羅針盤はない
今までに何度か入ったことのある高校近くの喫茶店。
冬の黄昏時に、近所のご婦人方がお茶会を開き、ご老人方が話に花を咲かせている。
そんなどこにでもあるような光景の中に、俺と橘はいた。
「いつ来ても繁盛しているわね」
コートを脱ぎ席に座りながら橘が言う。
「往来も多いからな。それにアフタヌーンティーを取るにはちょうどいい時間帯だろう」
「ティーよりもコーヒーを飲んでる人のほうが多いわよ」
「そこは気にすんな」
「何か食べる? 今日は奢ってあげる」
橘がメニューを開きながら言う。
「いいよ。……コーヒーだけで」
そう言ったら橘は片眉を吊り上げて
「惨めったらしく私の足元にすがって、食べ物を恵んでもらうのが、あなたの今生の願いではなかったの?」
「そんな身の毛も弥立つような願いをした覚えはない」
冗談もそこそこにして、橘はこちらをしっとりと見つめて
「……別に遠慮しなくていいわ。今日はあなたに話があって来てもらったのだから」
と言う。
お茶代は、話し相手をする報酬というわけか。
それで橘の気が楽になるなら、そのほうがいいのかもしれない。
そう思って
「……じゃあチーズケーキ」
と言った。
「私はベリータルトにするから、半分こにしましょう」
……女の子ってシェアするの好きだよね。
奢ってもらう立場なので、文句は言うまい。
注文を終えて、商品が来るのを待つ間も、彼女は俺をここに連れてきてまで話そうとしたその内容を、口にすることはなかった。
彼女から言い出したことだから、まさか何も言わないまま終わることもないと思い、俺もあえて聞き出そうとはしなかった。
橘は運ばれたケーキを半分にして俺の皿に載せる。それから
「あ、もしかして、あーん、のほうが良かったかしら?」
「なんでそんなカップルみたいなことをしなければならんのだ」
「え、カップルとか、冗談でもやめてくれるかしら。私はただ、満足に食事もできない、幼児みたいな男のために、食べさせてあげたほうが良かったかしら、と言っただけなのだけれど。勘違いが気持ち悪すぎるのだけれど。あとすごく気持ち悪いわ」
……。
「分かった。そう言って実は俺にあーんしてほしいんだな」
「水かけるわよ」
「ひでえ」
「何を言っているの? コーヒーじゃないところに、私の優しさがにじみ出てるでしょう。というか女の子に水を掛けてもらえるなんてむしろご褒美だわ」
「生憎俺にはそんな変態性癖はないのだ」
「つまり私に水をかけるほうが好きということ?」
「……君の変態の概念を問いただす必要がありそうだな」
カランコロンとベルがなり、ガヤガヤとむさい連中が入ってきた。部活上がりの……サッカー部だろうか。うちの学校の校章をつけている。
なんだか見られるのが落ち着かなかったので、首をすくめたのだが、メンバーの一人と目が合ってしまった。一年の校舎でたまに見かけるので、一年生だろう。
噂とかされたらやだなあ。
これはあれだよ? 部活の仲間の相談に乗っているだけだからね。そういうんじゃないからね。
……でも今度からはもっと離れた店に行こう。
ケーキをつついて、コーヒーを飲みながら、とりとめもない話を続けた。
橘は本題に入る様子を見せない。そんなに言いにくいことなのだろうか?
