だから何の関係もないんだから
家に帰ってから、荷物を降ろし、下駄箱に入っていた丁寧に包装された箱を、手に取った。
「開けてもいいんだよな」
ボソリと独り言を呟き、自分に宛てられたものを開封するのに、躊躇するのも馬鹿らしいと思って、リボンを解き、テープを剥がそうと爪を立てた。
何となく破ってはいけないような気がして、包装紙を慎重にゆっくり剥がす。箱を開けてみれば、綺麗に飾り付けれたチョコレート菓子が顔をのぞかせる。
それから「元気くんへ」と書かれた、パンダの絵が描かれたその封筒を見てみる。ひっくり返してみて、差出人の名前がないか確認したが、どこにも名前は書かれていなかった。
中には手紙が入っていた。こちらもデザインはパンダで統一されている。
宛名と同様、女の子らしい丸っこい字が書き連ねられていた。
読まないわけにもいかず、一行目から字を追った。
『お久しぶりです。と言っても、元気くんは忘れちゃいましたかね。
私は四年前も、ちょうど冬のはじめ頃、あなたに助けられた者です。たくさんの自転車を倒してしまい、途方に暮れていたところを、あなたは助けてくださいました。
あのときのお礼がずっとしたかったのです。
そして本当に申し訳ございませんでした。私はあなたに対し取り返しのつかないことをしてしまいました。こんな形ではありますが、私の誠意が伝わればと思います。
一生懸命作りました。
本当は感想を聞きたかったですけれど、それをするのは私自身が許せないので我慢します。
美味しく召し上がってくれたら嬉しいです』
手紙はそれで終わりだった。やはり差出人の名前は手紙にも書かれていない。
俺はぼんやりとそれを眺めながら、一口一口噛みしめるように、彼女のチョコレートを味わった。
自転車を漕いでいた時の熱が抜けきらないのか、室温が高すぎるせいか判然としなかったが、火照った体を冷やそうと思い、手紙を持ったまま戸を引いてベランダに出た。
手紙をまだまだ冷たい二月の風になびかせて、何度も繰り返し読み返した。
俺が助けた少女。
自転車を倒した少女。
確かにそんなことがあった。結局その時も今回も彼女は自分の名前を伝えないでいる。
「ねえお兄ちゃん」
ベランダで物思いに耽っていたところ、穂波が俺に呼びかけた。
「なんだ?」
「外にいるの、美幸さんじゃないの」
「は?」
「こっち来て窓の外見て」
妹に言われ、俺は穂波の部屋に行き、窓の外を見てみた。そこには、家の門の前でうろうろしている不審な人物がいる。たまに立ち止まっては、家の方を見て、ため息をついては、恐る恐るドアホンに手を伸ばそうとして、引っ込めている。
一体いつからそこでそうしているのだろう?
警察に見られでもしたら面倒なことになりそうだな。
「お前何してんの?」
俺は窓を開けて二階から声をかけた。
その不審者、橘美幸は俺の声に気づいたら、澄ました顔をして、
「あら花丸くんじゃないの。こんなところで何しているのかしら?」
と言った。
「いや、それ俺の台詞だし。ここ俺の家だし」
「早く降りてきてもらえる?」
無視しても居座りそうな気がしたので、俺は渋々階下に降りて、玄関の扉を開けた。
「なんか用か?」
「別に用というほどでもないのだけれど、ちょっとこれをあれしたのでそうしただけよ」
「なるほど、これをあれしたからそうしたんだな」
さっぱり分からん。
「だから、はいこれ」
そう言って彼女は俺に紙袋を押し付けてきた。
隙間から中を覗き込んだら綺麗にラッピングされリボンまで巻かれた箱が見えた。微かにだが、チョコレートの甘い香りがする。
「これって……」
俺が戸惑うように口を開きかけたら、橘が堰を切ったように
「勘違いしないでくれるかしら。私は製菓会社の陰謀に乗せられるほど安い女じゃないわ。今日はたまたま暇だったので、たまたまお菓子を作ろうと思って、たまたまそれが余ったので、たまたま出会ったあなたに渡すだけよ。包装紙もリボンもたまたまあっただけなんだから」
……おう。
「分かった、とにかくたまたまなんだな」
「それにこれはケーキであって、チョコレートではないわ。だから何の関係もないんだから」
何と関係ないかは言わずとも良いか。とどのつまりバレンタインチョコレートではないと言いたいらしい。
「でも今日テスト明けだろ。よく作る気になるよな」
橘は得意そうな顔をして
「私はあなたと違って計画的な人間だから、直前で焦って詰め込んだりしないもの」
まあ今日は社会と生物基礎だけだったから、土日を挟んでだいぶ余裕があったのは俺も同じである。
「その計画的な人間が今日はたまたま暇だったと」
「そうよ。文句あるかしら?」
「別にない」
彼女は満足げな表情を俺に見せ
「どうせあなたのことだから、今日は両手が軽かったことでしょう。別にそんなつもりは毛頭ないけれど、これを慰みにでもするといいわ」
と仰る。
「ふーん。まあ俺は他にももらってるけどね」
「は?」
えぇ……。なんでそんな本気トーンの「は?」が出てくるの?
