まるで俺が悪いことをした気分になるから
相談内容【もうすぐ二年生は修学旅行ですね! みんなは行き先が地味だって言ってますけど、私はすごく楽しみです! 他の子も楽しめるような情報を教えてください】
神宮高校の修学旅行は福岡、山口、広島を二泊三日でまわる西日本弾丸ツアーである。
よく日本人は、短いバケーションでヨーロッパ数カ国を駆け回ったり、アメリカを西海岸から東海岸へ移動したり、訪れた国、地域の観光地すべてを見ようと、写真をパシャパシャ撮っただけで移動したりするので、外国人に「日本人はなぜ休みなのに疲れるようなことをしているのだろう」と忙しなさを鼻で笑われ、あくせくとした動きを風刺画で揶揄される。フランス人が一ヶ月のバカンスに、地中海のビーチで寝そべり、サンオイルを体に塗って日光浴している間、日本人は汗水垂らし働き、ようやく取れた数日間のお盆休みで、バスと電車の時間を気にして、イライラしながら観光地を回るのである。よく日本人は世界と比べてそれほど勤務時間が長いわけではない、というデータを提示してくる奴がいるが、その勤務時間とやらにサービス残業の時間が含まれているかは甚だ疑問である。統計を取られていないからサービス残業になるのではないのか?
……それはそれとして。
その観光名所を意地でも回ろうとする滑稽な完璧主義というのは、小学校時代から続く弾丸修学旅行に端を発していると思われる。観光名所は全部見てこいとスタンプラリーの台紙を渡され、制限時間を決められ、脈々と流れる歴史の薫りに浸り、ゆっくり眺めている時間もない。何のための旅行かと首を傾げたのは俺だけではないだろう。
小学校時分に京都と奈良に行ったときは何軒の寺を見せられただろうか。結局覚えているのは京都と奈良は寺が多い、という事実だけ。あと鹿の糞。
時間に追われる休暇なんて、社会人になった暁には御免被りたいが、学校では団体行動をする以上それは仕方ない。これも訓練。修学旅行は修行の一環であり、和を尊ぶ日本国民必須の授業なのだ。くそくらえと叫びながら甘んじて受けよう。
閑話休題。
うちの高校の修学旅行先に関し、生徒たちの評判があまり良くないのは俺でも耳にしている。
確かに県内の他の高校が外国に行ったり、沖縄に行ったりしているのに比べれば地味に思えるのかもしれない。
「……まあ、あれだ。山口って言うと、ある大物政治家一族の票田があって、道路は綺麗だし、博覧会は開かれたし、ハコモノは充実してるぞ?」
「ちょっと花丸くん、楽しくなるような情報と言われてるでしょう? 他の党員の人が苛立つような情報を流すのやめてくれる?」
お前こそ、そういう生々しい話をぶっこむな。
「……あ、日本三大天神の防府天満宮があるな。天神つまり菅原道真のことだが、学業の神様だから敬虔なる神高生はお祈りするといいぞ。名古屋にある天神なんて目じゃない」
「だから特定のものを下げるのやめなさい」
「……あと瑠璃光寺っていう綺麗なお寺もある。日本三名塔の五重塔があって、池に反射して映った塔は見事だぞ。梅と桜が綺麗でな、桜色と荘厳な五重塔と池との三者を一度に見たら、感動で昇天しそうになる」
「梅も桜もとうの昔に散ってるわよ」
「……なんにせよ、山口市というのは西の都、西京と言われるぐらいだからな、見て損はない。山口はいいぞ。山はあるし、川はあるし、海もある。二四時間営業のコンビニもあるし、本当になんでもある」
「海はともかく、日本全国、山も、川も、コンビニもない県がそもそも存在しないと思うけど」
「……防府にはマ○ダの工場もあるしな。マ○ダファンは今回行く広島の本社と合わせて見るのがおすすめだ。マ○ダ好きなのに、愛知のト○タ愛に押されて、渋々『ト○タいいよね』と嘘を付き、地元に進学し、ト○タの系列会社に入って、ト○タを買わされ、気づいたらト○タにどっぷり浸かって息子にト○タを勧めている、何ていう恐ろしい未来に身を震わせている諸君は、ゆっくり羽根を伸ばし給え」