コーヒカップの残りが半分を切ったところで、俺はしびれを切らして、橘に聞いた。
「そんで、話ってなんだ?」
「……なんのこと?」
「話があるってさっき言ったろ」
「そうだったわね」
橘はそこでフォークを一旦置いた。
それから俺の顔をじっと見る。
「何の話か分かる?」
……俺こいつになんかしたっけ? ……してないよな。うん、してない。よし。
「皆目検討もつかん」
「予想してみて。……とても、大事な話よ」
そう言って、橘は目を伏せた。真面目な雰囲気なのに、俺は場違いにも、睫毛長いな、なんて呑気なことを考えている。
ここで俺が普通の男で、橘美幸が普通の女の子だったのなら、愛の告白でもされるんじゃないかと、胸を高鳴らせるところだが、幸、不幸はさておき、花丸元気も橘美幸も普通ではないので、そんなありふれた展開など想像しないし、実際に起きもしないはずだ。
彼女にまつわることで大事なことがあるとすれば、それこそ俺には、はっきりとした心当たりがある。
「……進路の話か」
今日まさしく先生にも相談された話。
「……平たく言うとそうね」
「他に言いようもないと思うが。……まだ迷ってるんだな」
「ええ」
「……将来、やりたいこととかないのか?」
おそらくは先生も聞いたであろう、ありふれた台詞を俺は彼女に吐きかける。
「……私、この歳になってようやく気づいたの。将来の夢とか、どんなことがしたいとか、具体的なイメージを持ったことがない。私は空っぽなのよ」
「空っぽ……ね」
「ええ。何もないの」
彼女は自嘲するように言う。
そこにいるのは俺の知っている、芯がしっかりとした、自分という存在に疑いを抱かない、強い橘美幸ではなく、将来のことを不安に思い、悩んで自信をなくしてすっかり弱りきった、一人の少女だった。
俺は間をつなごうとしてカップに口をつけた。
それから唇をなめて
「何者でもないということは、何にでもなれるということだな」
「……ポカリ?」
「ネタ元は当てなくていい」
「そもそも、十六の餓鬼で、実のあるやつなんてそうおらんと思うぜ。学校という檻に閉じ込められた、見識のない俺らに、人生の道を選ばせようとすることに、無理がある」
俺がそう言ったら橘は眉をひそめた。
「そんなこと言っても決めなければいけないのよ」
「じゃあ好きな方選べば? 理科と社会どっちが好きだ? 数学と国語どっちが好きだ?」
「別に好き嫌いはないわ」
「優等生め」
「それはあなたも変わらないでしょう」
「俺はそもそも勉強が嫌いだからな」
「なのに勉強するのね。やっぱりマゾなんだわ」
「かもしれんな」
俺は視点を変えて再び彼女に問いかけた。
「じゃあ人を使う仕事か、機械をどつき回す仕事どっちがしたい?」
「……花丸くんをこき使うというのは随分魅力を感じるわね」
「問いを挿げ替えるな」
「……花丸くんはどっちがいいと思う? あなたと同じ理系か、それとも文系か」
「……そんなん、俺が言えるわけ無いだろ。……俺はお前の人生に口出しする権利なんてないんだから」
そう言ったら橘はやや前のめりになり、俺の目をじっと見てきて
「前は私が雅子さんと仲良くやれるよう、おせっかいを焼いたのに?」
と非難するような視線を向ける。
確かにそこを突かれると俺の言動はちっとも一貫性がない。
「……それは。……とにかく駄目だ。俺はお前の人生に責任持てない。これは自分で決めなきゃ駄目だろ。相談するのと、人に判断を委ねるのは別物だぜ」
橘は矛盾した俺の発言に食いつくことなく
「……そうよね」
と橘は深く椅子に座り直した。
俺はせめて背中を押してやろうと思い口を開いた。
「飛び込んでみなきゃわからんことってあると思う」
「どういうこと?」
「結局やってみなきゃわからんだろって話。俺は理系にするけど、本当は文系のほうが適してるのかもしれない。理系に行ったからとか文系に行ったからとかで人生全部が決まるわけじゃない。この世を二つに分けることなんてできないんだから」
「そんな身も蓋もないこと」
「俺が言いたいのは、どこ行ってもがむしゃらにやればそこそこ形になるんじゃないかってこと。確かに適性みたいなもんはあるかもしれないけど、それだって触れてみなきゃわからんのだぜ。決めたらあとは突っ走るだけだと俺は思ってる。だからちょっとでもいいなって直感的にでもいいから、そう思えるんならそっち選べばいいと思うぞ。俺は、お前ならどこ行ってもうまくやれると思うし」
「……そうかしらね」
「そうさ」
「ごめんなさい。変なこと聞いちゃったわね」
「いや、俺の方こそろくなアドバイスできんですまんな」
「大丈夫。……あとは自分で決めるから。一人で決められるから」
俺から持ちかけた話ではなかったが、彼女の期待に答えられなかったと思うと、何だか胸につっかえるような心持ちがした。
結局そのまま俺たちは店を出て、大通りまで歩いてから別れた。
*
センター試験が終了し、極限まで高まっていた緊張も少しは緩和されたであろう一月某日。
神宮高生一同は、学校を離れ朝から市民会館に集まっていた。
今日は三学期で最も大きな行事である予餞会当日だ。
予餞会はセンター試験を終えた先輩への労いと、今後の激励、及び卒業する三年生たちへの感謝を送るという会だ。
