お前はどっちの味方だ?
「ねえ花丸くん」
試合前の慣らしを終えたところで橘が話しかけてきた。
「なんだよ」
「この試合に勝ったらご褒美あげる」
「褒美とは?」
「それは勝ってからのお楽しみよ。だから頑張ることね」
橘のことだから、褒美と言ってもどうせろくなものじゃない。期待しないでおこう。
「試合はファイブゲームマッチで行います」
上級生の一人が、キャプテンの指名で主審を務める。副審はこちらの陣営から出すことになって、橘が東京にいたころテニスをかじったことがあるというので、彼女に任せた。
ネットを挟んで向かい側に立つ、テニス部キャプテンは
「そっちは素人だからハンデをやるよ。サーブかレシーブどっちか選んで」
という。
正確に言えば俺は素人ではないが、向こうが勝手に勘違いしたのだからありがたくハンデとやらをもらっておこう。うんもいいえも言わなければ俺は嘘をついたことにはならないのだ。
「じゃあ、サーブで」
そういったら、キャプテンとそのペアはにやりとした。素人のサーブなんて入るわけがないとでも思っているのだろう。
よもや俺に負けるなんて思っていないはずだ。ここは吹っ掛けておくか。
背を向けてポジションにつこうと歩き始めた彼らに声を掛ける。
「えーと、一つだけ条件付け足してもいいですか?」
「なに?」
「俺たちが勝ったら、俺のお願いを一つ聞いてほしいんです」
「お願いって?」
「大したことじゃないですよ」
キャプテンは暫し考え込むようだったが
「ふーん。まあいいか」
と答えた。
各務原が俺の方に近づいてきて、耳打ちするように
「おい、花丸君。君後衛と前衛どっちが出来る?」
と言った。
「中学の頃は一応前衛だったな」
「ちょうどよかった。じゃあ俺後衛やるわ」
彼はベースラインに向かって歩き始めたが、俺は激励でもしようかと思って呼び止めた。
「なあ」
「ん?」
各務原は振り返って俺を見る。
「頑張ろうぜ」
「おう」
と彼は歯を見せて笑った。
*
この試合に勝って俺が得するということはない。世界平和を願うものとして、争いごとを避けるのが俺の信条であるから、出来ればこんなこともしたくないのだが、さすがに女子のどちらかを他所にやって、肩身の狭い思いをさせて何も感じない程、俺の心は冷めてはいない。
だから、まあやれるだけのことはやろう。
体をほぐし終えたところで、審判のコールがかかった。さあ、ゲームを始めようか。
ソフトテニスは硬式と同じように一ゲームで四点先に取ったほうがゲームポイントを得られる。
サーブは俺たちからだ。俺はネットから少し離れたところに立ち、まず各務原がサーブを打つ。
ファーストサーブが決まり、相手がレシーブをしてきた。
何となく予想できたことだが、俺の方を狙って打ってきた。
だが正面に来たボールをミスするほど、俺はのろまじゃない。おまけにサーブの勢いに押されてかなりお粗末なレシーブになっている。相手の戦力も知らないうちに奇を衒ったようなことをするなと、教わらなかったのだろうか。
俺はクロスにボレーを打ち、そのままこちらの得点となった。
「ナイスサーブ」
と各務原に声を掛けたら
「ナイスボレー!」
と返ってきた。
相手側はというと、二人でセンターライン付近に立ち「たまたまだ。まだ挽回できる」などと話している。
今度は逆クロスに各務原がサーブを打つ。しかし、一本目はネットにかかり、セカンドで入れた。
さすがに相手も取りこぼさなかったが、馬鹿の一つ覚えみたいに、俺の方を抜こうとパッシングショットを打ってきた。今度は幾分か強いレシーブだったが、それでもしっかりとボレーを返した。
相手の後衛がそれを何とか拾う、ふわふわと上がったボールを俺は再び軽くボレーして、またこちらの得点となる。
「いい調子だ。次サーブ任せたよ」
そういって各務原が俺にボールを渡してきた。
「入るといいけどな」
「大丈夫さ」
ボールを手に馴染ませるように、何度か軽く地面に衝いた。昨日の今日でどうにかなるほど甘くないことは理解している。けれどなんだか打てる気がした。体がすごく軽いのだ。
