私は生き物の命を粗末にする人間が一番嫌いよ
「こちらヴィーナス。ポルコ、状況を説明して」
ヴィーナス、愛の女神こと橘が俺に無線で連絡をよこしてきた。
「こちらポルコ、特に異常はない」
「了解。引き続き監視を続けて」
「了解。……一応そちらの状況を聞いておこうか」
まさか俺だけを働かせておいて、あいつら二人は遊んでいるなんてことはないだろうな。
「ヴィーナスはミネルヴァとティータイム作戦を実行中よ」
……
総督閣下。司令部は腐敗が進んでいるようです。粛清を進言します。
というかなぜ安曇が知の女神なのだ。橘と逆ではないか。それになぜ俺は豚なんだ! 二人がローマ神話の女神で、俺が下界の家畜というのはどうも納得がいかん。それもイタリア語で何となく統一感を出そうとしているところがなおむかつく。
俺は真っ赤な飛行艇を操縦することはおろか、ラジコンすら墜落させ、女ではなく親父を泣かせるような男だ。飛べないからただの豚である。違う、豚じゃない。
「……もう一度聞くが、これは放送部の仕事なのか? こういうのは執行部に任せたほうが」
「萌菜先輩にそんな馬鹿みたいなことさせるわけにはいかないでしょう」
「つまり俺が今やってることは馬鹿みたいなことなんだな」
「だってあなたって三枚目じゃない。……それに私は生き物の命を粗末にする人間が一番嫌いなのよ」
俺をピエロ扱いしている事は置いといて、橘の動機に反論することのできなかった俺はため息をついた。
俺は一人、なぜか放送室に置いてあった、迷彩柄のヘルメットをかぶり、中庭の茂みの中に隠れて、敵が来るのを待っていた。それもこれも先ほど放送部に相談を持ち込んだ、例の彼女が原因であるわけだが。
どうしてこうなった……。
*
八月も最終日。とうとう夏休みも終了するが、お盆明けから授業の始まっていた神宮高校の生徒達には、暦の告げるその事実にもあまり関心はないのかもしれない。午前中は二学期の始業式が執り行われ、午後は自由時間だったので、例のごとく放送室で暇を持て余していた。
「花丸君、今日で夏休みも終わりね。高校一年最後の夏はどうだったかしら」
橘美幸が高校一年最初で最後の秋が始まろうとしているときに、そんな質問をしてきた。
「高校二年最後の夏に向けて、概況の把握は出来たぞ。結論としては外は暑いから家の中でじっとしておくが吉ということだな」
そういったところ橘はため息をつく。
「あなたって、人生損していると思うことはない?」
「はっはは、橘よ、人生を損得勘定で考え始めたらしまいだな。そんなものよりもっと大事なものがあるだろ」
「何かしら?」
「それは愛です」
僕は決め顔でそう言った。
「……安曇さん、花丸君の言動にすごくイライラするのだけれど」
「多分それ前からじゃないかな」
女子二人が俺に関する人物評で、心外な事を言っているまさにその時、ノックの音が聞こえた。それから戸が開く。
「今、よろしいですか?」
顔をのぞかせたのは、見知らぬ女子生徒だ。
「どうしました?」
「相談があってきたんです」
どうやらお仕事の時間らしい。
「相談というのは?」
橘が放送室を訪れた女子生徒に尋ねた。
「私、園芸部員なんですけど、最近畑が荒らされることが多くて、それで犯人が誰なのか突き止めてほしいなって思って」
なんか悩みというより、完全に犯罪の被害ではないか。
「畑が荒らされるというのは具体的にどういう?」
「大根や人参が引っこ抜かれたり、キャベツがぐちゃぐちゃにされたり、お花が踏み荒らされたりです」
「卑劣なことをするわね。畑というのは中庭にあるアレのことかしら?」
「ええ」
「……そう。ですって花丸くん」
「ですってってなんですか?」
「犯人を突き止めるのに、張り込みは基本中の基本でしょう。あなた行ってきなさいな」
「なんで俺が」
「私も安曇さんも女の子だから、人の匂いがするじゃない。犯人に勘付かれたら現場を押さえられなくなるわ」
「お前、遠回しに俺及び世間の男が人ではないと言っているようなもんだが」
「だって男って雄でしょう」
「待てこら」
「作戦を実行するにあたって、コードネームを決める必要があるわね」
橘は俺の話など聞いちゃくれない。コードネームって……スパイ大作戦じゃないんだから。
「私、かわいい名前が良い!」
安曇さん何でそんなにノリノリなの?
