黒出目もよく見たら可愛いだろ
「なあ、橘いい加減諦めようぜ」
橘は先ほどから、金魚掬いの屋台で粘って動こうとしない。目当ての金魚がいるらしく、ポイが何度破れても再挑戦している。
いい加減にしないと安曇達を見失ってしまう。
橘はじっと水槽を見つめながら、
「だめよ。あの底の方を泳いでいる、目の出っ張った気持ち悪い黒い金魚を取るまで私はひかないわ」
とのたまう。
「気持ち悪いと思うなら、狙うなよ」
「だって、私が掬ってあげないと、誰にも連れて帰ってもらえそうにないじゃない。そう、あれは花丸君と同じなのよ」
どうしてこの子は、気持ち悪い金魚と言ったクロ出目と俺を同列に扱うんだ?
……金魚掬いで、出目金や琉金が掬われているのは、見たことがない。それもそのはず、あいつらは小赤に比べ、何倍も重いのだから。あれは、ポイを破るために入れてあるとしか思えない。
そんなことを言っても、橘が諦めるとは思えんが。
「……ポイは、面に向かって水平に動かせ。あと、自分から取りに行くな、獲物が来るのを待っとけ。掬うときは、頭の方から切るようにすくい上げろ」
橘は口を開きかけ、小赤が十匹ほど入った俺の金魚袋を見てから、
「……分かったわ」
と言った。
橘は、ポイを水につけ、黒出目が、来るのを待った。
のんびり、ヒレをなびかせ、黒出目が、橘のポイの上を通る。
俺の言ったように、斜めに、切るように掬い上げる。
水から出した途端破れて落ちた。
「なんでなの?」
いや、まあ想像できるわな。
「あれは紙破りだ。掬えるもんじゃない」
「いやよ。ここで諦めたら、全部水の泡よ」
「んなこと言っても」
「……お嬢ちゃん、もういいよ連れてって」
見かねた的屋のおじさんが、網ですくって、黒い出目金を橘に渡してくれた。
おじさんに礼を言ったあと、店から離れた橘は、
「ふふ、手に入れたわ」
と満足げにクロ出目金を眺めている。
多分ホームセンターに行ったら、十分の一の値段で手に入れられたと思う。
「お前今日何しに来たの?」
橘は、何でそんなことも分からないの? とでも言いたげな顔をした。
「え、この花丸金を掬いに来たのだけれど」
「おい、オフィシャルとか何とか言ってたのは、どこのどいつだよ。あと、金魚に変な名前つけるな」
聞き覚えのある細菌の名前みたくなっている。
一瞬見失ったかと思ったが、安曇と金本が、輪投げをやっているのを見つけて、ほっと胸をなでおろした。
その時、橘が俺の袖を引き、
「ねえ、花丸君、りんご飴が食べたいわ」
……。
「安曇のことちゃんと見てやるんじゃないのかよ」
「大丈夫よ。いざというときの為、防犯ブザーを持たせてあるもの」
結局、橘は端から祭りを、存分に楽しむつもりだったらしい。
*
女子が甘味を好く、というのは、科学的にも証明されていることらしいが、橘もその例には漏れないようだ。
今はクレープ屋で、いちごの乗ったクレープを買っている。
それから、安曇たちが立ち止まったところの近くの、ベンチに腰掛ける。
クリームが口の周りに付きそうなものだが、そこはお嬢様らしく、器用に食べている。
……ほんとうまそうに食うよな。
ぼんやり眺めていたら、こちらを見た橘が、
「何? じっと見て。食べたいのかしら?」
「食べたいって言ったらくれるのか?」
「そうね、一口くらいならあげないでもないわ」
「あっ、じゃあ」
と言って、手を伸ばしたら、べちんと叩かれた。
「何すんだよ」
「どさくさに紛れて、私の手を握ろうとしないでくれるかしら。しかも病原体まみれの汚い手で。アニサキスにでもなったらどうしてくれるの?」
「おう、橘。気づいてなかったかもしれんが、俺は海水魚じゃないぜ」
「ごめんなさい。ヌメヌメしてたから、魚類か何かに触られたのかと思って。ねえ花丸金?」
……。
どちらかというと、その金魚のほうが寄生虫を持ってそうだが。
うっとり、出目金をながめている橘に、
「そいつより、俺の手の方が綺麗だぜ、多分」
と言ったら、
「花丸くんのことだから、外で何を触ってるか、わかったものではないもの。警戒するのは当たり前よ」
ということらしい。
「じゃあどうやって食えばいいんだ?」
「口を開けなさい」
と言って、間髪を容れずにクレープを俺の口に近づけてきた。
慌てて口を開いたのだが、クリームが口の周りについてしまった。
「あら、花丸くんたら、まるで食べることを覚えたばかりの幼児みたいね。犬食いなんてして。口の周りがクリームだらけよ。今年で十六だというのに恥ずかしくないのかしら?」
誰のせいだよ。
自分で口を拭おうとしたのだが、その前に、橘が指でクリームをとってしまった。
「美味しかった?」
「……まあ」
橘が満足げに、再びクレープを食べ始めたので、俺は安曇達の様子をうかがった。
人一人分。そのスペースは初めから縮まっていない。断じてデートをしている訳ではないらしい、俺と橘の距離のほうが近いくらいだ。金本も無理に近付こうとする気はないみたいだ。というより、意識して距離をとっている感じすらある。
安曇は笑っている。先程から全く変わらない顔。あれが愛想笑いなのかどうか、俺には判断がつかない。
金本はどういう意図を持って、安曇を祭りに誘ったのだろうか?