「だから特定の人達に喧嘩を売るの止めなさい」
「俺はトヨタ好きだから。退職金でレ○サス買うから。パパがト○タ系の人、パパによろしく!」
郷に入っては郷に従え、長いものには巻かれておこう。
「……あと多分わかってると思うけど、あなたが挙げた観光地は今回すべて素通りするところなのだけれど。防府市も山口市も」
「……というか、やけに山口の話ばかりするね。広島と福岡は?」
「……広島っつうとあれだな、広島チョコラ。あとカープ。ほかは知らん」
「うわ、ざっつ」
「福岡は……そうだな、北九州の門司港にちょっと寄るだけだから、まあ説明はいいでしょう」
「ちゃんと説明しなさいよ。博多っ子は怒らせると怖いわよ」
北九州と一緒にすんなって怒るぞ。多分。
「……今回は大阪港から船に乗って北九州の門司港に降りる予定だが、北九州にはスペースワールドっていう遊園地が──」
「既にないものの話するのやめて」
「……あったんだが、それは置いといて、今回の目的地の一つでもあるが、関門海峡を挟んだ山口県下関市はふぐが有名で美味いぞ。あと宮本武蔵と佐々木小次郎の決戦で有名な巌流島がある。お土産は巌流焼がおすすめ」
「結局山口の話じゃん!?」
「ほら北九州って橋で山口とつながってるから、ほぼ陸続きみたいなもんだし、もう実質北九州って山口だよね」
「ただの暴論だし!? ……ていうか巌流焼って何?」
「白あんを円盤状のカステラ生地で挟んで焼いたものだな」
「……それってどら焼きじゃないの?」
「巌流焼は巌流焼だ。猫型ロボットの主食と一緒にすんな」
そう言ったら安曇はスマホで巌流焼を検索したみたいで、「やっぱどら焼きじゃん」と呟いている。全く分からん子だな。
「……今回はバスで素通りするみたいだが、下関戦争の時に使われた長州藩の砲台跡が海峡のすぐ側にあるから。ハネムーンで行く機会があったら、写真取るといいぞ」
「ハネムーンで山口行って砲台跡の写真取る人多分いないと思うよ?」
「え、安曇さん、山口県民に喧嘩売ってんの? 壇ノ浦生まれのこの俺に対して、喧嘩売ってんの?」
「……やけに偏った説明すると思ったら、まるもん関係者じゃん」
「というか花丸くん、三歳のときには愛知にいたわよね」
「……こほんこほん。まああれだ、場所が地味だと思うかもしれんが、その分、宿は山口県でも一番のホテルらしいから、そこは期待してもいいんじゃないか。ホテルのプライベートビーチがあって、夕日が日本海に沈んでいくところが見えるらしいぞ」
「……結局山口のことしかわかんなかったんだけど。しかもほとんど行かないところの」
相談内容【高校に入学して一ヶ月が経ちました。進学校だからオタクみたいな人も多いかなあと思ってたんですが、案外いないようです。僕はオタク仲間が欲しいんですけど、なにかコミュニティーがあるなら教えてほしいです】
「……よくわからんなあ。俺はオタクじゃないし」
「紛うことなきオタクよ」
「うん、オタクだと思う」
「はあ? 俺はオタクじゃねえ」
「さっきの説明とか、超オタクっぽかった!」
「俺はちゃんと説明しようとしただけだろ。どうしてそれがオタクなんだ? そもそもオタクの定義ってなんだよ? 説明しろよ。厳密に論理的に」
「そういうとこだよ!」
「えー、このようにオタクの人はオタクであることを隠す傾向にあるので、見つけづらいというのもあると思います。入学したばかりで、まだ若干の遠慮が残る時期ですからなおさらそうでしょう。読んでいる書物や、身につけているもの、話の内容から、オタクくさそうな人を見つけて、あなたから話しかけると良いと思います」