「じゃあ、私はヴィーナスで、安曇さんはミネルヴァ。花丸君は……最初から決まっているわよね」
*
……というわけだ。全くたちなんとかさんは人使いが荒い。
監視を始めてからすぐに犯人がやってくるわけもなく、先ほどから体を伝って登ってくるありんこと戦っている始末である。
……。
敵未だ来ず、我閑たり。
花丸
手持無沙汰に、トランシーバーのボタンを押して
「こちらポルコ。もう帰りたい」
「そんなに私のことが恋しくなったのかしら?」
「あっやっぱいいや。部室に帰らなくてもいいから、敵も見つかんないままでいいわ」
「駄目よ。犯人を捕まえて早く戻ってきなさい」
もっと優しい司令官はどこかに落ちていないだろうか。
「誰かに見られたら、絶対変態扱いされるよ」
俺は口をとがらせて反駁する。
「別に問題ないでしょう。それが事実なんだから」
「おい。俺は変態じゃないぞ」
「あら、花丸君はむっつりスケベのド変態というのが、私と安曇さんの共通認識なのだけれど」
「……お前ら、俺のいないところでどんな話をしてるんだよ。大体むっつりで何がいけない。人間は生まれながらにして皆スケベなのだ。お前ら女子の大好きなさわやか系イケメンも隠しているだけでむっつりスケベなんだぜ」
「今の音声、アイドルファンの前で再生してあげようかしら。反応が楽しみだわ」
「俺が袋叩きに遭うだけだからやめて」
「ちなみに私の好みは、さわやかセクシー系よ」
なんだそれは? さわやかな感じで、適度にスケベということだろうか?
「そうかそうか。分かったぞ。こんな感じだろ。
俺が体を張っているのだから、君らにも体で払ってもらおうか。キラッ」
ヤダ何この男。超キモイ。
数秒間が空いてから
「安曇さんが気持ち悪いって」
と報告してくる。……今日は空が青いな。
何か動くものが目の端に映った。ようやく敵さんのお出ましかと思い、橘に持たされたカメラを構える。
レンズ越しに見えたものは……。
*
「何これ? ビーバー?」
俺は部室に戻って、カメラで撮った映像を女子たちに見せていた。それを見た安曇がそう尋ねてきたのだ。
「おいおい、メープルシロップで有名な某国の大物歌手がこんなところにいるはずないだろ」
「違う! ほら動物のビーバー!」
偶然にもそちらのビーバーさんも北米出身ですね。だが悲しい事にここは日本国愛知県の公立高校であって、北米の森林でもなければ、動物園でもない。ダムづくりの名人が生息するような場所ではない。
「安曇さん、気付いていなかったのかもしれないが、日本とキャナダは陸続きじゃないんだぜ」
と優しく安曇に地理を教えて差し上げる。
安曇はむくれて
「……まるモン意地悪」
「おいおい、俺みたいな聖人君子を捉まえて何を言っているのだね君は」
といったら、橘が口を挟んできて
「あなたみたいなひねくれものが聖人君子になれるのだとしたら、私は大天使様よ。つまり人が愛すべき存在だわ。跪いて私への愛を告白しなさい」
「大天使様はそんなこと言いません」
「それでこれは何なんですか?」
園芸部の女子が聞いてくる。放送部の雰囲気にのまれないとは、こやつ相当の手練れだな。
「ビーバーじゃないがげっ歯類なのは当たってると思う」
「ねずみ?」
「ああ。だけど、日本の在来種にこんなでかいネズミはいないんだな」
橘はそこで正体が分かったようで
「ヌートリアね」
とぽつりと言った。
「外来種なの?」
「それも厄介な奴。こいつのおかげで畑が荒らされまくっているらしいぜ」
確か有害生物に指定されているはずだ。
「どうやって捕まえるの?」
安曇さん、考え方が物騒だなあ。
「捕まえるも何も、外来種とはいっても野生動物であることには変わりないから、勝手に捕まえたら違法なんだよな」
「え、じゃあどうするの?」
「悪い奴に対する対策は人間も動物も同じ。通報すればいい。学校の中にデカいネズミが来てるとなれば、役所だって放ってはおかないだろう。まあとりあえず先生に報告だわな」
