イケてるか否かは置いといて
冬休み明けの実力考査も終わり、ストーブで加温された教室。石田ゆり子似の国語教師の、高くはつらつとした声が響いている。実年齢が五十代だそうだが、とてもそうは見えない。
しかし教師の歌うような声も、虚空の彼方に飛んでいっているようだ。
若干名意識が消失していることも含め、生徒たちの顔が能面のようになっている原因は言うに及ばないことか。
センター試験を目前に控えた三年生はともかく、正月明けの一年生の間にはどこかけだる気な空気がまとっていた。
ストーブの燃焼が惹起する低酸素と、高濃度の二酸化炭素もそれを手伝っているのだろう。
……かく言う俺も、この通り意識が現から異世界に飛ばされている。気づいたら、古典の授業を受けていたはずなのに、ノートにはミミズのはったような字で、数式が書き連ねてあった。
センター試験に日本の受験生が震え慄くちょうど同じ時期、神宮高校では、予餞会、すなわち三年生を送る会の準備が着々と進められている。
試験が終わった数日後に、二次試験を迎える先輩たちの激励とねぎらいの意味も込めて、世話になった感謝を込め、楽しませようという会だ。
具体的に言うと、各クラスが寸劇を作ってそれを見せるというもので、予餞会当日は豪華にも市民ホールを貸し切って、執り行われる。
時間の制約上、当日演技ができるのは四クラスまでで、出演クラスはそれまでに選考会を通して決定される。
そんなことを考えながら、目立たない程度に伸びをしたところで、チャイムが鳴った。
気分を変えるために、カフェインでも投与しようかと、自動販売機に飲み物を買いに行くため、教室を出た。
校舎と武道館とをつなぐ、渡り廊下の途中にある一角に自販機が設置されている。
そこで缶コーヒーを買い、すぐそばの第二体育館の軒下、風がしのげる場所に潜り込む。冬場は滅多に人が来ないので俺のお気に入りの場所だ。
温かいコーヒを口にして、プラセボのせいかは知らないが、頭がはっきりしてきた。
ぼーっと、このあとの授業のことを考えていたときのこと。
ガコンと飲み物の容器が落ちる音が聞こえた。
誰かが来たのだろう。自販機はここからでは見えないので誰が来たかはわからない。
そのままズズッとコーヒーを飲み干して、缶を捨てて教室に戻ろうとした。
立ち上がって見てみれば、そこにいたのは、綿貫萌菜執行委員長だった。飲み物を両手で持って、ぼんやりとした表情で、渡り廊下の柵に腰掛けている。それだけで絵になるのだから美人というものは憎いなあ。
挨拶でもしようかと近づいた矢先
「死にたい」
ポツリと彼女はそう呟いた。
一瞬
『目からビーム出すのやめてもらえるかしら? 死にたいの?』
と誰かさんが言いそうな台詞を言われたのだと思って、凍りついたのだが、そういうわけではないらしい。
……学校一の才女ともてはやされる彼女であっても、辛いことがあるのがこの世の中。どうりで、俺の高校生活もしんどいわけだ。
「萌菜先輩、どうしたんすか? こんな寒いところで」
それはお互い様ではあるが。
「……花丸くん」
彼女はまさか後ろに人がいるとは思っていなかったようで、目を丸くしている。
「どうもっす」
ペコリと頭を下げた。
「……えっと、聞こえてた?」
彼女は気まずそうに頬をかいた。
「聞いてないって言っても、信じないでしょう」
「そこを分かっててあえて聞いてないっていうのが、イケてる紳士なんだよ」
「生憎、俺はイケてる紳士とは真逆の存在でしてね。それにお袋には嘘つくなって育てられたもので」
わーい。先輩が笑ってくれたぞ。……鼻でだけど。
「……なんかあったんすか?」
「ちょっとね。……自己嫌悪してた」
と彼女は自嘲するような笑みを浮かべた。