*
五月も半ば。気温がどんどん上昇していき、今日は夏日ですね、暑いですねと、おばさんたちお得意の天気の会話が、街中で耳を澄ませば聞こえてきそうな今日このごろ。俺は太陽がギラつこうと、雨に降られようと、文句一つ言わず自転車でコンクリート・ロードを爆走している。そもそも文句を言う相手がいない。当然自転車の荷台に女の子は座っていない。自転車のニケツは犯罪だからな。
俺の中学のころの夢は、警察官になり、二ケツをする中高生を捕まえる、正義の執行官になることだった。そんな夢はすぐに溶けたが。汚職の横行する警察組織の真実を知って、正義なんて存在しないんだと知った中二の夏。これは体制から変えるしかないなと気づいた俺は、警察庁に入るしかないと思い調べてみたが、省庁への入省はコネがないと無理らしい事が分かり、上級国民じゃない、というかコミュ力が地を這う俺には無理じゃないかと、数十分後には挫折していた。二ケツ滅亡の日は遠い。世間の皆々様が俺のこの遵法精神の高さを少しでも見習えば、犯罪なんて忽ち消滅するに違いないのだが、どうやらそれを望まない機構がこの国には働いているらしい。
一つ俺でもわかる真実と言ったら、二ケツしたら暑苦しいということ。
もし二ケツしながら「暑いね」「そうだね」なんて会話をしているバカップルがいたら、荷台に座っている女を引きずりおろして、ささやかな涼しさを提供してあげたい。
そして俺は周りから冷ややかな視線を向けられ、涼しくなれるだろう。ウィンウィンだね!
……。
まあ、今から暑い暑いと言っていたら、蒸し風呂状態になる尾張の夏なんて越せるわけがないんだけどね。新緑の風が香る心地よい季節になりました、とでも言っておけばよいのだ。
それはさておき、いつもなら一人で午後の穏やかなるひとときを謳歌しているはずなのだが、今日は俺の周りの人口密度が異様に高くなっている。いつもは花丸元気半径一メートルの人口密度はほぼゼロなので、増加率は無限大だ。
委員会が設立されてからは、放送部の活動はグッと減り、お悩み相談室を開くため、昼休みにちょっと放送室に行くぐらいで、放課後も活動するのは週イチぐらいにまでなっていた。
今日が例外なのは、俺がそう望んだことなのだが、橘と安曇と三人で胡桃の病室を訪れているからである。彼女たちは俺がお願いしたように、胡桃と一緒に勉強をするという約束を果たしてくれているのだ。
「英文を読む時にまず初めにすることは何だと思う?」
橘が胡桃に向かって問うている。
「えーっと……話者の伝えたいことを考える?」
胡桃は少し考えてから、おずおずと自分の考えを口にした。
「ええそうね。確かにそれは意味を取る上で重要なことには違いないわ。でも話し手の目的を掴むためにも、まずよりミクロな部分の解釈を正確にする必要があるの」
胡桃の答えは橘が想定したものではなかったようだが、橘はふっと微笑んで頭ごなしに彼女の意見を否定することはしなかった。いつも彼女がとある男子に向けている態度とは大違いである。平等主義者の俺としては捨てておけない。断固抗議する。
「……どういうこと?」
胡桃はよくわからなかったようで、橘に聞き返している。
「まず、一つ一つの文を理解する必要があるということよ。そのために必要なのが、主節の主語と述語動詞を見つけることなの」
「……なるほど。……でもそれって、なんか当たり前って感じしない? 例えば"I love you."のIとloveを見つけるってことでしょ。簡単じゃん」
「じゃあ一つ例を上げてみるわね」
橘はそう言って、一つの例文を紙に書き始めた。
The boy called Motoki rushed to me, blushing and panting.
