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それをせずして何とする

 四日目は体育祭の前日で、その準備の為に使われた。ぎりぎりまで続けられている、巨大マスコット制作の横で、各種目に出る選手たちが事前に集まり、ルール説明を受け、走順を決定するなどした。


 俺の出場種目は障害物競争だ。あまり得点が高くないので、俺のような日陰者に回されたのだろう。別に文句は言わない。人に頼りにされるって素晴らしい。だから定時過ぎても働いちゃう。たとえ給料でなくても、サービスサービス! でも会社は別にお前じゃなくてもいいってさ。……ざけんな。

 こほんこほん。


 他の群団もこの種目は捨てに来ているのか、箸より重いものを持ったことなさそうなお嬢様方と、もやしくんばかりが顔を連ねている。

 一応チームで作戦会議のようなものを開いたわけだが、俺以外全員女子、完全アウェーの状況で『私無理ー』とごねる女子の先輩方に押し付けられて、俺はアンカーを任されてしまった。


 そうして迎えた体育祭当日。


 今日の花形は、全員一致で男子の騎馬戦と答えるだろう。

 男子全員が出場し、八つある群団を紅白の二つに分け、バトルロイヤル形式の乱戦を行う。敵を殲滅するか、自軍が全滅するかするまで終わらない。残った騎馬の数の二倍だけ勝者のポイントになる。俺たちエフ群団は紅組に含まれているので、紅が勝てば、エフ群団や、紅組を構成するその他の群団にもポイントが入るというわけだ。

 

 神宮高校(かみのみやこうこう)の騎馬戦は、騎馬の崩壊をもって死とする少々荒っぽいものだ。軽いものではあるがけが人が後を絶たず、毎年開催するか否か教師陣と生徒会とで揉めているらしいが、今年も開催される運びとなった。

 より安全に行うためという理由で男子は全員上半身裸になる。


「ちょっとおもむろに服を脱ぎだすのやめてもらえる?」

 騎馬戦の時間になったので、準備を始めた俺に対し橘が言った。


「しょうがないだろ! 今から騎馬戦なんだから」

「あまり近づかないでくれるかしら。すごく怖いわ」

 言って、眉を(ひそ)めている。


 そこで本部から放送が入った。


「女子の皆さんは男子の写真を撮らないように。ハイそこ駄目! 没収」

 どうやらどこかのクラスの女子が、意中の男子の上裸の写真を残そうとカメラを構えていたようだ。早速先生に見つかりカメラを取り上げられてしまった。


「……お前もとるか?」

 橘に向かってポージングした。

「馬鹿じゃないの?」

「ですよね」


   *


 

「おい、放送部。どうする?」

 俺はそこそこ軽く、かつ背も高かったので、強騎馬としてごついラグビー部三人組の馬の上に座っていた。その内のクラスメートの一人が俺に作戦の概要を尋ねてきたのだ。

「後ろから襲う作戦」

「さすが花丸。汚ねえ!」

「これは戦争だ。戦争に汚いも糞もあるか」

 というわけで、俺たちの騎馬は味方と交戦している敵の背後に回り、後ろから襲うという攻撃を繰り返して、六騎程崩した。白組が残り数騎になって俺たちの勝ちも見えてきたのだが

「あいつを潰せ!」

 と敵の一人が俺を指差してきた。それに呼応して、白組の生き残っていた騎馬たちが俺の方に寄ってくる。更にそれを俺たちの軍が囲む。敵さん、もはや勝負など捨て、俺を潰すことしか頭にないようだ。


「お前ら卑怯だぞ! スポーツマンシップという言葉を知らんのか⁉」

 俺は俺を取り囲む敵兵に叫んだ。

「「お前が言うな!」」

 ヒエッ。

 というかなんで俺を肩に乗せている、味方であるはずの君たちもそんなこと言うの? 俺のこと嫌いなの?


 四騎に四方を取り囲まれ、俺はもみくちゃにされた。そして同時に、それら白組の四騎も我が軍の総攻撃を受ける。

 いいぞもっとやれ!

