金のたまごアイス
「見てみて、懐かしくない?」
朝食を寝ぼけ眼でモグモグと食べている俺に、穂波が幾分か気色だった面持ちで話しかけてきた。
そういう妹の手にあるのは「おっぱいアイス」。ゴム製の容器にアイスクリームを入れた商品だ。容器の先が空洞になっていて、乳頭状なのでそういう名前がついているのだろう。名前が露骨というかなんというか。メーカーによって名前も違い、たまごアイスという名称のものもある。
小さい頃はなんの罪悪感もなく買えていたものだが、高校生となった今では、おっぱいアイスとパッケージングされたものをレジに持っていくには、かなり勇気がいる。
穂波は早速袋を開けて、口を歯で噛んで、チュウチュウ吸い始めた。朝からアイスクリームとはいいご身分だ。
妹が上手そうにアイスクリームを吸っている様子を尻目に味噌汁をすすりながら、この菓子についてなにか忘れていることがある気がして、それを思い出そうと頭を捻っていたら、
「んんー!」
穂波が変な声を出し始めた。
溶けたアイスが大気圧とゴムの弾性力に押されて、勢いよく飛び出し、穂波の顔にかかってしまった。
「……もう最悪」
ゴムが破れて、乳白色の液が顔にかかるという、字面的にも絵面的にも非常にまずいことになっている。昔はともかく今じゃゴールデンタイムのお茶の間に流れたら、間違いなく苦情が来そうな画だな。
ティッシュでゴシゴシ顔を拭いている妹に対し、
「それ男子の前では食べるなよ」
と注意してやる。
「うん。というかもう食べない」
良かった。これで愛すべき妹がお馬鹿な野郎どもの脳内で辱められる危険もなくなったわけだ。
「じゃ行ってくるわ」
朝食を掻き込んだ俺は鞄を担ぎ、玄関へと向かう。
「今日から学校だっけ?」
「おう」
「美幸さんによろしくね」
「あいよ」
何をよろしくされたのかよく分からなかったが、愛する妹に送り出されて俺は家を出た。
時節は晩夏。
ツクツクボウシが鳴き始め、田に植えられた稲穂がお辞儀をし始めている。どこからともなく聞こえてくるのはコオロギの声だろうか。
いつまでも終わらないように思えた長い夏も、暑いことには変わりないのだが、寝苦しくて仕方ないということもなくなってきているから、確かに秋は近づいているのだろう。
まだ八月ではあるが、後期補習ということで今日から授業が始まる。
道行くわが神宮高校の生徒は半分が死にそうな顔をして、四分の一がどこかすがすがしい顔をし、また四分の一は楽しくて仕方がないという顔をしていた。
久ぶりに会った友人同士であいさつを交わす横を通り過ぎ、俺は学校へと入った。
授業が始まるまで席で本を読み、その後はおとなしく黒板の前で先生方のありがたい話を聴く。
一限二限は国語、英語ときて、三限目は数学だった。
当たりの出る確率が一回あたり1%のくじを引くとき、n回試行して当たりの出る確率が50%を超える。最小のnを整数で答えよ。
ご親切に常用対数の値まで与えられている。特に悩むまでもなく解いた俺は、肩肘をついて解説の始まるのを待った。
前に座っている女子は解き終わったのか知らないが、つまらなさそうに髪の毛をいじっている。心配しなくても、毛の一本や二本飛び出ているくらい、誰も気にしないというのに。彼女の名前は何だったろうか、……朧気な記憶だ。確か、花の名前が入っていたような。桜とか、椿とかそんな感じ。まあいいか。
その女子生徒は授業中ずっと自分の髪の毛をいじっていた。何やらその仕草を前に見たことのあるような気がして、頭を巡らせて思い出したのは社会見学で見た、ある大学研究室のネズミのことだった。
俺が観察する限りでは、ネズミたちは毛づくろいするか、食うか、寝るかのいずれだった。この経験から導き出される答えは、女子高生すなわちネズミであり、つまるところネズミを飼えばほとんど女子高生を飼うことになる。何の違法性もなく。
そんな世紀の大発見をした午前の授業が終われば午後からは自由時間なのだが、多くの生徒は夏休み明けに控える学校祭の準備に取り組む。
クラスで窓際最前線を張っている俺は、当然役割を与えられるはずもなく、例のごとく放送室にたむろしていた。浮世離れしすぎて、そのうち仙人にでもなれそうな気がする。
「花丸くん、私のクラス、文化祭ではビデオを作るそうよ。知ってた?」
俺と同じくクラスでの居場所が霞並みに不確かな橘が話しかけてきた。
「おい。俺とお前は同じクラスだろうが」
「そんなこと知ってるわよ。毎日私にちょっかいをかけてくる男子のことくらい嫌でも覚えるわ」
……俺の認識では逆なんだけど。
「あれだろ、なんかバラエティー番組のパロディだろ」
「あらちゃんと聞いてたのね。意外だわ」
こいつ俺のこと舐めすぎだろ。
