何を言っているのかしら
橘は安曇の着替えに付き添うと言って、更衣室の方に歩いていったのだが、途中で何やら手帳のようなものを落とした。拾ってみてみると、学生手帳である。声を掛けたのだが、気づかなかったらしくそのまま行ってしまった。
まあ、後で渡せばよいだろう。
場所は変わって、
「安曇梓さんと言ったわね。梓川の流れる安曇野市の安曇に、安曇野市を流れる梓川の梓でいいのかしら?」
橘は、学外の喫茶店にて、向かいの席に座る、安曇梓にそう尋ねた。
俺は橘の隣に座っているのだが、「匂いを嗅がれて花丸くんが興奮するのは癪だから、息を止めといてくれる?」という無茶振りを出されている。一分と持たなかったがな。そうしたら「そんなに私の匂いがかぎたいのかしら?」と。
いや、違うだろ。
「はい」
梓川に安曇野市。どちらも長野の地名か。梓川というとやはり、上高地の山岳リゾートが連想されるな。上高地は松本市だが。
「長野出身なのか?」
と聞いてみたところ、
「いえ、私は愛知生まれの愛知育ちです」
それから橘は、自身の紹介をするのかと思ったら、
「ここのこれは花丸元気。花魁の花に、丸裸の丸で花丸。元気になるの元気で、もときとよむのよ」
と俺の名前の説明を、ご丁寧に先にしてくれる。
「熟語の選択に少なからず悪意を感じるんだが」
花魁が丸裸で元気になる、だと?
「何を言っているのかしら花丸くん。あなた、もしかして、いやらしいことでも考えているの?」
とは言うが、彼女の含み笑いを見るに、他意がありありなのが見え見えだ。
「……」
「ご不満なら、私の名前の説明はあなたがしていいわよ」
流石に、女の子の名前で遊ぼうとは思えない。
「こいつは柑橘の橘に、美しく幸せと書いて、橘美幸だ」
「……花丸くん、どうしてその説明……」
「なんだよ?」
「いえ、なんでもないわ」
少し気になったが、橘が話さないと決めたものを追求する気にはならなかった。
「お二人は、例の放送部の二人なんですよね? 放送事故の」
放送事故か。爆弾発言満載のお悩み相談室のせいで、もはやどれのことを言っているのかわからなくなってしまった。
「安曇さん。そんなかしこまった話し方をしなくていいのよ。私達は同学年なのだから」
俺は端から、一年だと思っていたが、そういえば確かめてはいなかった。着替えのために更衣室に向かった安曇に付き添って、おそらく橘は、スリッパなり、下駄箱なりを見て、確認していたのだろう。
「そう……だね。二人って恋人同士なんだよね?」
「安曇さん、あなた何を言っているのかしら? 私と花丸くんは、恋人関係などというチンケな関係ではないのよ。どんな関係よりステディなものなのよ」
「えっ、……もしかして、婚約者……とか?」
見当違いなことを言う安曇に対し、橘は呆れた、とでも言いたげな顔をした。
いつもの毒舌で誤解を解くのだろう、と思っていたのだが、
「私と花丸くんは、子々孫々まで主従関係の仲にあるのよ。要するに、彼は私には絶対逆らえないの。婚約者だなんて、冗談にしてもたちが悪いわよ」
と橘も見当違いなことを言う。
「お前の冗談もなかなかたちが悪いと思うんだが」
誰が、子々孫々まで主従関係を結んだ、だと?