「あっやめて、俺味方味方!」

 何故か味方からも攻撃される哀れな俺。

 

 中央の五騎(俺含む)はほとんど同時に崩れた。


「試合終了! 紅組の勝利!」

 紅組を構成していた群団達は歓声を上げた。




「へへへ、勝ったぜ」

 クラスの控え席に戻って、騎馬戦を観戦していた橘に向かって、ブイサインをした。  


「お疲れ様」

 橘は落ち着いた口調で言う。


 よっこらしょと席に腰を下ろして、

「それにしてもあいつらもひどいよな。よってたかって俺を攻撃しやがって」 

 と口を尖らせた。

「あなた、因果応報という言葉を知らないの?」

「おいおい。俺はルールは守ってたぞ」


「あなたみたいな卑怯な人、もっと早く崩れればよかったのに。最初から背後を狙うなんて」

「おい、それは味方に向かって言う台詞じゃないだろ。つーかよく俺のこと探せたな。あの乱戦の中で」

「……別に」

 橘は顔をプイっと背けた。駄目だよそういう態度は。

 出る杭打つべし、前後左右に(なら)うべし、という二つの国民性を有する、とある国の舞台挨拶でそんなことを言うと、袋叩きに遭うよ。総バッシングだよ。カタストロフだよ。しまいにゃ怪しい笑い薬に手を出す羽目になるんだよ。

 だから、ダメゼッタイ。

 日ほ……、N国の人間ほど扇動されやすい国民もいないと思う。何かあればすぐに、アッパークラスをぶっこわーす! と人々は口々に言い、みんなで決めた悪者をつるし上げるのだ。

 他人の不幸は蜜の味を、地で行く民族だからしょうがないのかもしれないが。


   *


 その後は午後までずっと暇だった。自分の群団の応援を適当にしながら、横に座る橘と馬鹿な話をして時間をつぶした。


 昼休憩を挟んで、ようやく俺の出番が回ってくる。

 被消化競技、障害物競走だ。


 開始の直前になって実行委員から

「アンカーの人は最後箱の中に指示があるのでそれを見てください」

 と説明された。事前のルール説明でそんなこと言われていただろうか? まあいいか。


 号砲が鳴り競技がスタートした。

 体育祭実行委員の鬼畜な競技設計は選手たちを大いに苦しめた。平均台を歩く、ぐるぐるバットをする、ネットをくぐる、まあ内容は普通だ。だが普通、ぐるぐるバットの後に平均台を持ってきますかね? 面白いぐらいによく落ちる。