書き終えた橘は顔を上げた。
「どういう意味か分かる?」
胡桃は十秒ほど文を見てから
「……単語がよくわかんない」
と悲しそうな顔をした。橘さんったらほぼ英語初心者相手に容赦ないな。
「じゃあ、blushingの前まででいいわ」
「……少年はもときくんを呼んで、私のところに駆け寄ってきた?」
「それって登場人物が三人ということ?」
「……多分」
「それだと解釈がかなり変わってきてしまうのよ。登場人物は二人、少年と私だけ」
「ええー」
そこで橘は俺の方に視線をよこしてきた。
「花丸くん、代わりに訳してあげて」
橘が書き終わったのを見た時点で、というかMotokiと言う文字列が見えた瞬間嫌な予感はしたのだが
「……モトキと呼ばれた少年は、私のところに駆け寄ってきて、顔を紅潮させハアハアと荒い息をした」
しぶしぶ問題作成者の悪意をビンビン感じる文の和訳をした。
橘は至って落ち着いた様子で説明を続けようとする。
「そうね。つまりこの場合──」
「あの橘先生、少し質問よろしいですか?」
「なんですか花丸くん?」
橘先生は俺が解説を遮ったことに機を悪くしたご様子。じっとりした目を向けてきた。
「例文の選択に悪意を感じるんですが」
「あら、どこをどうみたら悪意だなんて言えるの?」
「……いやだって。それだと俺が君に欲情しているみたいに聞こえるんですけど」
「え、やだ、花丸君ったら、私に欲情していたの?」
「おい」
「というかあなたがそう思うってことは、自覚があるってことじゃない。それなら全くの事実ってことよ。事実をありのまま取ってきたのに、それを悪意だなんて言われたら、ジャーナリズムにとっては死も同然ね」
「君、ジャーナリストじゃないよね? そもそも欲情してないし」
「それでこの文はThe boyが主語でrushedが述語動詞になるの。主語と動詞の取り違えは無視できないというのは分かってくれた?」
お前が俺を無視すんなよ。
「うん、わかった」
「それで胡桃さんは、英文が五つの文型に分けられるというのは知っている?」
「うん、SとかVとかのやつでしょ」
橘は頷き、書きながら説明を続ける。
「そうよ。主語をS、述語動詞をV、補語をC、目的語をO、修飾語をMで表すの。英文を正しく理解するための第一歩は、それぞれの文の要素がどれにあたるかということを見極めることね。例えばこの文だとThe boy(S)called Motoki(M) rushed(V) to me(M), blushing and panting(M).というふうになるわ。だから文の骨格はSVの第一文型になるわ。一個目のMはThe boyにかかる形容詞句だから、Sに含めるという考え方もあるわね」
橘のかっちり厳密な手抜かりのない説明に、胡桃は困り顔をしている。
「……難しいよぉ」
「大丈夫。簡単な文から丁寧にやっていきましょう。一通りのルールを覚えたら、あとは慣れるだけよ。早速テキストをやっていきましょう」
厳しい教育に挫折しなければいいのだが、と若干不安を覚えている俺の横で
「……」
安曇がぽかんと言う顔をしていた。……こちらはこちらでヤバそうである。
「おい、安曇大丈夫か」
俺が声を掛けてみれば、はっとしたような顔をして
「え!? 何が?」
「……今の話ちゃんと分かってるよな」
「も、もちろん大丈夫だよ! 文法の話とかはよくわかんないけど、意味は何となく分かるから!」
「お、おう、……そうか」
あまり大丈夫じゃなさそうだな。胡桃の勉強会ではあるが、安曇さんも一緒に話を聞いて勉強していたほうが良さそうだ。
*
「少し休憩しましょうか」
時間が流れて、胡桃が疲れてきた様子を見てか、橘が提案した。
「ああ、疲れたー」
胡桃が伸びをしたのに合わせて
「私も疲れたなあ」
と安曇もぐでーっとしている。
橘先生はそんな安曇を見て
「……安曇さんも英語の勉強法を見直したほうが良さそうね。感覚に頼ってたら難しい文章が正確に速く読めないし、何より英作文をする時に困るわよ」
「……はーい」
橘先生に指摘され、安曇は肩をすくめている。
安曇さん途中から、勉強教える側じゃなくて、もう完全に生徒側に回ってたよね。勉強仲間ができるという点で、胡桃にはいいのかも知れないけど。
「ねえねえ、最近学校で面白いことなかった?」
