゃんは楽しそうに聞いてくれた。
傍から聞いても、私と彼女の間にしこりがあるようには思われないだろうし、私自身楽しんでお喋りできていたと思う。
それでも、少し会話が途切れたときに彼女は少し言いづらそうに
「……何か、あったの?」
と尋ねてきた。
「え、どうして?」
私は訳が分からなくて、聞き返した。
「……今日、一人で来たし」彼女はためらいがちに口を開いて、それから口を一瞬きゅっと結んだかと思ったら「……それに梓ちゃん、さっきからげんきくんと、美幸ちゃんの話全然してないよ」
私は言葉に詰まった。
言葉に詰まって、代わりになぜか涙が出てきた。
「あれ? なんだろう。なんで私、涙なんか……」
悲しくなんてなかったのに、泣く気なんて全くなかったのに、溢れ出るそれを必死で止めようとしたのに、止まってくれなかった。
胡桃ちゃんは無言でティッシュを差し出してくれた。
拭いて拭いて、鼻からたれてくるものも全部拭いて、私が落ち着くまで彼女は隣で静かに、私の手を握って待っていてくれた。
「……ごめん。急に泣き出して。何か今日ちょっと私変かも」
私は鼻をすすりながら涙声で、言葉を紡いだ。
「ううん。気にしないで」
少し前に私が彼女に投げかけた言葉が返ってくる。
「……もう大丈夫。なんかスッキリした。……まるもんと美幸ちゃんね。うん、二人と一緒に回ったりもしたんだけど、いつも通り、よく分かんないこと言い合ってて、楽しそうだったよ。……そういえば、まるもんは胡桃ちゃんのとこ、もう会いに来た?」
私が尋ねてみれば、今度は胡桃ちゃんが辛そうな顔を見せた。
「……ううん。げんきくんはもう来ないよ」
「……どうして?」
胡桃ちゃんは自分が言ってしまったことで、彼がひどく傷ついて、彼女との縁を断ってしまったと思っているのだろうか? けれども彼はそんなことで彼女を見捨てたりはしない。
それを言ってあげようとした矢先、彼女は答えた。
「私が言ったの。もう会わないでって」
それを聞き、また私は言葉に詰まってしまった。
「……どうして? まるもんのこと嫌いになったの?」
「ううん。嫌いじゃないよ。嫌いじゃない。でも……嫌いじゃないから辛いの」
「……そうなんだ」
私は静かに返した。
胡桃ちゃんは寂しそうな笑みを浮かべて
「あんまり驚かないんだね」
と言った。
「私も多分、胡桃ちゃんとおんなじだから」
その言葉を吐いた彼女の気持ちが痛いほど分かってしまう。
「……梓ちゃんは、まだ私より望みあると思ったんだけどなぁ」
胡桃ちゃんは曖昧な笑みで応えた。
それを聞いた私は、ようやく腑に落ちた。
「……やっぱりあれ、わざとまるもんに聞かせたんだね」
彼女が病室で言ったこと。
彼女はそれを彼がいることを分かった上で言っていたのだ。だからあの時彼女はあんな自虐的な笑みを浮かべていたんだ。
胡桃ちゃんは遠くを見るような眼をする。
「愛想尽かされたかった。これ以上優しくしてほしくなかった。嫌いになって欲しかった……」
「胡桃ちゃんはそれで良かったの?」
私はそんなこと聞くべきじゃなかったと、彼女の顔を見て後悔した。
*
始めは変わってる子だなって思った。あまり人と話そうとせず、教室でもずっと本を読んでいるような男の子。
声を掛けてみても、そっけない反応ばかり。でも実は誰よりも優しくて、困っている子がいれば助けてあげるし、泣いている子がいればそばで慰めようとする。
他の男の子たちとは、明らかに何かが違っていた。
だからしつこいくらいに私は彼に話しかけてみた。始めは単純な興味だった。
話すうちに、彼がいろんなことを考えていて、いろんなことを知っていて、面白いことをたくさん教えてくれて、私は段々彼に惹かれていっていった。
私が知っている花丸元気くんは、ちょっと変わってるけど、頭が良くて、そしてとても優しい素敵な男の子。
かつて私の友達だった女の子が、同時に彼を好きになったのも、仕方なかったことなんだと思う。
げんきくんは私にとってかけがえのない存在。それは今でも確かに断言できる。
だからこそだ。私は彼の人生を壊すわけには行かない。彼が私のためにしてくれたこと、それの恩返しをすることが、私の宿題だ。
彼が幸せになるなら、彼に嫌われてもいい。それが必要なら、私は喜んで悪役を演じよう。
私は病室で相対した彼に心の中で問う。
あなたは全部大事だったから、何も捨てられなかった。何も捨てられなかったから、全部捨てることになった。
また同じことを繰り返すつもりなの?
