二人が見たもの
冬の尾張平野は伊吹おろしに吹き付けられて、温度計が示す以上に肌寒さを感じるが、その乾燥した空気は人々の遠望を可能にする。
今日は冬の太平洋岸地域の気候らしく、よく晴れた日となった。北西に顔を向ければ、雪化粧を纏った伊吹山がくっきりと見える。花の百名山と謳われる伊吹山も、この時期はまだまだ雪花に覆われるわけだ。
「今日天気いいみたいだし、散歩でも行くか?」
病室の窓から山を仰ぎながら、ベッドの上で静かに本を読んでいた少女に話しかけた。
「いいの?」
「いいから言ってんだろ」
「わかった。行く!」
俺は彼女がコートを着るのを手伝ってやり、車椅子を押して、病室の外に出た。
そこで病室にやってきた彼女の母親に出会った。
「お出掛け?」
「はい。ちょっと散歩に行ってきます。今日は暖かそうなんで」
そう母親に告げたところ、彼女は微笑んで
「そうね。いつもありがとうね、花丸くん」
「いえいえ」
それから娘に声を掛けて
「我儘言って花丸くんに迷惑をかけちゃ駄目よ」
「分かってまあす」
それに対して娘は気の抜けたような声で返事をしている。
エレベーターを使ってロビーまで降りて裏手に回り、休日用の出入り口から外へと出た。
「本当に今日は暖かいね」
俺が押している車椅子に座る彼女は、快活な声で言った。
並木はまだ裸だが、今日はすっかり春の陽気だ。思えばもうすぐ卒業式だから、確かに冬も終わりに近づきつつあるのだろう。
「そうだな」
「もう春になってゆくのかな」
「そうだろうな。三寒四温で寒くなったり暖かくなったりを繰り返すとは思うが」
彼女は一瞬キョトンとしたがすぐに、にんまりと笑って
「知ってるよ。サンカンシオン。ニュースでよく言ってるやつだよね」
と嬉しそうに言う。
「そういえば、穂波ちゃん今年受験だよね。どこ受けるの?」
彼女が思い出したように尋ねてきた。
「神宮だな」
「そうなんだ。やっぱりお兄ちゃんと一緒のところがいいよね。調子はいい感じ?」
「まあ、余裕だろ」
判定は、一番最近の模試でもA+。俺より評定が良い分、なおさら余裕だろう。
「げんき君の妹だし?」
「俺の妹だし」
小さい頃から「頭はいい」と言われ続けてきた俺でさえ、妹との口喧嘩に勝った記憶がない。思うに、俺のよく回る弁舌もそんな妹との日常会話から生まれたと言っても過言ではないのだ。
小川と言うには少し大きい川の横を、ゆっくり歩いてゆく。桜の名所というほどでもないが、時期になれば、川面に桜色を映すその道は、俺のお気に入りの場所であった。
その内で春への準備を着々と進めているであろう桜木を見て
「春になったら、ここの桜、見に来るか」
と彼女に提案する。
「いいね!」
「……その頃には、歩けるようになってるかもな」
「えー、どうだろう」
彼女は曖昧に笑って首を傾けた。
でも俺はあながち夢みたいな話ではなくなってきていると思っている。
去年の終わり頃から始めた、TMSという治療法によって、彼女の身体機能の回復は目覚ましいものを見せている。
ピクリとも動かなかった足が、徐々に動くようになってきているのだ。
それに徒に周りが後ろ向きな態度でいても仕方ないだろう。彼女がこれからのリハビリに前向きに取り組めるよう、俺は彼女の背を押してやる必要がある。
「大丈夫さ」
「そうかなあ。……でも、もしさ、立てるようになったら、ご褒美頂戴」
「ご褒美?」
「うん。立てたご褒美」
「まあ、俺にできることならな」
「じゃあ三個叶えてもらおっかな」
「三個だけでいいのか? 俺は太っ腹だから、何個だって聞いてやるぞ」
「ううん。三個でいいの。それ以外は駄目」
「……そうか」
そこまで言われてしまえば俺も引き下がるより仕方ない。
「この近くに本屋あるけど、見ていくか?」
と尋ねる。
「行きたい!」
彼女は弾んだ声で答えた。
自由に動けないがゆえに、本屋に行くと言うのも彼女にとっては、至極珍しいことなのだ。
俺はゆっくりと方向転換して、本屋を目指した。
彼女と一緒にいると、一人の時では絶対に気づかなかったようなことにまで気付かされる。
