なんのメリットがあるのかしら
ジップラインというアトラクションをご存知だろうか。
二つの箇所をワイヤーでつなぎ、高いところから低いところへ、滑車に掴まり、滑走するという遊具だ。簡単に言うと、ターザンロープの進化版、みたいなもの。
仕組みは簡単で、原始的な遊具なのだが、近年では日本各地でも、ジップラインを体験できる場所が増え、ブームが起きているらしい。
そんなジップラインが、俺の地元の遊園地に設置されている。夏季限定の遊園地のアトラクションの一つとして。
遊園地などという代物は、友人の居ないぼっち族には無縁のものである。ではなぜこの俺が、そんな話をするのかというと、
「花丸くん、次のお客さん行きます」
「はい、了解です」
無線での応答を済ませた俺は、ジップラインのスタートにやってくる次の客に備えて準備を始めた。
バイトである。
前にやっていたプールバイトはいろいろ事情があって辞めてしまった。いやいろいろじゃないな。原因はただの一点に限られるが、それをここでぐちぐち言っても仕方ないだろう。覆水盆に返らずとはよく言う。
……。
……橘美幸め。
バイト先を変えてしまえば、さしもの橘美幸でも俺の邪魔をすることはできないだろう。
バイトも四日目になると、流石に流れを覚えて、ほとんど意識しないうちに作業を進めることができるようになってきた。とは言っても命に関わる仕事なので、油断することなどもっての外だが。
「体を揺らすと危険ですので揺らさないようにお願いします」
何百回と繰り返した、アトラクション前の注意事項は、勝手に口が動いているのではないかと思うほどに、馴染んでしまった。
時刻も夕方で客も途切れ始めていた頃、俺は十歳ぐらいの少女一人に向かって、説明をしていた。
そんなとき、階段をカンカンと登ってくる音に気がついた俺は、説明を続けながら、入口の方を注視した。
息が止まるかと思った。
「ねえ、お兄さんどうしたの?」
説明を途中で止めてしまった俺に対し、少女が声をかける。
「いや、ごめんね。続きを言うから。……どこまで言ったっけ?」
「体を揺らさないってところ」
「えと、ゴール前は停止するまで足をつけないようにお願いします。では滑車の準備をします」
そういいながら、パニックになりそうな頭を制御しようと深呼吸して、ゆっくり丁寧に滑車をワイヤーに取り付け、滑走の準備をした。
流れに沿って少女を送り出すのだが、スタート直前で怖がって足がすくんでしまった、少女をしかたなく、お姫様抱っこをする形で、スタートさせた。
それから、先ほど登ってきた人間に相対する。
「私を見て惚けているのかしら。顔が赤いわよ」
「日に焼けただけだ。……お前何しに来た」
「何って、ジップラインをしに来ただけなのだけれど。花丸くんはここの配置だと聞いたから、ついでにちょっか……労いに来たのよ」
もう言い直す必要ないだろ。
そこに立っていたのは、俺の天敵、橘美幸だった。
「いろいろ聞きたいことはあるが、とりあえず、なぜ俺の居場所がわかったんだ?」
「プライベートな質問には答えないわ」
「俺は、お前が俺のプライベートを掌握していることに、恐怖を覚えているんだが」
大方、穂波あたりから聞き出したのだろうが。それ以外考えられん。
「ねえ花丸くん。ハーネスがゆるいのだけれど」
そういう橘のハーネスは、今にも体から落ちそうなくらいに、ゆるゆるの状態だった。受付のスタッフがこのようないい加減な仕事をしたというのだろうか。
「お前、まさかわざと緩めてないよな」
「そんなことをして、なんのメリットがあるのかしら。私の体を花丸くんに触らせることになるのに」
「お前の場合、俺の時間を奪うことが目的になるだろうが」
「でも、お客さんも引いてきて、あなたも暇していたのではないの?」
「……締めるぞ」
緩んだハーネスをぎゅっと締める。
んっ、と漏らした橘の声が、なんだか艶かしくてどきりとする。
「変な声出すなよ」
「だって、あなたが急に締めるから。それとやらしい手つきで私の体に触らないでくれるかしら」
「むちゃ言うなよ。ならどうやって締めりゃいいんだ」
「もっと優しくして。私はか弱い女の子なのだから」
しっかりハーネスが閉まっているか確認しようと、じっと見ていたら、
「ハーネスで締められて、否応なく強調される、私のムチムチボディに見惚れちゃったかしら」
「じゃあ、命綱つけるからな」
橘は「ちょっと花丸くんのくせに私を無視しないでよ」とかなんとか言っているが、真面目に働く花丸くんの耳に、そんな文句は入ってこない。
