私の大切なもの
その部屋から眺める、神宮市の風景はなんだか私を懐かしい気持ちにさせた。
私は生まれた時からずっとこの街で暮らしている。この街は疑う余地もなく私の故郷だ。もうすぐ帰宅ラッシュが始まる頃だろうか。自転車をこいでいる高校生らしき人がちらほらと見え始めてきた。
たくさんの人がそこには暮している。名古屋の人口には到底及ばないが、岐阜市の人口に肉薄する住民の数を有している。それだけ大きな街なのに、小さい頃は街の人みんなとお友達になれるような気がしていたのは、自分ながら無知すぎたなと思う。
誰かと誰かが仲良くなれない理由が、無数の人に単に出会えないことだけではないことを、今の私はどうしようもないほど知っていた。……いや、それも全部人が多すぎるせいなのかもしれないか。
でも私はこの街が好きだ。他の場所に住んだことの無い私が言うべきことじゃないかもしれないが、私は自分の故郷が一番好き。
家族がいて、友達がいて、私の大好きな人たちと出会ったこの街が、私は好きだ。
「アズちゃん、いつもすまないねえ」
「ううん。気にしないで。私ここでおばあちゃんとおしゃべりするの好きだから」
私は病院の一室で、おばあちゃんとお喋りをしていた。少し前に転倒してしまったとき、大腿骨を折って入院しているのだ。手術は無事に成功しているのでもうすぐ退院できる。予後は良好で、リハビリも順調に進んでいるらしい。しばらくは杖を使うことにはなるそうだが、不安が無くなれば杖も使わずに歩いていい、とお医者様は言っていた。
私はここしばらく病院に通ってはこうしておばあちゃんの話し相手をしている。看護師さんが言うにはこうしてお話をすることは、認知症の予防にもなっていいのだと。
「そうかい。学校は楽しいかい?」
「うん! この間は美幸ちゃんとまるモンとパンケーキ食べに行ったんだ」
「そうかい」
「それでね! まるモンの妹に会ったの。すっごくかわいくて、私もあんな妹がいたらいいなって思っちゃった。まるモンはひねくれているけれど、その妹の穂波ちゃんはすごく素直でいい子だったよ」
おばあちゃんはにっこりと微笑んで
「アズちゃんが元気になってばあちゃんは嬉しいよ。そのまるモン君と美幸ちゃんのおかげだねえ」
と言った。
おばあちゃんは私がサッカー部のごたごたで元気をなくしていたのを見て心配していたのだ。
「まるモンも美幸ちゃんも変わってるんだよ。この間なんか部活でテニス部の人のお手伝いをすることになったんだけど、始めはまるモン『俺はやらんぞ』の一点張りだったのに、美幸ちゃんがちょっと抜けた隙にさっとコートに行っちゃって、結局テニスの練習に付き合ってあげたの。なんでそんなことしたんだと思う?」
「なんでだろうねえ」
「聞いたらね、暑い中美幸ちゃんを立たせて熱中症にでもなったらどうするんだ、って言って、どんだけ心配性なんだよって思った。
それで美幸ちゃんが帰ってきたらすぐに『花丸君はどこに行ったの?』って聞かれたの。でも私、まるモンに言うなって言われてたから言わなかったんだけど、私の顔見て『そう、コートに行ったのね』って。まるでエスパーみたい。
私が行くの? って聞いたら『別に花丸君の事なんかどうでもいいけれど、久しぶりに運動して怪我でもして相手に迷惑を掛けたら、放送部の名折れになるでしょう。花丸君のことはどうでもいいけれど、放送部に汚名を着せられては困るから監視に行くだけよ』って言うの。
それでそのままコートに様子見に行ったら、美幸ちゃんの言ったようにまるモン足攣ってさ。以心伝心! って思った。だから二人とも捻くれててさ、でも私そんな二人が好き」
「まるモン君も美幸ちゃんもつむじ曲がりなんだねえ」
「つむじ曲がり? なにそれ? 二人とも別に癖っ毛じゃないよ。まるモンはぼさぼさなことが多いけど」
「思っている事と別な事を言ってしまう人の事だよ。二人ともお互いを大事に思っているのに素直になれないんだねえ」
私はツンデレの事だって思った。
ふと私は時計を見た。十六時を回ろうとしている。面会時間の終了まではまだまだ時間があるが、そろそろ帰らないとお母さんが心配する。
「じゃあ、早いけどもう行くね。また来るから」
「今日もありがとう。ばあちゃんには構わずしたいことしていいんだよ」
「じゃあ、明日も来る」
おばあちゃんはまたにっこりと微笑んで
「本当アズちゃんはいい子だねえ」
「ばいばい」
「うん、じゃあね」
私は病室から出て、廊下を歩いていき、病院の正面玄関のほうまで歩いていこうとした。そんな時、よく見知った顔とすれ違った。
「まるモン?」
私が呼び掛けた相手はこちらを振り返り
「ん? 安曇じゃないか。お前は産婦人科か?」
「ちっ違うよ! 馬鹿!」
どうしてまるモンは平然とした顔で、そのような恥ずかしいことを女の子に聞くことが出来るのだろうか。そういう所がなければもっといろんな人に好かれるのに。
「そんな恥ずかしがることないだろ、生理が遅れて不安になるなんてこと、思春期の女子にはよくあるし」
「私そういうことやってないから!! あっ」
私はすぐに自分の失言に気が付いたが、まるモンはそのことには突っ込んでこなかった。
「じゃあ何しに来たんだ?」
「もうっ。お婆ちゃんのお見舞い」
「そっか」
「まるモンは?」
そしたら彼はお茶を濁すように
「俺か? 俺は……まあ似たようなもんだ」
ということは誰かのお見舞いということだろうか。一体誰のお見舞いなんだろう? デリケートな問題なので流石にしつこく聞くのは、躊躇われるけど。……まるモンも家じゃ、おばあちゃん子なのかな。
「じゃあ俺行くわ。多分待ってるし」
そう言ってまるモンは手を振りながら、神経外科の病棟の方へと歩いていった。
まるモンが時々美幸ちゃんの強引な誘いを振り切って、まっすぐに家に帰ることがあったのはもしかしたら、この事があったせいなのかもな、と思いながら私は病院を後にした。