ぞろぞろと職員室に行って、俺が撮った映像を教師たちに見せたら教頭が役所に電話をかけた。明日にでも捕獲用の箱罠を持ってきて対処してくれるらしい。役所の割にはずいぶん仕事が早いなと思ったら、最近になってヌートリアの被害が増大しているそうで、市ではヌートリア対策に力を注いでいるらしい。
職員室を後にして、園芸部の女子が俺たちに丁寧にお辞儀をしてから別れた後、俺たち三人は部室に戻っていった。
椅子にどっかり腰を下ろして、一息をつく。襟元を引っ張りながら、できれば二度と茂みに隠れてカメラを構えるなんてことはしたくないな、と思っていた。
事件が一件落着したというのに、安曇は浮かない顔をしていた。
「どうしたんだ安曇?」
と尋ねたら、一瞬こちらを見てから、目をきょろきょろさせ
「ヌートリア、捕まったらどうなっちゃうの?」
と心配そうな顔をしながら尋ねてきた。
「まあ、殺処分だろうな」
何かほかにもっといいようがあったかもしれないが、俺にはそう答えることしかできなかった。
「……そうなんだ」
「不満か?」
「不満というか、……ただ可哀そうだなって」
「そうはいっても、畑荒らされる農家にとっちゃ死活問題だからな。もともと日本には居なかったわけだし」
「でも、外国から連れてきたのは人間なんでしょう」
「……うん。確か皮をとるためだったと思う」
「人の都合で連れてきたのに、人の都合で殺すなんておかしいよ」
それはひとつの正論だろう。果たして俺は安曇のその考えを正面からひっくり返すことは出来ない。
「有害生物だもん。しょうがない。その有害生物リストにホモサピエンスの項がない事は今世紀最大の謎だがな」
有害か否かは人間にとってというのが大前提であるから、そんなことは言うに及ばないことではあるわけだが。人間が何ら問題なく生活していけるのなら、そもそも環境問題という概念すら生じ様がないのかもしれない。
「……安心して。そういうことを公衆の面前で主張し続けていれば、花丸元気が公安のブラックリストには載るようになると思うわ」
橘の言うように秩序を乱す人間も有害以外の何物でもないか。
「まさか。公安はそんなに暇じゃないだろ。アッパークラスの不祥事をもみ消すので忙しいはずだからな」
この国の人間は権力やらブランドやらにほとほと弱いのだ。
「あなたほんとに消されるわよ」
「国家権力に消されるってちょっとかっこいい」
「国に消されるくらいなら、私があなたを消すわ」
「……お前なにする気だよ」
「家の地下に監禁する。そしてサーカスの豚のように調教してあげるわ」
「そんなことしたら俺と一緒にお前もこの国から消えることになるぞ」
社会的に。
監禁罪でつかまる美少女。映画のテーマにでもなりそうだな。
橘は身震いさせて
「私と一緒に外国に高飛びしたいということかしら? 私は反逆したあなたにロープで手足を縛られて、身動きも取れずに船に連れ込まれてしまうのね。それでどこともしれない土地で無理矢理あなたのお嫁さんにさせられてしまうんだわ。……ああ何ておぞましい」
「こらまて」
「きっと国境の突破を少なくするために、シベリア鉄道で逃げるのでしょうね」
「お前はどこまで行く気だ?」
「ヴェネツィアが第一希望よ」
「んなもん知るか」
それにしても、今日は厭にイタリアをプッシュしてくるな。ローマの休日でも見たのだろうか。
「美幸ちゃん時間大丈夫?」
安曇が時計を見ながら橘に話しかけた。
「ああ、そうだった。花丸君が私に話しかけてくるから用事のことを忘れていたわ」
「用事?」
「荷物の受け取りがあるんだって」
「へえ」
「ではそういうことだから。先に失礼するわ」
そう言って橘は足早に部室を後にし、帰路についた。
部室には俺と安曇だけが残される。
「……私とまるモンの二人になるのって珍しいね」
「そうだな」
俺と安曇が会う時はたいてい橘も一緒にいた。
安曇がためらいがちに訪ねてくる。
「学校祭、誰かに誘われた?」