「冗談ではなく、私は本気で言っているのだけれど。あなた、私が足を舐めろと言ったら、喜んで舐めるじゃない」
「お前、俺の悪評ばかり広めるなよ」
「否定しないってことは、本当にやるんだ?! まるモンまじキモい」
ドン引きする安曇の横で、俺は涙をのんでいた。……まるモンってなんだよ。
「ま、まだ、やってねえし」
それを聞いた橘は、ニヤリとして、
「ということは、いつかやるということでいいのかしら。安曇さん、花丸君が私に強制わいせつをして逮捕された時は取材で、『いつかやる男だと思っていました』と答えてくれる?」
安曇は眉を顰めるようにして、
「美幸ちゃん、舐められるの嫌じゃないの?」
と尋ねる。
「嫌かどうかと問われれば、もちろん嫌だわ。でも、私の足の方が、花丸君の口腔の、百万倍清潔だから、ちょっと舐められたくらいでは、物理化学的思考で言っても、影響がないと言えるでしょうね。それに、彼がそんなことをすれば、私は花丸君の顔を、足で踏みつける大義名分ができるもの。そのためなら、不快な体験も我慢できるわ」
「俺はお前が時々出してくる、トンデモ科学理論を理解できた試しがないんだが。それと、顔を踏みつけるというのは駄目だろ」
橘の命令で足を舐めるのだから。……いや、舐めないけど。
「そうね。あなたが私の命令に従うことは当然のことなのに、足で顔を踏みつけるというご褒美をあげるのは少し過剰かもしれないわね」
「おーい、戻ってこい」
「自己紹介はこれくらいにして」
「今の自己紹介だったの? てっきり、俺をいじめているのかと思ったぜ」
「花丸君、今はふざけている場合ではないでしょう。本題に入るわよ」
どの口が言うか。
「それで、安曇さん。私の見た感じでは、他の部員から嫌がらせを受けていたように見えたのだけれど、それでいいのかしら?」
橘が本題に話を戻したところで、今まで柔らかかった安曇の顔も強張ってしまう。
「……そういうことに、なっちゃうよね」
「何があったのか話してくれるかしら」
震える、安曇梓の口が、ぽつりぽつりと話した、彼女に関わるいざこざは、想像していた以上に厄介なものらしい。
曰く、サッカー部のマネージャーとして入部した安曇だったが、ある一人の三年生男子部員に目をつけられて、執拗に言い寄られるようになった。その男は、サッカー部のエースであり、他の部員にも慕われていた。
とうとうエース様は、安曇に告白したのだが、安曇はそれを断った。
以降、女子部員が安曇に冷たくなったそうで、おまけに女子たちが安曇に嫌がらせをしているというのに、男子部員たちは見て見ぬふりをしているのだと言う。
「なんで、女子たちは安曇に嫌がらせをするんだ?」
「あなた話聞いていたのかしら?」
「上級生に告られて、そいつを振っただけだろ。悪いことなんて一つもしていないじゃないか」
「知らないのかしら。この社会は何も悪いことをしていなくても、迫害される世界なのよ。彼女らの考えでは、あこがれのエース様を奪った泥棒猫は、悪そのものなのだから、罰を与えなければならない、といったところかしら」
「サッカー部のマネージャーってのは性格悪い奴を集めているのか?」
「女子ってそんなものよ。中学の頃は、私もよく、トイレに呼び出されて吊るし上げられていたもの」
多分口が悪いせいじゃないだろうか。美人というのもあるだろうが。
「でどうすんの?」
「サッカー部の顧問に相談するのがいいと思うのだけれど?」
そういって、橘は安曇の方に目をやるのだが、
「それは無理」
「なんでだ?」
「今大会前だから。……私のせいでこれ以上空気が悪くなったら。部活にいられなくなる。三年生は最後の大会だし」
確かに選手たちは、悪いことをしていないのだから、女子たちのいざこざに巻き込むのは気が引けるというのだろう。
「……そう。では、本人たちに嫌がらせをやめるよう直接言うしかないわね」
「そんなのできないよ」
「じゃあ、俺たちもついていくか?」
「……それだと効果が薄れてしまいそうだけど、何もしないよりはいいのかしら」
「じゃあ、とりあえず抗議しに行くってことで」
話がひと段落したところで、
「お礼言うの遅くなっちゃったけど、ありがとう。さっきは助けてくれて」
そう言って、安曇は俺に頭を下げた。
すると橘が、
「安曇さん、花丸くんは悪い人ではないわ。でも、男子高校生の例にもれず、女の子に飢えているの。だから注意してね。私なんか毎日花丸くんに、舐め回すような視線で見られているのだから。しかも息を荒くされて」