具体的には在校生が寸劇を見せて三年生に楽しんでもらうというもの。
時間の都合上演じるのは四クラスだけで、そのクラスは選考会を通して選出される。
我ら一年A組は、ケツから二番目の成績で選考会を終えた。……つまり完全敗北。今日は完全な聴衆である。
どうせ内輪ネタもりもりのつまらないコントを見させられるものだろうと期待していなかったのだが、迎えた予餞会当日、悔しいことに結構笑わされた。
そんな劇の中身はさておき、印象的なことがあった。
予餞会は生徒会が主導して行うので当然、その長の一人である執行委員長の萌菜先輩も忙しく働いていたわけだが、そんな彼女の閉会式の挨拶でのことだ。
萌菜先輩が在校生代表として式の締めくくりに三年生たちに感謝の言葉を述べたのだが、その挨拶の最後で
「尊敬する三年生の先輩。そして大好きなあなたに向かって歌を歌います」
全校をして女傑とさえ言わしめた彼女が、そんなロマンチックなシーンを演出したのだ。
一昔前の歌謡曲。天才と言われたミュージシャンの作った愛の歌。
なにかするだろうとは思っていたが、まさかこう来るとは。
そして何という歌唱力だろう。
彼女の魂の叫びがビシビシと伝わって、体が震えるのを止めることができない。
彼女が舞台で恋心を抱く相手に向かい、歌を歌うに至った経緯に心当たりのあった、というかほとんど黒幕な俺は、彼女の心情を慮って、こみ上げるものを抑えることができなかった。
「花丸くん、何泣いてるの?」
隣にいる橘は気味の悪いものを見るような目で言ってくる。
「しぇんぱ〜い!!」
「……鼻水垂れてるわよ」
「今はそれどころじゃない。あぁぁ先輩!!」
経緯を知らない橘にしてみれば萌菜先輩が雰囲気に当てられて、乙女チックに暴走しているようにしか見えないのだろうが、ステージ上の彼女の心理は、そんな言葉一つで表されるような簡単なものではない。
つもりにつもり、行き場をなくした感情があの場所で溢れているんだ。それを知りながら泣かずんば、人ではない。
もう無理。好き。尊い。死ねる。
「しぇんぱーい!!」
「いちいちうるさいわね。これあげるから鼻拭いて」
橘がそう言ってティシュで鼻を拭いてくるのも構わず、俺は歌いきった彼女に最大の賛辞を送るため大きく手を叩いた。
*
予餞会から数日。文理選択決定の日となった。
ほとんどの生徒はすでに決まっているので、そんな日付のことなど関知していないのだろうが、俺の周りだけで二人も最後まで悩み続けた人物がいたので、俺は知っていたのだ。
自分のことでないのに、橘の様子を見てはそわそわと、いつ聞こうかと気にしながら一日を過ごしていた。
結局、放課後になるまで話をするタイミングがなかったので、放送室で聞き出すことにした。
二人で部室まで適当に話をしながら歩いて行ったところ、部室には既に安曇が来ていた。
「よう」
「やあ」
「……安曇って結局どっちにしたんだ?」
なんとなく、橘に先に聞くのは気が進まなかったので、安曇にまず尋ねた。
「え? 何が?」
「文理選択」
「ああ。……どっちだと思う?」
合点の言った安曇は、微笑んで聞き返してきた。
「……理系?」
「あたってる。なんで分かったの?」
「なんとなくな。……理由聞いてもいいか?」
「私、建築に興味あるかなって。なんか建物作るのって、その人たちの人生に深く関わるってことじゃない? その人たちが幸せになる手伝いができたらいいかなって」
「なんか安曇らしいな」
「ということで心機一転、参考書を買ってみました! 分かりやすそうなのにしたの」
そういう彼女が鞄から取り出したのは、タイトル詐欺と悪名高い、全く優しくない『やさしい理系数学』だった。
「……その心意気は買ってやらんでもないが、まず本を買うときは中身をチラ見してからのほうがいいぞ」
「え?」
そういう彼女はパラパラと本をめくって、すぐに「げっ」と声にならない声を出した。
出典の大学名を見たら大抵の人は、ワイには関係ないわーいって放り出すレベル。
「橘はちゃんと決まったのか?」
俺は後ろを振り返り、付いてきていた橘に尋ねた。
躊躇った割に、いざ口に出してみればどうということのない質問だ。
「文系よ」
「……そっか」
「ええ。父の仕事を継ぐことを考えたら、社会経済の勉強のほうが役に立つと思ったから」
「そうだな。……いい選択だと思うぞ」
「私もそう思うわ」
その視線はただ一点を見つめているように見えた。
もうそこには先日見た弱い橘美幸などいなかった。
己を持ち、前をまっすぐ見つめる、強い人間。
俺が敬服すらした大人びた少女の姿だ。
彼女は正しい選択をしたと思う。
けれどだ。俺はふと考えてしまう。
俺がもし相談を受けたあの日、橘の問に答えて仮に『理系のほうがいい』とでも言っていたら、彼女の選択は変わっていたのだろうか? ……俺たち三人が同じ教室に入る未来もあったのだろうか?
そんな幼稚な考えが浮かんでしまう。
だがそれを言うのは野暮というものだ。
これは彼女の人生の選択で、そこに俺の介入する余地など無い。
……それに、各々の道を歩き出した俺達には、後ろを振り返って分岐点を見つめ直すようなことをしても、何ら意味などないのだから。