コースセレクション
運動着に着替えて家を出た。頬を叩く風はすでに冷たく、乾燥した空気が目にしみるようだ。
玄関の前でちょうど学校から帰ってきた穂波とすれ違う。
「お兄ちゃんどこ行くの?」
「ちょっと運動」
「ふーん。……対外コミュニケーションにもそれぐらい気を使えばいいのに。特に女の子との会話」
「あ? 女子に気に入られたところで、飯は食えんし、長生きもできんだろ」
「体ムキらせたって同じでしょう。お兄ちゃん、アスリートになるわけじゃないんだから」
「るっせえ」
妹の小言を振り切るように、俺は走り出した。
車通りの少ない、静かな道を選んでリズミカルに足を運んでいく。今日は体調がいい。いつもより少しだけ距離を伸ばそうかと思い、通学路に沿って、走っていった。
高架近くに南北に細長い公園がある。平日ではあるが、俺のようにジョギングをする人、犬の散歩をする人、近所の小学生など、様々な人がいた。
公園の中にある遊歩道を走っていき、途中の広場で立ち止まった。
鉄棒とベンチがあるしちょうどいいな。
そこで、腕立て伏せ、スクワット、V字腹筋、懸垂を順にこなしていく。
懸垂をするため、鉄棒にぶら下がって、ふんふん言っていたところで
「まるモン、……何してるの?」
と何者かの声がした。
疲れてくると幻聴が聞こえるというのはよくあることだ。頑張れ俺。
フンッフンッ。
「まさかの無視!?」
目標回数に達したので、鉄棒から手を離し、地面に降りた。
それから後ろに立っていた御仁の方に向き直る。
「ムフゥー」
彼女の顔を見つつ、鼻から息を吐き出した。
「ムフーじゃないし。ほんとに何してんの?」
汗だくの俺に対面するその人、安曇梓は呆れるような口調で再び尋ねてきた。
「見てわからんのか? 鍛錬だ」
「……鍛錬って。脳筋みたいなこと言い出したね」
脳筋とは失敬な。
「いいか。精神というものは、形而上的なものとして捉えられることが多いが、そうじゃない。精神の中枢は脳にあり、脳は構造的な器官だ。つまり体を鍛えれば、脳も鍛えられる。健全な精神は健全な肉体に宿るということだ」
「ごめん。何言ってんのかわかんない」
どうやら安曇さんには難しい話だったらしい。俺もこの域に達するのにはかなりの時間を要したからな。それも致し方ない。
「安曇こそ何してんだ?」
俺は腰に手を当て息を整えながら、尋ねた。
「格好見てわかんない?」
彼女はピンクのラインが入ったスポーツブランドの白いジャージに身を包み、ランニングシューズを履いていた。
「……今晩の夕食に必要な食材が足りないことに気付いて、コンビニにルームウェアのまま買いに来た、的な? 俺の長年の経験からすればかなりの確率で買いに来たのはポン酢だな」
お袋がよく餃子の日にポン酢を買い忘れるのだ。……まあうちの場合は、醤油にカボスを入れて済ましちまうんだけどな。美味いからいいんだけど。
「シチュエーションが細かすぎるよ!? ていうか違うし! ランニングだし!」
「ほぇー。ようやるな」
「部活じゃあんま動かないからね。美幸ちゃんも運動してるらしいんだけど、流石に名古屋は遠いから」
なるほど。一緒にはできないと。
「別に部活の時間にやるんでもよくね?」
「……それはちょっと。周りに見られるとさ……ね」
と分かるでしょとでも言いたげな表情を見せてきた。
……ああ、放送部に移った彼女が、元部活仲間の視線を受けながら、校内で運動するのは少し酷か。
「喉乾いてない?」
と聞いてくる。
暗にどこかで飲み物を飲まないかと誘っているのだ。
「わりい。金持ってきてないんだわ」
走っているときにチャリチャリするのは、どうにも好きになれない。
「じゃあ、おごるよ」
「いいのか?」
「いいよ。そんぐらい。カフェオレでいい?」
彼女はそう言って、公園の隅にあった、自販機で彼女は自分の分と俺の分を買って持ってきてくれた。……カフェオレ一缶のカロリーって多分、走ることで消費されるカロリーより多いんだよなあ。
俺は痩せてるぐらいだからいいけどさ。