「それはお前の言動に、沸き上がる怒りを抑えて、自分を律している場面だ」
毎日、怒っているせいで、高血圧になりそう。
「つまりあなたは私の一挙一動にむらむらしているということかしら」
「その言い方はやめろ」
「とにかく、花丸くんに下手に手を出したら、かぶれるわよ」
「そこは、火傷する、だろうが。何なの? 俺は漆かなにかなの?」
「あら、あなたより漆のほうがよほど多くの人の役に立つじゃない」
「ああそうですか」
「でも心配しないで、悲しむことはないわ。一人の女の子を幸せにできるのなら、それで十分じゃない」
「まあ、安曇のことはちゃんと助けてやりたいと思うが」
「……そうね」
カフェを出たところで、橘は安曇に向かって、
「さっきはああ言ったし、花丸くんは、私のモノだけれど、どうしても使いたいのなら、安曇さんにも使用を許すわ。好きに使って」
「すみません、橘さん。僕の自由意志はどこに行ったのでしょうか?」
「何を言っているのかしら。私とあなたは一心同体なのだから、私の意思があなたの意思でもあるのよ」
「なんか、いい感じのことを言っているように見えるが、それ人権侵害だぞ」
「ちゃんと日本語の意味分かっている? 一心同体って心も体も強く結びついているという意味なのよ。……あなたほんと変態ね」
「突然の罵倒?! 今ほど脈絡のなかったものはないぞ」
「変なこと考えたでしょう?」
と頬を染めて俺を睨むようにして見た。
「何を言っているのかわからんのだが。変なことってなんだよ?」
「私に何を言わせる気? これ以上セクハラ行為に及んだら、引っ叩くわよ」
もう意味がわからん。
そんな俺たちのやり取りを戸惑うように見ていた安曇だったが、
「美幸ちゃんはまるモンのこと嫌いなの?」
「そんなことないわ。ゴキブリの次に好きよ」
「それはもう、嫌いでいいだろ。この前なんて、放送室に湧いたやつに、異常なくらいゴキジェットをかけていたじゃないか。何? いつも俺に殺意抱いてるの?」
「あら、よくわかったわね」
……畜生。
「じゃあなんで、美幸ちゃんは、まるモンと一緒にいるの?」
俺に対して悪意剝き出しの橘を見て思ったのだろうか。
すると橘はぴたりと足を止めて、安曇の方を向き直り、
「飽きれたわね。逆に聞くけど、あなたは犬を散歩させている人に向かって、どうして犬を散歩させているのですか、なんて質問するのかしら」
「まさかの犬扱い?!」
「やった。豚から犬に進化した……」
「まるモン、なにげに満足げだし?!」
「初めは、羽虫だって罵られていて、この前は変態豚野郎だったからな。だいぶ進歩した」
「そこはポジティブなんだ」
ポジティブにでもならなければ、橘の毒舌の嵐には耐えられまい。
「恥も外聞も捨てているところが、花丸くんの唯一の美点なのよ」
「褒められている気がしねえな。本性がむき出しなところだけが美点って、ただのやばいやつじゃないか」
「今頃気付いたの? 私は会ったときから知っていたのだけれど。私を視姦してハァハァいうあなたを見て。……ほら今みたいに」
落ち着け俺。こいつは女だ。殴っちゃいかん。
しばらく歩いて、安曇と帰り道が別れるところまできた。
最後に彼女は俺たちの方を向き直って、
「ほんとによかった、二人に助けてもらえて。じゃなきゃ私、壊れていたかもしれない」
そういう安曇の目はうるんでいる。今まで一人で耐えてきて、こぼすにこぼせなかった弱音を吐きだしているのだろうか。
「安心するのはまだ早いわよ。本当の意味で戦いはこれからなのだから」
「うん。ありがとう。私も頑張る。じゃあ」
自転車にまたがって、安曇はどんどん遠ざかってゆく。
「で、お前本当にうまくいくと思っているのか?」
安曇の後姿を見ながら、橘に問う。
「そんなわけないじゃない。やめろと言われて素直にやめるようなら、陰湿ないじめなど端からしないわよ。まして私たちが付いて行ったんじゃ」
余計悪化させる可能性も否めないか。
「だよな」
「解決策は、何があるかしら?」
「ひたすら我慢する?」
「悪手ね」
「俺もそう思う」
「だったら言わないでよ」
「とりあえずだよ。あとは、徹底抗戦か」
「三人対サッカー部で?」
「劣勢は慣れているがな。……最後の手段は、俺の大好きな方法だ」
「何?」
「逃げるが勝ち。これ、この世のセントラルドグマ」
「……あなたらしいわね」
「馬鹿に付き合うことほど愚かしいこともないだろ」
「……安曇さんがそれを素直に受け入れられるかが問題ね」
逃げる、それはつまり、サッカー部からの退部。
確かに大きな決断であることには間違いない。