橘は数秒眉を顰めていたが、何か会得したように
「ああ、なるほど。本当、いい妹さんね」
「おい。なんで俺が、妹にバレンタインチョコをせびるような、虚しいやつにならなきゃいけんのだ?」
「違うの?」
「違わい!」
橘は憐れむような視線を向けてきてから
「……本気で自分の嘘を信じているのね」
「嘘じゃねえし!」
「……お可哀想に」
ねえ、まじで心配そうな顔するのやめてね。
「だから! 萌菜先輩がくれたんだっての!」
「……どうせトッポかなんかでしょう」
「なぜ分かった!? あと、どうせとはなんだ? 最後までチョコたっぷりなんだぞ。トッポに謝れ!」
「トッポさんごめんなさい」
意外にも素直に謝ったのでこれはチャンスだと思って
「ついでに俺にも謝れ!」
と言ったら
「それは嫌」
一蹴された。
「良かったわね花丸くん。義理人情に厚い人って素敵だと思うわ」
煽られているようにしか聞こえないが、多分気のせいなんだろう。橘さんは四捨五入したらいい子だからな。酷いことは言わないはずだもん。
「……あと下駄箱に入ってたのもあったぜ。そっちは差出人不明だけど」
橘は、今度こそいよいよ訳がわからない、という顔をした。
それから神妙な顔をして
「花丸くん、食べては駄目よ。それきっと毒入りだわ」
「命を狙われるようなことをした覚えはないんだが。というかもう食っちまったし」
「え? ではなぜ生きているの? 遅効性なのかしら?」
「毒入り前提で話すなよ、お前は」
「……ふーん。物好きな人がいたものね。どんなのだったの?」
「まさにチョコだったな。旨かった」
「あなた絶対レポーターにはなれないわね」
「チョコはおいといてよ、手紙も入ってたぜ」
「犯行声明?」
「ちげえっての。……なんかパンダの封筒と便箋に色々書いてあった。愛の告白という感じではなかったけどな」
流石に手紙の内容まで話す義理はないと思ったので、それ以上は言わない。
橘の方も強いて中身を聞くことはせず
「……ふーん。そうなの」
とだけ相槌を打って、話を終わらせた。
「それにしても、あなた髪の毛伸びたわね」
橘が俺を見上げながら言った。
俺は前髪を指で挟みながら
「ああ、そろそろ切らなかんな」
と答える。
ここ最近、テストやらなんやらで色々と立て込んでいて、髪を切る暇がなかった。
「うちの子がいつも切ってもらってるお店紹介しましょうか?」
「……うちの子って豚のことだよな。つまりペットサロンってことだよな!?」
「そうかもしれないわね」
かもしれないわねって……。
「俺が行って髪切ってくれなんて言ったら、店の人ドン引きするだろ。通報される可能性すらある」
橘は頬に軽く手を当てて
「やっぱり私がリードを付けて連れて行かないと、条例的にまずいわよね」
「おい。ヤバい人レベルを更に上げていこうとするな」
「そうよね。花丸くんのやばさは既に天井にぶつかっていて、これ以上上がりようがなかったわね」
俺のヤバさカンストしてたんだ。
不意に、すんと橘が鼻を鳴らした。日が落ちてきて、だいぶ気温が下がってきている。ずっと外にいたせいか、耳と鼻が赤くなっているのが見て取れた。
それも俺に菓子を渡すためだったと思うと流石に気が引けたので
「……中で温かい飲み物でも飲むか?」
と聞いた。
