テトロドトキシンの服用に関して
昼の放送を終えたところで、萌菜先輩が放送室にやってきた。
「ありがとう。放送してくれて」
と彼女は俺たちに、応急救護講習の連絡についての礼を言った。
「執行部というのは大変ですね。こんなことまでやらないといけないなんて」
「まあ、保健委員が中心だから。私は君に放送を依頼するくらいだよ」
「じゃあ頑張ってきてください」
「君らも来るんだよ」
お前何言ってんの? みたいな顔をして、萌菜先輩は言った。
「俺達文化部ですよ」
「部活動であることには変わりないだろう」
まじかよ。
「どうする橘。女子二人で行くか?」
「私が働いて、花丸君が何もしないというのは癪だわ。あなたも来なさい」
「なんでだよ。二人までって言われただろ」
「別に一人くらい増えても構わないわよ」
と綿貫先輩。
「じゃあ三人で行こうよ、まるモン」
安曇に誘われたのでは、俺も断るわけにはいかない。
その横で、橘は、
「花丸君のくせに、女子を二人連れて歩くなんて、生意気だわ」
お前が来いって言ったんだろうが。
夏休み前の応急救護講習というものは、毎年行われている行事らしく、体育科の教師が講師となって、生徒たちに応急救護の基本的な方法を教えるというものだ。
体育館に集まった各部活の代表が、体育教師一人当たりに八人ほどに分かれて、人形を使った胸骨圧迫と人工呼吸のやり方を学ぶ。ただでさえ暑い上に、胸骨圧迫というのは、結構体力を使うものらしいので、汗をかいてもいいように生徒たちは運動着を着て参加している。
保健委員長が前に立ち、簡単な説明をした後、
「えっと、じゃあ、神宮の誇る執行委員長にして、大海原病院のお嬢さんに見本を見せてもらいましょうか」
どうやら、予定になかったことらしく、綿貫先輩は驚いた顔をしていたが、快く受け入れるつもりらしい。
人形の所に近づいて、一通りの流れを見せてくれた。
リズミカルになされる胸骨圧迫と、人工呼吸。
胸骨圧迫の時、おおと観衆から歓声が上がった。それは決して体が上下する際に、彼女の豊かな胸が揺れていたことを見たからではないだろう。そんな馬鹿な男子はうちの高校にはいないはずだ。きっと、彼女の見事な手際に感動したからに違いない。
スタイルの良い、モデルのような体型をしている彼女だが、肺活量はかなり大きいらしく、人工呼吸の際、息を吹き込んだときは、後ろからでも、人形の胸部が膨らんでいるのが見て取れた。その際、垂れた髪の毛を、片手でかきあげる様にして耳にかけた時、何とも言えない雰囲気になったのは、あのような美人にキスをされている人形がうらやましいとか、人形になりたいとか、馬鹿な男子が思ったからではないはずだ。
「いてててててぇ。なんだよ橘」
橘が不意に俺のかかとを踏んづけてきた。
「ごめんなさい。よく分からないけど、なんだかむかついたから、足が滑ってしまったのよ」
もはや、故意だとか、不慮の事故だとか、そういうことを気にするレベルではない。
*
応急救護講習のあとのこと。
用があると言って、どこかに行ってしまった、安曇を除き、俺と橘は放送室の中で、何をするでもなくうだうだしていた。
「それにしても、人工呼吸ってやつは、いざとなったら躊躇わずにできるのだろうか」
と橘に話しかける。
「その話を私に振るということは、私に人工呼吸をしてほしいということかしら。あなたはそうでもしないと、女の人とキスできなさそうだものね」