胡桃が目をキラキラさせながら女子たちに尋ねた。
「……最近かぁ。あ、クラスマッチがあったよ」
胡桃の質問に安曇が答えた。それを聞いた胡桃は興味津々といった様子だ。
「なにそれなにそれ?」
「うんとね、球技大会っていうのかなあ。クラス対抗でスポーツの競い合いをするの」
「へー! 楽しそう!」
安曇はそれから俺の方をちらっと見てきて、何やら思い出したようににやりと笑い
「でも、まるもんがおかしかったんだよね。試合やって一回戦で負けちゃったのは仕方なかったとして、しばらくしてからね、まるもん急にうずくまってね『攣った』って言って呻いてるの。ほんと毎度格好つかないことしかないなあって流石に呆れちゃった」
とけらけら笑い始める。
橘も安曇に同調し、俺のことを鼻で笑うような口調で
「あれだけ跳ねまわってたら足を攣るのも当然よね」
と付け足した。
「でも楽しそうだなあ。高校生が球技大会で本気出すって青春ぽくていいよね」
胡桃はニコニコしながら、女子二人の話を聞いていた。
そこで橘が思い出したように
「そういえば、ライブはどうだった? 花丸くんは問題起こしてなかった?」
なんで俺が問題を起こす必要があるんだ。
「いや全然。ちゃんと大人しく聞いてたよね」
手を横に振りながら安曇は答えた。
「そうだぞ。おとなしいのが取り柄の俺が暴れるわけがないだろ」
「そう。いつもみたいにデリカシーのないことを言って、安曇さんを困らせたりはしてない?」
「だからしてねぇっての」
多分。俺的には、セーフ……だったと思う。
「どさくさに紛れて、体を触ったりとかは?」
「そんなのもないよ」
そう言って安曇はちらりと意味有りげに俺に目配せしてきた。その視線の意味するところ、俺も同じく心に浮かんだことだが、彼女はそれきり触れるつもりはないらしい。俺も右に同じ。
これはいわば秘密の共有というやつだが、それをしたからといって、俺や安曇に何らかの利益がもたらされるというわけでもない。「ここだけの話だよ」といって女子はやたらと秘密を共有したがるが、それは女子に多く見られる心理的特性なのだろう。誰かと自分だけで他の人が知らない情報を共有することで、一種の背徳的な喜びに浸り、愉悦を覚えるという、なんというかあまり褒められるような類の嗜好ではないと思うのだが、隠したからと言って誰かが困る話でもない。なら彼女の遊びに付きやってやるのも俺としては一向にかまわないわけで……。
「げんきくん、顔赤いよ。どうしたの?」
胡桃が不思議そうな顔を見せて尋ねてくる。
どうしたもこうしたも、顔が赤くなるのは血液が透けて見えることによるわけで、それ以上でもそれ以下でもなく、ただその至極単純な事象の結果であり、何らそこに意味など見いだせようもない。言ってしまえば、とある状況下で人間が顔を赤く染めるのは、特段の事由によるというよりかは、単に血液に含まれる赤血球のヘモグロビンが赤色光を吸収せずに周囲にまき散らしている、という極めて単純な物理現象によるわけであり、それはこの世界を広く照らす白色光がそもそも多彩な色の光の集合からなり、その一つとして赤色光があるせいとも言え、というか人間が赤色光を赤色だと認知するがために他ならず、赤色を赤色と名付けたのだから赤色の色素が赤色なのは当然であり、それを議論しても仕方ない。とどのつまり俺はどうもしていない。いたって平静である。そうだ落ち着け俺。顔が赤いからって何だって言うんだ。ほら紅顔の美少年ってよく言うだろ。違う? 違うか。
ニュートン先生が産声を上げさせた、光と色の知識体系の話を始めたところで、彼女が納得するわけもないので
「……この部屋暑いんだよ」
と尤もらしい理由を挙げておいた。これもまた一つの答え。この世界の真理はスペクトラム。たった一つに限定される真実など存在しないのだ。この際、体は子供で頭脳は大人な某少年探偵に異議申し立てをするのも厭わない。
「ええ、そうかな?」
「うん、絶対そう」
暑い。絶対暑い。俺がべっとりとした気味の悪い汗を体表に滲ませているのも、絶対暑いせい。それ以外ありえないんだから。真理は複数あるとして、妥当な答えはいつも一つしかない。文句は言わせない。
ふいに橘がこちらにじとーっとした視線を向けてきているのに気が付いた。
「……なんだよ?」
「別に」
だったらそんな目で見てくるのは止めて頂きたい。