お願いだから
まるもんと私の二人でホテルを出て、予定通り地下鉄で美幸ちゃんの住むマンションへと向かった。
エントランス前まで私たちを出迎えてくれた、美幸ちゃんのママに会って
「お久しぶりです。雅子さん」
とまるもんは挨拶をして、軽く頭を下げた。私もそれに続く。
美幸ちゃんのママは笑って返してきた。
「お久しぶり。遠路はるばるあの子に会いに来てくれてありがとう」
「とんでもないです」
私たちは口々にそう返した。
それからギュッと握手をしてきた。まるもんに続いて私にも。
「美幸、上で待ってるからね」
その目を見ると、まるで、頑張ってねと言われているみたいだった。
エレベーターで上に上がる。
綺麗な人だったなあと、美幸ちゃんのママのことを思い返しながら、まるもんのことを見た。流石に緊張しているのか、顔は強張っているように見える。
それに対して私は不思議なくらいに落ち着いていた。落ち着きすぎて怖いくらいに。
何もかも昨晩で流れて行ってしまったのかもなあ、ともはや他人事みたいに考えている。
美幸ちゃんちの家の前まで来た。この扉の一つ向こうに、私の大好きな友達がいる。
「ねえまるもん」
「ん?」
「先に話させてもらってもいい?」
私はまるもんに断りを入れた。美幸ちゃんとは先に話したかった。先に話さなければいけないことがあった。
まるもんは一瞬だけ間を置いてから、
「いいよ」
と返してきた。今の彼にしてみれば、私の一言で全てがひっくり返りかねないのに、あっさりしたものだ。
呑気なのか、それともそれほど私を信頼しているのか。
それを見て私の中の悪い私が「全部ぶち壊しちゃえ」と耳元で囁いている気がしたが、そんな邪念はかなぐり捨てて、ドアホンを鳴らした。これ以上自分で自分を惨めにできるはずもない。
「はい」
美幸ちゃんの声だ。聞くのはいつぶりだろう。機械越しであったものの、私はその声を聞いて涙が溢れそうになった。昨日泣いてなかったら本当にそこで号泣してたかもしれない。
「私。安曇梓。会いにきたよ」
「……そう。今開けるわ」
十秒ほどしてからドアノブが回り、扉が開いた。私はため息をついた。半年ぶりに見る彼女はやっぱり綺麗だった。
彼からはまだよく見えていないだろう。先にお目にかかれたことにちょっぴり優越感。
私は招かれるがままに家の中に入っていった。
*
「いらっしゃい……」
美幸ちゃんは申し訳なさそうな顔で私を迎えいれた。
「久し振り」
私は明るい声で返した。
「ええ。本当に久し振り」
「うん。元気だった?」
「ええ。安曇さんも……元気そうで良かった」
やっぱり美幸ちゃんは少しよそよそしい感じで返してくる。そんな姿も美幸ちゃんらしくて、よく分からないけど会えて良かったなあと心の底から思った。
「相変わらずって感じだけどね」
「……花丸くんは?」
「外で待っててもらってる。最初は二人だけで話したくて」
「……そう。……ソファに座っててもらえる? 今お茶でも出すわ」
美幸ちゃんの気遣いに遠慮し、また遠慮され、通り一遍のやり取りをしたあと結局私が折れて、美幸ちゃんは奥へと消えていった。ちょっぴり頑固なところもやっぱり美幸ちゃんだなって思えて、なんだかおかしくて笑みが溢れてくる。
美幸ちゃんは家の中だったけれど、小綺麗な格好をしていた。
紺色のワンピースはシンプルだけど、シックで彼女にとてもよく似合っていた。
「どうぞ」
お盆にお茶を載せた彼女は、丁寧な所作でローテーブルにお茶を置いてくれた。一つ一つの動作がすごく綺麗で、すごく懐かしく感じられて、私はそんなどうということのない行動にさえ見入ってしまう。
それから私たちは話をした。
