お父さんたちが映画館で寝てしまうのはこの社会のせい
ストーブの稼働音が微かに聞こえる部室で、静かに本を読んでいた。
二月も最後の週。十度を超える日のほうが多くなって、もうすぐ春ですねと口ずさみたくなる今日このごろ。今週末寒波がやってきて、もしかしたら雪になるかもと言っていたが、どうせ降らない。というか俺が許さない。
先日の邂逅から、初めての部活。安曇だけが来ておらず部屋にいるのは俺と橘の二人きりだ。彼女は勉強をしているのか、参考書を見ている。
朝学校に行ってからすぐに彼女から何らかのアプローチがあるものだと思っていた。けれど橘は何も言ってこなかった。ただ俺と顔を合わせた時「おはよう」とだけ言った。それだけだ。
授業が始まってから、昼休み時間中も、橘は俺に話しかけてはこなかった。俺に、話をする気は微塵もなかったが、どんな言論を以て迎え撃とうかと、身構えていた身としては拍子抜けする思いがした。
それから放課後、部室に入ってからも、橘は必要以上の事を口にしなかった。
静かだ。
不自然なほどに静かだ。
いつもならばべらべらと御託を並べるのに、今日は嫌に口数が少ない。
例の件に全く興味がないというより、敢えてその話題を避けているように見える。それでも俺は胸をなでおろすことができなかった。それこそ彼女が先日の件を意識している証拠だからだ。どうでもいいと思っているのなら、すぐにでも尋ねてくるはずだから。
しかし、そんな均衡も、今に崩れるように思えた。橘は参考書を開いていながら、こちらを気にするようにしきりにチラチラと視線を向けてきている。
いつもならばこれだけ意識的な視線を向けられれば、こちらの方から「どうした?」とでも話を促したのだろうが、今回ばかりは俺から口を割る気にはなれなかった。
「ねえ花丸くん」
俺から何も言う気のないのを見てか、とうとう橘は口を開いてしまった。
「あ?」
平静を装って、ゆっくりと彼女の方を見た。
「……その、先日のことなんだけれど」
橘は歯切れの悪い言い方で話を切り出そうとする。
「ああ、先日のことな」
俺がそう言ったら、橘は少しホッとした様な表情を見せた。
俺は構わず話を続ける。
「チョコレートケーキはバッチリ美味かったぜ。だからなんの心配もするな」
橘はハッとこちらを見て
「そんなことを聞いているんじゃなくて──」
俺は笑顔を作り、彼女の言葉を遮り
「そんなこと? お前が、食ったら感想聞かせろって言ったんだろ。それをそんなこととは、酷いな」
とおどけるように言った。
自分でさえも鼻で笑うような下手な芝居。滑稽なほどの悪あがき。つくづく自分が嫌になる。
橘は俺の目をまじまじと見た。
「あなたから話す気はないのね」
「何をだよ?」
橘は唇を噛んでから、小さく息を吐いた。
「……車椅子の女の子が誰なのか聞いてもいいかしら?」
それは至極プライベートな質問だった。軽々しく聞けるような質問ではない。
橘は俺に対する風当たりは強いが、別に非常識な人間というわけではない。そのような質問を聞くことは軽率であると、普段の彼女なら考えるはずだろう。今この瞬間もそう考えているのかもしれない。
それを分かっていて、彼女は俺に聞いている。
だが俺は彼女を非難する気にはなれなかった。
その目を見て、どうにも興味本位で聞いているようには思えなかったからだ。
「この前のことは気にすんな。お前が知ったところでどうにかなるようなものでもない」
俺は静かに返答した。
別に嘘を言っているわけではない。こればかりは彼女がどうあがいたところでどうにもならない問題だ。
「……私、全然知らなかった。あなたがああいう……」
「そりゃそうだろ。何も言わなかったんだからな」
「話してくれないかしら。そうしたら、私にもなにかできることが思いつくかもしれない」