「なぜそうなる?」
「どうしてもしてほしいのなら、ふぐを釣ってきて、丸呑みすることね」
「どうしてだよ」
「知らないの? ふぐにはテトロドトキシンという毒があるのよ」
「んなことは知ってる。そんなもん摂取したら死ぬだろうが」
「ほら、よく分かっていないじゃない。フグ毒を摂ったから即ち死ぬということにはならないのよ」
「現に死んでるやつがいるだろ」
「だから、フグ毒をとって、神経が麻痺して呼吸困難になるから死ぬのよ」
「どっちも変わらんだろ」
「全然違うわ。心臓は動いているのだから、肺に酸素を送り込んでさえいれば死なないのよ。つまり、救急隊員の来るまでの間、人工呼吸をし続ければあなたは死なないで済むのよ」
「ああそう」
「実行する気になったかしら」
「やるわけねえだろ」
「数分間私にキスできるというのに?」
「何、助けてくれるわけ?」
「あなたを助けるため必死になってマウスシートを買いに行っている間、持ちこたえられるかが鍵ね」
「そこは躊躇うなよ」
「やっぱりキスしてほしいのじゃない」
「……」
「安心して。最後のお別れの時ぐらいはキスしてあげるから」
「それもう死んでるじゃないか!」
「冗談よ。あなたが死んでしまったら困るもの。私は誰に毒を吐けばいいと言うの? あなたの死をきっかけに改心しろとでも言うの?」
「お前は俺が生きている限り、悪い子なのか?」
「女の子はちょっと悪いほうが可愛いのよ。スパイスみたいなものだから」
「お前の場合、加減を間違えて、ハバネロみたくなってるが」
それから、会話が途切れ、部屋は静かになった。手持無沙汰に本を読み始める。
数分経ったところで、橘がわざとらしく咳ばらいをし始めた。程度の低い嫌がらせまでするようになったな、と思いながら、相手にするのもあほらしいので、無視して本を読み続けた。
しかし、橘の咳払いは止まらない。
こほんこほん、えほん。ううん、んんっ。うんんっ。んんっ。
……気が散る。
「なんだよ」
と尋ねた瞬間、咳払いは止んだ。かまってちゃんかこいつは。
「明日お祭りだそうね」
「……七夕な。七月七日はとっくに過ぎてるっていうのに」
「人の集まらない時にやってもしょうがないじゃない」
「まあそうかもしれんが。で、七夕祭りがどうかしたのか?」
「神宮の七夕祭りは、全国的にも有名だそうよ」
「へえ」
「飾りもきれいにされるそうよ」
「へえ」
「一度くらいは見ておくべきだと思うのだけれど」
「ほえー」
「ねえ花丸君」
橘は怒ったように俺の名を呼んだ。
「……なんだよ」
頁を繰る手を止めて、橘の方を見ると、俺を睨んでいる。またまた知らぬうちに怒らせてしまったらしい。
「……もういいわ」
そういって、ぷいと向こうを向き、橘も鞄の中から本を取り出したので、俺もそれ以上は気にしないことにした。
しばらくたってから、安曇が放送室に戻ってきた。
「用事済んだのか?」
「うん。それなんだけど」
安曇は顔を赤くして、もじもじしている。
「トイレなら早く行った方がいいぞ」
「ばっ、違うし! まるモン最低!」
「あなた本当最低ね」
もはや日常と化した非難の嵐。
「安曇さん何かあったのかしら?」
「先輩にお祭り誘われた」
「金本にか?」
こくりと頷く。
凝りない男だな。
「でも断ったんだろ」
そうしたら、フルフルと首を横に振った。
「なんでだよ」
「だってしょうがないじゃん!」
しょうがない? 安曇というのは押しに弱いのか?
