頭の中の小人さん
「仲のいい人と一緒のクラスになれてよかったね」
新学期が始まって初めて、俺は胡桃のもとを訪ねていた。新しいクラスにはどんな人がいるのかと聞かれ、安曇と同じクラスになったことを告げたら、なぜか胡桃は自分のことのように嬉しそうにしている。
「……あと前に一緒にテニスをした各務原もおんなじクラスだったぞ」
初日は外野に執拗に絡まれ、あまり各務原とは話ができなかったが、始業式の後、向こうから爽やかな感じで「よろしく」と挨拶されていた。あれくらいの距離感を外野にも学んで欲しい。
「でも橘さんとは別なクラスになっちゃったんだね」
胡桃は口惜しそうな表情を見せる。
「……あいつは文系だからな」
朝の挨拶とともに爆弾発言をかます、と言うか、もはや爆弾発言が挨拶みたいな橘さんとは、今年からクラスが分かれる。対俺用に特化した橘罵倒語録は封印の憂き目に遭い、全世界が涙している(歓喜)。その代わりに橘と同等か、より面倒くさい野郎が同じクラスにいるので、プラマイゼロなのだが。否、一周回っていとをかしな橘クオリティーに比べれば、外野のそれは会話にセンスがなく、言うこと為すこと俺の予想の範疇で、面白みに欠けるのでマイナス。何より可愛くないのでどう頑張ってもマイナス。諦めろ。
「あ、そうそう。前に言われてたとこ、ちゃんとやったよ」
胡桃はぱあっと嬉しそうな表情をして、ある冊子を開き、俺の方に見せてくる。それに目をやると、丸っこい字が書き込まれているのが見える。さらに赤で丸付けもしてあった。
それは彼女が自分で勉強するために購入した、英語の問題集だった。英語だけでなく他にも、数学や理科や社会、国語といった、学校で学ぶ科目の問題集を手元に置き、彼女はコツコツと勉強しているのだ。
俺は彼女に勉強でわからないことがあれば教えてやり、どのくらいのペースでやるかと言う相談にも乗っていた。俺自身、この部屋で本を読むばかりではなく、彼女が勉強をしたい気分のときは、一緒になって勉強をすることもあった。
「すごいな。もうすぐその冊子も終わりそうだろ。……来年の春の高卒認定試験にも間に合うんじゃないか」
「うん! 頑張る」
一年前までは、医者から体の不自由な人が通う学校に行くことを提案されても、トラウマから集団生活に恐れを抱いていた彼女は、頑なにそれを拒んだ。けれど、この一年で心境が変わったのか、大学に行くことを目指し、まず高卒認定試験を受かることを目標に努力しているのだ。生来から頭の回転が速い彼女だから、勉強を始めてからメキメキと力をつけ、小学校、中学校と疎かになっていた範囲の学習も予定の半分以下の期間で終えてしまい、今は高校レベルの勉強をしている。
胡桃は冊子をパラパラとめくりながら
「私ぐらいの年の子はさ、大体が学校に行って、皆といろんなこと喋りながら、学校生活を送ってるんだよね」
とふいにしんみりした様子になった。
「……胡桃も、そういう友達がほしいのか?」
胡桃はベッドの上に伸ばした自分の足元あたりに視線を泳がせながら
「ううん。げんきくんがいるから」
俺がいるから友達はいらない。
しかしそういう胡桃の目はどこか寂しげだった。友達に裏切られ、追い込まれ、こうして日がな一日、一人で過ごすことになった彼女。彼女にとって友達とは、甘さよりも苦さが勝っているような存在だろう。
しかしそれでも年頃の女の子にとって友人がいかに多大な影響を持っているかは、俺だってよく理解している。
同性の友人が要らないなんてこと、容易く言えるものじゃない。
「胡桃ちゃん、トレーニングの時間ですよ。移動しましょうか」
俺が胡桃の心情を慮って、心をやつしている時に、顔なじみの看護師が病室へと入って声をかけた。
「ああ、もうトレーニングの時間か。ごめんげんき君。私行かなきゃ」
俺は少し考えてから
「……見学してもいいか?」
と尋ねた。
胡桃は不思議そうな顔をして
「見てもつまらないよ?」
と俺に聞き返してきた。
「見てみたいんだ」
「……うん、分かった」
*
理学療法士の補助を受けながら、胡桃は足を動かす運動をマットの上で行っている。仰々しい器械を用いるTMS治療と同時にこのようにマッサージを受けている。人の体というものは動かしていないと、関節や筋肉がどんどん凝り固まっていき、動かなくなってしまうのだという。だからこうして受動的にでも動かす必要があるらしい。