「ない」
俺は煩わしいものを振り払うように否定した。
橘は表情を固くして、ゆっくり瞬きをしてから、俺の目をじっと捉えた。
「私はあなたに助けてもらった。あなたは他人のことは助けるのに、自分のことは救おうとも許そうともしないのね。私はあなたを助けたい。あなたのことを知りたいの」
「救うとか許すとかそういう話じゃないんだよ。それにこれは俺とあいつの話だ。お前には関係ないだろ」
「……そう。あなたがそれを言うのね」
言って彼女は瞳に反論の色を浮かべる。
「不満げだな。俺が今まで一度でもふらついた態度取ったことあったか? 俺の考えはいつだって一貫してただろ」
「そんなの口先だけよ。あなたは言葉と行動が一致していない。あなたはいつでも無関係な他人のために汗を流して、時には泥さえ被っているわ。なら、誰かが……私があなたのことを助けたっていいじゃない」
俺は目を閉じた。
安曇梓を助けた。
橘美幸の悩みを聞いた。
萌菜先輩の相談に乗った。
その他大勢の人の頼みを聞いてきた。
けれどそれは、どれも当人たちがそれを望んでいたからだ。
目を開いて彼女に言い返した。
「俺がいつ助けてくれなんて頼んだ? 大体、お前は俺の何を知っているんだ?」
「……何も知らないわよ。だから知りたいの」
「お前が見たのは、俺があいつと一緒にいるというだけの情景だろ。それがなんの問題になるんだよ。なんでそのことに関して俺が事細かに、お前に説明しなきゃいかんのだ? お前のやっていることはただの野次馬だ。好奇心で色々詮索するのやめろよ」
彼女が親切心から言っている事は、良く分かっていた。彼女の気持ちを分かっていながら、このような棘のあることを言うのは、自分でも青臭くて反吐が出そうだ。たっぱばかりがでかくなって、精神年齢は餓鬼も餓鬼だ。もっと言いようがあったかもしれないと気づく頃には、全てが覆水になっている。
橘は目を伏せた。
「私はただ……」
「俺なんか間違っていること言っているか?」
ここまできて、掌返しをするわけにも行かない。俺は毅然とした態度をとった。
橘は何かを言いかけて、小さく口を開いたが、異論は述べずに
「……いいえ、私が不躾だったわ。ごめんなさい」
といって、視線を本に戻した。
橘美幸は感情的にならなかった。
放送室は再び静寂に包まれた。
そうなることを目論んだのに、俺は情けない気持ちでいっぱいになった。
彼女は理知的な大人で、それに対して俺はどこまでも幼稚な子供だ。
*
橘とちょっとした言い合いをしてから、三日経った。俺はしばらく橘は口を利いてくれないだろうなと覚悟していたが、別段そんなことはなく、次の日からはいつもみたいに、俺をおちょくっていた。俺はそんな彼女の言動に頭を抱えつつも、どこかホッとしたような心持ちでいた。
そんな感じで件の話も終焉に向かうものだと思い始め、すっかりその事を気にかけなくなっていた頃。
俺は例のごとく、放課後の放送室で、宿題をするなり、勉強をするなりで一人で時間を潰していた。
学年末テストが終了して、生徒たちは浮かれに浮かれて、春休みの旅行の計画などを立てているが、「孤高を愛すると言うか、俺が孤高に愛されていますが何か?」で有名な花丸くん、つまりは俺は、別に羨ましくなんかないんだかんね! と独り言ちては、一人で積分している。
ガラリと戸が開いた。視線だけやってみてみれば、安曇がやってきたようだ。
「やっほ。一人?」
「逆に一人じゃなかったら怖いんですけど。もしかして安曇さん、見えちゃう人?」
「美幸ちゃんはどうしたのって話。それくらい分かるでしょ」
「すまんが、俺はそんなハイコンテクストな会話を望まれても、ご期待には添えないわけで」
安曇は眉をピクリと上げたがすぐに真顔になって
