偽善と独善と
俺は病院のエントランスに立っていた。
今日は橘と安曇はおらず、俺だけで胡桃を訪問しに来た。
彼女がそう望んだからである。
先日胡桃から病院に来てほしいというメールを受け取った時点で、何かがあるという予感がした。俺がこの数年抱え続けてきたぼんやりとしたものが、腹の中でぞわぞわとうごめいているのを感じた。
……いや、本当は分かっていたんだ。何も誰も変わらずにいられることなんてありえない。それは分かっていたつもりなのに、俺はそこから足を踏み出すのを躊躇せずにはいられなかったのだ。
病院の事務の女性が、ちらちらとこちらに視線を向けてきている。いつまでもここに立っていてもしょうがない。
短く息を吐き、鉛のように重くなっていた足をやっとのことで踏み出した。
白いリノリウムの床とそれをひっくり返したような白い天井に白い壁。それらに反射してひたひたと響く足音が、嫌に大きく聞こえた。
建物は新しいのに、どこか冷たい。
明るいのに、なんだか暗い。
電球色の間接照明は、患者の快適性にも配慮したものなのだろう。それでもエタノールの匂いがツンと鼻につく、病院特有のどこか空虚な雰囲気が、俺の体を包み込んでいる。体が熱っぽくて、頭の中がぼんやりと霞んでいる気がする。
すっかり通いなれた病室の番号。その下に表示される電子表札に書かれた少女の名前。
月日は流れ、部屋も変わった。
それでも彼女はそこにいた。五年前からずっとそうあったように、いつもと同じように車いすに座ってそこにいた。
五月晴れの陽気に包まれたその部屋の中、彼女は確かな息遣いを以てそこにいた。中央にたおやかな様子で佇んでいた彼女を見て、まるで凛と咲く文目のようだと訳もなく思った。
そんな場違いな思念を振り払うように俺はゆっくりと深呼吸をした。
「胡桃、来たぞ」
振り絞って出した声は、僅かにだが震えていた。
「うん」
彼女は顔こそ少し動かしたが、視線は俺に合わせず、しっとりとした面持ちで頷いた。
「それで、話って」
俺がおずおずと尋ねてみれば、尚も落ち着いた様子で彼女は答える。
「うん。……これからどうしようかなって話」
「これからの話?」
「うん」
胡桃はゆっくりと窓の外に視線をやってから、二、三秒ほど間をおいて、また俺の方に目をやった。
「美幸ちゃんと梓ちゃんっていい子たちだよね」
そういって彼女は俺を見て柔らかく微笑んだ。
一見すれば脈絡のない話だ。それでも俺は彼女が今日俺を呼びつけたことの意味、そして胡桃があの二人にしていた指摘のことが頭の中で架橋していった。
「……ああ」
あの二人はいい子たちだ。素直にそう思う。
よく知らない人間ならともかく、彼女らと少なからず同じ時間を過ごした者なら、誰もが似たような結論に至ると思う。
「本当に二人とも素敵な子たちだと思う。元気くんも大切にしたいものを見つけられたんだね」
だが彼女が次に紡いだ言葉はとても特別なものだった。誰も彼もが抱くであろう考えではなく、彼女だからこそ出てきた言葉。
「俺は……」
彼女の言葉を否定しようとして口を開いたが、それを許さぬほど、胡桃は真剣な表情をしていた。
胡桃は俺が自分自身にさえ隠そうとした本心を見抜いていたのだ。
「……お前だって俺にとっては大切だ」
俺は逃げるようにそう述べた。
胡桃はふっと目を伏せる。
「そうなのかもね。でもそれは欲張りだよ。あなたは決めなきゃいけないの」
胡桃は曖昧な事しか言っていない。それでも、もうこれが俺と彼女が今までずっと病室でしてきた茶番なんかじゃない事は、分かっていた。
もう逃げられないのだ。
「でも俺は自分の罪に向き合わなければいけない。俺はお前を差し置いて、一人だけ手前の勝手になんてできない」
この一年感じ続けた罪悪感を俺は吐露した。普通に学校に通い、部活をして、色んな人と交流をして、他愛のない馬鹿な話をして、それでそいつらと笑っている時にふと思い出すのだ。
なぜ俺は笑っているんだろう。何でこんなところで呑気に笑えるのだろう。彼女をあんな目に遭わせた俺に、楽しく普通の生活を送る権利なんてあるはずがないのに。
気持ち悪い。
自身を冷笑する淀んだ感情が、そうやっていつでも背後から俺に耳打ちしてきた。
「あなたは何もしていない。あなたが気に病む必要なんて最初から何もなかったんだよ」
「そうだ俺は何もしなかった。だからお前は傷ついた。何より俺は俺が許せない」
「もう十分だよ。私は手に抱えきれないくらいたくさんのものをもらった。これ以上は重くて持てないよ」
「でも」
「見て」