TMSを始めてから、ほとんど震えるぐらいでしかないが、胡桃は意識的に足を動かせるようになっていた。五年もの間めげずにリハビリに励んだ努力が実を結んだようで、本人や家族はもちろん、俺や彼女のことを長い間担当してきた病院のスタッフたちもそれを喜んでいた。
トレーニングの終盤になって、胡桃の担当医がその様子を覗きに来た。
「胡桃ちゃん、調子はどう?」
三十代前半の若い医師だ。子供の俺がこんな事を言うのもおかしいが、初めて胡桃の担当となったときは、本当に医者になったばかり、というような初々しい顔をしていた。それも五年と経てば、顔つきも凛々しく一人前らしくなる。
「石刀先生! こんにちは」
胡桃はにっこり笑い先生に挨拶をする。椅子に座って胡桃の運動を見ていた俺は、軽く会釈した。
「小舟渡さん、次から平行棒行けそうですか?」
先生は理学療法士に尋ねる。胡桃のトレーニングを次の段階に進めようとしているらしい。
「やってみてもいいと思います。TMSや他動の効果も限界があるので」
「じゃあ、様子見ながらやってみようか。親御さんと相談したら処方箋出します」
「はい、分かりました」
それから先生は腰を落として
「今度のトレーニングから、平行棒と言って、歩行訓練に移ろうね」
と胡桃に微笑みかけた。
「えー、できるかな」
「ちょっとずつだけど、良くなってきてるから、一緒に頑張っていこう」
「……うん」
先生はその場にいたスタッフたちに軽く一礼して、部屋を出ていった。
俺は聞きたいことがあったので、部屋を出ていった先生を追いかけ声を掛けた。
「あの、石刀先生」
先生は「ん?」と俺に気づき振り向く。
「花丸くん、どうしたの?」
俺はこうして定期的に胡桃のお見舞いに来ているので、担当医の彼や、看護師の人たちは俺のことをよく知っている。
「先生、胡桃って一体どういう状態なんですか?」
「……花丸くんって高校生だったっけ?」
先生は顎を撫でながら俺の方を見る。
「はい」
「どこの高校?」
「神宮です」
「あ、じゃあ僕、君の先輩だ」
先生は驚きつつ、少し嬉しそうな表情をした。
高校近くの病院だ。そこの卒業生がいても何ら不思議はないだろう。
「へえ、そうなんですね」
「理系?」
と続けて質問してくる。
「はい」
「生物選択?」
「いえ物理です」
先生は「物理か……」と呟き、それから腕時計をちらと見てから
「昼食一緒にどう? 可愛い後輩だ。奢ってあげる。今日は半ドンだからその後相手してあげられるよ」
*
先生は病院内のレストランに俺を連れていき、飯を食わせてくれてから、午後から非番ということで俺の話を聞いてくれた。無償で働かせることになってしまって非常に申し訳ない。
面談室に通され、席についてから
「人がどういうふうに体を動かしているか知ってる?」
と先生は早速俺に質問する。
「……脳が電気信号を出して、筋肉を収縮させる」
「うん。おおよそそのとおりだよ。胡桃ちゃんは下半身の筋肉を意識的に動かすことが出来ない。それは事故の際に脳の特定の部分の細胞が酸素の供給を絶たれて、傷害されてしまったからなんだ。……ホムンクルスって聞いたことある?」
「……生物の教科書に載ってたと思います。体の感覚や運動を司る場所は、脳の特定の場所に局在するという法則を、脳内の小人がいるかのように表現したやつですよね」
「そそ。それで……」先生は手を伸ばしてカバンからタブレットを取り出して俺に画面を見せながら「これは脳の模型なんだけど胡桃ちゃんは事故にあった際、ここの大脳を下から前に向かって走る血管の血液が減少して、末梢への血液供給が十分にされなくなった」
と指を指しながら俺に説明をする。
「この血管は前大脳動脈っていうんだけど、大脳の内側の部分に栄養を運んでるの。人の筋肉を支配している脳の領域は、脳の中心を左右に走っている中心溝の前にある、畝みたいなところなのね。そこでさっきのホムンクルスで言うとその小人の足はこの畝の内側に来ている」
「……つまり、胡桃の脳の内、足を支配する領域の細胞が傷害されたから、胡桃は歩けなくなったってことですか?」
「そういうこと」
「……去年の暮頃から始めたTMSっていうのはどういうやつなんですか? 一応調べてみたんですけどよく分からなかったです」
「TMSっていうのはtranscranial magnetic stimulation の略なんだ」
……日本語でおkだよ?
