泡ときゆ
人魚姫は魔法で人の姿になった。
たとえ声を失っても、たとえ歩くのがどんなにつらくても、王子様に会いたかったから人になった。
彼女は王子に愛されたかった。今までの何もかもを捨てても。
でも真実は告げられず、自分の思いも告げられず、王子の幸福を選んだ。自分の命と引き換えに。
彼女は王子の事を愛してしまったから。
*
「じゃあ花丸くんはそのことが悪い噂になって、中学で孤立することになったの?」
穂波さんから話を聞いた私は、頭の中で整理しつつ、彼女に尋ねた。
「はい」
「……ソフトテニス部を辞めることになったのも、それが原因なのかしら?」
「だと思います。……あと兄はそれなりに上手かったらしいので、他のメンバーの反感を余計に買いやすかったのかもしれません」
確か以前に花丸くんは二年生の時すでに、レギュラーメンバーとして、上級生に混ざり試合に出ていたと聞いていた。
私はしつこい女だ。花丸くんに詮索するなと言われておいて、手回しをしてまで彼のことを探ろうとした。ともすれば嫌われても仕方ないことをしてしまったのかもしれない。
けれど私はどうしても知りたかったのだ。
昔の彼は、今と同じように他人に優しいのはもちろん、自分に対して投げやりな態度を取ることもなかった。今の彼は「人」というものに対する諦めさえ抱いているように見える。
長い時間が彼を変えてしまったという可能性もないわけではないが、私にはどうしても、特定の事件がきっかけとなって、彼の性格を変えてしまったのだとしか思えなかったのだ。
周りの人間が彼をどれだけ否定しても、彼自身が彼を否定しても、その分だけ、私だけは彼を肯定してあげられる、そんなふうに私は思っていた。
彼があの少女に対して感じている責任も、すべて受け入れられる。たとえ彼が自分を許せないようなことをしていたとしても、私は許容してあげられる。
そんな高慢な思い込みで彼の過去をひっかき回そうとした。
でも彼と彼女が、私の入る隙のないくらい、固い絆で結ばれていたのを見て私は悄然とした。
一体私は何がしたかったのだろう。
彼と彼女の身に起きた出来事は私の胸を衝いた。
花丸くんは人付き合いを避けている。人間が嫌いであると公言するような人だ。
それは人間という生き物の醜い面を、嫌というほど目の当たりにしたからだろう。
私は彼の厭世的で人類に対する諦観とさえ言える態度が、いかに形成されるに至ったかを、ようやく知ることになった。
穂波さんに礼を述べ、花丸家を出た。駅までの道を歩きながら、臨海の遊園地にいるであろう二人のことをぼんやり考えた。
彼女は上手くやれているだろうか?
彼はまたデリカシーのないことを言って彼女を落胆させたりはしていないだろうか?
二段構えの作戦を敷いたのはただの思いつきではなかった。でもその理由を明確に説明できるか私には自信がない。
初めは単なる予感でしかなかった。ただの胸騒ぎ。ただの違和感。
それが三週間前から、ずっしりと形の持った問いとして、私を絡げている。
『親友の好きな人を好きになったらどうすればいいか』
いつの日か部活で受けた相談。
冗談を織り交ぜて返答したどこにでもありそうな相談。
だが事前にチェックをしたときには見当たらなかったもの。
誰かが放送の直前になって紛れ込ませたもの。
私ではない。そして花丸君でもないだろう。ならばそれを入れたのは彼女だ。
彼女の好きになった人というのは誰か?
彼女の友達とは誰か?
直接相談することを避けた理由とは何か?
そんなことがあったから、彼女の彼に対する視線に意味を見出そうとしてしまうのだ。
一人の友人に対する接し方を逸脱していたとは言えない。仲の良い友達であると言うなら、誰もそれを否定することは出来ないだろう。彼と一緒にいるだけで舞い上がってしまう私と違って、彼女はいつだって冷静だった。
だがそこに友愛以上の何かがあるという結論を、ついぞ私は否定することができなかった。
自分の欲しいものを漠然としたもののために手放すほど、私は欲がないわけではない。彼女がそういう態度なら、私がどう振る舞ったところで、何か問題になるとも思えない。これはおそらく気持ちの強さの問題なのだ。彼女が本当に彼の事が好きならば、おのずと滲み出てくるものがあるはずだ。
若干の躊躇いを私はそういう言葉によって揉み消して、今まで通り振る舞うようにした。
私は何かを気に病む必要なんてない。
でも私はすっかり忘れていた。人生というものが、自分に都合よく出来ているものではないことを。
彼女は私に相談した。バレンタインデーの二週間前の事だ。
「チョコレートを渡したい人がいるの」
顔を赤く染めて、恋をする女子の表情をして、彼女は私にそう言った。なんとなく彼に聞かれるのはまずいと思った私は、場所を喫茶店に移した。……そこで彼に出会ったときは本当に冷や汗が出たけれど。
お菓子の作り方。包装の仕方。私は快諾して全て丁寧に教えると心に決めた。
断る理由なんてどこにもなかった。彼女は私の大切な友人だったから。
誰に渡すかは聞かなかった。聞いたらすべてが駄目になると思ったからだ。
練習のためにお菓子の材料を買いに行った。どんな包装がいいのだろうかと二人で悩んだ。
店を出たところで
「手紙入れたら重たいって思われるかな?」
と心配そうな表情をして彼女は言った。困ったように笑う顔も可愛らしくて、ため息をつきたくなる。
「そんなことないわ。ちゃんと気持ちが伝わると思う」
「……そっか」
「今から買いに行く?」
「え?」
「便箋と封筒」
「いいの?」
「別に構わないわ」
「じゃあ、いこっかな」
彼女が悩みながらそれを買うのを隣で見ていた。
可愛らしいパンダの絵が描かれたレターセット。彼女らしいなと私は思った。
別に驚きはしなかった。花丸君がチョコレートをもらい、一緒に手紙が、パンダの絵が描かれた手紙が入っていたと言っても。
彼女はちゃんと渡せたのだ。
でも最後の最後で逃げてしまった。名前も伝えず、一番大切な気持ちも伝えず。
それは多分私がいるから。
どこかでは分かっていた。でも私はその事実を見ようとしなかった。
……驚きはしなかった。でも花丸君によって、はっきりともたらされたその事実は、私の胸を痛いほどに締め付けてきた。
安曇さんは花丸くんが好き。
チョコレートを口にしてからもうだいぶ時間も経つのに、それもとても甘いチョコレートだったのに、舌に纏わりつくような苦々しさが今も口の中に残っている。
四章に続く