文化祭の展示を一緒に回るよう、誰かに誘われていないかという意味だろう。悲しいかな、俺には文化祭を一緒に見て回るような男友達がいないので、空白の一週間が手帳にはある。……そもそも手帳はどのページも真っ白。なにそれ、手帳いらないじゃん。やった! 来年から手帳代が浮くよ! 嬉しくて涙が出てきた。
「……俺が誰かに誘われるようなやつに見えるか?」
「そうだよね」
そうだよね。分かってるよね。分かってるならそっとしといてね。
「多分当日は、なんか放送するだろうし、部室待機でいいや」
「えー。さすがにずっといるわけでもないでしょう。美幸ちゃんはどこか行きたがるんじゃない?」
「ふふ。安曇もまだまだあいつのことが良く分かっていないな。橘が輪投げとかやって喜ぶような姿、想像できるか?」
「んー、んー?」
安曇は腕を組み考え込むようにして首を傾げている。
「あいつは子供っぽい遊びなんぞに興味を示さんと思うぞ。金魚すくいでもなけりゃ」
「……金魚すくいは子供っぽくないんだ」
「あれは哲学」
「ごめん意味わかんない」
それ以外だったら橘はどんなことに興味を示すだろうか。文化祭では文化部の作品も展示されるはずだ。物理部や地学部の研究発表に目を輝かせる、というタイプ……ではなさそうだな。美術部の絵になら興味を示すだろうか? ……よくわからんな。
「そういうお前は誰と見て回るんだ?」
俺に尋ねる安曇にはあてがあるのだろうか。
「クラスの子とかに誘われてるけど、誰と行くか悩んでる」
いやあ、イケイケのじぇーけーは俺みたいな日陰者とはさすがに違うねえ。
「おいおい。返事を先延ばしにすると嫌われちゃうぞ。気づいたら一人ぼっちに……」
「まるモンにだけは言われたくないな」
ぐさり。今日は切れ味が鋭い。
「まるモンが美幸ちゃん誘ったらついてきてくれるんじゃないの?」
馬鹿な事を言う。
「そんなことあるかよ。『花丸君と一緒に回るくらいなら、豚と一緒に回った方がましだわ』とか普通に言うぞあいつ」
「そうかなあ。『そう。花丸君がどうしても一緒に行きたいというなら、行ってあげないでもないわ』ていうんじゃない」
「それはないだろ」
「わかんないでしょ。まるモンが美幸ちゃんを誘うなんてこと今まであったの?」
「……なかったな」
「誘ってみたら?」
「なんで俺が」
「一人でいてもつまんないでしょう」
「本という友達が慰めてくれるよ」
「……可哀そう」
「可哀そうとか言うなよ」
「まあいいや。じゃあ放送部三人で行こうよ」
「それ俺が女たらしに見えるだろ」
「別にいいでしょ」
よくない。非常に良くない。品行方正であるところの花丸君の、浮名が流れるなんてことあってはならないことだ。
「……俺らもそろそろ帰るか」
時計を見てみれば、もうすぐ最終下校時刻だ。俺たち放送部員は仕事もあってか、ある程度は大目に見てもらえるが、無理して破るようなものでもない。
支度をして、放送室を出ていった。
校門前で安曇と別れて、自転車にまたがった時のことだった。
「お久しぶりです。花丸君ですよね」
二十代半ばに見える女性が、俺にそう尋ねてきたのだ。
「……どちら様ですか?」
どこか見覚えのある気がしたが、名前が出てこなかった俺は仕方なくそう尋ねた。
「橘美幸の母です。以前盆踊り大会でお会いしました」
そう言ってぺこりとお辞儀をしてくる。
「ああ。思い出しました。その節はどうも。いつも美幸さんにはお世話になっています」
「世話になっているのは娘の方だと思っていたけれど」
ええ、全くそうです、と言いたい気持ちを抑えて俺は曖昧に笑った。
おそらく彼女は娘に会いに来たのだろうと思って、
「たち……美幸さんなら、もう帰りましたよ。荷物の受け取りがあるとかで」
「存じております。送り主は私ですから」
「……どういうことですか?」
「今日はあなたに会いに来たのです」
彼女は真面目な表情でこちらをじっと見てくる。
甘さも色っぽさも微塵も感じられないその表情を見るに、若い燕を募集しているわけではなさそうだな。