俺がぽかんとした顔をしたからか、先生は
「日本語でいうと経頭蓋磁気刺激っていうんだけど」
……そうか、経頭蓋磁気刺激っていうのはひょっとすると日本語だな。
俺がそれに納得したのを見て先生は安心したのか
「まあ要するに、頭蓋骨の外から磁石で刺激を与えて脳の神経細胞に電気を発生させるってものだね。物理学の領域になるから僕も専門外なんだけど、大雑把に言うと発電機の原理の根底にあるもので、ファラデーの電磁誘導の法則と言って磁場が変化すると電気が発生する現象を利用したものなんだ。あ、ファラデーって蝋燭の人ね」
と続けた。
とりあえずファラデーは蝋燭の人っていうのは分かった。
「……もしかして、磁石をコイルに近づけたり離したりすると電流が流れるってやつですか?」
そのようなことを中学で習った。高校でも習うのだろうが、電磁気の分野にはまだ入っていないので、詳しくは知らない。
「うん、そうそう」
俺は今聞いたことを頭で少しぐるぐるさせてから
「……脳の神経細胞が死んでいるのなら、電気を発生させたところでどうなるんですか?」
「えっとね、味噌になるのは脳を刺激すると同時に、足の筋肉にも電気刺激を与えることなのよ。これも説明がなかなか難しいんだけど、……花丸くんさ、病院からおうちに帰る道って大体決まってるよね」
急に何を言い出すのだろうか?
それでも質問に答えない訳にはいかないので
「? そうですね。いつも同じ道で帰ります」
と答えた。
「でも絶対にその道じゃないと帰れないってわけでもないでしょ」
「まあ、すべての道は俺の家に通じてますしね」
「例えば、いつも使ってる道が工事とか陥没したりで使えなくなったらどうする?」
俺渾身の知性溢れるギャグが完全にスルーされてしまったことに、驚きを禁じえない。
「……別の道で帰るほかないでしょう」
「それで君はその新しい別な道が元の道よりも歩きやすくて、距離も殆ど変わらなかったとしたら? あるいは何回か歩く内にその道に親しんだとしたら?」
「? その道を好んで歩くようになるんじゃないですか?」
「要はそういうことだよ」
なるほど、さっぱりわからん。
「……えっと、つまりどういう」
「脳が電気信号を伝えるのもそれと同じってことだよ。君は脳の神経細胞が死んでいるって言ったけど、それだとちょっと不正確なんだよね。もちろんいくつかは死んでしまったと思うけど、多くの細胞は本体が生き残っていて『足を動かせ』っていう電気信号を伝えるケーブルが切れてしまっていると言ったほうが正しい。そこで治療で行うのは、新たな経路の開発、物理的に繋がってはいるけど、使われ慣れてない経路を発達させること、あるいは新しい経路を伸ばすこと。筋肉と脳を同時に刺激することで、脳に『この回路は足を動かせるのに使えるぞ』って教えてあげることなの。あとホムンクルスの話をしたけど、脳の役割分担っていうのも完全に厳密なものではなくてある程度の融通が効くから、他の領域に足の筋肉を支配させるっていう効果もあると僕は思ってる。どちらにせよこれは有効な治療だと海外でも報告されてるし、胡桃ちゃんもいつ立ってもおかしくないと睨んでる」
………………。
…………。
……。
花丸くんはログアウトしました。
*
先生に言われたことを反芻して、以前に買ったはいいが半分ほど読んで、封印していたブルーバックスを本棚の奥から引っ張り出し、それを最後まで読み通したり、他にはネットで色々調べたりして、どうやら先生はこういう事が言いたかったらしい、というぼんやりとした理解がようやく出来た頃には、時計の長針もてっぺんを過ぎていた。
*
「おはよう花丸、今日もいい日だな。ところで宿題見せてくれ」
