震える声で伝えて
廊下で彼女らの話が終わるのを待つ間、俺はずっと気を揉んでいた。
汗で滲む掌とは対照的に口の中は乾燥してヒリついている。脈は速く、ドッドッドッという心音が骨を伝って聞こえてくる。
流石に部屋の中の声は廊下まで聞こえてこず、そのために自分の臓腑が騒いでいるのをこれでもかと思い知らされていた。
どんな気持ちかと問われて、言葉にできない状態。感情そのものがモザイクとなっている。
ただ一つ分かるのは少しでそれも終わるということだ。
クリアになるのか、はたまた黒に塗りつぶされるのか、それは分からないが。
安曇が家の中から出てきた。
顔を伏せているので、こちらにはよく表情が見えない。
安曇は俺の横を通る際、少しだけ足を止め肩をこつんと叩いた。
「先に駅行ってる」
「一人で行けるか?」
「言ったでしょ。私もう子供じゃないんだよ」
「……そうだな」
彼女は歩いていく。何も言わないその背中は言葉では言い表せないたくさんの事を吐き出していた。
彼女は数メートル離れてから、またピタリと足を止め、背を向けたまま
「これで決めなかったら、まるもんのことビンタしちゃうかも」
と釘を差してきた。
「任せとけ。俺はお前を犯罪者にするわけにはいかないからな」
「……馬鹿」
安曇はそのまま去っていった。
その後ろ姿に胸を衝かれる思いがした。
かつて幻想を抱いていた。
物事には絶対の答えがあって、大人になるということはその答えが分かるようになることだと。
俺はまだ答えが分からない。
それは俺が大人になれていない……というだけではないのだと思う。
そもそも絶対の答えなんて存在しないんだ。
威風堂々と生きているように見えた大人たちも実のところ内心はビクビクして、本当は間違えているんじゃないかと怯えながら生きている。そうでないならハリボテを本物と信じ切っているか。
だから当然俺にも俺のやってきたことが、これからやることが絶対に正しいかどうかなんてわからない。正直に言えばここに至るまで後悔の連続だったし、今でさえこれで良いのだろうかと悩んでいる。
今ここにいるのだって、思わず飛び出して、偶然が重なり、なんとかここに立っているに過ぎないのだから、そこに絶対の正当性を求めようとすること自体おかしいか。
ただ一つ言えるのは、今までのどんな時より、今が本気であるということだ。
俺は息をフーっと吐いて、ドアホンを鳴らした。
「はい」
彼女の声が聞こえる。
「俺だ。花丸だ」
「あら、来たのね。何の用かしら?」
「お前に会いに来た」
「……開いてるから入って」
俺は本気だ。正気ではないかもしれないが本気だ。
*
「よう、橘。久しぶりだな」
「ええ、久しぶりね」
部屋の中で凛として佇む彼女に対し、つい最近まで会っていた友人同士みたいなノリで俺は声をかけた。それに呼応して、彼女も軽い返事をする。
「えっと、元気にしてたか」
「ええ、それなりに」
「……そうか。なら良かった」
俺が間抜けな様子で突っ立っているのを見かねて橘は
「突っ立ってないで座ったら?」
と促してきた。
「そうだな」
肩に掛けていた鞄を置き、ソファに座った俺に対し
「……少し冷めてしまったかもしれないけれど」
橘はそう言って、ティーポットのお茶をカップに注いで差し出してきた。
「ありがとう」
俺はそれを受け取り、礼を言いながら小さく会釈した。
それから彼女はゆっくりと言葉を切りながら
「……それで私に会って何か話したいことでも?」
と俺を見た。その瞳をまっすぐに見ていると、吸い込まれるような気がしたので、少しだけ視線を下に逸した。
「それはまあ色々ある」
「……苦情、言いに来たのでしょう?」
彼女はそう言って投げやりともとれる笑みを浮かべる。
「苦情なんて言わんよ」
「……でも私、あなたとの約束たくさん破った」
「約束? ちゃんと返事するってやつか?」
「……それもそうだけど、他にもたくさん」
「どんな約束さ?」
「……学校祭のボンファイア、一緒に見るって約束した。でも守らなかった」
「……うん。たしかにそんな約束もしてたな。でもそれ実験がどうのってやつだろ?」
一年の学校祭のときにした、「ボンファイアを一緒に見た男女は結ばれる」という噂を否定するためにした実験。たしかそのときは一回の試行で結論が出せるわけがないと、橘が主張したので、翌年も一緒に見る約束をした。