 全員でトラックを三周するだけなのに、障害に阻まれ、なかなか進まなかった。


 ようやく俺の番に回ってきた。

 我らがエフ群団はぶっちぎりのドベだ。これは気楽でいい。他のチームのアンカーが指示の入った箱の前につく頃になって、ようやくたすきを渡された。

 それでも手を抜いていると思われるのは(しゃく)だったので、真面目に走る。

 前を見ると指示の書かれた紙を手にして戸惑っている選手たちが見えた。一体何が書かれているのだろう。


 彼らに追いついて、俺も箱から紙切れを取り出す。


『「た」で始まる名前の人をお姫様抱っこしてゴールせよ』


 ……なんだこれは。


 俺は思わず本部テントを睨んだ。そこでにこやかに微笑んで、手を振っている萌菜先輩の姿が見えた。ああ、良く分からんが、良く分かった。確実にあの人のせいだわ。

 マイクを持つ実行委員が状況を説明する。

「アンカーのみなさんが手にした紙にはこう書かれてあります。『「た」で始まる人をお姫様抱っこしてゴールせよ』

 田中くんでも、田辺さんでも、構いません。誰か連れてきてください!」

 応援する生徒たちはどっと沸き、拍手喝采した。単に消化されるだけの競技だったはずなのに、実行委員はとんでもないものをぶっこんできやがった。


 リレーを途中で放棄するわけにも行かず、萌菜先輩の目論見通り、俺は自分のクラスの控え席へと向かう。そしてある人物に声をかける。


「……ちょっと顔貸せ」

 艷やかな黒髪と、目鼻口が黄金比で並んだ、衆目を引く美少女、橘美幸。

 俺が声を掛けたまさにその人物は、流石に顔を赤くしたが、何も言わずに立ち上がった。


 俺は彼女の背中と膝裏に手を回してヒョイと持ち上げた。橘が軽くて助かったぜ。


「F群団のアンカーは早速「た」で始まる人物を見つけられたようだ! 女の子をお姫様抱っこしてるぞ! 羨ましい! ゴール直前で爆発してしまえ!」

 実況がそう囃子立てる。あの野郎。誰か知らんが後で一発ぶん殴る。


 可哀そうな他の群団のアンカーたちは、「た」で始まる人物を抱っこして歩く事はおろか、そもそも抱っこすらできずに、それぞれの控え席の前で立ち尽くしていた。

 橘を抱いた俺は彼らを一気に追い抜いていく。


 俺の首に腕を回している橘はよほど恥ずかしいのか、耳まで顔を赤くして、俺の体の方に顔を(うず)めるようにしていた。

 よろよろと歩いていたA群団のアンカーを抜いて俺はトップに躍り出た。


 誰も通過していないゴールテープを切ったのは、人生でその時が初めてだったかもしれない。


   *

 

 体育祭の閉会式が終了して、後夜祭の準備と学校祭の後片付けが始まる中、俺は校庭の一角に椅子代わりに置かれてある、U字溝に腰を下ろして、ぼんやりとグラウンドを眺めていた。


「よっ、F群団の英雄さん」

 そう言って俺に近づいてきた人物がいた。

 生徒会執行部執行委員長、綿貫萌菜先輩だ。


「いや、俺大したことしてないですけど」

「ご謙遜を。競技部門の一位と二位の差はわずか二点だったんだよ。君が障害物競走で最下位からのごぼう抜きをしなかったら、F群団は優勝できなかった。それに、騎馬戦でのおとり作戦も見事に成功させていたじゃないか」

 ハハハ。そうかあれはおとり作戦だったのか。俺の騎馬は死んじゃったけどね。なんなら味方に崩されてたけどね。


 俺たちF群団は、彼女の言うように体育祭の競技部門で一位になっていた。体育祭では、競技で点を競う競技部門と、マスコットの出来を競うマスコット部門と、群団旗という応援用の旗の出来を競う、群団旗部門に分かれている。

 が、その三部門全てで入賞し、総合優勝を飾ったのは、萌菜先輩の群団でもあるA群団だったが。


「障害物競走の件は、あなたのせいみたいなところもあるじゃないですか」

「てへぺろ」

 畜生。かわいいな、おい。かわいいから余計むかつく。


「いやあ、花丸君がアンカーやるって聞いて、何かしてやろうと思っちゃったんだよね」


「職権濫用ですよ」

 俺は口を尖らせた。

「人聞きの悪い。役得と言い給え」

 彼女は腕を組み得意そうに言う。

 みんなから信頼される癖に、この人子供っぽいところあるよな。……逆にそれが彼女の魅力を増しているのかもしれないが。

 

「何でもいいですけど、こういうことは今後一切しないで欲しいもんですね」

「……うん、まあ私もやりすぎたなって思ってるよ。……それに彼女には悪いことをした」

 ふと真面目な顔になり、萌菜先輩は答える。間違いを認められるのはいいことですな。大抵の人間は年を取ると、自分の間違いを認めなくなる。なんなら間違いの存在を消そうとする。そして最後に謝罪会見を開くのである。

 ……。


 確かに橘も恥ずかしい思いはしたかもしれないが

「俺のが被害者でしょう」

「……君に分かれという方が無理か」

「なんの話です?」

「別に」

 だからそれはダメだって。


「おっと、姫が来たみたいだから、私はこれでおさらばするよ」

 そう言って萌菜先輩は後片付けをするために集まっていた、実行委員たちの元へと歩いて行った。


「萌菜さんと何を話していたの?」

 彼女が去ったすぐ後に、橘が俺のところにやってきた。これを姫とは萌菜先輩も趣味が悪い。


「障害物競走の件で文句を垂れていた」

「私をお姫様抱っこしといて文句言うなんて、あなた何様? 外様(とざま)かしら?」

「俺は敵に(こうべ)を垂れるぐらいなら、最後まで悪あがきするタイプだから、外様にすらなれないな」

 狸公(たぬこう)討つべし。

「それはそうね」

 橘はにやりと笑いながら、俺の横に腰掛けた。


「ねえ花丸君。後夜祭はどうせ一人なのでしょう」

「そんな聞くまでもないことをお前は聞くな」

「そうね。ごめんなさい」

 君、笑いながら謝罪する癖直したほうがいいよ。誠意が感じられないよ? 俺のこと馬鹿にしてんの? そうだよ。


「で何か用だったか」

「……私は別にそんなことどうでもいいと思っているのだけれど、安曇さんに言われて仕方なく。というか安曇さんが頼むからそうするのであってこれは全く私の意思ではないし、安曇さんに言われなければこんなことは絶対しようとは思わなかったのだけれど」

