クリパとは?
今日は映画を見てから、橘の家で食事をすることになっている。
映画館は、俺たちが今いるビル、ミッドランドスクエアにある。ミッドランドスクエアはオフィス棟とモール棟に分かれていて、映画館はモール棟の最上階だ。
他の店を見つつ、エスカレーターで上まで登っていく。
橘はタイツを履いているが、どこぞの変態が、彼女の色香に惑わされて、スカートの中を撮ろうとするやもしれないので、エスカレーターを登るときは、彼女を前に立たせた。そういうことに気を使いすぎるということはないだろう。
でもそのせいで、俺が痴漢に仕立て上げられる可能性が出てくるけどね。
だから俺は下を見る。ちょっとでも視線を上に動かせば、学校で一番長く一緒に過ごしている、信頼すべき友達に「この人痴漢です」って騒がれる危険が爆上げするから。
友達とは? 仲間とは? 信頼とは? という問いが鎌首をもたげてくるが、考えなければ問題にはならないのでセーフ。みんなアミーゴ。
……そうか。
駅の階段でおじさんたちが下を向いてるのは、このクソみたいな社会に絶望してるからじゃなくて、人生終わらせないためだったのか。なるほど。なんて前向きな理由なんだろう!
……何もしなくても痴漢呼ばわりされる時代だからな。しょうがない。
何もしなくてもというのは語弊があるか。正確には匂いを嗅ぐのも駄目ということだ。つまり女性の近くでは息を止めましょう、ということです。
最近じゃ女の人の近くで、呼吸しただけで捕まるらしいよ、奥さん。いやですわ。つまり男は死ねということですね。そうすれば人類滅んで性犯罪もなくなるから万事解決ですわ。……ヤッタネ!
というかそもそも字からして、男女差別じゃないですか?
痴れる漢ってひどくない? 痴漢するは聞くけど、痴女するって言わないよね。これは流行りに乗っとって、痴人すると言い換えるべきでは?
言いにくいですか、そうですか。
「なんかいいよねここ」
俺が頭を垂れながら、人類の行く末について真剣に考えていたところで、安曇のはしゃぐような声が聞こえてきた。
「……て、何でまるモン俯いてるの?」
「落ちているエサでも見つけたのかしら? 意地汚いわね。顔を上げなさい」
俺は顔をひきつらせながら
「おい、せめて硬貨ぐらいにしとけよ。エサってなんだよエサって」
そう言って、顔を上げるやいなや、
「スカートの中を覗こうとするのやめてもらえるかしら? お仕置きされたいの?」
結局そうなるんだ!?
「……で、なんか用だったか?」
俺は安曇の方を見て尋ねた。
「えと、なんか建物が都会って感じで良くない?」
「ネイティブカミノミヤンは名古屋来ると興奮する風土病にでも罹ってるのか?」
土着の神宮の民を尾張では、ネイティブカミノミヤンと言う。言わない。
「なにそれ?」
安曇はキョトンとした顔をする。
「花丸くんこそ、興奮しているでしょう。さっきから鼻息荒いわよ」
「名古屋に来たぐらいじゃ興奮しないし、鼻息も荒くない」
だってほら、アキバとか、スクールアイドルとか、江ノ電とか、野生のバニーガールとか、京都駅前とかのほうが、興奮しない? 名古屋、あんまアニメに出てこないじゃん。電波飛ばして、かまってちゃんするのに、みんな名古屋飛ばしするじゃん。終いにゃ、えびふりゃーってサングラスのおじさんにいじられるじゃん。
きっとこれはあれだよ。陰謀だよ。悪の組織が名古屋を舞台とするのにストップを掛けるんだよ。表現の自由の侵害だよ。これは表現の不自由展を開いて抵抗するべきでは?
というわけで、公費をじゃんじゃん注いで、芸術を盛り上げてこう! これはナショナリズムというか、ナゴヤリズムに忠実なのでセーフ。公共の福祉に反しないはず。愛知県民、愛知大好き。つまり日本大好き。ほんとヨ。モトキウソツカナイ。
でも一応アピっとこ。
天皇バンザイ!!