当時は彼女の嫌がらせまがいのおふざけだと思っていた。
「約束は約束よ」
「……そうか」
「あと、安曇さんの委員会での仕事をサポートするって約束してたのに、それも出来なかった」
「……それは、まあ、仕方なかったな。俺も無理に頼んだことだったし。でもお前がいなかったらもっとひどいことになっていたはずだ」
一時的だったとはいえ、彼女がいなかったら、放送委員はまともに機能していなかったかもしれない。彼女に感謝こそすれ、非難するなんて誰ができようか。
「それと、ずっとあなたに黙ってた。ハンガリーに行くこと。そして、何も言わずにいなくなった」
「……うん。流石にそれは堪えたけど」
「だから私はあなたに貶されても仕方ない。そうされるべきなんだわ。さあ思う存分罵って頂戴」
「……おい、よせよ。俺がそんなことのためにここまで来たと思うか?」
「ええ」
「ええってお前な……」
「それで気の済むというのなら思う存分私をいじめればいいじゃない。そしてあなたは悶え苦しむ私を見て、ケダモノの喜びに浸るんだわ。でもそれであなたの心が救われるというのなら、好きにすればいいわ」
まるで場に似つかわしくない言葉が聞こえてきた気がして、俺の耳が腐ったのか、脳みそが腐ったのかどちらか一瞬考えてから、いやそうではない、紛れもなく目の前にいる少女の口から聞こえてきた言葉だと認識する。
「お前……ちょっとふざけてるだろ?」
俺が言ったら橘はぷくっと不服そうな顔で
「ふざけてない」
と非難がましく俺を睨んでくる。
俺はそれにたじろいだ。
「いや別に辛気臭い面拝みに来たわけじゃないから良いんだけどさ」
でも彼女の言葉に振り回される感覚が懐かしくて、なんだか笑えてきてしまう。
「では何をしに来たというの?」
「……とりあえず、お前に渡すものがある」
俺は横に置いていた鞄から袋を取り出し、更にその中にしまってあった封筒を彼女に差し出した。
橘が不審そうにそれを見たので
「タイムカプセルの手紙。幼稚園の頃の奴。先生に頼まれた」
と付け加える。
「……」
橘は無言でそれを受け取った。
それからなにか言いたげな目でじっと俺を見た。
「……いや、まあ。言いたいことは分かる。これに関しては、ほんとに俺が悪かった」
「何が?」
橘は詰問するように言った。
本当に、今更という話だが、だからといって、それを言わないでいるのもあまりに不誠実だと思ったので、俺は彼女に向き直って頭を下げた。
「お前のこと忘れてすまなかった」
「…………」
「おい、大丈夫か」
顔を上げてみたところ、橘は何も言わず、何も顔に出さず、ただ座っている。
「いや、その。あっけなく思い出されたふうに言われて、少し拍子抜けしてしまって。…………ああそうなの。思い出したの」
それから少し呆けたような顔をした。
「……とりあえず、手紙間違ってないか、見てくれるか?」
「え、ええ」
橘はそう言って我に返り、丁寧に封筒を破って、中身の手紙を読み始めた。六歳の彼女が高校生の彼女に書いた手紙を。
さっと目を通した橘は少々顔に赤みが差したようにも見えたが、ほとんど無表情のまま手紙を読み終えて、封筒に差し戻した。
「読んだわ」
「間違いないか」
「……信じたくはないけれど、私自身が書いたものよ」
「信じたくないけどって……」
「憎らしいくらいに無邪気なことを書いているから」
「子供なんてそんなものだろう」
「それにしても無邪気すぎる。自分のことながら恥ずかしく思うわ」
「ま、お前宛の手紙は置いといて、俺が確認したいのはこっちだ」
俺は大事にしまっていた十年越しの手紙を懐から取り出して、彼女の前でひらひらとはためかせた。
いよいよ顔を強張らせている彼女をよそに俺は言った。
「どこに行っても会いにこい、って書かれてるんだが。何これ?」
橘は先程までの余裕ぶっこいた表情とは打って変わって
「え、あ、ちょっと、なんのことかしら。というか、それ私の手紙でしょう。か、返しなさい」
と俺に襲いかからん勢いで飛びかかってくる。
「嫌だね。俺宛ての手紙だから俺んだ」
俺の手紙を奪い取ろうと伸ばしてきた手を、立ち上がってひらりひらりとかわした。
高く挙げた手紙に彼女の手は届かない。
それから、内容を忘れているであろう橘に教えてやるため、大きな声で読み上げてやった。俺を捕まえようと追いかけてくる橘を避けながら。