「あーはいはい。ハイコンテストね。知ってるよ。あれでしょ」
「そうそうあれあれ」
安曇さんがハイコンテクストの意味を理解していないということをハイコンテクストに理解した。
安曇は不思議そうな顔を見せて
「美幸ちゃん今日は早く帰るんでしょ。聞いてないの? 一緒のクラスなのに」
「知ってるんなら聞くなよ。なんなの? そんなに俺とお喋りしたかったの?」
安曇はそれを否定するかのように、俺を無視した。酷いよぴえん。
それから椅子の上に荷物を置き、背もたれにコートを掛けた。
「ねえ」
彼女は立ったまま、再び俺に声を掛けてくる。
「ん?」
「デートしよ!」
俺は顔を上げ、彼女の顔を見た。……ああそうか。
そこで後ろを振り返る。誰もいない。おかしいな。
「いや、後ろ見ても誰もいないから。いたら怖いでしょ」
俺が先程言ったようなセリフを安曇は言った。
「もしかして俺に言った?」
「そうだよ」
……。ああ、これはあれだな。「デート商法しよ」の略である、いわゆる「デートしよ」ってやつだな。
綺麗なお姉さんに誘われて、ついていったら、生命保険に加入させられたり、宝石を買わされたりするんだ。
「言っとくが、俺はダイヤモンドを買う余裕なんてないぞ」
なんなら、宝石店に入って追い返されないぐらいの服も、買えるか怪しいぐらい。
「そんなことまで言ってないし!」
と安曇はブンブンと手を振っている。
「なら何が欲しいんだよ? おじさん、あまり高いものは買えないよ」
「なんで援交持ちかけてる人みたいになってるの!? 別に何かねだってるわけじゃないからね?」
「じゃあ、なんですかい?」
俺が聞けば安曇は後ろ手に組んで、頬を赤く染めながら、こちらをじっと見て
「ナガシマ行きたいの」
と続けた。
ナガシマ? あの野球選手の?
「ミスター巨人が好きとは、安曇もなかなか分かってるなあ」
「何いってんの? ナガシマスパーランドだよ?」
あ、野球殿堂とかに行きたわけではない? ……それだと泊まりになっちゃうもんね! そういう問題じゃない。
「……もしかして遊園地の?」
「うん」
「もしかして三重県の?」
「うん」
「まじ?」
「まじ」
長島か。別に行き飽きているほど行っているわけでもない。というか小さい頃に行ったきりなので殆ど覚えていない。だから行くこと自体に関してそれほど抵抗はない。唯一というか、それが最大の難所であるが、人混みに揉まれて、正気を保っていられるかという問題はあるのだが。いざとなったら、ブラックな労働環境で疲弊した体に鞭打って、休日に家族サービスを頑張ってみたものの、やっぱり疲れてしまったお父さんたちに混じって、ベンチで休むという手段も取れるしね!
「駄目?」
安曇は上目遣いで尋ねてきた。
「……それは、勝負のお願いってことか?」
「なんのこと?」
「ほら、去年の末、ランニング中に公園で会ったの覚えてるだろ。そん時に缶入れのゲームやったじゃん」
それで安曇が勝利し、俺に何でも言うことを聞かせるという、報酬を手にしていた。
安曇はしばらく首を傾げていたが、思い出したのか
「ああ、あったね。……あれ結局、頼まずじまいになってたっけ?」
「ああ」
「……そっか。でもなるべくまるモンの意思で決めてほしいな。勝負のことは関係なしに。どうしても嫌なら、缶入れの約束ってことにするけど」
「……いや。分かった。行くよ。缶のゲームのことは関係ない」
「良かった! じゃあ、今度の日曜ね!」
「了解」
……彼女自身がそれを忘れているはずもないから、その日に俺と過ごすことに関して問題はないのだろう。言っても前日だし。俺とデートすることが特別な意味になるとか、考えちゃった自分を、今になってぶん殴りたくなってきたけど、暴力は良くないので、握りかけた拳は、開かせておいた。