俺がイケてる紳士ならそこで、『あなたが自分のこと嫌いでも、俺がその分あなたのことを好きでいますよ』みたいな台詞でも吐いたのだろうが、悲しいことに俺はイケてないので、そんなことは言わない。
その代わりぶっきらぼうに青臭く言う。
「……俺で良ければ話聞きますけど。お悩み相談は随時受付中なんで」
「君に話してもどうにもならないと思うけどな」
曖昧に浮かべたその笑顔が誰に向けられたものかは判然としない。
「そういうとき、橘はなんて言うと思いますか?」
「さあ?」
「『花丸くんが女の子の悩みを解決できるわけがないじゃないですか。でも路傍の石に愚痴をこぼす、とでも思えばいいんです。というかそれくらいしか花丸くんの使い道はないですから』っていうんですよ」
「あはは。なるほどね」
俺はそれ以上何も言わなかった。こういうものはしつこく聞いても、いいことなんてないと、よく知っていたからだ。彼女に話す気がないなら、放っておいてやるのも優しさだろう。
だが萌菜先輩は、話すという選択肢を選んだ。
「私さあ、好きな人がいるんだ」
「はい」
「でも、立場上その人を好きになっちゃいけないの」
「なるほど」
「その人を好きな子がいて、その子は私にとっても大切な人だから。なのに彼に優しくされて、嬉しそうに照れてる自分が心底憎い」
萌菜先輩は言った。
俺はクリスマスの時に会った彼女のことをぼんやり思い出した。
どれだけ他の人から頼られ、尊敬される彼女であっても、一人の少女であることには変わりなく、胸高鳴らせることは当然のこととしてある。さすような心の痛みも同様だろう。それが人並みの悩みであっても、俺は意外だとか、がっかりだとかは全く思わなかった。
「……自分を呪いたくなるって気持ちには、共感できます。俺オールウェイズそれなんで」
「……私と君のとはちょっと違うと思うけどな」
と先輩は苦笑いした。
俺が言えることなんてそうはない。彼女が取るべき行動など最初から決まってると言っても過言はない。
俺ができるのは背中を押してやることぐらいか。
「先輩ってうじうじ悩むのと、当たって砕けるのどっちが好きですか?」
「何を?」
「先輩が今辛いのは、自分が自分じゃないみたいだからですよね」
「まあ、そうとも言えるかな」
「弱ってる私は私じゃないって思ってるんですよね」
「そう……なのかな?」
「こんな姿を見せるのは花丸くんだけよって思ってますよね」
「それはない」
「……ともかく、なら答えは決まってるでしょう」
「ん?」
「いつまでも私に振り返らない、どうしようもない男に盛大に餞をぶちかましてやろうじゃないですか。先輩には役得というやつがあるんでしょう?」
と俺は含みを持たせて発言した。
それを聞いた萌菜先輩は、しばし逡巡するようだったが俺の言った意味を解したのか、ニヤリと笑って
「私をこの学校にいられなくするつもり?」
と目を細める。
「ボッチも慣れればそんなに悪くないですよ」
「君はボッチじゃないでしょう」
「……じゃあ先輩も放送部入りますか? たとえ周りがどうなっても、俺はずっと先輩の味方なんで」
「それは遠慮しとく。美幸ちゃんが、君が私を誑かしたって騒ぐに違いないから」
それはある。シャブ漬にしたとか、弱みを握ったのだとか言われる。ひどいな、おい。
続けて萌菜先輩は
「君の口車に乗せられるのはいけ好かないけどね。この悪魔くん」
と言った。
*
「花丸は特に変更はないな」
俺は準備室のようなところで、担任の井口先生と椅子に座り対面していた。
生徒と教師の二者面談だ。主たる内容は二年からの文理選択についての最終決定である。
「そっすね」
「そう。お前は問題ない。問題なのは、彼女の方だ」
「彼女?」
「橘だよ」
……!?