「花丸くんへ
とつぜんおわかれすることになってごめんなさい。いつもいじわるばっかり言ってごめんなさい。わたしはすなおな女のこじゃなかったかもしれません。ごめんなさい。でもいつかかならず花丸くんのところにもどってきます。そのときにはすこしでもすなおになっていられるようにがんばります。
たぶん口では言えてないとおもうので、ここでかわりに言います。
わたしは花丸くんが大すきです。ずっとずっと大すきです。だからぜったいあいにいきます。もしけんかをしてわたしがどこかに行ったばあいは、ただいじけているだけだとおもうので、かならずむかえにきてください。おねがいします。
またあえて、なかなおりして、そしておとなになったら
わたしを花丸くんのおよめさんにしてください。
おねがいします。
たちばな美幸」
読み終えたところで橘を見ると真っ赤な顔を隠すように手で覆っていた。そのポーズのまま堰を切ったように言葉を吐いた。
「何かしら。ひょっとしてあなたはその園児が書いた手紙を鵜呑みにしてここまでやってきたということ? それで私があなたの求婚に応じるとでも思ったの? 未就学児の書いた手紙に法的拘束力があるとあなたが思っていることに、怖気をふるうのを通り越してもはやへそで茶が沸きそうなのだけれど。というかそれ本当に私が書いたの? あなたの偽造なんじゃない? 内容証明はあるの?」
類を見ない彼女の慌てふためきように嗜虐性がくすぐられるのを我慢しながら
「タイムカプセルの手紙に内容証明なんてあるわけないだろ。……いやこれ書いたのがお前だってのは、ユミコ先生が証明してくれるな」
と冷静に答える。
「ゆみこ? 誰よその女」
橘はきつい口調で問うてきた。
「俺たちの担任だろうが」
「知らないわね」
彼女は冷たく言い放った。いや、俺も覚えてなかったけどさ。
「……まあそれはいいとして、その慌てふためきようだと、お前宛ての手紙にはもっとすごいこと書いてありそうだな」
「そんなわけないでしょう」
橘は口ではそう言いつつも、自分宛ての手紙が入った封筒を、俺から隠すように自身の体の後ろに持っていく。
「おい、どうした。なぜそう隠そうとする」
「別に」
「ちょっとくらい見せてくれよ」
「いやよ、やだ、変態、触らないでくれるかしら」
俺が彼女の手紙を一目見ようと手を出したら、ペチンと手を叩かれた。
「……相当面白そうなことが書いてありそうだな」
俺は引っ込めた手をさすりながら言った。
橘は顔をぷいとし
「だから別になんでもないわよ。それで他には? こんな紙切れ一枚で私を言いくるめられるとでも思ったの?」
と宣った。
もちろん俺だって、これだけでどうこうできるだなんて考えてはいない。確かにここに来るきっかけを与えてくれたには違いないが、俺の言いたいこと、言わなきゃいけないことが、かみっぺら一枚で言い表せるもののはずがない。
まだ足りない。
はっきり言葉にしないと彼女だって許してくれない。
俺はずっと溜め込んでいたものを吐き出すように彼女に言った。
「俺さ、ずっと息苦しかったんだ。このままじゃいつか首が回らなくなってどうにもならない日が来るってずっとわかってたのに、俺は変わることを恐れた。成長することを否定した。くだらないと言い続けて切り捨てようとしたはずの、他人からの評価にずっとこだわり続けた。
誰も傷つけたくなかったし、俺自身傷つきたくなかった。それが楽だったし、割り切ればそこそこ楽しめた。
今までの経験からよく知っているんだ。俺という人間はどうしようもないくらい怠け者だってことを。楽な道があれば進んでそっちを選んじまうし、泥臭く、顔をぐしゃぐしゃにして何かをするっていうのができなかった。
でもたった一つだけ、俺は頑張れる理由を見つけちまったんだよ。かっこ悪く足掻いてもいいなって思える理由をよ」
「理由?」
彼女は聞き返してくる。
「そう。それはお前だ。俺は自分のためには頑張れない。だけどお前のためになら頑張れる。俺にどうにかできることは全部してやれる。泥水だって啜れるし、ピエロにだってなれる。熊とだって戦うさ」
「……とてもあなたが熊に勝てるとは思えないけれど」
「もちろん準備は周到に行うさ。そうだな、とりあえず猟銃の免許を取るとこらから始めるか」
「でも私、熊肉より鹿のほうが好きよ」