やっべ、涎出てきた。
「つまり、私の黒タイツに興奮して、息が荒くなっているということね」
と身震いする橘さん。
「なんでそうなるぅ?」
「あら、あなた生足のほうが好きな人?」
「違うそうじゃない」
「つまりどっちも大好物ということね。あなた最低ね」
「ほんっとサイテー」
えぇ……。
彼女らの冷ややかな視線を受け、あれなんの話だったっけ? と逡巡する。……ああ。
「……こういうののデザインって、誰がするんだろうな」
俺はビルの内装を見ながら呟いた。確かに安曇の言うように、郊外に建てられるショッピングモールとは違って、よく趣向が凝らされている気がする。
「何の話?」
話し始めた当人が忘れてるよ。
「安曇が、この建物洒落乙きゃわわって言ったんじゃん」
「……そんなこと言ってないし。……建物の設計だから、建築士とかかなあ?」
「ふーん。……建築士って一級とか二級とかあるけど、あれってどう違うんだ?」
と尋ねたら、安曇は肩をすくめた。
「えー、分かんない」
知らなければどうにかなるということでもなかったから、その話題はそれきりになった。
*
映画館では「私じゃなくて映画見なきゃだめよ」と橘に意味不明なアドバイスを受けながら、要約するに女子が白馬に乗った王子様と出会ってキャッキャウフフするお話を、三人で見た。
……。
くそう。じゃんけんに勝てば、ライトセーバー振り回しながら、遠い昔遥か彼方の銀河系に行けたのになあ。
あまり言うと、じゃあ男向けのラブコメは微分したら全部、鈍感最低主人公がハーレム作る話だろって言われた時、何も言い返せないので、ここらへんで黙っておこう。
……。普通、何度もアピールされたら気づくよな。あいつら馬鹿かよ。
そんな考え事をしていたら不意に
「美幸ちゃんと私、どっちが可愛い?」
「え? なんだって?」
俺は驚いて彼女たちの方を見た。
……ああ、びっくりした。服の話か。
二人は各々、店の服を試着して、俺に見せるようにそこに立っていた。
「安曇のはデザインがいいけど、暖色系のほうが似合うんじゃないか? 橘はちょっと着膨れして見えるかな」
「……まるモンって細かいところあるよね。面倒くさ」
「本当。自分はださい格好していても気にしないのに」
「君ら、聞いといてそれはないんじゃない?」
本当、僕に対して辛辣じゃないかな? え、何? 俺が悪いの?
*
「あ、ごめん。ちょっと寄りたい所あるんだけど。……薬局かな」
ミッドランドスクエアを出たところで、安曇が言った。安曇は今日、橘の家でクリスマス会をしたあと、そのまま泊まることになっている。それで必要なものを買い足したいんだろう。
「駅にマツキヨとかあったっけ?」
俺は名古屋っ子の橘に尋ねる。
「ええ」
「じゃあ寄るか」
「ごめんね」
安曇が申し訳なさそうに言った。
「花丸くんはそんなこと気にしないわ」
「……確かに気にしないけど、お前が言うなよ」
なんだかなあ、と自分の威厳のなさを情けなく思いながら、トボトボと女子二人の後について歩いていく。誰が先導するでもなかったが、目的の店には迷うことなく辿り着けた。
俺は特に買うものはなかったので、安曇がヘアゴムやら歯ブラシやらを選ぶのをボーッと眺めていたわけだが、
「安曇さん。歯ブラシなら予備があるわよ」
「え? でも、いいよ。迷惑かけらんないし」
「そのくらいどうってことないのに」
「……いいの?」
「ええ」
「分かった。じゃあ、貸してもらうね」
そんなやり取りを傍で見ていたら
「花丸くんも買わなくていいわよ」
と橘が言う。
まあ、泊まるわけじゃないし、家に帰ってから磨くのでも俺は構わない。
「分かってるよ」
「ええ。トイレに丁度いいブラシがおいてあるから」
「……おい。お前さらりと酷いこと言ってない? なにそれ? いじめ? 俺の事いじめてんの?」
「安曇さん、他は大丈夫かしら?」
わあ、無視された。ほんとにいじめだよ。ピーティーエーに訴えてやる。
相談内容:女の子に相手にされないんです。
何それ。ただの残念なやつじゃん。