橘さんの前頭葉が暴走している件について
久しぶりに幕間劇をお届けします。橘さんの知能が低下しているように見えますが気にしないでください。
ある日の休み時間、何とはなしに図書室に訪れていた。図書室は生徒たちがいる校舎ではなく、職員室などがある本館の、しかも最上階にあるので、人気も人気もないまるで花丸くんみたいな部屋だ。
そんなところになぜ一人でやってきたのかというと、口にするべき理由はない。今日初めて付けた髪留めに花丸くんが無反応、というか全く気づかなかったからだなんてことは全くなくて、センチメンタルになって無性に一人になりたくなる発作が出ただけである。私がこの髪留めを選んだとき、「花丸くんはどんなふうに褒めてくれるだろうか」なんてことを妄想して、レジで袋詰めしてもらっているときに、ニヤついていたなんて事実は確認されてないし、事実があったとしても証拠がないし、証拠があったとしても私がそれを認めない。証拠不十分で私は無罪。というか花丸くんが有罪で、私の家で禁固刑になるべき。
だから別に全然なんともないんだから、勘違いしないでほしい。
「……花丸くんの馬鹿」
そんなポツリとこぼれる言葉も、多分図書室のインクの匂いが私の脳を徒に刺激したことによる、前頭葉言語野の暴走が引き起こした非意図的な発語で、私の心理及び理性の範囲外にあるものだ。
とどのつまり全部花丸くんが悪い。罰として後で構ってもらおう。
「橘って本好きなのな」
突然男が声を掛けてきた。
びっくりして声のする方を見れば、例のナンパ男、鈴乃木くんがそこに立っていた。
誰もいないものだと思って、ブツブツ言っていたのを、聞かれてしまったと思い、カーっと顔が熱くなるのを感じた。
「その髪留め新しいやつ? 似合ってるじゃん」
あなたに言われても全く、少しも、微塵も、露ほども嬉しくないのだけれど。
私が、恥ずかしいのと、脇役の更に引き立て役である彼の、私の台本から逸れて勝手に主役の台詞を奪った烏滸がましさへの若干の苛立ちとで、何も言えないでいると
「橘が好きなのって、花丸なのか?」
などこれまた無遠慮な発言をしてくる。
「急に何かしら? ……えっと、鈴本くん」
鈴元くんは顔をクシャクシャにして言う。
「横棒が一本余分だ。俺の名前は鈴木だ」
「そうだったわね。それで何かしら、鈴林くん。私が好きなのが花丸くんですって? 仮にそうだったとして、あなたに答える義務が私にあるかしら?」
「……!?」
鈴森くんは何か言いかけてから、ぐっと飲み込むように口を閉じて、目を泳がせてからまた言うには、
「……あんなやつのどこがいいんだ?」
と不貞腐れた顔を見せる。……不貞腐れたというより腑に落ちないと言ったほうが正しいかしら?
彼がこの間私に言い寄ってきた時には、「この人は自分が女の子に相手にされないような人物だと、思っていないんだわ。なんて傲慢な人なのかしら」なんてふうに思ったりもしたのだけれど、どうやら単純に私が花丸くんに惹かれている理由が分からないらしい。
確かに彼の疑念も理解できなくはない。
花丸くんは、口下手で根暗で捻くれてて、周りの人の気持ちにこれっぽっちも気づかないくらいに鈍感だし、私服のセンスなんて壊滅的だし、ニヤニヤ笑ってるときなんてこの世のものとは思えないほど気持ち悪いし、そんな人を好きになる人物がいたら頭大丈夫かと心配になるレベルだ。
彼のいいところなんて、素直じゃないだけで本当は優しくて、困っている人がいればなんだかんだ言って助けて、面倒見が良くて、意外に睫毛が長くて、頭が良くて、首元からちらっと見える鎖骨が綺麗で、袖から覗く上腕が意外にも筋肉質で、背が高くて、落ち着いた声のトーンが私の好みで、いい匂いがして──(作者注:長すぎるので略)──寝顔が可愛くて、ちょっと格好いいところ以外は、全く長所なんて皆無と言っていいぐらいだ。
偶に優しくされたぐらいで私が惚れ直すなんてことは、大いにあるし、今どき男のツンデレなんて流行らないと声を大にして言いたいが、それはそれで良いし、むしろそこが良い。
だから私は、鈴杜くんにこう返した。
「別に花丸くんの取り立てて述べるべき長所なんて無いけれど、あなたじゃないというところは彼があなたに勝ちうる一番の長所ね」
それを聞いた鈴社くんは眉をピクリと動かした。
「……はぁ。分かったよ。君は花丸じゃなきゃ駄目ってことだろ。俺じゃ逆立ちしても花丸には敵わないんだな」
と首を振りながら、捨て台詞を吐いて図書室を出ていった。
彼は馬鹿なのかしら? どうやら日本語が苦手らしい。私が言ってないことを勝手に想像して、私の気持ちを決めつけるなんて。
というか暑いわね。この部屋人が来ないのに、暖房効かせ過ぎじゃないかしら?