「……で、どうすんだよ」
「一緒についてきて、遠くから見守ってほしい」
「そう。私は構わないわよ。放送部の仕事として引き受けるわ。安曇さん、後で、フラペチーノおごってあげる」
安曇は、「嬉しいけど、なんで?」といい、橘は「私がそうしたいからよ」と言っている。
意味が分からん。
それから女子二人は俺の方を見てきた。……どうせ俺に決定権はないんだろ。
「分かったよ。行けばいいんだろ」
*
神宮市の七夕祭りというものは、橘が言ったように、そこそこ大きい祭りらしくて、大体七月の末に数日間開かれ、様々な出し物を見ることができる。
市の名前の由来でもある、眞澄田神社の鳥居の前をまっすぐ伸びる商店街のアーケードは、色とりどりの笹飾りで、豪華に飾られ、多くの人でにぎわっている。
俺は、商店街のアーケードの下の所で、サンバカーニバルでの踊り子のような恰好をした、若い女性が数人踊っている様子を、ボーっと眺めていた。安曇と金本は、射的屋の列に並んでいて、結構時間がかかりそうだ。
金本という男は、さわやかイケメンを絵にかいたようなやつで、高身長で、サッカーのインターハイにも出て、おまけに勉強も得意らしくて、地元の国立だったら、理学部工学部はどこもA 判定とかいう、要するにむかつく野郎だった。
人当たりも良くて、男女問わず人気らしい。
言い寄った女子は数知れず、それでも今までに彼女はいたことがないらしい。……らしい。誰が、落とすのか女子の間では話題になっていたそうだ。普通に考えて、そのような御仁が振られるわけがない。
安曇さんナイスすぎるぜ。
「ねえ花丸くん。仮にも、女の人と二人でいるときに、よその女の露出の多い格好を見て、鼻の下を伸ばすのはどうかと思うのだけれど」
俺の隣で、一緒に二人の観察をしていた橘が幾分か棘のある口調で、言ってきた。
「ちげえよ。踊りを見ていただけだ。文句があるなら祭りの運営に言え」
「今日はオフィシャルな用事できているのだから、浮かれた気分でいるのはやめてくれるかしら」
「お? 妬いてんのか?」
「何、そのつまらない冗談。別にあなたがどこの誰を見てどんな妄想をしようが私には関係のないことだわ。忘れないでほしいのだけれど、部活だから今日私はあなたとここにいるのよ。これを女の子とのお出かけと勘違いして浮かれないで頂戴」
とぴしゃりと言った。
俺は黙って、橘の格好を上から下まで見る。
長い黒髪は結ってあって、簪で止められている。
校則では、化粧は禁止されていないが、いつも橘は極極薄めにしか化粧をしていないそうだ(安曇曰く)。けれども今日は俺でもわかるくらいにはしていた。切れ長の目になっている。
濃い青色の、花が描かれた浴衣は、浴衣の割には生地もいいものらしく、帯もワンタッチのイミテーションなどではなく、しっかりとした帯だ。橘と言えども、日常的に浴衣や、着物を着ているわけではないだろうから、洋服より着るのに時間がかかったことは想像に難くない。
足は素足で、爪には控えめな色ではあるが、ペディキュアまで塗ってある。
……。
何が浮かれるなだと?
「……浮かれるなって、そういうお前もメイクして浴衣まで着て楽しむ気満々じゃないか」
「違うわよ。これは祭りという場に溶け込むためのカモフラージュであって、別に祭りが楽しみだったとかそういうのではないんだから。ましてや花丸君に私の浴衣姿を見せようとか、そういうことは考えてないし、むしろ、私の可愛い浴衣姿を見て花丸君が欲情しないか心配しているくらいなのだけれど。さっきから、私をジロジロ見てるけど、襲わないでよね」
とかぶせ気味に、まくしたてるように言った。
今日はよく喋るな。
「あっ」
橘は声を出して、じっと止まってしまった。視線の先にあるのは、金魚掬いの出店だ。
頬を染めて、俺の方を見てくる。なに、もしかしてやりたいの?
少し先にいる安曇の方は、金本先輩と二人で射的に並んでいて、まだ少し時間がかかりそうだ。
橘はじっと俺を見る。けれど何も言わない。言えるわけがない。
じーーー。
……どんだけやりたいんだよ。
「やれば?」
それを聞いた、橘は何も言わずに、店の方に近づいて行った。
途中で立ち止まって、俺の方を振り返り、
「あなたもやりなさい。私だけが遊ぼうとしているみたいじゃない」
それが事実なんだがな。