「……前にもこんなことなかったか?」
缶を受け取りながら、彼女に尋ねた。
「何が?」
「俺が安曇に飲み物を奢られるという状況に、既視感を覚える」
「……さあ? そんなことあったかな」
と安曇は視線を右上に動かしながら言った。
「じゃあ、気のせいか」
「そうだよ」
そういえば、今年に入ってから、女子に奢られることが何回かあった。橘とか、橘の母親とか、そして安曇とか。多分そこらへんの記憶がごっちゃになって、訳のわからない既視感を俺に想起させたんだろうな。
俺たちは手近にあったベンチに腰掛けた。
ベンチに座る彼女は、太ももの間に手を挟んでいる。
「なんかあれだな。そうしてると運動部のマネージャーっぽいな」
「そうかな?」
言って彼女は自分の格好を見直した。
「いもっぽい?」
「え、いやあ、そうじゃなくて、なんというか」
いもっぽいというより、むしろイモーショナルである。
額に光る彼女の汗を見るに、結構なペースで走っていたと見える。
カフェオレを飲む彼女の白い喉元が、液体がそこを通るたびにコクコクと上下する。女子の上気した肌というのはどうしてこんなにも艶っぽく見えるのだろうか。
首筋を流れる彼女の汗を見ていると、なんだか、女子マネージャーと二人だけで抜け出してきて、いけないことをしてる感覚に襲われる。
……。放課後、女子マネージャーという二つの単語が並ぶとあれな感じがするのはなんででしょうかね。
……いけない、いけない。モトキは悪い子。モトキは悪い子。これはご主人さま(安曇)にお仕置きをして貰う必要があるのです。じゃなくて!
心頭滅却!!
これはあれだ。シチュエーションにちょっと興奮しちゃっただけで、安曇さんに対していやらしい感情を抱いたわけじゃないから、セーフ。悪いものがあるとすれば、男子高校生に発情期を付与したこの世界の創造主だ。だから俺は悪くない。
……こほんこほん。
俺は自分の邪な考えを誤魔化すために、言葉を発する。
「……あんま女子が一人で出歩いていると、変態さんに襲われちゃうぜ。最近物騒だからな」
この世にいるのは俺みたいな聖人君子ばかりではないのだ。
「え~。なんかまるモン、お父さんみたいなこと言うね」
「パピィ?」
「うん。まるモン、ちょっとお父さんに似てるかも。ひねくれてるし、よくわかんないこと言うし」
えぇ……。
「でも面白くて、すごく優しいんだ。……だから好き」
「……へえ、そうなんだ」
「うん。大好き」
あらやだ。安曇さんたらファザコンなのね。……まあ法被来て、一緒に祭りに出るくらいだしな。
「ほーん。でも、それは俺じゃなくて親父に言ってやることだな。すげえ喜ぶと思うぞ」
「そうかな?」
「私、パパのお嫁さんになる!! みたいな」
言ったら安曇はさっと顔を赤くした。
「そんなこと、この年になってまで言わないし!」
あっ……。昔は言ってたんだ。いや、別にいいんだけどさ。
「ゴミ箱あったっけ?」
俺はキョロキョロと空になった缶を捨てようと、あたりを見回した。
ベンチからおよそ五メートルほど離れたところに、ゴミ箱を発見した。
……。
特にそれをする意味もないのだが、その場から入れようと、投げる構えをした。
「もう。まるモン行儀悪いよ」
と安曇が俺のしようとしていることに気づき、窘めるように言った。
「これ入ったら明日いいことがある」
「なにそれ」
安曇は笑った。
「……勝負する?」
「え?」
「缶を入れられたら勝ち」
「いいけど」
「じゃあ私先行ね」
安曇はベンチから立ち上がって、ゴミ箱に正対した。
すっと腕を上げて、缶を放る。
缶は空中を回転しながら、緩いカーブを描いて、すっぽりとゴミ箱に入った。
「私天才かも!?」
と見事一回で成功させた彼女は、顔をほころばせた。
「じゃあ、まるモンの番だよ」
「これは絶対入れなかんな」
男花丸、一世一代の大勝負(大げさ)。
俺は構えた。
缶をリリースするまさにその時だった。
「まるモンが勝ったら、何でもいう事聞いてあげるね」
え?