 橘はグダグタと意味のないことを連ねる。

「要領を得んぞ。いったい何が言いたい」


 口をパクパクさせ、ようやく小さな声で彼女は言った。

「……ボンファイア、一緒に見に行きましょうよ。安曇さんがあなたが一人で居るのはかわいそうだって言うから」

 うわー、めっちゃ嫌そう。目すら合わせないし。すごい言わされてる感が出てる。もっと君は演技上手くなろうか。知らぬが仏という言葉がこの世にはあってだな。

 

「そんなに嫌なら、そうまでして気を使わなくていい。それに俺は全くそんなこと気にしていないし。大体あれは妙な噂があるだろ。お前だって俺と一緒にそんなことして、あらぬ誤解をされても迷惑だろうが」


 橘はそこで顔を上げた。

「何を言っているのかしら? 私がそのような下世話な噂に踊らされるような人間だとでも思っていたの? 私だってそんなことは全く意識していないのよ。安曇さんに言われたから、というのもあるのだけれど、私にとっても理由があるのよ」

「何だっていうんだ」


「ただの実験よ。そんなくだらない噂は噂に過ぎないということを実証するための実験がしたいだけよ。だから別にあなたでなくとも構わないのだけれど、安曇さんに言われたし、他に手頃な男子の知り合いがいないからあなたに頼むの。文句あるかしら」

 言って、キッと俺のことを睨んだ。

「……あっそう」

 俺はどう足掻いたところで、あなた様の召使いですから、仰せのままにするしかない。


   *


 すっかり暗くなった校庭に、赤く燃え上がる炎。ぱちぱちと時折木が爆ぜる音がし、その場にいる誰もが学校祭終了の余韻に浸っていた。


「ねえ花丸君。どうして人って炎に惹かれるのかしらね」

 ポツリと俺の隣で、ボンファイアを眺めていた橘が呟いた。

 

 炎。それは俺たち人類の叡智の象徴と言っても過言ではない。ときに猛威を振るい人を死に追いやることもあるが、確かにそのゆらめきを見ていると、どこか穏やかな気持ちになる気がする。

 なぜなのだろうか?

 


「……多分だけど、暗闇は怖いから。見えないということは正体が分からないということ。人は誰しも正体不明のものを怖がる。だから明るい炎を求めるのかもしれない」


「つまり、花丸君は私の心を照らす明かりが欲しいということね」

「お前何言ってんの?」

 彼女はしてやったりという顔をしている。全然上手くないからね。


「でお前はどうなんだよ」

「なにが?」

 全くため息を付きたくなる。

 こいつは今日そのために俺をこんな場所に引っ張り出してきたはずではないか。

「例の実験ってやつはどうなんだよ?」

 そう言ったら、彼女は炎を見つめ直し、

「私は特に変化ないわね。あなたに対する気持ちなんて、ボンファイアを一緒に見たからといって、変わるようなものではないわ」

 と言った。


「まあ、そうだろうな。やっぱり噂は噂か」

 骨折り損だよ、まったく。


 彼女は続けた。

「でもたった一回の試行で結論を出そうとするのは早計すぎるわ。データは多いければ多いほどいいのよ」

「どういう意味だよ」

「……だから、来年も試すべきだわ」

 そこでもう一度俺を見る。


「……そうか。別に俺はいいけどさ」

 というかその選択肢しかどうせないんだろ。お前はわがままなお姫様だからな。


「約束よ。今度ばかりは絶対守ってもらうから」

「へいへい」


 俺は辺りを見渡した。

 ぽつりぽつりと、生徒たちがボンファイアを取り囲むようにして座り、人生において、たった一度しかない今日という日の終わりを迎えようとしている。

 彼らは青春を謳歌しているのだ。決して後になって取り戻すことのできない時間を。

 

 俺は隣を見る。俺にとってのこの時間は一体何と呼ぶべきものなのだろうか?  


