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祝砲を鳴らそう

 席を立ってからしばらく歩いたところで橘が、

「花丸くん、トイレはこっちよ」

 と声をかけてきた。

 俺はしばし考えてから、

「なんか腹の中で第三次世界大戦が勃発しそうな気がするから、もう帰るわ。もう結構な時間だし、お前も一緒に帰ろうぜ」

 と答えた。

「……そう、分かったわ」



 帰り道、街灯で照らされてはいるがぼんやりと薄暗い街なかを、橘と二人で無言のまま歩いてゆく。


 日が暮れても熱気の漂う名古屋の夏の夜。虫が鳴く声に混ざって、隣を歩く少女の方からは何かを言おうとしては、ためらって息を飲み込む。何度もそんな音が聞こえてくる。

 

 思えば俺は橘美幸のことについて、ちょっと口の悪い美人の女子高生ということ以外、何ら詳しいことは知らない。

 彼女が一人暮らしをしていること。今までどんな人生を歩んできたかということ。それらは聞いてはいけないようなことに思えて、ただの一度も話題に上らなかった。

 天敵に気を使うようでは俺もまだまだあまちゃんだな。


「……何も聞かないのね」

 橘が沈黙を破った。それが彼女の心を抉る行為であるというのに。


「お前が口にしないことをわざわざ尋ねる道理もないだろ」

 全く気にならないと言えば嘘になるが、俺の好奇心を満たすことなどより、一人の少女が心穏やかでいられることの方が重要だろう。


「……つまらない話だけれど聞いてくれるかしら」

 いつになくしおらしい様子で彼女は言う。

「いつも与太話を嫌というほど聞かされているんだ。今更お前が遠慮することないだろ」

 

 橘は話し出す勇気を持つためか、ため息ともとれる深呼吸をしてから、喋り出した。


「さっき母親だって言った人、私と血がつながってないのよ」

「……そうか」

 あの若すぎる母親を見れば、何となく予想できたことだった。だからポツリと静かにそう返した。

 

 橘は話を続ける。

「私はね、父が二十歳のときに生まれたの。実の母は橘家のお手伝いをしていたわ。父はね真面目な人よ。そんな人が家に来ていたメイドと恋に落ちて、私を生んだの。父は母と結婚した。でもね、周りがそれに難色を示したのよ。母は父以外全員敵の中で過ごした。

 頭の固い人間ばかりなのよ。前時代的で、差別的で古い慣習にとらわれた変わることを恐れるだけの頭でっかち。それがうちの人間。今時身分がどうとか誰も気にしてなんかいないのに、そういうことを言っちゃう人たちなの。

 私は、直接的に母に対して家のものから嫌がらせがあったかどうかは知らない。だけどきな臭い雰囲気に常に包まれて母が生活していたことは想像できる。そのせいだったのかは知らない。臨月が近づくにつれて母はどんどん衰弱していったそうよ。


 十六年前、母は私を産んで死んだ。


 父は大学を卒業して愛知を離れ東京で働き出してからもずっと結婚しなかった。まだ若かったのに私のためにずっと独りで居た。年相応に遊んだりいろんなところに行ったり、やったりしたかっただろうに持ちうる時間すべて私のために使ったのよ。

 

 中学三年の秋にはじめてあの女の人に会った。私の新しい母親だっていって、父が連れてきたの。私は何も言えなかったわ。これは父の人生であって私が口出しすることではないから。

 でも、上手くいきっこなかったのよ。仕事の都合で父は不在がちで、それまで赤の他人だった人と私は家で二人。上手くいくわけがなかったのよ。

 だからここに来たの。父が育ち私が生まれたこの街に。何かあれば家のものが助けてくれるだろうと、父も私が愛知で一人暮らしをすることにしぶしぶ了承したわ。そのあとすぐに会社の海外での事業を任された父は、今の母と一緒に外国に行った」


 橘は足を止めた。それから、

「私今まで何度も考えてきたのよ。なんでこの世に生まれてきたんだろうって。家の誰もが私を疎んじ、妾の娘と言って蔑んできた。母を死なせて、父の幸福を奪って、今では本当に一人ぼっち。……私はなんで生まれてきたの」

「そんなこと言うなよ」

「……」

 橘は何も言わずこちらを見てきた。涙を浮かべた目で。


「……誰しも無限の可能性を秘めてこの世に誕生してくる。生まれてこなければいいやつなんているとは思っていない。もちろん恵まれない環境にあったらまともな人間にはなれないかもしれない。だがお前はこうしてここに立って俺と話している。お前の親父が生むと覚悟して、どんな形にせよ愛情込めて育ててきたからお前はここにいるんじゃないのか。俺はお前に会わなければよかったなんて思ってない。お前の親父が間違った判断をしたとも思えない。たとえ周りの人間が何を言おうと、俺がお前がこの世に生まれてきたことを祝福してやる。お前は一人ぼっちなんかじゃない」


 橘は目をそらした。顔をあちらに向け、涙ぐんだ声で、

「……花丸くん、罰ゲームね」

「なんでだよ?」

「私に嘘ついたでしょう」

「何のことだよ」

「お腹が痛いのを理由に席を立ったのに、あなたトイレに行こうとしないんだもの」

「あ……」


「あなた嘘が下手ね」

 確かに下手を打ったな。

「何やらせる気だ」

 ようやくこちらを向いた橘は満面の笑みで、

「私を家まで送りなさい」

 と言った。

 橘のその言葉を聞きしばらくの間、俺はポカンとしていた。

「……まあいいけど」

 もとよりそのつもりだったのだ。橘にしては随分控えめな罰ゲームがあったものだ。


 しばらく歩いていき、前方で信号が点滅し始めていたので、急いで渡ろうと走り出したら橘に手首を掴まれた。驚いて立ち止まっている内に赤になってしまう。


「なんだよ。赤になっちゃったじゃないか」

 俺が口を尖らせていったところ、

「点滅は止まれの合図よ」

「お前って変なところで真面目だよな」

「私、あなたと違って遵法精神を持ち合わせているもの」

「どの口が言うか」

「どうして?」

「俺に対する名誉毀損と傷害罪とで立派な犯罪者だよ」

「……あなたのためなら犯罪者になっても構わないわ」

「おい、使う文脈を微妙に間違えてるぞ」

「今ほど適切なシチュエーションもないと思うけれど」

「ていうか、いい加減手離せよ」

 いつの間にか橘の手は、俺の手を握りしめていた。

「知らないの? ノーリードで散歩させるのは条例違反なのよ」

「言ってることが二転三転してるんだが」

 コンプライアンスかアウトローかどちらかにしてほしい。そもそも俺は犬ではない。


 信号が青になった。橘に引っ張られ、俺は歩きだす。


「ねえ花丸君」

「なんだよ」

「ありがとね」

「……俺はなんもしてねえよ」

 体が火照るのを感じた俺は、空いている方の手で浴衣の襟を持ってばたばたとさせたが、あまり効果はなかった。






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幼馴染に「今更遅い」とざまぁされたツンデレ美少女があまりに不憫だったので、鈍感最低主人公に代わって俺が全力で攻略したいと思います!
花丸くんたちが3年生になったときにおきたお話☟
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「ひまわりの花束~ツンツンした同級生たちの代わりに優しい先輩に甘やかされたい~」
本作から十年後の神宮高校を舞台にした話

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