「ところで花丸くんは進路はもう決まっているのかしら?」
例のごとく唐突な話題転換。
女子はなんでこうも脈絡のない話をするのだろう。
クラスの女子も、タピオカの話をしていたかと思えば、十秒後には恋バナを始めていたりする。
女子高生の生態には未だ謎が多い。
優しい俺は話題を合わせてやるわけだが。
「あててみろ」
決まってないので答えはないけど。
「……医学部かしら?」
橘にしては真面目なことを言う。……社会の奴隷とも言うべき職種に就こうとは露も思ったことはないが。以前なにかの記事で読んだことがあるのだが、とある若手医師の年間の休日の数は、たったの五日だけだったらしい。……労働基準法とは。
高校、大学時代と青春を勉強に捧げた結果が超過酷な長時間労働。どれだけ志が高ければそのような人生の選択ができるというのだろう。
少なくとも俺には無理だな。
完全週休二日制の仕事につくことが俺の将来の夢である。
けれども橘がそんな事を言いだした理由が気になったので俺は尋ねた。それに橘が存外俺のことを高く評価していることに、なんだか少しだけ嬉しくなったのだ。
「なんでだ?」
医学部に行くのは容易いことではない。かなりの得点力が必要となる。なかなか努力だけで補うのも難しいぐらいの能力が必要なわけだ。人命を預かる仕事だから当然といえば当然だが。
「だって、『医者になったら美幸ちゃんの体に合法的に触れる! ハアハア』とか考えていそうだもの」
前言撤回。
「おい、あのな」
そんなくだらないことのために、勉強したいとは思わない。
夏休みを経て、少しは俺に対する態度も軟化するだろうと思ったのに、以前にも増して酷くなっている。
ここはひとつ説教でもしてやらねばならんな。
「お前のそういうところがあちこちで問題を惹起しうる可能性をよく考えた方がいいな。被害者は主に俺だが」
「え? なんて? 花丸君が私に欲情しすぎて邪鬼になりそうといったのかしら?」
「どうやったらそう聞き間違えるんだよ! 俺はお前に邪気しか感じないんだが」
「私みたいな無邪気で可愛い女の子をつらまえて何を言っているのかしら」
そんなとき、内線が鳴った。抵抗虚しくもはや完全に従わされてしまっている俺は、橘に命じられる前に受話器をとった。
「はい、こちら放送室です」
「もしもし私」
「どちらの私さんですか」
無論誰がかけてきたかは、声を聞いただけでわかった。花も恥じらう女子高生、綿貫萌菜執行委員長だ。
「君と特別に懇意にしている、綿貫萌菜です♡」
なんだか語尾にハートマークがついてそうな感じで言われたが、懇意にした覚えなど当方にはございませんな。
「萌菜先輩、なんか用ですか?」
「用がないと電話かけちゃだめなのか?」
「切ります」
「うそうそ! 冗談。呼び出しかけて欲しいの」
「……誰をお呼びすれば?」
「山岳部の深山太郎っていう男子生徒を呼び出してほしいんだ」
執行委員に呼び出されるとは、深山くんとやらは一体何をしでかしたのだろう。……案外先輩のお気に入りだったりして。
「はあ、山岳部の深山太郎くんですね。どちらへ?」
「執行室に来るように連絡して欲しい」
「わかりました」
それだけいって、俺は受話器を置いた。橘の対応だけで俺は手一杯なのに、橘以上に手強い萌菜先輩が出てきては、どうにもならない。
「どうしたの?」
「萌菜先輩が深山君とやらを呼び出せとさ」
「あらあなた、他の女の言うことには素直に従うのね」
「おい、そのネタ前にも聞いたぞ」
「人を道化師みたいに言うのやめてもらえるかしら。私はいつでも真摯に生きているつもりなのだけれど」
「真摯に生きた結果が俺への虐待とはどういうことだ」
「……あなた世界に嫌われているのね」
「おい! 何なの? 俺がお前にいじめられるのは世界の法則なの?!」
「ええ。運命に抗わなかった結果こうなったの」
そこは抗って欲しかった。
萌菜先輩に頼まれた放送をし終えたところで、
「へロー!」
と安曇が元気よく入ってきた。……安曇さん日に日におかしくなってる気がするけど大丈夫だろうか。誰かの影響を受けているに違いない。一度交友関係を洗い出す必要があるな。最近越してきた隣人とか。クラスで隣の席になったやつとか。……転部先のやつ、という可能性はよもや無いだろう。……うん。
「もう補習始まっちゃったね。夏休み、あっという間だったよ」
鞄を置きながら安曇が言う。
「それにしてもどうして補習なんてやるんだろうな」
俺の問いに対し、安曇はさあと肩をすくめる。
「進学校を標榜する手前、生徒たちを遊ばせておくわけにもいかないでしょう」
橘はもっともらしいことを言った。
「勉強するやつは言われんでも勝手にやるだろうに」