そんなことを考えつつ、また、橘の方を見てみる。もうすぐクレープを食べ終わりそうだ。
何で拭ったのか知らないが、指にクリームはすでについていなかった。
安曇たちが、短冊のたくさんぶら下がった笹のところに行ったのに従い、俺達もついていった。
周りの人が、短冊に願いを書き、笹にぶら下げているのを見て、
「ねえ、花丸くん。七夕がどういうものか知ってる?」
「笹の業者が儲かる行事だな。あと的屋も儲かる」
きゅうり一本三百円とか、もはや笑うしかない。
「友達がいない上、風流もないなんて可愛そうな人」
「……いま友達云々は関係ないだろ」
そう言いつつ、はて七夕とはどんなものだったかと、記憶を探ってみる。確か……、
「……結婚した織姫と彦星が爛れた生活を送って、仕事をしなくなったから、織姫の親父である天帝が切れて、天の河を隔てて二人を別れさせたけど、鳥が架け橋を作って一年に一度だけワンナイトできるってやつだろ、分かってるって。要するに、リア充はろくでもないという話だ」
小さい頃に聞いたおとぎ話というものは、存外記憶に残っているものだ。
「微妙に認識がずれている気がするけれど。伝説にまで嫉妬するなんてさすが花丸くんね。……まあいいわ、私達も笹の葉に短冊をつけましょう」
そこで、なんで? と聞くほど俺も馬鹿ではない。今日の橘さんは、お祭りモードでとにかくはしゃいでいる。そんな彼女の機嫌を損ねても仕方ないだろう。
短冊に願いを書く、という風習も妙なものだ。自分たちの仕事もせずに、いちゃつきまくってた、天上のバカップルに一体何を願うというのだろう。……案外、リア充爆発しろ、なんて願いは、滅多に会えなくなった腹いせに叶えてくれるかもしれんな。
急に願い事をかけと言われても、座右の銘が知足であるところの俺は、なかなかペンを動かせない。
しばらく悩んで、『来世では優しい世界に生まれますように』というささやかな願いを書いて、笹にくくりつけた。
さて、橘はどうしてるかと、見てみると、脚立に立って、笹の一番高いところに短冊をつけようとしている。
「お前何してんの?」
「別に。お星様になるべく近づけようと思っただけよ」
突然乙女チックになっている。
ゆっくり、脚立から降りて、
「じゃあ、行きましょうか」
と歩き出した。
言葉通りに受け取る必要なんてない。おおかた、見られたら恥ずかしいようなことでも書いたんだろう。
こっそり見てしまえば、あいつの弱みを握ることができるかもしれない。
そう思った俺は、素早く、脚立に登り、橘の短冊を見ようとした。
裏返ってしまって、内容を見られない。
手を伸ばしてひっくり返そうとした時、ふと、これは善良なことだろうか、という自責の念に駆られた。
俺は虐げられている身だ。だからと言って、他人が嫌がることをする権利があるわけではない。
ここで短冊を見てしまえば、俺は橘と同じステージに立つことになってしまうのではないか?
そう思って、伸ばしかけた手を引っ込めた。
そんな折、一陣の風が吹いた。
それに煽られ、短冊が揺れて、ひっくり返る。
そこに書かれていた内容は、
『花丸君を一生こき使えますように』
……。
あいつは短冊に何を書いてるんだ?