とある病院の一室で
伊吹おろしの乾燥した冷たい風が吹き荒ぶ冬の尾張平野。そんな冬の空気との間に窓一枚を挟み温んだ部屋の中、一人の少女の息遣いを聞きながら、俺は文庫本のページを繰っていた。
「最近寒くなったね」
カーテンで仕切られたその空間の、中央を占めているベッド上の人物が言った。
「そうだな。……伊吹山も雪被ってるみたいだしな」
「もうすっかり冬だね」
「そうだな」
「学校楽しい?」
「まあ。ぼちぼち」
俺がそういったところ、彼女はコロコロと笑った。
「俺なんか変なこと言ったか?」
少女はひとしきり笑ったあと、
「ううん。前までは、『学校? あんな監獄楽しいわけ無いだろ』とか言ってたのに。変わったなあって思って」
と言った。
「……なんでもつまらないと思えばつまらなくなるし、楽しいと思ったらそこそこ楽しくなるってことに最近気がついたからな」
「なんかいいことあったんだ」
とニヤニヤしながら俺の顔を見て、聞いてくる。
「そんな事は言ってないだろ」
「ううん。なんかあったんだよ」
「なんもねえって」
「ふーん」
いいことなんて本当ない。テストはしんどいし、クラスメートの女子におちょくられるし、美人な執行委員長にはこき使われるし(それはご褒美)、ひねもすため息を付きながら過ごす俺の高校生活に、どんないいことがあるというのだろうか。
「……クラスに可愛い子とかいないの?」
俺はちらと、長い黒髪がよく似合う、口の悪いクラスメートのことを思い浮かべた。あれを可愛いと思い始めたら、俺も末期だな。
「……いない」
「いるんだ」
そう言って彼女はまた笑った。俺は自分でも表情豊かな方だとは思わない。けれど彼女には俺が何を考えているかすっかり分かってしまうらしい。
「別に何もねえよ。……ちょっと話すだけ」
「よかった。げんきくんが楽しんで学校行けるようになって。誰かはわからないけれど、げんきくんと仲良くしてくれている子には感謝しなきゃだね」
「お前は俺のお袋かよ」
そういったところ、彼女は曖昧に笑った。
「普通に学校に通えるっていうのは素晴らしいことなんだよ」
「……そうだよな。すまん。無神経だった」
俺はそのことだけはどうしても、否定することはできなかった。特に彼女の前では。
「わかればよし」
普通であること。特徴のないこと。無個性。単調。それらの言葉が表すのは、後ろ向きなものだろう。けれど人々は知らないのだ。普通であることがどれだけ幸運なことかを。
人というものは自分の幸福を認知することができない。たとえ誰かから見れば幸福であったとしても、当の本人はそれに気づかず、更に幸福になろうとして、今の自分を否定し、自分は不幸せで恵まれていないと言うのだ。
たらふく食べ、ものに囲まれ、物質的に豊かな生活をしているのに、現代人はいつまで経っても精神的に豊かになることができない。
豊かになろうとして必死に生きて、心をすり減らして、精神的にどんどん貧しくなっていくのだから救いようがない。
「ねえ、いい?」
彼女は目配せしてくる。彼女の言わんとしていることを俺はすぐに理解した。
俺はベッドに座っている彼女の方へと近づいて、脇の間に手を差し入れて、車椅子へと移してやった。
それを押して、病室から出て、トイレへと向かう。
彼女のトイレの世話をしている間は、俺も彼女も何も言わなかった。
この病院は十分な数のスタッフを用意してはいるが、流石にすべての入院患者につきっきりの世話をするほど人手に余裕があるわけではない。間に合わなかったときのことも考えて、自力でトイレに行けない人はおむつをしている。
彼女もその一人だが、彼女の母親や、俺がそばにいるときはこうして彼女のトイレを手伝っているのだ。
トイレを出てから
「私、元気くんの足引っ張ってばっかだなあ」
と彼女は至極申し訳無さそうに言う。彼女はいつだってそうだった。俺はそんなふうに考えていないのだが、彼女は人に助けてもらうことにひどく引け目を感じているのだ。
俺は彼女の前に回り込んで、視線を合わせるために膝をついた。
「そんなこと言うなよ。俺はこうして病室に来て、お前と話しながら、静かに本を読んでいるのが好きなだけさ。俺が好きでやってることなんだから、お前がそれで足引っ張ってるとか考えるのは変だろ」
「でもこんなことまでさせてる」
「……出先で何回かやってるし、今更なにか思うことはない。だから気にすんな」
もちろん俺だって、彼女が羞恥心を感じていることぐらいは分かっている。
昔、トイレに行きたいのを言い出せなくて、俺にそんな姿を見せるのが嫌で、我慢して我慢して、とうとう漏らしてしまったとき、彼女は泣いてしまった。
今でさえ、恥ずかしさのあまり、辛そうな顔をする。
その気持が容易になくなるようなものではないことは分かっている。
俺が彼女に対して抱く、遠慮がなくなることさえ彼女にとっては辛いものだということも理解している。
だが他にどう言えばいいというのだ? 俺は彼女に対し、優しい嘘をつくことしかできないのだ。
「ごめんね」
「だから謝るなよ」
「どうしてそんなに私に優しくできるの? 私なんて救う価値ないってげんきくんが一番良く知ってるのに」
「……お前は確かに人としてやっちゃいけないことをやったのかもしれんが、だからといって俺がお前に優しくしちゃいけない理由にはならんだろ。それに俺は日本人だからな。遺伝子レベルで判官贔屓するように仕組まれてんだよ」
「げんきくんって馬鹿だなあ」
「よく言われる」
「でも私はもっと馬鹿だ」
そう言ってボロボロと泣き出してしまう。それから俺に抱きつくように、顔をうずめてきた。
「大丈夫だよ。大丈夫」
彼女の背中を擦ってやりながら、俺は言う。
「今までずっと頑張ってきたから、ちょっとずつだけど動くようになったんじゃないか。今度からTMSっていう新しい治療始めるんだろ。きっともっと良くなるし、歩けるようにもなるさ」
「うまく行かなかったら?」
「うまくいくよ。だから、泣くのはよせ」
「……うん」
彼女は鼻をすする。俺は彼女の代わりに、濡れた頬を拭いてやる。
「私のこと、見捨てないでね」
「そんなことしねえよ」
「本当?」
「本当だ」
それが俺の責任だから。
「じゃあ、はい」
彼女は不器用な手を動かして、苦労して小指を立てた。
俺は何も言わず、自分の小指を彼女の小指に絡ませた。
「約束よ」
「ああ約束だ」