胡桃は車椅子から腰を浮かした。二度と動くまいと医者が諦めた足に、一時は感じる事さえできなくなった彼女の白い足に力を込め、彼女は自分の足で、自分の力でそこに立っていた。
「ほら。私立てるようになったんだよ。一人で立てるようになったの。げんき君がいなくても立てるようになったの。だからね。大丈夫。私はもう君がいなくても生きていける。もう君は自分の人生を生きて」
「だけど、俺は」
俺が言葉を繋ごうとしたところで、胡桃は冷たい声で俺を遮った。
「私を言い訳にするのもうやめなよ。誰かを理由にして、自分の人生から目をそらすのもうやめなよ。元気くんは大人になるんだよ」
もはや何も言い返すことなんてできなかった。
「人の悪意は怖いって私は知ってる。げんきくんは多分私よりも知ってるんだと思う。それでも、それは誰かの気持ちを、誰かがあなたに向ける気持ちを無視していい理由にはならない。げんきくんが自分の気持ちを無視していい理由にはならない」
つやつやとした瞳で俺のことをじっと見ながら彼女は言い放ち、それからゆっくりとまた車椅子へと腰掛けた。
俺は何と言ってよいかわからず、ただ口を開いては、また閉じてというのを何回も繰り返した。
胡桃は俺が何かを言う前に、また口を開いた。
「ねえ、覚えてる? 約束。私が立てるようになったら、三つお願いを聞いてくれるって」
もちろん忘れてなどいない。冬の終わりに、桜で有名な川沿いの道を、彼女と二人歩きながら話をしたこと。そしてその後、橘と安曇に本屋で偶然出会ってしまったこと。
「ああ。覚えているさ」
忘れられるわけがなかった。
「じゃあ言うね」
そこで初めて、胡桃は少し緊張したような面持ちになった。
彼女は少しだけ頬を膨らませるようにして、息を吐いてから
「まず一個目。げんき君は素直にならなくちゃいけません」
「……分かった。努力する」
「絶対だよ?」
念を押すように上目で俺を見てくる。
「ああ。全力を尽くすよ」
胡桃は頷き
「じゃあ二個目ね。……二個目は、げんき君は誰かのためにではなく、自分のために人生を生きてください」
「……誰かのために頑張ることが俺のしたいことだとしたら?」
「それはそれでいいと思う。でもその相手は不特定多数じゃなくて、げんき君にとって本当に大切な人である必要があります」
「……分かった」
「じゃあ最後ね」
「ああ」
俺は彼女が最後に何を口にするか何となく分かる気がした。
すべては俺の自己中心的な思い込みだったのだ。もはやそれは偽善ですらなくただの独り善がりな自己満足でしかなかった。
彼女のためと言って、俺の義務だからと言って、そこに居続けたのは、自分の贖罪のために優しさを押し売りしていた俺の都合でしかなかった。
叶えられない願いがその夢を見させるだけ見させておいて、近くにいる。決して叶わない夢が近くにあることほど辛いことはないだろう。
だがそれでも彼女は俺に感謝する。俺はそれを分かっていた。
俺が過去を断ち切らない限り、彼女の苦しみが無くなることはない。
五年以上一緒にいた人間だ。彼女は俺以上に俺の事を知っている。彼女が最後の最後に俺に与えたのは、俺が幸せになるためのいい訳だった。
「もう私に会わないでください」
だから俺はそれを無駄にすることは出来ない。
ヒートアイランドの只中、熱帯夜に苦しみ、眠れない夜をお過ごしの皆々様。はたまたクーラー病で体調を崩されて寝苦しくて眠れない皆々様。あるいは、夜は涼しいけれど、家宅への投石を得意攻撃とするバーバリアンが跳梁跋扈する地域にお住まいで、不安でこれまた眠れない夜をお過ごしの皆々様。ご機嫌麗しゅう。どうも作者です。投石じゃ微生物は追い払えないと勇ましきバーバリアンの方々にお教えしたいというのが、最近の作者の所感であります。そのうち魔女狩りでも始まりそうな勢いで、人間の品性はどうやら古代から進歩していないようだと、鼻くそをほじりながら考えております。
いつも応援ありがとうございます。
そろそろ梅雨が明け、夏到来。日中は流石に暑いですね
皆様夏バテにはお気をつけ、ゆるりとお過ごしくださいまし。
それはさておき、なろうで小説を書いたことがある人はわかると思うのですが、なろうではそれぞれの部分でファイルを作って投稿するのですが、今回のお話「偽善と独善と」のファイルは去年の11月に作成されたものでした。その頃はまだ二章の途中でしたね。ちょっと温めすぎましたかね? ……まあ、もっと古いファイルが残ってるんですがね。わははははは。
……はい、早く書きます。ごめんなさい。