安曇梓の事情
暗闇に沈んだグラウンドに、炎でちらちらと人影が伸びている。学校祭の締めくくりに、生徒たちがグラウンド中央のボンファイアを囲んでいるのだ。手を繋いで輪を作っている人もいれば、座って友達や恋人と話をしている人もいる。私はそれを少し離れたところから、遠巻きに眺めていた。
この一か月、長いようであっという間だった。放送部に入ってから、もうすぐで二か月になるんだ。
不思議な感じがする。少し前までは、人生のどん底かと思えるほど辛かったのに、今は何の不足もなく楽しい毎日を送れているのだから。美幸ちゃんとまるモン。二人と一緒に過ごす時間は私にとって大切な宝物だ。それは紛れもない真実。
今頃二人は何をしているのだろうか。私と同じようにどこかでキャンプファイアーを眺めているのだろうか。美幸ちゃんはちゃんとまるモンを誘えただろうか。まるモンは美幸ちゃんの誘いを断りはしなかっただろうか。
口調の割には初心な美幸ちゃん。
頭はいいのに鈍感なまるモン。
私はお似合いのカップルだと思っている。
彼と彼女の物語は幸せな結末を迎えるだろうか。
それを考える私は今、笑えているだろうか。
*
小学六年生の秋。名古屋近郊のとある街の駅で、私は一人途方に暮れ、今にも泣き出しそうな顔をしていた。せっかく運動会の振替で、今日は学校がお休みになったというのに、なんていう災難なんだろう。
私の目の前には、おそらくは百を超えるであろう自転車が倒れていた。自分のかばんを引っ掛けて、駅前に駐輪されていた自転車を倒してしまい、ドミノ倒しのようにつらづらと自転車を倒してしまったのだ。通行人はみんなせかせかと忙しそうに歩き、まるで私と自転車が見えていないかのように通り過ぎていった。
とても一人で全てを起こせるようには思えなかった。
折り重なって倒れてしまった自転車は、非力な女子小学生にはとても重く、起こそう起こそうとやっ気になって何度も倒し、終いにはボタボタと涙をこぼす始末だった。
そんなとき、私ではない誰かの手が、自転車を引き起こした。
見ると私と年の変わらないように見える男の子が、私が倒してしまった自転車を引き起こしてくれたのだ。
「あ、あの、すみません」
「起こすの手伝うよ」
その男の子は、そう言って次々と自転車を起こしていってくれた。
私は子供ながらに感動した。誰も助けてくれなかったのに、この男の子は見ず知らずの私を助けてくれた。
不思議なことに、その男の子が私を手伝い始めてくれたら、今まで素通りしていた他の大人たちも自転車を起こすのを手伝ってくれた。
全部起こし終わってから手伝ってくれた人みんなにお礼を言い、また男の子の方に言って、何度も何度もお礼を言った。
「本当にありがとうございました」
「いいんだよ。困ったときはお互い様、情けは人の為ならずっていうでしょ」
その時だった。「おい!」と大きな声を出して、お股がもっこりしているパッツンパッツンのタイツのような衣装を全身にまとった、変態さんみたいな人が遠くからずんずんと歩いてきている。その人はまさしく鬼のような形相をしていた。
「お前かこのクソガキ。俺の自転車倒しやがって! 傷ついただろうが!」
私が倒してしまった自転車の持ち主の一人が、私を問い詰めようと迫ってきたのだ。
謝ろうとして口を開いたその時だった。男の子が突然、
「お巡りさん!」
そう叫んだのだ。
タイツの変態さんはその声にビクリとしたが、男の子はそのすきに私の手首を掴んで、一目散に駆け出した。
「こら待て、ガキンチョ!」
さっきの男の人が追ってくるけど、道を歩く人が壁になって、なかなか私達に追いつけない。
私と男の子は、体が小さいのを生かして、人混みの中をスルスルと走り抜けていった。
タイツの変態さんが見えなくなってから、なんだかおかしくなりカラカラ笑いながら、しばらく走っていた私達だったけど、息が切れてきた私は男の子に声をかけ、
「ねえ、ちょっと休憩しない?」
「あ、ごめん。疲れたね」
「……ありがとう助けてくれて」
「言ったろ、困ったときはお互い様だよ」
私は何かお返しなきゃと思って
「お礼に飲み物買ってあげる。お母さんにお小遣いもらったから」
「いいよ。気にしないで」