トスをあげた。軟らかく握ったラケットがそこに行くのが必然であったかのように、滑らかにインパクトポイントに移動し、心地よい感触と響くような音を以て、ボールがまっすぐ相手のコートに飛んで行った。
ノータッチエースだ。
相手は少々いら立ってきたようで、強くこちらにボールを送ってきた。試合中に感情的になるなんて下も下だな。テニスは紳士のスポーツだぞ。そんなことを暢気に思いながら、俺は逆クロス側に立った。
逆クロスのサーブも一発で決まった。今度は先ほどの相棒のざまを見て、深くポジショニングしていた相手側前衛が何とかレシーブしてきたが、緩く上がったボールをサーブと同時にダッシュしていた俺は強く相手側のコートに差し込むように、スマッシュした。レシーブを打って体勢を崩した相手側前衛は、動くことすらできなかった。
「ゲーム、チェンジサイズ」
主審が一ゲーム目の終了したことを告げ、コールした。首尾よくサーブゲームを取れたぞ。
相手を見れば、明らかに不機嫌な顔をしていた。部の人間にならまだしも、部外者にしかも年下に押されていて気分のいいはずがない。
「ゲームポイントゼロワン」
主審がコールし、相手側のサーブが始まった。
キャプテンがサーブを打ち一打目がフォルトになり、二打目。緩めのセカンドサーブを各務原はきっちりと返した。
さすがに今までのプレイで、安易に俺を狙うのは辞めたらしい。後衛同士の打ち合いが始まった。
昨日と今日とで練習した感じでは、とりあえず各務原は中学レベルを脱している感じはした。だが相手はキャプテンを張っているような男だ。後輩相手にラリーで打ち負かされるというようなことはないだろう。このままだと各務原がミスをして失点する可能性の方が高いな。
俺はイチかバチか、ボレーに出てみることにした。タイミングを合わせて、ネットの中央付近を通るボールを叩こうとする。
何とか触れたが、緩く返ったボールをキャプテンは拾った。俺はそれを再びボレーした。今度はこちらのリードで打てたので、相手陣地の穴を突き、こちらのポイントとなった。
今度は俺のレシーブだ。さてまともにストロークの練習をしていない俺にレシーブができるだろうかと不安になったが、相手は一打目から緩めのサーブを打ってきた。さっきのお返しでもしておこうと思い、ストレートに前衛の脇を狙うパッシングを打った。
相手は触りはしたが、反応が遅れたせいでボレーをミスして、ボールはコートの外に出る。
これで〇対二。
そして各務原のレシーブ。
甘めに返り、向こうの前衛にとられたが俺が拾い、双方ともに雁行陣の隊形を組む。
キャプテンは俺に触られるのを嫌って、高めのボールで各務原を揺さぶり始めた。
俺の頭を抜いたり、クロスに打ったり、左右に振られて各務原はきつそうだ。
各務原は意を決して、シュートボールを打った。さすがに向こうも取りこぼしはしなかったが、若干ボールが浅くなった。それを俺は見逃さず、後ろに下がりながらジャンプして、スマッシュを決めた。
〇対三。
さて四本目のレシーブ。俺の番だ。
揺さぶってやろうと思い、俺はネット際ぎりぎりにドロップショットを打った。相手の前衛がダッシュして飛び込むようにしてそれを拾ったが、浮いた球を俺はスマッシュした。これは取れまい。
鋭く飛んで行ったボールは砂煙を上げフェンスにガシャンとぶつかった。
「花丸君、やり方がねちっこいわよ!」
なんで得点したのに、味方側からヤジが飛んできますかね? しかもあなた審判でしょう。
「これはこういう戦術じゃい!」
俺は噛み付くように橘に答えた。確かにレシーブで打つようなショットではないが、打ってはいけないという法もない。
「ゲーム、チェンジサービス」
主審がコールする。
これで二ゲーム取った。次のゲームを取れば俺たちの勝ちとなる。
さっきみたいにサーブが上手く決まれば、苦労せずに勝てるだろう。
一年相手に防戦一方で、先輩方のメンタルはズタボロだろうと思って、相手の表情を見てみれば、なんと笑っていた。もう自棄になったのだろうか?