私は言った。
「本当に二人とも素敵な子たちだと思う。元気くんも大切にしたいものを見つけられたんだね」
「俺は……」げんきくんは言い淀み、目をそらして「……お前だって俺にとっては大切だ」
と言った。
「そうなのかもね。でもそれは欲張りだよ。あなたは決めなきゃいけないの」
決めなきゃいけない。
「でも俺は自分の罪に向き合わなければいけない。俺はお前を差し置いて、一人だけ手前の勝手になんてできない」
その誠実さが。
「あなたは何もしていない。あなたが気に病む必要なんて最初から何もなかったんだよ」
その優しさが。
「そうだ俺は何もしなかった。だからお前は傷ついた。何より俺は俺が許せない」
その責任感が。
「もう十分だよ。私は手に抱えきれないくらいたくさんのものをもらった。これ以上は重くて持てないよ」
私には辛かった。
「……でも」
「見て」
私は立つ。彼をこの呪縛から解放するために身につけた力で、私は立つ。ぶるぶると震える頼りない足は、今にも折れそうだったが確かにそれは私の体重を支えた。
私自身のためだったら、私一人しかいなかったら、彼が隣にいなかったら、叶わなかったことだ。
「ほら。私立てるようになったんだよ。一人で立てるようになったの。げんき君がいなくても立てるようになったの。だからね。大丈夫。私はもう君がいなくても生きていける。もう君は自分の人生を生きて」
私は私の人生を生きるから。
「だけど、俺は」
それでもなお彼は認めようとしなかった。
「私を言い訳にするのもうやめなよ。誰かを理由にして、自分の人生から目をそらすのもうやめなよ。元気くんは大人になるんだよ」
私が言わなければ。
「人の悪意は怖いって私は知ってる。げんきくんは多分私よりも知ってるんだと思う。それでも、それは誰かの気持ちを、誰かがあなたに向ける気持ちを無視していい理由にはならない。げんきくんが自分の気持ちを無視していい理由にはならない」
私が教えなければ。
彼はいつまで経っても前を向いて歩けない。
私はいつまで経っても彼をがんじがらめにしたままだ。
「ねえ、覚えてる? 約束。私が立てるようになったら、三つお願いを聞いてくれるって」
だから言う。
「ああ。覚えているさ」
「じゃあ言うね」
「まず一個目。げんき君は素直にならなくちゃいけません」
「……分かった。努力する」
「絶対だよ?」
「ああ。全力を尽くすよ」
私は頷いてから続けた。
「じゃあ二個目ね。……二個目は、げんき君は誰かのためにではなく、自分のために人生を生きてください」
「……誰かのために頑張ることが俺のしたいことだとしたら?」
「それはそれでいいと思う。でもその相手は不特定多数じゃなくて、げんき君にとって本当に大切な人である必要があります」
「……分かった」
「じゃあ最後ね」
「ああ」
彼が始められるための、私が区切りをつけるための。
私のお願い。
「もう私に会わないでください」
それは呪いを解く言葉。
彼にかかった呪い。……そして私にかかった呪い。
私が彼にあげられる、ただ一つの贈り物。
彼が幸せになるための理由。
視界は滲んでいた。その滴を零すまいとした。それだけは彼に見せてはいけなかった。
彼の顔はもうほとんど見えていなかった。
彼は言った。
「……分かった。もうここには来ないよ」
「うん。……ばいばい」
「あぁ」
げんき君は私の前から去った。
私は崩れ落ちた。
泣いた。今までの人生で流した涙をすべて足したよりも多いくらいの涙が零れた。ボロボロボロボロとめどなく溢れてくる。人ってこんなに泣けるんだ。私ってまだこんなに泣けたんだ。そんな冷静な私が、泣いている私を見つめている。声は出さなかったけど、泣いて泣いて泣いて泣きまくった。
病室に来たママがそんな私に気づいて、すべてを悟って優しく背中をさすってくれた。
「涙はね、悲しい気持ちを溶かして、体の外に出してくれるの。だから泣きたいときは泣けばいいわ」
私は泣きじゃくりながら、言葉では表現しきれない気持ちを吐き出そうとする。
「……でも、無くしたくない。げんきくんに対する気持ちは、全部私のものだもん」
ママは一拍ほどおいて、優しい声で続けた。
「胡桃は本当にげんきくんのことが好きだったのね」
私は、……私はっ!
もう、涙が、感情が止まる気がしなかった。
「げんき君の馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿! あんだけ優しくして、こんなに好きにさせといて! なんで私を好きになってくれなかったの? ばかー!!!!」
嗚咽が漏れる。呼吸をするのが苦しかった。
私を生かしてくれた存在。
私に生きてていいと教えてくれた存在。
私の世界の中心で有り続けた人。
いつでもそばにいてくれた。
ずっとそばにいて欲しいと思わせてくれた。
ずっとそばにいてくれると信じさせてくれた。
彼となら幸せになれると思った。
彼を幸せにしてあげたいと思った。
だけど決して触れることは叶わなかった。
私の一番近くにあったのに、とても遠い所にいた。
狂おしいほど愛しくて、暖かくて、嬉しくて、幸せで。
でも痛くて痛くて、息もできないほど辛くて。
怖くて、苦しくて、苦くて、しょっぱくて。
寂しくて、切なくて、暗くて。
いっそ嫌いになりたかった。
いっそ会わなければよかった。
でも嫌いになれなかった。
やっぱりそばにいてほしくて、甘えたくて、そこで笑っていてほしくて。
見えなくて、悲しくて、不安で、泣いて泣いて泣いて。
好きで好きで好きで好きで大好きで。
その声が好きだった。
その喋り方が好きだった。
その笑顔が好きだった。
居眠りしている時の顔が好きだった。
考え事をしている時の眼差しが好きだった。
お茶を飲む時の仕草が好きだった。
好きな物を最後に食べるところが好きだった。
泣いているときに静かに隣にいてくれる優しさが好きだった。
本当は泣き虫なところが好きだった。
どうしようもないくらい。
あきれちゃうくらい。
私は……
私は花丸元気が大好きだった。
馬鹿「我も好物は最後に食べるで」
妹「お前は黙ってろ」
四章終わり