「ううん。貰ってほしいの」
そしたら彼は強いて断りもせず
「そっか。わかったよ」
と素直に受け入れた。
近くにあったお店で飲み物を買った私達は、公園のベンチに座ってそれを飲んだ。
「あの人怒ってたね」
追いかけられているときはどうしようかと思ったが、今思い返してみると、ゆでダコみたいで面白かった。
「そうだね。多分高い自転車だったからショックだったんだよ」
「……そうなの?」
「多分ね。あの人自転車用のスーツ着てたでしょ。ああいう人が乗ってる自転車、安くても十万円くらいはするんじゃないかな」
それを聞いた私は、とても悪いことをしてしまった気分になった。それほど高いものを傷つけてしまったのなら、罰を受けるのは当然だったのかもしれない。戻ってあの人に謝らないといけない。
「……私さっき男の人に謝らないと」
そう言って立ち上がりかけたのだが、男の子が、
「戻らなくていいよ。謝る必要もない」
「どうして?」
「あれは悪い人だから。あそこ駐輪禁止の場所なんだよ。あの自転車のせいで、とても困っている人がいるのに、自分の権利は主張するなんて都合が良すぎる」
「とても困ってる人って?」
「目の見えない人。自転車が点字ブロックを塞いじゃって、歩けなくて立ち往生してたよ。こういう事が多くて困るってその人は言ってた」
点字ブロック。
確かに小学校で、点字ブロックの上にものを置いてはいけないと習った。自転車を倒してしまったことで頭がいっぱいだった私は、それに気づいていなかった。……それでも、
「……でも、私だって悪いことをしたから、謝らなくちゃ」
それを聞いた男の子は、目を見開いて、
「君って真面目だね」
といった。
よく言われるセリフだった。大体は馬鹿にされたような感じで言われることの多かったそのセリフ。でもその男の子はすごく感心した口ぶりで、その言葉を言っていた。
「真面目な人、僕は好きだよ」
そう言って男の子は笑った。私にはその笑顔が、とても素敵なものに思えた。
「……あの、あなた名前はなんていうの?」
「はなまるだよ。花丸モトキ」
「……モトキくん。モトキくんは今日何してたの? 学校は?」
私が今日街にいたのは、運動会の振替のためで学校が休みだったからだ。彼の学校もそうなのだろうか。
「学校は休んだんだ。今日はちょっと用事があったから」
「なに?」
「中学校の入学試験を受ける予定だったんだけど、もう間に合わないな」
そう言って、モトキくんは左腕につけていた時計を見た。
私は体温がカーっと上がるのを感じた。私は彼に対して何という仕打ちをしてしまったのだろう!
「ごめんなさい! 私のせいで」
私のせいで、彼の大切な用事を、彼の人生を狂わせてしまった。私はなんて悪い子なんだろう。こんなことどうやっても償うことができない。
「ううん。気にしないで。本当は今日までずっと受けるか迷っていたから。これでスッキリしたよ。僕にはその選択はなかったんだ。……僕は逃げちゃいけなかったんだ」
「逃げるって?」
彼は少し寂しそうな顔をしてから、またニッコリと微笑んで、
「ううん、なんでもない。ジュースありがとう、駅まで送るよ」
*
それは私の美しい思い出で有り続けた。
花丸モトキ。私の初恋の相手。
二度と会うことはないとはわかっていても、彼のことを何度も何度も思い出しては一人微笑んだ。
いずれその思い出は、私の心の奥深くへと沈んでいき、大切なものを入れる宝箱のようなものにしまわれていたのだが、数年が過ぎ、私は再びその蓋を開けることになった。
きっかけは、中学三年の頃に通っていた塾での、友達との会話だった。
中学三年の秋。塾の廊下に張り出されていた、高校入試の全県模試の成績優秀者の名前。一番から百番まで、一位の子は満点を取っていて、百位の子は九割ぐらいだ。
私の成績は悪いわけではなかったのだが、そのリストに載るほどではなかった。別にそれで劣等感に駆られることもなく、ただの興味本位でそれを眺めていた。
リストには通っている塾の名前と、中学校名が書かれてある。
ほとんどの人は私と同じ系列の塾か、もう一つの大手塾を通してこの模試を受けていた。
上から見ていった時、一人の名前に目が留まった。
