手帳に挟まっていたもの
家に帰ってから、橘の学生手帳を、本人に返すことを忘れていたのに気が付いた。学生服のポケットから取り出し、明日渡すのを忘れないようにと思って、筆箱の中にしまおうと思った。
だが手を滑らせてしまい、手帳を床に落とした時、その内側に写真が挟まれている事に気が付いた。見たら悪いとは思いつつも、目に入ってきてしまう。
そこに写っていたのは、おそらく、十にも満たないような少女だった。その容貌と、彼女が持っているという状況からして、それが幼き日の橘美幸であることには間違いない。自分の幼い頃の写真を手帳に挟むというのに、どのような意味があるのかはよくわからないが。
隣には、入学当時の証明写真が手帳に貼ってある。
証明写真と言うと、無表情で撮って、どうにも映りをよくすると言うのは難しいのだが、橘の場合は、左右の均整がとれているために、全く違和感がなかった。
これだけ綺麗なのだから、もっと性格も可愛くなればいいのに、といつも思っていたのだが、それは逆なのかもしれない。
彼女の口の悪さと言うのは、衆目を惹く美貌を持つ彼女を、並の人間にする為の緩衝剤なのだろう。つまり、美人だから口が悪いのだ。
天は二物を与えないとは言い得て妙だ。
隣に写る幼女は、今と違って、素直で、もっと可愛かったのだろうなと思いながら、筆箱の中にしまう。
ベッドに身を投げ出して、状況を頭の中で整理する。
安曇梓が、女子から疎んじられているのは確からしいが、男子部員からも冷たくされるというのには、何か理由があるのだろうか。男子にも嫌われるようなことを彼女がしたか、あるいは、男子部員が全員女子マネージャの尻に敷かれているのだろうか。それとも、面倒事に関わるのが嫌なだけか。
今日話した感じでは、安曇は、問題のあるような人物には見えなかった。むしろ、男子に好かれそうな感じすらした。女子たちに冷たくされている彼女を救えば、好感を持たれるのでは、と下心を持ちそうなやつがいてもおかしくはないのだが、そのような事も全く起こっていないのか。
あるいは、安曇が俺たちに話していないことがまだあるのか。
彼女が今日話さなかったことを、明日以降すんなり話すとは考えにくい。ならば他の奴に当たるしかないか。
翌日、俺はクラスのサッカー部員に話を聞きに行った。
「なあ、ちょっと聞きたいんだが」
教室の席に着いていた、サッカー部の何某は、顔を上げて俺の方を見た。
「なんだ、放送部。お前らがネタにするような悩みなんてないぜ」
俺の名前は放送部じゃないんだがな。
「安曇梓って、サッカー部で嫌われているよな。三年の先輩を振ったからって、聞いたんだが、それだけなのか?」
「……その話か。やっぱそうなってたんだな」
「どういうことだ? 安曇が三年を振ったこと知らなかったのか?」
「そんな失態、サッカー部のエース様のような、プライドの高い人間が周りに話すわけ無いだろ」
それもそうか。
何某君は続けて、
「どこから知らんが、噂が流れて、安曇が先輩に色目使ったことになってる」
噂のもとが誰かは想像に難くないな。
「でも、そのエース様にぞっこんだった女子たちが、腹を立てるのは分かるんだが、男子まで安曇に冷たいのはどうしてなんだ?」
「あんまり話すと、俺もやばいんだよ」
「どうしてだよ」
某君は、周りを気にするようにし、声を潜めて、
「わかるだろ、その先輩が鬼怖いんだって」
「なんだ、エース様を振った女と、仲よくしようものなら、酷い目に合うってか?」
サッカー部の何某君は、頷くとも、かしげるともいえない、曖昧なジェスチャーをして、場を濁そうとする。だが、恐らくそういうことなのだろう。
「なあ、花丸。お前らが何しようとしているのかよく分からんが、人気者に嫌われるってことは、結構きついものだぜ」
俺はその忠告に肩をすくめるようにして、その場を離れようとした。
ところが何某君は、
「あっ」
と何かに気が付いたように声を出す。
「なんだ?」
「いや、流石にこれは」
「なんだよ」
「だめだ、話せん」
何かあると匂わせておいて、話さないというのはなかなか酷だが、無理に聞き出すのも、何某君に悪いと思ったので、そのまま歩いて行った。
日本人は追従するのが好きだ。目上の立場の者が意見を出したら、子分たちは右へ倣えする。エース様がスクールカーストの上位にいて、自分を振った女に復讐しようと思えば、あいつはうざい女だ、とか何とか言っておけば、それだけで帰趨は決まってしまうのだろう。
だが、考慮に入れるべきは、俺みたいな、外野の人間、異分子だ。
思い知らせてやろう。誰も彼もが、流れに乗るわけではないことを。