滑車についているカラビナを、ハーネスに取り付けようとする。なるべく体には触れないようにするのだが、ハーネスがしっかり体についている以上、全く触れないで済むという訳にはいかない。おまけにカラビナを引っ掛けるリングは、丁度胸のあたりにあるので、ヒヤヒヤしながら取り付ける。夏も本番。地の厚い制服の下に隠されていた、橘美幸の豊かな胸部は、いま着ている柔らかい薄手のシャツでは隠しきれず、見ようとしなくても、膨らんだ胸元が目に入ってきてしまう。
むう、乳房がリングにかぶさるようになって邪魔なんだが。
避けよう、避けようと思って作業していたのに、小指が少し橘の胸にかすってしまった。
謝ったほうがいいのかという考えが、チラと頭をよぎったが、気づかなかったふりをすることにした。
ところが橘は、
「ねえ花丸くん。私の胸を触って、どんな気分かしら?」
ほんとこの女は嫌なところを突いてくる。橘は俺を詰る口実ができて嬉しそうだ。
「……あのな、この作業を何百回と繰り返せば、そんな邪なこと頭に浮かばんのだ」
「つまり、あまりに多くの女の人の胸に触ってしまって、私の胸ですら興奮しなくなってしまったということかしら」
……。そうか、無視すればいいんだ。
「練習で少し滑ってもらうが、いいか、絶対最後足つけろよ。じゃなきゃゲートにぶつかるからな」
「でもその前に、あなたが止めてくれるのでしょう」
「それは最後の手段だよ馬鹿野郎。子供ならまだしも、大人で俺にぶつかってくるやつなんておらんぞ」
橘は一旦後ろに下がり、足を上げたまま、スピードを緩めずに突っ込んできた。なぜやるなと言ったことをやるのだこの女は?
怪我をされても困るので、腕を広げて、彼女を抱きかかえるようにして受け止める。腕にむにゅりと柔らかい感触がした。
「……お前、俺の話聞いてたか?」
顔を少しでも動かせばぶつかりそうな距離に、橘の目と口と鼻がある。
「こんなに速いと思わなかったのよ。それより早く手を離してくれるかしら。あなたが私のことを抱きしめたがっていたのは、知っていたけれど。
今回は私にも落ち度があるから、セクハラで訴えることはしないけれど、いつまでも私の胸にしがみついているのなら、流石に怒るわよ」
こんにゃろ。俺が受け止めなかったら怪我をしていたかもしれないのに。
橘から離れ、喉まで出かかった文句を飲み込み、ゲートを開いた。
「じゃあ行くぞ。足離せば進むから」
スタートの、板で作られた下り坂の下まで行ったところで、下を見た橘は、
「……怖くなったわ」
と立ちすくむ。
「いいから早く行けって。落ちないから」
「さっきの子みたいにしてくれないかしら?」
「なんだよ?」
「だから、さっきの子みたいに、体重を支えてほしいの。足が震えて、自分では行けそうにないから」
「お前、歳いくつだよ」
「十六よ。あなたの、私が嫁にもらわれてしまうのでは、という心配が現実に起こり得る年齢ね」
最後の方の空耳は無視して、
「……お前恥ずかしくないの? 十六にもなってこんなんでビビって」
「だって、私高いところ苦手だもの」
「じゃあなぜこれやろうと思ったんだよ?!」
「魔が差した、とでも言っておこうかしら」
「ここでやめても返金なんてできないぞ」
「そんなことわかってるわ。だから辞めるとは言っていないでしょう」
「なぜそんな強気なのに滑られんのだ?」
「いいから、支えて頂戴」
仕方ないので、安全帯を柵につけて、俺もゲートの外へと出てゆく。この高さから落っこちれば、冗談では済まない怪我を負うことになる。
橘の横に立ち、
「体後ろに倒せ」
と彼女の背中に手を当て、そう指示を出す。橘は素直に体を預けてきた。
「どうかしら。美少女をお姫様抱っこしている気分は」
「はい、いってらっしゃ~い」
そう言って、俺は橘を前に放り投げた。ふう、面倒くさいやつが滑っていったぜ。
橘は問題なく滑走していき、ゴールして、係員が受け止めたのだが、その後橘が自分で滑車を外しているように見えた。
多分気のせいだろうが。
というか、プールに遊園地と、普通の感性を持ち合わせた人間ならば、決して一人では来られないようなところを、橘美幸という人間はよく一人で来られるものだ。ぼっちの鑑過ぎて、この俺でも同情してしまう。誰かついてってやれよ。誰もいないなら俺が付き添ってやりたいぐらいだ。
無線に音声が入った。
「ジップゴールです。橘さん、降りられます。どうぞ」
「スタート了解です。……ん? なんで彼女の名前知っているんですか?」
「だって、このジップライン、スポンサーの橘商事のお嬢さんが提案したものですから。そのお嬢さん一般公開前に何度も一人で楽しそうに滑ってましたよ。どうぞ」
「え? もう一度いいですか? どうぞ」
「あのお嬢さんがジップラインの開設を提案して、試滑走を何度もなさってましたから、ここの職員はみんな知っているんです」
は? ……はああ?!