毎年うちの高校からは、超難関大に数十人が進学しているが、そういう奴らは自主的に勉強に取り組んでいるはずだ。長期休み中に他のクラスメイトと一緒に行う授業が、どのくらい役に立っているというのだろうか。
「それは、東大とかに行く人は自分でやれるでしょうけど、みんながみんな意欲的にやれるわけではないもの。目的は底上げなのでしょう」
「そういうもんかね」
進学校と言ってもピンキリだ。どのレベルに合わせて授業をするのか、教師陣は悩みどころだろう。集団教育がもはや時代に合致しないのは教師ならわかるはずだと思うのだが、旧態依然としたままだ。
「そもそも集団教育に限界があると思う。ぶっちゃけ一流の講師が書いた参考書読むほうが分かりやすいし、ダラダラ説明聞かされるより集中できると思う」
「あなたそれだと現行の学校教育そのものを否定することになるわよ」
そんな橘を安曇が援護する。
「そうだよ。コミュニケーションとか、人との関わり方とかいろいろあるじゃん」
「分かる。あれだろ協調性ってやつだろ。確かに、長いものには巻かれて、大勢になびき、自分を押し殺して、お上の勅令を聞いて右に倣えする、お国が欲しがる従順な金づるを生み出すという点では、日本の学校教育ほど素晴らしいものはない」
うわーと口に出してドン引きする安曇。
眉をひそめてこちらを見る橘は、
「……前から思ってたけど花丸くんって危ない人ね」
「うん。セクハラっぽいことたくさんするし」
ねえ、安曇さん。危ないのベクトルが違うんですけど。
俺は咳払いをした。
「何を言う。大勢に異を唱えられる人間は貴重なんだぜ。つまり俺って超エリート」
「要するに義務教育の失敗した、社会のはぐれものということね」
「俺の崇高な精神をそんな言葉で片付けるなよ」
「別に非難しているわけじゃないわ。可哀想だなって思ってるだけ」
「余計傷つくんだけど」
「そんなに国のやり方が気に入らないのならいっそ政治家でも目指したら?」
「政治家ねえ」
だとすると公約を考えなければならない。
現政府は即物的なことしか言わないが、高等教育を下支えする義務教育及び中等教育の時代との齟齬をまずどうにかすべきだと思う。
実用的で金になる研究をしろと言うばかりなのは、土壌がスカスカなのにうまい果実が採れるものと思い込むのと同じようなものだ。
ならば公約は、
黙って全部俺に投資しろ!
受かる気がしない。というか現代社会から駆逐されそうだな。
馬鹿な妄想はここらへんでやめにして、全員揃ったことだし、夏の間停止していたお悩み相談室を再開するとしよう。
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相談内容:「授業で舞姫をやりました。どう考えても豊太郎が悪いと思います。男の人はみんなああなのですか?」
「いやいや、日本一の大学の法学部を出ておいて、女の人を孕ませて逃げるなんてこと、日本一の大学の一番難しい学科に通いながら、無計画に避妊もせずに行為に及んで、あげく『胎児は人間でないから堕ろしても問題ない』と言うやつくらいにありえない存在だから。安心してください。現実の男はもっとましですよ」
「花丸くん。特定の個人を中傷するのはどうかと思うのだけれど。そもそもそういうことはセンシティブな問題なのだから、他の人が口を出すべきではないと思うわ」
「私の発言はフィクションであり、実在する団体及び個人とは一切関係がございません」
相談内容:「学校祭のときにカップルができることをカミマジと言うそうです。カミマジはなぜ起きるのでしょうか。また起こすコツも知りたいです」
「学校祭の準備ともなれば、自然男女間のやり取りも増えるからかしら。犬畜生を一緒のケージに入れたら、すぐにでも子作りに励むのと同じことだと思うわ」
「橘さん、いささか表現が露骨ではないですか」
「なんのことかしら。私は生物学的な知見を述べただけだと思うのだけれど」
「……さいですか」
相談内容:「暑いです」
「俺もそう思う」
相談内容:「彼氏に学校で話しかけると素っ気ない反応されます。どうしてですか」
「男の子って、人前で彼女と仲良くするの恥ずかしがる人が多いと思います! だから彼氏さんも照れてるだけだと思います!」
「そうそう。男ってのはいつでも周りに見られているって思うくらい自意識過剰な馬鹿な生き物だからな」
「あら、それは自戒かしら」
「俺の場合は、他人に認識されてないっていう自意識だけどな」
部活を再開して、慌ただしい日常が戻ってきたのだと、ようやく実感した。
平穏な二学期となりますように。
その願いがおそらく叶えられないであろうことを誰よりも知っている俺がいた。