28番 490点 花丸元気 外部 小沢中学校
ほとんど忘れかけていた記憶が蘇る。
埃をかぶったアルバムを久しぶりに開いた。そんな気持ちがした。
「どうしたの梓?」
塾での友達が廊下に突っ立ってリストを凝視していた私に声を掛けてきた。
「この人……」
私はその懐かしい名前を指さした。
「ん? ……ああ、あいつか」
「知ってるの?」
「だって私も小中だし。ていうかなんで梓こいつのこと知ってるの?」
「昔会ったことがあるの」
「へえ。あいつ最悪だったでしょ」
「え?」
「知らないの? 小学生のころ、相当な問題児で女子を一人病院送りにしてるって」
そんな……。あの優しい男の子がそんなことをするはずが。
「冗談でしょ」
私は笑いながら聞き返した。
「ほんとだよ。協調性とか全然ないし、今もクラスじゃ浮きまくってるよ。まともに人と話してるところ見たことない」
私には俄かには信じられなかった。もしかしたら別人なのだろうか。でも花丸なんて言う苗字そうそうあるものではない。
「写真とかないの?」
「……このあいだの運動会のクラス写真なら携帯に入ってるけど」
「見せてくんない?」
彼女はスマートフォンを取り出し、写真を見せて一人の男子を指さした。
一番端で、楽しそうにもつまらなさそうにもしていない顔、何の感情も顔に浮かべずそこに映っていた。
それは三年前に私を助けてくれた男の子にそっくりだった。写真だけでは良く分からなかったが、だいぶ大人っぽくなっている気がした。身長もかなり伸びたみたいだ。
「格好良くない?」
「……まあ、顔は悪くないかも知んないけど。でもないな」
「……花丸君は、どこの高校行くのかな?」
「公立行くっぽいし、普通に神宮でしょ。だからあんたと一緒」
「……そうなんだね」
でもそれは私が受かったらの話だ。モトキ君の成績なら、何の憂いもなく受かるだろう。私の成績だと狙える位置ではあるが、一点を争うような層にいる。
友達は忠告する。
「もし一緒のクラスなんかになったら、関わらないほうが身のためだよ」
そんな友達の言葉など意に介さず、私はより一層懸命に勉強に取り組んだ。
彼に言わねばならないことがあったからだ。
三年前のお礼をもう一度。そしてあの時言えなかった私の名前を。
彼に謝らなければならなかった。
彼の人生を狂わせてしまったことをちゃんと謝罪する必要があった。
でも最大の理由は、もう一度彼に会いたかったからだ。そして仲の良い友達になりたかった。
頑張って入学したのを褒めてもらって、こんな噂されてたよって言って、そんなウソどうして信じちゃうのかなって笑って、今までにあったことをいろいろ話して、もっと仲良くなって、それで……。
私は信じていた。信じるという意思を持つ意識さえない程それを当たり前のことだと思っていた。
モトキ君は私に会ったら何というだろう。あの時みたいに優しく微笑んで、久しぶりだねって言ってくれるかな。いや、そうしてくれるに違いない。
そう信じていた。
それなのに、高一の春、めでたく神宮高校の制服に包まれて校門をくぐり、三年ぶりに彼に会って声を掛けようとしたのに、
「あの!」
でも彼は、隣を歩いている綺麗な女の子と楽しそうに話をしながら、私の横を通り過ぎた。私の声にも気づかず、素通りしてしまった。
何も変わらないわけがなかったのだ。
私はずっと彼の事を覚えていた。でも彼はそうじゃなかった。私の事なんか忘れてしまって、今は好きな子と楽しそうに過ごしている。
これ以上彼の人生を邪魔するわけにはいかなかった。……これ以上私が傷つきたくなかった。
だから全部忘れることにしたのだ。私の知っている花丸モトキはもういない。
だから、彼が再び私の前にやってきたときは、すごく動揺したし、ちょっぴり腹も立った。
モトキ君は結局私の事は覚えていなくて、それでも私をまた助けた。私がまだ少女だった日のように。何の見返りも求めず、それをすることが正しいことだと信じて、困っていた私を助けた。
私がサッカー部のエースである金本先輩に惹かれなかった理由。私の心の奥底にずっとあった宝物。それを私は認めるわけにはいかなかったし、もちろんモトキ君に話す事なんてできなかった。
でも彼に再会してから、私は自分の中で膨らむモノを無視できなくなっていた。