「じゃあ鹿も狩る…………いやそういう話じゃなくて。いかんな、どうにも俺はごてごてと話を修飾してややこしくする嫌いがあるらしい」
「そうみたいね。あなたが何を言いたいのかさっぱり分からないわ」
俺は観念して頭をボリボリとかいた。
それから
「橘美幸!」
「はい」
彼女は居直り、俺の目をじっと見る。
「大事なこと言うから、耳の穴かっぽじって、よく聞いとけよ」
今までのは単なる枕詞だ。俺はこの台詞を言うためだけに、遥か遠くこの場所に来た。本当にここまで遠かった。単なる距離以上のものを俺は乗り越えてここに立っているんだ。
俺は息をスッと飲み、覚悟を決めた。
たった一つの思い、たった一つの願いを俺は言葉にする。
「お前の人生を俺に祝福させてくれ」
それを聞いた橘は、数秒黙り込んでから、絞り出したような声で
「……ごめんなさい。ちょっと意味がわからないわ」
と言った。
「難しいことは言っていない。橘美幸の人生が、祝福され、『生まれてきてくれてありがとう』『生きててくれてありがとう』ってそういう声に、思いに包まれてあって欲しい。そのために俺の全身全霊をやるよ。俺の持ってるもんだけでなく、これから持ちうるものまで全部お前にやる。お前がこの世に生まれてきたことを祝っての、せめてもの気持ちだ」
彼女はまた黙り、先刻と同じようなことを言う。
「……やっぱり意味がわからないわ。大体、祝福と言ったって、一体いつまで……」
「そりゃ、俺がくたばるまでだろ。それまでずっと側にいる。そして折につけ言うんだ『生まれてきてくれてありがとう』ってな」
「そんな……許可も取らずに勝手に宣言されても困るわ」
「だから許可をくれ」
「どうしてそんな……。あなたがそんなことを……。あなたにとってなんの利益にもならないじゃない」
「損得とか、利益とかそういうんじゃねえんだよ。ただ俺がそうしたいだけ。というかそうせずにはいられないだけだ。強いて俺に見返りがあるとするならば、さっきも言ったが、お前は俺の生きる目的になる。それで十分以上さ」
「……なんでそこまで私にこだわるの?」
理由なんて星の数ほどあった。どれをとっても、俺には十分でそれ故どれか一つに絞ることができない。全部伝えようとすれば、それこそ時間が足りなくなるし、伝え切る技量さえ俺にあるように思えなかった。
一つだけ確かなのは、それら全てが一点に収束すること。
「お前が好きだからだ」
胸腔が潰れ
空気が押し出され
気道を通り
声帯が震え
声になり
言葉になり
感情の波が空気の振動となり
彼女の鼓膜を震わせる。
冗長な言葉で表されるその過程は、たった数秒の出来事だ。その数秒にも満たない時間のため、俺は遠回りし続けてきた。
「……ほんと意味がわからないわよ」
彼女は、その白い宝石のような手を丸めて、俺の胸をポカリと叩いた。
一度叩いて
「いちいち重いし」
もう一度叩いて
「鈍感かと思えば気障な台詞ばかり吐くし」
そして叩いて、俺の胸に拳をつけたまま動きを止め、額をコツンと俺の身体に埋めるようにぶつけ
「……なにより言うのが遅い」
彼女は答えた。
「本当、あなたドラマの主人公にでもなったつもり?」
「馬鹿野郎。俺はいつでもいつだって、花丸元気という物語の主役だよ」
「その物語のヒロインを私にしようだなんて、贅沢な人ね」
「俺はこう見えて、欲張りだからな」
「ええ、知ってたわ」
「だからずっとお前の隣にいさせてくれ」
橘はしばらくの間、震えながら口をパクパクとさせていたが、ようやくかすれかすれ声に出して
「……私、素直じゃないわ」
「知ってる。手紙にも書いてあるしな。まあ、それ以前から知ってたけど。自覚してるだけ上等だろ」
「私に対する評価基準が随分甘いのね」
「そりゃ惚れてるからな。甘くもなるさ」
「私、あなたに意地悪ばかりしちゃったわ」
「意地悪ってツンデレのことだろ。むしろ大好物です」
「これからもずっとそうかもしれないのよ。きっといつか嫌になるわ」
「いつか嫌になるくらいなら、とっくに嫌いになってるよ。それに俺も大概拗れてるから、人様の性格についてとやかく言えんさ」
「私、一つのことに夢中になると周りが見えなくなる」
「一つのことに夢中になれるなんて、それだけで才能なんだぜ。俺は逆に回りばっか見てるから二人合わせてイーブンだ。丁度いい」
「でも迷惑かけるかも」
「言ったろ。俺はお前がいるだけでいい。迷惑くらいいくらでもかけてくれよ。お前にもらえるものなら全部もらっておく」