「いや俺あいつと付き合ってないですけど?」
「ん? ああ、そうじゃなくて、単にsheの意味で使った。彼彼女の彼女な」
「……あ、今の聞かなかったことにしてください」
やっべ、超恥ずかしい。
井口先生は何も言わなかったが、しばらくニヤニヤしていたので、危うく俺が不良になるところだった。
井口先生は咳払いをしてから
「橘のやつ、まだ迷ってるんだよ」
「はあ。……まあ、人生変わる可能性もあるわけですから、悩むのは当然でしょう」
「全くそのとおりなんだが。……橘ならどの進路でも大丈夫だと思うんだけどなあ」
「だから悩んでるんじゃないですか?」
「……だよなあ」
というかこれ一応俺の面談だよね? なんで橘の話してるのかな? 確かに俺とあいつは部活仲間で、あなたはうちの顧問ではありますけど。
「何で悩んでいるのか聞いても、『ちゃんと考えてますから』しか言わないし、俺もお手上げなんだよ。……花丸、なんか言ってやってくれよ」
「そう言われましても」
橘美幸は俺がなにか言ったところで、動かされるような人間ではない。
「どうしたもんかね」
言って、井口先生は腕を組み、背もたれに体を預ける。
「あいつのことだから最後にはちゃんと決めるとは思いますが」
「だといいんだがなあ」
結局俺の話はほとんどせずに面談は終了した。
*
ホームルームも終了して、その日の放課後。
「橘、ちょっと話あるんだけど。……いいかな?」
クラスの男子が、俺と一緒に部室に行こうとしていた橘に声をかけてきた。……確か鈴木だったか。
父親がこの学校の教師をしているらしく、生徒たちはその教師をパパと呼んでいる。
当の息子の方はこんがりと肌が焼けていて、どのクラスにも一人はいそうなチャラチャラしたやつだ。あとすごくどうでもいいけど、女にモテるようだ。滅びればいい。
ハンドボール部に所属している。つまり偏差値七十のハンドボール部のメンバーである。どうでもいいけど。
……。
教務部は人道的なので、差別と戦争の火種になる、部活ごとの平均偏差値を出す、というようなことはしていないから本当のところはわからないが。
偏差値七十の部活と言ってもクレバーな戦いをするとかそういうわけではないらしい。
バレー部なんかは、他校の試合中、試合そっちのけで勉強する姿を、今年着任した体育教師で、バレー部の顧問となった教師に見せて、「何だこいつらは」とため息をつかせたという話も聞く。
この間、体育館の放送設備の調整に行った際、そんなバレー部の練習を少し見学していたのだが、
「上がったぞ! ma=Fだ! 落下点予測!!」
セッターが声を出して、レシーバーに運動方程式を解かせようとしている。要するに馬鹿である。
「とうっ! 力積I!!」
計算で予測したのかは知らないが、後衛が物理用語を叫びながらボールに飛びつく。要するに馬鹿である。
「運動量!」
セッターが掛け声とともにトスを上げる。要するに馬鹿である。
「喰らえ! 運動エネルギー!」
そう言ってアタッカーが、スパイクをした。要するに馬鹿である。
だからお前らには彼女できないんだよ。
………………こほんこほん。
とりあえずバレー部は今年もインターハイは無理そうだな。
それはそれとして。
鈴木に声をかけられた橘は振り返って
「何かしら?」
と聞き返した。
俺に用はなかったみたいなので、部外者去るべしと思い
「俺先行ってるわ」
そう言って一人で行こうとしたのだが
「別に待っていてもいいでしょう」
と橘に引き止められる。
「いやでも」
俺は良くてもこいつが気にするんじゃないか?
「橘と話がしたいんだけどな」
俺の思ったように鈴木は言ってきた。
口調こそ柔らかいが、暗に俺に失せろと言っているようなものだ。
それに対し橘は
「だから何? 他の人がいたら困るような酷いことを私に言うつもり?」
「……分かった」
橘の気を立たせても仕方ないと思ったようで、鈴木は観念した。
それから息を整えるように呼吸をしてから口を開いた。
「俺、君が好きなんだ。だから──」
「あらそう。ところでお名前なんだったかしら?」
敵に隙を与えないのは、勝負の鉄則だが、実生活で実践するとそのうち刺されますよ、あなた。
「っ! ……鈴木理仁」
鈴木は衝撃の余り口をパクパクさせていたが、なんとか声を振り絞って言った。
「そう、そんな名前だったわね。それでススキくんは私のどこが好きなの?」
鈴木くんです。
「美人だし、可愛いところ」
「他には?」
「……声も好きだ」
「それで?」
「全部好きだ!」
これだけ愛を叫ばれれば、全くの部外者である俺でさえ聞いていてこっぱずかしくなる。
けれど言われている当の本人は涼しい顔で
「ありがとう。でもごめんなさいね。私はあなたの事好きじゃないの。だから鈴乃くんとはお付き合いはできないわ」
「……まじか。………………まじか」
だから鈴木くんです。
「きっと鈴鹿くんのことを好きになってくれる人が現れるわよ。私は違うけど」
「……」
もうやめてあげて!