犬も歩けば棒に当たるとはよく言うが、現実では教室で椅子に座っていても坊主に絡まれる、という事がよく起きる。
俺は朝からうるさく突撃してきた外野をいやいや見上げて
「……宿題くらい自分でやれよ。小学生でもそのぐらい分かってるぞ」
と文句を垂れた。
「おいおい、花丸さんよ。知らんのか? 最近じゃあ、宿題代行っていうのがあって、宿題は業者に任せて余暇を謳歌するって言うのが、スマートな生き方なんだぜ」
「あっそう。ならその代行業者っていうのに頼みな。俺はそんなせこい商売はしてねえんだ」
「あ、すまん。冗談です。このとおりだ!! 今日板書当たってんだよ! どうか俺を助けてくれ! 俺とお前は正味の友達、略してネッ友だろ!!」
そう言って外野は額を俺の机につけている。汗が垂れるからやめてほしい。
「……ったく。しょうがねえな」
俺がそういえば外野はぱっと顔を上げて
「さすがは俺の良識ある友人。略してセフレだな!」
「お前一回くたばれ」
「嘘です冗談です」
このバカは死んでも治らんのではないかと、こめかみに手をやり、ため息を漏らす。
「……一つ条件がある」
「何だ? 何でも言ってくれ。俺にできることは命に代えて何でもする。購買のパンでいいか?」
こいつの命の価値は購買のパンと同レベルなのだろうか?
とそんな疑問を浮かべながら
「今日一日、『さっぱり分からん』と『実に面白い』以外言うな」
*
数学の時間。男性にしては高めの声で補足説明をしている数学教師の声が教室に響いている。その声の特徴も相まって、いつもゆるい雰囲気で数学の授業が進行している。
「じゃあ次。えっと、外野くんか。じゃ、説明して」
教師が板書に書いた宿題の解答を解説させるため、外野を指名した。
数学の授業ではこのように、宿題に出された問題を指名された生徒が黒板に解答を書き、その解説をするという形式が採用されている。
先生に当てられた外野は、この世を支配する恒久不変の大原則を、説明するかのような荘厳な面持ちで
「さっぱり分からん」
と述べた。
教室は水を打ったように静まり返る。
「……外野君、人に教えてもらうのは良いけど、せめて自分で分かるようにしようか。この一行目どういう意味?」
「さっぱり分からん」
「……外野君、先生に喧嘩売ってんの?」
「実に面白い」
「……」
先生は外野に解説させるのを諦めたようで、手のひらを上に向けて肩をすくめた。それから
「外野君、誰に教えてもらったの?」
「あいつです」
外野は一寸の躊躇いもなく、びしりとその指をある一点へと向けた。それが突き刺す点に、寸分の迷いや振れはなく、男児たるもの斯くありなん、とでも言いたくなるような威風堂々とした風格だった。正義の名のもとに、悪を弾劾する勇者の姿、まさにそのものだった。
彼奴が指差した人物こそ、全校をして変態豚野郎と言わしめた男、かの綿貫萌菜から幾度となく「気持ち悪い」という言葉を蔑んだ目で投げつけられるというごほうb……もとい、かの綿貫萌菜先輩に鋼の精神を見せつけ恐れ慄かせた人物、花丸元気。つまるところ俺である。あいつまじふざけんなよ。
俺が外野の鮮やかな手のひら返しに腸が煮えくり返る思いでいたところ、先生はお構いなしに、ニヤリと笑って
「ほほう。やっぱりね。何となくそうじゃないかなあって思ってましたよ。なぜかって? そりゃあ、花丸くん。解答の随所から花丸臭さが滲み出てるからですよ」
と言う。
教室は教師のその言葉にどっと沸く。そしてなんとなく予想できたことだが、一番笑っていたのは外野だった。あいつまじでまじふざけんなよ。
「じゃ、説明して」
先生は指示棒の持ち手を俺の方へと差し出してきた。こうなってしまっては仕方ない。
俺は復讐を胸に誓い、解答の解説をするため席を立った。