「あなたって人は……本当」
彼女は訥々と言葉にならないものを形にしようと口を開いたが、唇が空を切るばかりだ。
そして目を伏せてしまう。
「で、どうなんだよ? ここまで来たんだ。答えを聞かないでは帰れんぞ」
橘は顔を上げた。その瞳に俺を見据えて
「……私は格好つけてこっちに来たのよ。男一人に言い寄られたからってすごすごと日本に帰れるわけないでしょう。それにお父さんがそんなこと許しはしないわ」
「そうだな。さすがの俺もお前を日本に連れ帰る甲斐性はないな」
「……何よ。期待させといて」
「だからお前は何もする必要はない。この東欧の国で悠々自適に暮らすがいいさ」
「何を……」
「俺は──」
それが俺の証明だった。
俺の言葉を聞いた彼女は泣いているのか笑っているのかよくわからないような顔を見せた。ぐしゃぐしゃで、ちょっと不細工だけど、この世で一番美しい顔。
「本当、めんどくさい男に目をつけられちゃったわ」
「それはお前にも責任がある」
「別に嫌とは言ってないでしょう」
「じゃあいいってことか?」
橘は所在なさげに目をキョロキョロさせてから一度瞑り、小さく息を吐いた。若干口元が震えているようにも見えた。
それから瞼を開き、彼女は言う。
「一つ条件があります」
「言ってくれ」
橘は俺の手を取った。
その手に顔を近づけるようにしてから彼女は言った。
「一生消えない花丸を私にください」
「……言ったろ。俺が持ってるもんは全部やる。花丸くらい何個だってつけてやるよ」
俺がそう言うとふるふると首を振る。
「いいえ。一つで十分だわ」
「そうか」
「ええ」
俺の手を包み込んでいる橘の熱がやけに熱く感じられる。
湧き上がってきた熱量が行き場を求めて、体の中でうねっている。
なにか喋っていないと体が崩壊しそうで、俺は口を開いた。
「……あー、えっと、抱きしめてもいいですか?」
情けないことを聞いているような気がして、恥ずかしさのあまり顔が焼けそうなくらい熱い。
彼女は後ろに飛び退いて、真っ赤な顔で
「それは少し待ってくれるかしら」
と告げた。
「あ、はい。そうですよね」
事をせいたと反省する。
そんな俺を見て橘は涙目になりながら
「ち、違うの。今、そんなことされたら、私心臓止まって死ぬわよ。だから、心の準備ができるまで待っててもらえる? ってことなのだけれど」
「お、おう。分かった。待つよ。十年でも二十年でも」
彼女に死なれたのでは全く意味がないのだ。
「……流石にそこまでは待たなくてもいいと思うけど」
「あ、はい」
「でも、その代わり」
橘はそう言って、再びこちらに手を差し伸べてきた。
俺は黙ってその手を握った。
「これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
手を離したあともやっぱり、橘の顔は赤かった。自分でも分かっているのか、それをごまかすように彼女は咳払いをした。
「でも一個だけ訂正しておきたい事があるのだけれど」
「なんだ?」
恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべる。
「何度も言っていたでしょう。端からあなたの人生は私のものよ。今更それをどうするとか言われても……困るわ」
俺は苦笑する。確かに何度も何度も言われたなあ。
「……全部冗談だと思ってた」
「鈍感最低主人公」
「えぇ……」
「大体、その服をあなたにプレゼントしたときに約束したでしょう?」
橘は俺の服を指し示して言った。
「ようやく気づいたか」
「最初から気づいていたわよ。……やっとその約束を果たす気が起きたみたいね」
「……でもそれ子孫まで続く奴隷契約とかじゃなかったっけ?」
「あら、人生をくれるってそういうことじゃないの?」
「……そうかもしれないけど」
「なら問題ないわね」
「お? おーん」
それでいいんだっけと、俺が首を傾げていたら、ぽしょりと橘が
「……でも、私もあなたのために人生使ってあげる。感謝しなさい」
と例のごとく尊大な態度で言ってみせた。
それに思わず噴き出した。
彼女もあまりに芝居がかった自身の物言いに可笑しさをこらえきれず、俺に釣られて笑い始める。
その笑い声に、もはや一寸の邪気はなく、ひたすらに純粋な気持ちがこだましていた。