だが三ゲーム目になって相手は粘りを見せてきて、俺たちのミスと重なり、デュースにもつれ込んだ。取ってはとられ取ってはとられというのを繰り返した。
俺がサーバーの時にこちら側のマッチポイントとなった。あと一点取ったら勝ちだ。
最後の一本はサービスエースで終われせられたら気持ちよかろうと思うが、狙うと外すのが大概であるので、心を無にする。
息を深く吸って吐き出し、俺はトスを出した。
*
「ゲームセット。ゲームポイントスリ―ゼロで各務原・花丸ペアの勝利」
「したあっ!」
各務原が先輩たちに礼をしたので、俺も頭を下げた。
さすがに喉が渇いた。女子たちの所においてある水筒のお茶を飲もうと、コートから出ようとしたところ
「おい、花丸」
キャプテンが俺を呼び止める。
「なんですか?」
彼は手を出してきた。
怒りに駆られた上級生に殴られると思い、一瞬身を固くした俺だったが、彼は握手しようと手を差し出して来たのだ。
俺は汗をズボンで拭ってから、その手を取った。すると
「君、小沢中だった?」
とキャプテンが尋ねてくる。
「……そうですけど、なぜそれを?」
確かに俺は小沢中学校出身だったが、同じ中学の奴はテニス部にも他の部活にもいないし、誰かに話したこともないので彼が知っているわけが分からない。
「なるほどなあ。勝てるわけなかったわ」
「どうしてです?」
「覚えてるか? 二年前の地区予選の決勝。俺の中学と小沢が戦ったんだけど」
二年前。俺が中二の時か。とすると先輩は中三だったはずだ。
「……藤沢中ですか?」
「そうそう」
「でも結局勝って県大会に出たの、藤沢でしたよね」
「そう。団体戦で地区予選の準決まで全戦全勝。唯一泥をつけたのが決勝戦の三試合目だった」
中学のソフトテニスの団体戦は三ペアで戦い、二セットとった方が勝ちとなる。
だが市の教員の配慮で、三年にとっては最後の大会となる試合のため、地区予選では勝ち負けが確定しても三試合目まで執り行うのが慣例となっていた。
「君だろ、小沢中の三セット目に出てたの。三年に交じって。俺は、先鋒で出てたからよく覚えているよ」
「……まあそうですけど。勝ちが確定した時点でそちらの大将はやる気なくしてたんじゃないですか?」
「あいつに聞いたけど、マジでやってたよ」
「はあ。でも偶々だと思いますけどね」
「ちなみにそいつは個人戦で東海大会まで行ってたけどね」
ああ、そんな強い選手だったのか。俺は個人戦は先輩とじゃなく同じ学年の奴と組んだんだけど、……まあ酷かったな。
「なんでテニス辞めたんだ?」
「……いろいろあったんすよ」
「もったいないぞ。うちに入れよ。今からでも遅くない」
「今更入ったやつが、他のメンバー押し退けて試合に出たりなんかしたら白い目で見られるに決まってるでしょう。だから入りません」
俺の肩に手を置き
「惜しいなあ」
と至極残念そうにキャプテンは言った。
それから
「おい、各務原、今日から練習再開だ。お前らもやるぞ! まず部外者に負けないように強くならないとな!」
とその場にいた部員たちに檄を飛ばす。
俺は活気づくテニス部の面子を見ながら、橘と安曇の方に寄っていった。
「お疲れ様」
そういって副審をしていた橘も汗を拭きながら、水分補給をしている。
「まるモンお疲れ」
「いやあ、よかったよかった。ついていたぜ」
「で、どうするの?」
「何が?」
「……テニス、本当にやらなくていいの?」
橘はテニス部に入らなくていいのかと聞いているのだろう。
「……ああ。遊びでやるくらいがちょうどいいんだよ」
そうだ。それくらいがちょうどいい。
橘は俺の方をじっと見たが
「そう。ならいいのだけれど」
「花丸君」
各務原が声を掛けてきた。
「なんだ?」
「明日からどうする?」
「自主練じゃなくて、普通の状態に戻るんだから、俺はもう用済みだろ」
一応はそういう約束で引き受けた相談内容だった。
「そっかあ。……本当にもったいないなあ」
「なに。真面目にやってればすぐに俺なんかよりずっとうまくなるさ」
「……うん。よしっ。じゃあ俺上手くなるから、また一緒にテニスしようぜ」
「そうだな」