「ではそういうことだから。……花丸くん、行きましょう」
俺たちは灰になった可哀想な鈴木を残してその場を後にした。
「なんで断ったんだ?」
道すがら、隣を歩く橘に尋ねてみる。
「なんでって、好きでない人と付き合えるわけないじゃない。私佐々木くんのことなんてこれっぽっちも興味なかったのだから。……それに馴れ馴れしく呼び捨てにしてきたし」
「うーわ辛辣。しかも鈴木くんだし」
「それに彼、外見的なところばかり褒めたじゃない。そんなのは嫌だわ。見てくれだけ気にするなんてつまらない人」
「それは分からんでもないが」
この子の内面に惚れるやつがいるのかどうか、非常に難しい問題だけどな。
*
相談内容:【雪が解けたら何になる?】
「洪水」
「情緒の欠片もないわね」
「じゃあお前はなんて答えるんだ?」
「雪が解けたら、暴走族が騒ぎ出すわ」
「情緒とは?」
雪が解けたら春になる。
相談内容:【クラスの好きな子と手を繋ぎたい】
「繋げば?」
「花丸くん、知らないの? 無理にそんなことをしたら、セクハラになるのよ」
「セクハラと思われるような相手と手をつなごうとしている時点で無理がある」
「……えっと『寒いから手繋がない?』みたいな感じで誘ってみたらどうでしょう!」
「それは苦しくないか? まず、一緒に帰るという、ものすごく高い壁があるぜ」
「……それは……どうなのかな?」
「そもそも名前覚えてもらってない説ある」
「まさかそんな人いないでしょ。クラスの人だよ?」
それがいるんだよな。すぐそこに。
相談内容:【学校まで自転車で来ているのですが、最近朝が寒くて辛いです】
「冬は寒いから冬なんだぜ。春が来るのを待てばいい」
「そうしたら一生花丸くんは冬のままじゃない」
「どういう意味だ、こら」
「防寒対策をしっかりしましょう」
「無視すんなや」
「うるさいわね。いくら私が可愛いからって、ちょっかいを掛けるのやめてもらえるかしら」
相談内容:【予餞会の劇のことなんですが、人前だとどうしても上がってしまいます。どうすれば緊張せずに台詞を言えますか?】
「観客のことはかぼちゃかキャベツだと思えばいい」
「大根と人参では駄目なの?」
「そこ、気にするところじゃない」
「そういえばまるモンって人前でもベラベラ話せてるよね」
「花丸くんはもはや存在が公然わいせつ罪だから、口を開いたところで痛くも痒くもないもの。汚れてあるところは汚してもいいという心理が働く例のアレよ」
「ちょっと待って」
相談内容:【放送部の放送が好きです。特に花丸くんの喋りが面白いです。今度どこかでデートしながらお話しませんか?】
「花丸くん、自作自演はよしなさい。みっともないわよ」
「するかっての」
「あ、これ裏にクラスと名前書いてあるよ。……二年生の女子の先輩だね」
次の瞬間、ビリっと音がした。
「橘、何破ってんだよ!」
「手が滑ったわ」
故意にして悪意ありですね。はい。
「それに、きっと悪い人よ。行ったらひどい目に遭うわ」
「なんでそんなことわかるんだよ」
「あなたのこと奇妙な動物くらいにしか思ってないのよ。馬鹿にされて笑われるのが関の山だわ」
そうかそうか。橘さんは俺の事を馬鹿にして笑っているわけじゃないんだ!
*
放送も終え、部室の鍵も閉めて、帰ろうかという時の事。
家の用事を頼まれたらしい安曇は、さっさと下校して、俺と橘だけがのんびり日の沈んだ校内を歩いていた。
昇降口で靴を履き替え、夜風にぶるると身を震わせたところで、橘が俺に声を掛けてきた。
「花丸くん、ちょっと付き合ってくれないかしら?」
柄にもなく緊張しているのか、少し硬い表情で橘は言った。
嫌な予感がしないと言えば嘘になるが、何分真剣な表情でそう言ってくるので、断ろうにも断れなかった。
「……分かった」
そんなに酷いことにはならないと信じたい。