車椅子を使う人間にとっては、ほんの少しの段差や溝でさえ、大きな障壁になる。車輪で越えられるような小さな段差でも、乗っている人間にすれば、その振動はストレスになるだろう。棚入れするための商品が床に置かれているなどして、店内に狭い通路があって、その先にいけないということも何度かあった。
バリアフリーという言葉が人口に膾炙しても、ハードとしては行き届いていないというのが現状ではある。
幸い、今回はそのようなこともなかった。店内を彼女の見たいままに見せ、それに付き添って一緒に歩いていた。
そんな折、ちらと、学生服を着た人間を目にした。今日は休日ではあるが、部活動のために学校に行っている人間も多数いるだろう。ここの本屋はうちの学校からそう遠くない距離にあるので、神宮の学生が来てもおかしくはない。別に誰かに見られたからと言ってどうにかなるわけではないが、どうにも見知った顔に見られるのは、なんだか気が進まないように感じられた。……特に橘と安曇には。
「どうしたのげんきくん? 気分でも悪くなった?」
俺の焦る気持ちが表情に出ていたのか、少女が心配そうな顔をして尋ねてくる。
「いや大丈夫だ」
彼女と出歩くことに関して、やましいことなど一つもないのだから、気にするのも自意識過剰か。
それに冷静に考えてみれば、土日に活動するようなことの無い放送部員が、土日にわざわざ家から遠く離れた書店まで足を運ぶこともないだろう。彼女に焦りを見せて、せっかくの楽しい気分に水を差しても悪いと思い、何でもない風を装った。
「ねえ見て」
少女はアイドルだか女優だか知らないが、若い女性の水着写真が表紙となっている雑誌を取って俺に見せてきた。
「……なんだよ」
「げんきくんもこういうの見るの?」
と悪戯を思いついてわくわくした、子供のような視線を向けてくる。
「……見ねえよ」
少なくとも女子の前では。
「え~、ほんとかなあ」
「ほら、買わないなら戻しなさい」
俺はあやすように彼女に言って、その手から雑誌を取り、元のラックに戻そうとする。
雑誌の端を折らないように、丁寧に戻していたら、今度は彼女が袖を引いてきた。
「ねえ、げんきくん。げんきくんって可愛い女の子の友達がたくさんいたりする?」
俺は近くに置いてあった、車の雑誌を何の気もなしに眺めながら
「何を以て可愛いとするかは議論の余地があるが、世間一般に言って、過半数の人間が好ましいと言うであろう顔立ちを持った知り合いなら二、三人いる。ここで重要なのはその知り合いというのが俺の友達であると断言できるか、これまた議論の余地があって、さらに言えば二、三人を多いとするかは、甚だ疑問であるから、客観的に見るに、その命題を肯定するのに必要なエビデンスは乏しい、と言わざるを得ないな」
「……えと、うん、長々とご高説賜りましたが、要するに私が聞きたいのは、あそこで私たちをじっと見ている二人が、げんきくんの知り合いなのかどうなのかってことなんだけど」
俺は少女の顔を向ける方を、すっと見てみた。
そこにいたのは、休日なのにこんなところまで出張って来ている、橘美幸と安曇梓だった。
「……まるモン」
俺と隣にいる少女をみた安曇は、言葉を失い固まっていた。橘の方はというと、なんとも言えない表情でそこに立っている。不安そうというかなんというか、どんな表情をしたらいいか分からないという顔とでも言うか。
「誰?」
少女は首をひねって俺の方を見て、二人が誰なのかを尋ねてきた。
「……学校の部活仲間」
「そうなんだ。……挨拶しなくていいの?」
少女が何か言いたげな表情で見つめてきた。
そこで知り合いの視線を無視するほど餓鬼臭いことを、彼女の前でするわけにも行くまいと思って、ゆっくりと二人の方へと近づいて行った。
「よお。奇遇だな。こんなところで何してるんだ?」
努めて冷静に振る舞う。
「何してるんだって、安曇さんと買い物をしているだけだけれど。……あなたこそ、何を……」
「散歩だな。もっとおしゃれな言い方をすると、ウィンドウショッピングってところか」
「……そうなの」
「明日部活来るよな」
それ以上橘と安曇になにか言われる前に、俺は言った。
「え、あうん」
固まっていた安曇は、我に返りそう答えた。
「じゃあまた」
俺は手を上げてそそくさとその場を離れた。
「……うん」
別に悪いことをしているわけじゃない。だから俺は気に病む必要なんてまるでないんだ。