「じゃあっ」と言ってコートの方に駆け足で向かって行った各務原を見送り、俺たちはテニスコートを後にした。
「そういえば、先輩に何かお願いするって言ってたけど、良かったの?」
橘が尋ねてきた。
「ん? ああ。頼むまでもなかったからな」
「どういうこと?」
「俺が勝ったら、まともな練習をして大会で勝ち上がるくらいに強くなってくれ、って言うつもりだった。あの様子じゃ少なくともまともには練習してくれそうだったからな」
キャプテンのやる気に火をつけられたのは大きい。いつまで燃え続けるかは分からないが、各務原の代になるまでは持ってくれると思う。
「あなた、そんなに各務原君と練習するの嫌だった?」
「そんなこともない。……ただ俺と練習したところで、あいつは上手くなっても周りが付いてこなけりゃあいつは孤立するだけだからな。問題の根本的解決にはならないよ。遅かれ早かれテニス部のキャプテンには接触するつもりだったし、まあちょうどよかったな」
「あなたはいつも独りなのに、人が孤立することは心配するのね」
「俺がぼっちだからこそ、孤立することの恐ろしさを知っているのさ。慣れれば大したことないし気楽でいいが、部活は一人じゃできないからな」
部活は一人じゃできない。俺はそれをよく知っている。
「でもまるモンもう一人ぼっちじゃないでしょう」
安曇がそう言って、確認するように笑いながら橘の方を見た。
橘は肩をすくめながら
「まあ、成り行きでね」
という。
「花丸君の面倒なんて、他の人にはできないわよね」
「俺がいつお前に面倒見てもらったんだよ」
「昨日だって足攣って倒れていたでしょう」
「……それはそうだけど、それを言うならお前だって」
熱中症でこの俺に多大なる迷惑をかけている。
「……何のことかしら?」
何をしらばっくれているのだ、と思ったがそういえば、こいつには熱中症でぶっ倒れた時の記憶がなかったんだっけ? 俺のしてやったことも忘れやがって。
……まあいいんだけどさ。
「そう言えば、勝ったんだから褒美くれよ」
もらうものはもらっておく。これは我が家の家訓である。
そう言ったら、橘は俺の方に一歩詰めてきて、手を伸ばして俺の頭を撫でてきた。
「……何をする」
「……だからご褒美よ」
そういう橘は耳まで顔を赤くしている。恥ずかしいと思うならこんなことやるなよな。なんだかこっちまで恥ずかしくなってきた。
数秒、俺の頭を撫でた橘は手を降ろして
「どうしよう。手が洗えなくなったわ」
……。
「一応理由を聞いておこうか」
アイドルと握手した女子が抱くような可愛らしい理由でないことは確かだな。
「こんな手を水で洗い流せば水質汚濁がおきて、海の魚が死んでしまうでしょう」
ほらやっぱり。
「……俺の頭は化学兵器じゃないんだが」
「私、放送室で何度か息が苦しくなったことがあるのよ。確実にあなたのせいだわ」
俺は神経ガスか何かですか?
「それ多分不整脈だぜ。病院行ったほうがいいぞ」
「それは脈を測るふりをしながら、私の手を握りたいという遠回しなアピールかしら?」
「違うそうじゃない」
「え? じゃあ太ももの付け根で脈を取りたいということ? 変態?」
「なぜそっちに飛ぶ? その前に首の動脈とか直に心音聞いたりもできるだろ」
「つまり花丸くんは太ももよりも首とか胸に触りたいということね」
「おい」
すぐに俺を変態に仕立てようとするこいつの思考プログラムを、どうにかしないといけないな。
祭に沸く非日常の学校に、テニス部の声が混ざる。行事に心を砕くのが青春なら、部活で汗を流すのも青春。では俺はどうだろうか?
部活仲間の女子におちょくられる日々を、青春の一ページとして懐かしむような日がいつか来るのだろうか?
……未来のことなんて考えてもわからないか。考えても仕方ないものを考えるのはよそう。
「帰るか」
「そうね」
と歩き出したところで
「どっかでお茶しよう! 私スタバ!」
後ろから付いてきた安曇が、手を上げながらそう提案してきた。
「じゃあ私は星乃珈琲」
と橘も続いたので
「じゃあ俺コメダ。また明日な」
「なんでバラバラに行くことになってるの?!」
安曇の悲鳴を背中に聞き、笑いながら校舎のほうに歩いて行った。