*
「俺は無実です」
俺は校内のとある一室で、取り調べを受けていた。
そこは、風紀委員会の執務室である。目の前に座るのは、風紀委員長と、俺をここまで連れてきた奴だ。
「そうは言っても、双眼鏡で外を覗いていたのは事実なんだし。あまつさえ写真を撮ろうとしていたじゃないか」
「……ちょっと風景を」
「校内はスマホ禁止だ。一年でも知っているはずだろ」
ぬかった。安曇が受けている仕打ちをカメラに捉えようと構えていただけなのに、まさか風紀委員に捕まってしまうとは。
出だしから早々、社会の流れに飲み込まれた自分を悲しく思う。
すべてありのままに話すのも気が引けて、どう言い訳をしようかと思案していたところで、ガラリと戸が開いた。
「こんにちわー、って誰? 新人?」
入ってきたのは、二年の女子だろうか。どこかで見たことがあるが。
美人も美人。廊下ですれ違っただけでも、印象に残りそうな容姿をしている。……橘がいたら、「綺麗な女の人を見て鼻を伸ばすのやめてくれるかしら。すごく気持ち悪いのだけれど。……ごめんなさい。気持ち悪いのはいつもの事だったわね。あなたの自然を治せと言うのは酷だったわね」とか言いそうだな。
「どうも綿貫さん。盗撮の現行犯です」
俺を連行した男がその御仁に向かって言った。というか、俺は盗撮犯ではない。
「ほおー、元気いいねえ」
「笑い事じゃないですよ」
このままだと、俺の不名誉になると思い、口をはさむ。
「俺は無実です」
「……君なんて名前なの?」
綿貫と言われたその女子生徒は、俺にそう尋ねてきた。
「ちょっと綿貫さん。いくら執行委員長でも風紀には介入しちゃだめですよ」
ああ思い出した。この人、執行委員長で女傑と呼ばれている人だ。
「いいじゃん名前聞くくらい」
「……花丸です」
「あの花丸くん? 変態豚野郎の?」
「豚野郎ではないです」
それを聞いた、綿貫先輩は片方の眉を吊り上げて、
「変態なのは否定しないんだ。で、なんで盗撮なんか」
「俺は無実です」
そこで、風紀の野郎が口をはさむ。
「さっきからこれしか言わないんですよ」
「……嫁を呼んでみるか」
そう言って、綿貫とかいう執行委員長は、風紀執務室にある、内線用の電話機を手に取り、どこかにかけた。
「もしもし。私、萌菜だけど。旦那が風紀に捕まっているわよ」
相手は何やら抗議の声を上げているようだが、何を言っているのかまではわからない。
「とりあえず風紀の執務室に来たら?」
数分としないうちに、風紀委員執務室の戸が開かれ、中に入ってくる者があった。
橘美幸である。
「あなた何をしているの?」
橘は眉を顰めて、俺に尋ねてきた。
「双眼鏡を通して、女子マネージャーをこっそり撮ろうとしていたら、風紀に捕まった」
「馬鹿なの? 双眼鏡なんかで上手く写真が撮れるわけないじゃない」
そんなやり取りに、執行委員長が口を挟む。
「突っ込むところそこなの?」
橘は声の主の方を向き直って、
「大体、萌菜さん。私とここのこれはそういう関係ではなくて、ただの行きずりのようなものです。変なこと言わないでください」
綿貫先輩は、含み笑いを浮かべて、
「せっかく同じ高校に入学したのに、会いに来てくれないから、からかいたくなっちゃったのよ。さやかとも話していないそうじゃない」
「私達、そんなに仲良くないでしょう」
と橘ははねつける。
「うわあ、面と向かって言われちゃった。変わってないわね」
「おい、どういう関係なんだよ」
「ちょっと、パーティー会場で顔を合わせたことがあるくらいの、希薄な関係よ」
本人のいる前で、なかなか希薄な関係だとか普通は言えない。そう思うと、言葉の上と違って、それなりに懇意にしていた仲なのではないだろうか。……橘が誰に対しても、このような態度を取るのであれば別だが。
「てか、パーティーで会うってどういうことだよ。何なのセレブなの? ギャツビーなの?」
「別に大したことないでしょう。彼女、総合病院の経営者一家の御令嬢よ。パーティーくらい出るわ。まあ、接点はそれだけではないのだけれど」
ちょっと何を言っているのかわからない。
俺の不可解そうな顔を見てか、
「あなたも知っているでしょう、駅前にある大きな病院。あれ、全国に系列病院があるのよ」
「……樹海病院だったっけ?」
「樹海はあなたの死に場所でしょう」
「俺は、ベッドの上で安らかに死ぬ予定だ」
「無理よ。保険金目当てで結婚された詐欺師に樹海に埋められてしまうのだから」
「俺の人生悲惨過ぎない?」
「だから、よく知りもしない女とは結婚しないことね。……その場合一生独身かしら」