*
「ねえ花丸くん」
放課後になり廊下まで出てきて、花丸くんと二人きりになった私は、彼に声を掛けた。
「なんだ?」
私はさり気なく髪留めをアピールしながら当たり障りのないことを言う。
「私の奴隷になるのと私の犬になるのどっちがいい?」
「それどっちも同意だろ」
「いいえ。首輪の種類が違うわ」
「やめて」
私は首を横に振って前髪を払い、髪留めがよく見えるようにした。
「ところで花丸くん」
「どした?」
「どうして女の人って髪を伸ばすのかしらね。お陰で手入れは大変だし、纏めたりしなければいけないんだもの、髪留めなんかで」
「おーん……。美的感覚の問題じゃね? 俺はお前みたいに長い髪が好きだけどな」
……俺はお前が好きだなんて言われても、くらっとなんてこないけれど、今度からは録音機を回しておこうかしら。間の余分な雑音は編集してどうにかできるから、あとは寝る前のリラックスタイムにリピート再生して、心地よい眠りにつける。
じゃなくて、早く気づいてよ。
「ねえ」
自分でも思ってないぐらい棘のある言い方になってしまった。
花丸くんも困惑したのか
「……え、何?」
とおどおどした態度を取る。
「……何でもないわ」
私は花丸くんを置いて、ツカツカと先を歩いて行った。
放送室に入って、しばらくしてから安曇さんがやって来た。
「あ、美幸ちゃんその髪──」
準備していた私はすぐに彼女の口を抑えて、廊下へと連れて行った。
「ちょっと、何!? どうしたの?」
安曇さんは私が口を離すなりそう言った。
私は囁くように
「これ、花丸くんまだ気が付かないのよ。自発的に気づいて欲しいの。別に見てほしかったとかそういうわけじゃないのだけれど、何も言わないのも腹が立つから」
私がそう言ったら安曇さんは微笑んで
「分かったよ。まるモンが何か言うまでね。……それとなく、聞いてみようか?」
「……お願いするわ」
安曇さんは部屋に戻り、扉を半開きにした。私は廊下で待機する。
「おう、大丈夫か? 橘も妙なことするよな。ていうか、あいつはどこ行った?」
「お手洗い。……ところでさ」
花丸くんは安曇さんが言いかけたのを遮り
「ところで、橘って好きな奴でもできたんかな?」
へ? な、何を言っているのかしら?
「え? ……どういうこと?」
「いや、なんか今日も髪型とか変えてきてるし」
気づいていたのなら言ってよ。
「それに、クラスのやつが、橘に好きな奴がいるって俺に話しかけてきて。やたらニヤニヤしてさ」
ちょっと鈴木くん!! 何余計なこと言っているの!? 馬鹿なの!?
「へ、へえー、そうなんだ」
安曇さんはしどろもどろになっている。
「俺はそいつとあんま仲いいわけじゃなかったから、突っ込まなかったけど。流石に気になるから。安曇なんか知ってる?」
「えーっと、うーんと、好きな人は……いるっぽい……けど」
「ああ、そうなの」
「それもべた惚れかな」
「ほーん。あいつが男にベタ惚れねえ。想像もつかんな」
…………。もうなんなのよ。
私は肩を落として、部屋に戻った。
「ねえ花丸くん」
「何か?」
「禁固刑ね」
「いや、ごめん。意味わかんない」
私は小さくため息をついた。この男に色々と期待するのがいけなかったのだ。仕方ない。
自分から、感想を聞こうと口を開いたところで
「その髪飾り似合ってると思うぞ。だから自信持て。お前なら大丈夫だ」
……本当になんなのよ。