「……本当になんの因果だろうな。こんな高校生活を送る羽目になるなんて、つゆも思っていなかった」


「私のおかげで、激的(ドラスティック)劇的(ドラマティック)動的(ダイナミック)多様的(ダイバシティ)な毎日が送れているでしょう」

「それを言うなら支配的(ドミナント)危機的(デンジャラス)壊滅的(ディザストラス)憂鬱(ドゥーミー)な毎日だよ」

「同じようなものじゃない」

「全然違う」


 でも、それでもだ。


「……でも、別に嫌いじゃない」

 逃げようと思えば逃げられた。

 拒絶もできた。

 彼女を嫌って、無視する選択肢だってあった。

 でもそのどれも俺は選ばなかったのだ。


「つまり私が大好きということ?」

「それは違う」

 

 ただ、なんだろう。俺はこいつが、今までの人生で見えなかったものを見せてくれる気がして、そんなはっきりしない期待を、彼女に寄せていたんだ。


 ハウリングの音が聞こえた。それから幾ばくもなく

『こちら生徒指導部です。学校祭の全日程は終了しました。速やかに下校しなさい』

 という放送がかかる。

 どうやら祭りも本当に終いらしい。


「雰囲気ぶち壊しだな」

「そうね」

 素直に思ったことを俺は口にした。この世界は俺に、感傷に浸ることさえ許してはくれないらしい。

 先生の口調は、いつも俺たちを叱るみたいに、業務的で、そして日常的なもの。

 特別な時間も今日で終わり、いつもの日々が戻ってくる。


『普段より遅い時間になっています。犯罪の被害防止のため女子生徒はなるべく男子生徒と帰宅するようにしなさい。以上です』


 ……。生徒指導部が思い切ったことを言うもんだ。不純異性交遊の手助けにはならないのだろうか?

 

 ……ここで、一人で帰るのも、なんだかこいつのことを意識しているみたいで、得策とは思えない。

 だから俺は彼女に言う。


「……駅まで送るわ」

 俺は立ち上がりながら彼女に言う。

「あら、優しいのね」

「先生に言われたんじゃ仕方ないだろ」

「そうね。先生に言われたのでは仕方ないわね。あなたの策略に乗せられてあげるわ」

 彼女は立ち上がった俺に手を伸ばした。俺はその手を引っ張り、彼女を立たせてやる。


 そうして俺たちは帰るべき場所に歩き始める。


 自転車を押して歩く俺の隣で、橘はいつもみたいに軽口を叩くでもなく、静かに歩いていた。彼女も五日間遊び通しで流石に疲れたのだろう。


 俺は駅舎から少し離れた駐輪場に自転車を止めた。

 

 金曜の午後のためか、道行くサラリーマンたちはどこか楽しそうに見えた。飲み屋に入り、仲間たちと酒を飲み交わし、この世の不条理でも笑い飛ばすのだろうか。俺もいつかそんな大人になるのだろうか。


「月が綺麗ね」

 不意に橘が空を見て呟いた。確かに今日は笑っちゃうほどきれいな満月だ。

「……多分それは見るやつの心が綺麗だからだろ」

「あらよく分かっているじゃない」

「俺は何でも知っているからな」

「それはどうかしら。あなたが知っていることは、あなたが見ているものだけだわ」

「それは全く真理だな」

 見えてないものを分かってしまったら、誰も幸せになどなれないだろう。なら俺は何も分からないままでいい。


 けれど橘は

「でも私は優しいから、いつまでも、何度でも教えてあげる。あなたが分かるようになるまで」

 と言う。彼女は俺のささやかな願いさえ否定するらしい。


「熱血教師でも始めたのか?」

「ええ。私の思いはいつでも(たぎ)っているもの」

 その口からほとばしるのは俺の悪口だけどな。


「着いたな」

 俺たちは駅舎に入り、改札の前に立っていた。

「みたいね」


「……じゃあ、また学校で」

 俺は別れを告げる。

「……ええ、また学校で」

 彼女は答える。そして胸の前で小さく手を振り、くるりと体を回転させ、改札の奥へと歩いて行った。


 橘美幸の後ろ姿が人混みの中へと消えてゆく。


 それを目にして、ようやく俺は、長くも短い高一の夏が終わったのを感じた。

 

「帰るか」


 俺は一人呟き、駅舎に背を向けて歩き始めた。



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