放たれた缶は虚しく地面に落ち、カランコロンと音を立てた。
「あーあ、外しちゃった。私の勝ちだね」
と安曇は楽しそうに笑った。
「今のずるくね?」
全く、高木さん……じゃなかった、安曇さんめ。
「何が?」
「投げる瞬間になって、そんな変なこと言うとか」
「変なこと? もしかしてエッチなことでも考えたの?」
「そ、そんなわけないじゃないかあ。僕は花丸くんだぞ?」
「ふーん」
とニヤニヤ笑っている。……くそう、信じていないな。
「でも私の勝ちだよ。……何してもらおっかなあ」
えぇ……、そのルール安曇さんにも適用されるんだ。
「うーん。今すぐには思いつかないなあ。……なにか思いついたらお願いするね!」
「お手柔らかに頼んます」
まあ、橘さんじゃあるまいし、無茶なことは言わないだろう。
*
相談内容【放送部の皆さんは学校の成績も良いとお聞きしました。何か勉強する上でコツがあったら教えて下さい!】
「あー、えっと、私はそんなにぱっとしない成績なんだけど、確かに二人はすごく成績いいですね。何かコツってあるの?」
「コツねえ。……コツコツやるしかねえんじゃねえの?」
「私は授業をちゃんと聞いて課題をしっかりやっているわ」
「一回じゃなかなか覚えられんから、何回も繰り返すのは大事だよな」
「……えっと、ということで、頑張れ! だそうです」
相談内容【一年生はもうすぐ文理選択をしなくてはいけません。僕には恋人がいるんですが、彼女は僕の行く方に行きたいと言っています。自分の進路なんだからちゃんと考えて決めなさいと言ったら泣かれました。どうすればよかったのですか?】
「……」
「……」
「……」
「これはあなたが正しいと思うが」
「恋人と一緒にいたいと思うのは普通だと思うけどなあ」
「いやこれはそういう問題じゃないだろ。自分の人生の選択を一時の感情のために決めちゃっていいわけないだろ」
「女の子の恋心を一時の感情とか言ってしまうから、あなたはいつまで経っても駄目なのよ」
「大体、進路が分かれたくらいで別れるような仲ならそれまでってことだろ」
「何を偉そうに。彼女いない歴イコール年齢の腐れ陰キャのくせに」
「盛大なブーメランを投げるなよ」
「私は可愛いから大丈夫」
それは理由になってないですよ。
「そんな悪いことなのかなあ」
と安曇が納得行かない表情をしている。
「……万が一、一緒のクラスになったときの事想像してみろ。絶対地獄だぜ。三ヶ月くらいしたら、朝、顔を合わすたびに『あっ……』ってなって、クラスが変わるまで、気まずい思いをしながら学校生活を送ることになる」
「すでに別れたときのことを考えている!?」
「高校生カップルは破局確率99.9999%だからな」
「シックスナインて何?」
「9が6つ。99.9999%つまりほぼ確実ってこと」
「そんな高くないよ! ……多分95%ぐらい」
ふと橘を見てみた。だんまりを決め込んでいる。
「……」
なんか顔赤くなってるし。
「橘さんはなんで顔赤くしてるの?」
「別に。本を読んでいてわからない言葉が出てきたら調べるようにしているだけよ。……私はいけない子なんかじゃないから」
この子は果たして何を言っているんですかね?
*
放送を終えたところで、いつものようにお喋りをしていたのだが
「まるモンって進路調査票なんて書いた? もう出した?」
と先程の相談を受けてか、安曇が尋ねてきた。
文理選択の最終決定は来年の二月だが、十二月の調査時点で大体は決定になるらしい。
俺が何か言う前に、勝手に喋りだす暴走列車こと橘さん。
「花丸くんの進路希望なんて聞かなくても分かるわ。美幸ちゃんちのお風呂になりたいとか、いっそお風呂のお湯になりたいとか、美幸ちゃんの歯ブラシになりたいとか、口をゆすぐ水になりたいとかそんなところよ」
こいつの前世、絶対おっさんだろ。
そんな彼女の発言に対し文句を垂れる俺。
「なんでそんな寿命短いものばかりなんだよ」
「突っ込むとこそこなんだ!?」
と放送部の良心であるところの、安曇がいたって正常な人間の反応をする横で
「ま、まさか、花丸くん、私の家のトイレになりたいなんてすごく気持ち悪いこと考えてないわよね」
自分で言って自分で身震いしている橘美幸(十六歳)。
なんなの? 新手の遊びかな?
「今のも気持ち悪いし、さっきのでも十分気持ち悪かったぞ♡」
「……」
……ああそうそう。その汚物を見るような目。だんだん癖になってくる。
「美幸ちゃんはどっちにするの? 理系? 文系?」
とうとう安曇さんにも無視されるようになっちゃった今日この頃。
「そうねえ……」
言って彼女は俺の方を見てきた。
「花丸くんはどうするの?」
「お前んちのトイレだろ」
「変態死ね」
お前が言ったんじゃん。
「どうするのって、お前俺の進路調査票見てたろ、覗き込むようにして」
「別に見たかったわけじゃないわ。たまたま目に入っただけだし、花丸くんの進路とか地球の行く末並みにどうでもいいし」
この子、数秒で矛盾を作り出す天才かな?