間違った選択だと分かっていた。辛い思いをするだけだと分かっていた。でも私はモトキ君のそばにいることを選んでしまった。二人が提示した転部という選択肢にかこつけて、自分の動因に覆いをした。
彼の隣にいた女の子、橘美幸ちゃん。美人で頭が良くて、何よりモトキ君が大好きみたいだった。
素直とは言えないけど、その胸の内はいつだってまっすぐで、誤魔化しも、愛想笑いも、馴れ合いも、そして他人を貶めるようなことを決してしなかった。……モトキ君をからかいはするけれど。
とても素敵な女の子だった。
彼と話している時は本当に幸せそうだった。私はそんな彼女がとても愛しかった。
美幸ちゃんとモトキ君のやり取りを見るうち、彼女ほど彼にふさわしい人がいるとも思えなくなっていった。
彼女には到底かなわない。
モトキ君の隣には美幸ちゃんがいるべきだ。私はそんな二人を応援しよう。
初めは単に彼のことをモトキ君と言うのが、躊躇われただけだったのだけど、それはそのうちある意味を持つようになった。
彼はまるモン。
放送部の花丸元気は小学生の私を助けたモトキ君ではない。そう自分に暗示をかけた。
彼をまるモンと呼んでいる限り、私は悪い感情を持たないで済む。
人は慣れてしまう生き物だ。
そして嘘も言い続けていれば現実になる。
私がここにいるのは、彼という存在がいるからではない。
私は彼と彼女のやり取りを微笑ましく見ているだけ。
彼と彼女の幸せが私にとっての幸せ。
上手く隠していたと思っていた。誰にも知られていないと確信していた。
でも騙していたのは周りのみんなではなく、私自身だったのだ。
今更何も感じないと思っていた。良き友人として振る舞えていると思っていた。
けどそうじゃなかったんだ。
まるモンが障害物リレーで美幸ちゃんを抱っこしてゴールしたとき、胸がチクチクした。
いけない感情だ。美幸ちゃんを応援すると言ったのに、こんな事を考えてしまう私は悪い子だ。
気のせいだと思いたかった。それを自分に証明したかった。
だから美幸ちゃんが後夜祭にまるモンを誘えるよう、彼女の背中を押した。
そうなって欲しいと思う気持ちは紛れもなく私の気持ちだった。彼女を説得し私は胸がスッキリした。そしてそのことを私は喜んだ。私は美幸ちゃんの友達でいられるんだって。
なのに今になって、得体のしれないドロドロしたものが、せめぎ合い、うねって、私の体の中をぐるぐると巡る。火照るような熱さと、悪寒が同時にやってきた気がした。
私はちっとも克服なんてしていなかった。
コップに注ぎ続けた水が、溢れ出したように、私の気持ちが爆発する。
ひたすら気持ちが悪かった。
二枚舌を使う私が、友達にいい顔をし、それでも煮えきらない私が、嫌だった。
ああなんて腹黒い女なのだろう。
自分に対しかつてないほどの嫌悪感が湧いてくる。
避け続けた問いが私を追い詰めた。考えても考えても埋められなかった解答欄。いや、埋められなかったんじゃない、埋めたくなかっただけか。思考を放棄して、現状に甘んじて、答えを先延ばししていた。
……でももう疲れた。もう悩みたくない。
答えを出そう。
私は問題を複雑に考えすぎていたのだろう。すべての因子を織り交ぜて答えが出せるわけがなかったのだ。
数学の問いを解くように答えよう。最適解はみんなが幸せになる道。
私の悪い感情は、解答の邪魔にしかならない。私の自然は誰も幸せにしない。
私はまるモンが好きだ。美幸ちゃんが好きだ。二人とも大好きだ。
大好きな人同士が一緒になって幸せになれるなら、それを望むのが友達として当然だろう。
それが私の出した結論。合理的で、客観的で、美しい解。
反例も反証も認めない。そんなものは存在してはいけない。
私は笑う。答えに満足したことを肯定するために、破顔する。
私は自分の出した解答を完璧にするため、空を見上げた。
初秋の夜空は可笑しいくらい歪んで見え、丸いのにどこか欠けた月が、私をどこまでも嘲笑っていた。
三章に続く
*
自分の文章を自分で解説することほど恥ずかしいこともないので、そんなことはしませんが、伏線をばらまいていたことだけは、伝えておきます。見つけた数だけ幸せになれるかも。