「うるせえな、おい。で病院の名前何なんだよ」
「大海原よ。あなたが藻屑となる場所」
「結局死ぬんかい!」
ポカンと俺たちを見ていた、風紀委員ならびに、執行委員長だったが、綿貫先輩が、
「夫婦漫才するの後にしてくれない?」
「「夫婦じゃありません!!」」
橘は顔を赤くして、咳払いをしてから、
「そんなことより、あなたが不祥事を起こしたおかげで、こんなことになっているのだけれど。私の時間を奪っておいて、申し訳ないと思わないの?」
そんな橘の隣で、綿貫先輩は、「その割には随分早く来たように思うけどな」とか、ぼそぼそ言っているが、橘には聞こえていないのか、それとも無視しているだけなのか、よくわからない。
「俺は無実だ」
「それはもういいから」
橘はため息をついて、風紀言いの方に向き直った。
「うちの花丸がご迷惑をおかけして、申し訳ありません。処分は風紀委員の方にお任せしますので、煮るなり焼くなり好きにしてください」
あまりのぞんざいな扱いに抗議の声を上げようと思ったのだが、その前に、
「じゃあ、明日の美化活動に参加してもらったら?」
と萌菜先輩が提案する。
「綿貫さん。それ執行部と美化委員の仕事じゃないですか」
と口をとがらせる、風紀委員長。
「君達の基本方針は、やんちゃ坊主の社会貢献を促すことだろう。ちょうどいいと思うが」
「どうします? 委員長?」
「うーん、まあそれでいいか。じゃあ花丸くん、明日の放課後、掃除に参加するように」
「俺はむじ――」
「花丸くん。往生際が悪いわよ」
ぴしゃりと橘が言った。
「……承知しました」
*
釈放され、場所は変わって、放送室。
見た目からして怪しいのだから、不審に思われるようなことはするな、とか。私はともかく、執行部や風紀委員に迷惑をかけて申し訳ないと思わないのか、とか。生きてて恥ずかしくないのか、とか。いろいろ言われて、蛇に見込まれた蛙のようになっていた俺は、はい、はい、と体を縮こませて、何度も言うばかりだった。
お説教がひと段落したところで、橘は何かを思い出したように、あっ、と口を開いた。
「どうした? 洗濯物干し忘れたのか?」
「私の下着を想像するのやめてくれる?」
なぜ下着に限局する?
「――昨日どこかで手帳をなくしてしまったのよ。先生に落とし物として届いていないか確認するのを忘れていたわ」
「あ」
「何?」
俺はゴソゴソとカバンに手を伸ばし、筆箱から橘の学生手帳を取り出した。
「……どうしてあなたが持っているの? 変態からストーカーに進化したの?」
「ちげえよ! てかそれ進化じゃねえだろ」
「じゃあなぜ?」
「お前が昨日落としたのを拾ったんだよ。朝渡そうと思ってたんだ」
「見た?」
例の写真のことか。素直に見たというのも愚かだろう。
「……見てない」
「その返答の仕方だと、見たというようにしか思えないのだけれど。あなた本当最低ね。女の子の私物をベタベタと」
「わざと見たわけじゃない」
「知らないの? わざとじゃなくても許されないことってたくさんあるのよ。花丸くんが私の体を触るとか。花丸くんが私に卑猥なことを無意識に投げかけるとか。私の吐いた息を、花丸くんが吸い込むとか」
「はじめの二つはともかく、最後のどうしようもなくないか?」
「代謝を行うときはすべて私に許可を取りなさい」
「それ、お前と合体でもしない限り無理だぞ」
「卑猥なこと言うのやめてくれる?」
……。この女の頭の中一体どうなってんの?
「で見たことに関して言うことはないの?」
「……あんま昔から変わってないな」
橘は分かりやすくため息をついた。
「まず謝罪からでしょう。……まあ、あなたに期待するほうが無理なのかもしれないけれど。……花丸くんって、ロリコン趣味があるのかしら?」
「なんでだよ?!」
「あなたが愛してやまないこの私は、六歳児とあまり姿が変わっていないということでしょう」
「……なぜ俺がお前に惚れている前提なんだ?」
「そうでなければ、花丸くんが好きでもない女の子に欲情してしまう、やばいやつになってしまうじゃない」
「欲情もしてないよ、橘さん」
「でも一応礼は言っておくわ。ありがとう」
俺はそこでたじろいだ。
「どうしたの花丸くん?」
「いや、お前が礼なんていうから」
「だってあなたと違って、常識はあるもの」
「俺だって常識はあるぞ。活用してないだけで」
「それを非常識というのよ。……また時間を無駄にしてしまったわ。下校の連絡をして、さっさと帰りましょう」
すべての用事を済ませて、学校を後にした後、俺は大きくため息をついた。
なんか今日は、色々疲れた。