「俺の進路はともかく、地球の行く末はどうでも良くないだろ。つか、どうでもいいなら聞くなよな」
「どうでもいいけれど気になるもの」
「なんだよそれ」
「太りたくはないけど、ケーキは食べたい的なあれよ」
「勉強したくないけど、大学には行きたい的なあれか? ああ、分か……いや分かんねえや」
完全に置いてけぼりだった安曇が
「ねえ、意地悪しないで私にも教えてよ」
「花丸くんは理系よ」
なんで君が言うのかな。……別にいいけどさ。
「やっぱりそっか。……美幸ちゃんはどうするの?」
と安曇は同じ質問を再びした。
「……私は……まだ決めてない」
「美幸ちゃんどっち行っても大丈夫そうだもんね。全部成績いいし」
「いいよなあ。選択肢がありすぎて悩める奴は」
これが持つものの苦悩ってやつですか、そうですか。俺も金持ちになって、幸せは金じゃ買えない、キラッ。とか言ってみたい。
安曇は納得したように
「まるモンって数学とか理科は得意そうだけど、国語は苦手そうだもんね」
と。それに対し橘が
「別に苦手ではないと思うわ。むしろいいくらいだし」
前から思ってたんだけど、なんでこの子俺の諸々の成績把握してるのかな。
「そうなの?」
安曇は意外だったようで、目を丸くした。
「ええ。不思議なことに。朴念仁のくせして、登場人物の心理は分かるのみたいなの。ほんとどうかしてるぜ。なぜ人の気持ちはわからないのかしらね。滅びればいいのに」
「ねえ。色々ひどくないですか?」
なんで国語の成績がいいってだけで罵倒されなきゃいけないのかな。
「じゃあ、文系でも大丈夫なんじゃない? なんで駄目なの?」
「科目の問題じゃないんだよなあ。文系というのはなかなかどうして、女の割合が高い。俺がそんなところに行ったら、ストレスでハゲるだろ」
女子って怖いもん。
「……女の子ってまるモンが思ってるほど怖くないよ?」
「ほほう。あれが怖くないのだとしたら、俺はこの世界から罷り申し上げたいな」
ステージも末期になると、存在すら認知されなくなるからかえって楽なんだけど、それまでが鬼難易度だから、ライフがいくつあっても足りない。
「偏見だよ」
「怖いもんは怖い」
そんなやり取りを安曇としていたら
「意気地なし」
ボソリとそんな声が冷たく聞こえてくる。
ほら、やっぱり怖いじゃん。
「そういう安曇さんはどうするの?」
今度は橘が安曇に尋ねた。
「……私も悩んでるんだよね」
「安曇さん、悩む要素あったんだ。数学とか理科とかお出来になったっけ?」
「ちょっと! 馬鹿にしすぎ! ……そりゃ二人よりは成績は良くないけど、私だって理科も数学も、校内の偏差値五十下回ったことないんだからね!」
……えっと、うちの高校は七割が理系に進むから、なるほど校内で半分より上と言うなら、教師に『お前はこっちがいいと思うぞ』と優しい声で肩を叩かれることもないわけか。……数学の平均点とか四割切ってたりするけどね!!
本当学校の先生って優しいよな。俺が一人でいると「花丸くん、お友達はどうしたの?」って話しかけてくれるし、授業中とかも俺に当てたあと、「じゃあ仲のいいやつ適当に選んで当てて」とか俺に友達をつくる機会を与えてくれるし、なんなら「女子で好きなやつ選んで当てて」とか言い始めるし、体育の班分けのときとか「おい! なんで花丸を仲間外れにするんだよ! お前らは友達を大切にできないのか!」って本気で俺のことを思ってクラスのやつに怒鳴り散らすし、まじで教師って優しすぎて聖職者。早く名誉の殉職をさせて聖人にさせてあげたい。
それはさておき
「慎重には考えるだろうけどさ、将来やりたいことのために選べよ」
「……うん」
と真面目な話で締めくくろうとした。
だがしかし。
花丸元気変態プログラムが組み込まれた、毒舌系インテリジェントシステムが
「将来やりたいこと? は! まさか私の私生活を覗き見るためのプログラミングを制作するために、花丸くんは理系に!?」
「お前は少し黙ろうか」