「え? コーヒーを飲みながら、ご両親に挨拶しなさいだなんて、いきなり言われても困るのだけれど。あなたの妄想の中では私は結婚を約束した可愛い彼女なのかもしれないけれど、現実世界の私はあなたのものでも何でもないのよ? 頭大丈夫? お医者さん紹介しましょうか?」
と驚いた顔をする。そんなこと言われた俺がビックリだけどな。
「……わたくし、何も言っておりませんが。というか今、親いないし」
言って、俺が自分の失言に気づいたのと同時に
「部屋の中で私に何をする気!?」
橘が目を見開き、身をよじらせた。
「……穂波いるし、つかいてもいなくても何もしないからね? まあ、嫌ならいいんだ。風邪引かないうちに早く帰れよ」
「そうね。そろそろお暇するわね」
橘が体の向きを変えて、歩き出そうとしたところで、言うべきことを言ってなかったことを思い出し、
「あ」
と声を出した。
「何かしら?」
俺は照れ隠しに咳払いしてから
「……ありがとな。チョコレート」
とボソボソと言う。
「だから、チョコレートじゃないって言ったでしょう」
橘は眉尻の下がった表情を見せた。
「はいはい。ケーキなケーキ。まあとにかくありがとよ」
橘は微笑を浮かべ
「食べたら美味しいって感想聞かせてね」
「既に指定されてしまった感想は感想と言わんと思うぞ。……まあお前のことだから、美味いんだろうけどさ」
そう言うと橘は巻いていたマフラーに顔をうずめ、俯いた顔で目だけはこちらに向けて
「私はちょっと褒められたくらいで口説けるような軽い女じゃないわよ」
と口を尖らせる。
「そうなんだぁ」
別に口説いてないけどね。
「……菓子もいいけど、普通の飯もまた食ってみたいな」
「え、嫌だ、何で『君のご飯を毎日食べたい』だなんて、いきなりプロポーズしてきてるの? 馬鹿なの? 指輪買ってから一昨日来やがれ」
「それ結局来るなってことだよな。いや行かないけどさ。てかプロポーズじゃないし。セリフ変わり過ぎだし」
まるでマスコミ並に事実を改変しているではないか。切って繋げて時に付け足し印象操作。彼らにかかれば、白を黒というのもお茶の子さいさい。某国首脳の「募ってはいるが募集はしていない」というアホの子……訂正、ポエム発言も「秘匿はしているが隠蔽はしていない」という論理で、なかったことにしてしまうのだろう。曰く、「気遣いはしているが忖度はしていない」と。
……報道倫理とは?
それはそれとして。
ストーリーテラーとして高い技術力を擁し、テレビ局にでも入れば、国民を扇動……じゃなくて、優秀な編集者になれること請け合いの橘さんは、キョトンとした顔を見せ
「『君のご飯を毎日食べたい、とプロポーズしようと思ったけど、男女平等の時代に、性差別的発言と捉えられかねないことを言うのは控えるべきだな。だから無難に褒めておこう』とでも言いたげな顔してたからてっきりそうなのかと」
「俺、そんなピンポイントな表情できるほど、顔面神経発達してないんだけど。てかどっちみちプロポーズしてないよね」
「つまり『俺が、可愛い美幸ちゃんのことを大好きなのは宇宙の理とでも言うべき前提条件であって、今更それに関して何か言うことはない』ということ? ごめんなさい。意味わからなさ過ぎて無理です」
「……」
バレンタインデーにお菓子をくれた女の子に、俺は何回一方的に振られればいいのだろうか?