取り立てて目的のある話ではなかった。あの部室でしていたみたいな、漫然としてありふれた会話。冗長で他人からすれば取るに足らないつまらない話。でも私にとってはかけがえのない会話。
ずっとそれだけをしていればよかったのなら、私は喜んでそうしただろう。
外に人を待たせていなかったら、私たちはいつまでもそんな他愛のない会話を続けただろう。
私には言わなければならないことがあった。
でもそれを言うのが怖くて、楽しい会話を終わらせるのが怖くて、先延ばしにしたくて、口から出る限り、長い長い近況報告を続けた。
美幸ちゃんもまるでそれがわかっているみたいに、私との会話を続けた。
でも話の種が尽きてきて、お互いの口がだんだんと重くなって、ついには沈黙が訪れた。
「いい加減、花丸くんも入れてあげないとかわいそうよね」
その沈黙を破るようにぽそっと美幸ちゃんが言った。
私は立ち上がりかけた彼女の手を掴んで
「待って。私、言いたいことがあるの」
そう言って彼女を引き止めた。
「なにかしら?」
美幸ちゃんは聞いてきた。
言わなきゃ、言わなきゃ、と思うほど私の口は動きづらくなっていく。
口の奥が痙攣しそうになるのをやっとの思いで抑えて
「……私、美幸ちゃんに返さなきゃいけないものがあるんだ」
そのセリフを言った。
「返すって何を? 私、安曇さんに何も貸していないと思うけれど」
美幸ちゃんは困ったような笑みを浮かべながら、聞き返してきた。
「貸してもらってたって言うより、美幸ちゃんが忘れていったものを返しにきたの」
「……何のこと?」
美幸ちゃんはわからないといった顔をした。
本当に分からないのか、そういうふりをしているのか、よく分からない。
「本当は分かってたんだ。なんで美幸ちゃんがハンガリーに行ったのか」
「それは私の進路の都合で──」
「それは建前。そうでしょう?」
私が遮るようにして訂正したら、美幸ちゃんは沈黙してしまう。
「……」
私はドラマの悪人みたいに、沈黙は肯定の証なんだぞ、と一人ほくそ笑んで続けた。本当に悪役みたいだな私。
「本当は私のせい、なんでしょう?」
ずっと分かっていた。分かっていながら知らないふりをした。
「別に安曇さんのせいというわけでは」
美幸ちゃんは否定しようと口を開く。
「ううん。私のせいだよ。だって私がいなかったら、美幸ちゃん日本に残っていたと思うもん」
「……そんな、仮定の話をしたってしょうがないわ」
「違う、とは言わないよね。やっぱり美幸ちゃんは。本当のことは言わないけど、面と向かって嘘もつけないんだ」
「……」
また沈黙。本当わかりやすい子だなあ。まるもんは認めないだろうけど、ここまでくるとむしろ素直なのでは?
「だから、やっぱり返す。美幸ちゃんが忘れていったもの。というか、私に渡そうとしたもの。とてもじゃないけど私の手には負えなかったよ」
「……でもそれは、そもそも私なんかのものじゃない。返すって言われても困るわ」
「だったらこの際、はっきり所有権を主張しちゃったら? 名前でも書いてさ。そしたらいくらなんでも、もうどっかに落としたりしないでしょう」
そんなちょっぴり意地悪なセリフもすらすらと出てきた。ここにきて私の女優力が遺憾なく発揮されてしまって、スタンディングオベーション待ったなしじゃないかな。誰か私を褒めて欲しい。
美幸ちゃんはため息みたいな長い息を吐いた。
「私はあなたがいるからここに来られた。あなたが私の宝物を大事にしてくれると思っていたから、すべてを預けることができた。それが私の出した答えなのよ」
全て思い通りにいかないのなら、全て要らない。全て投げ出してしまえばいい。私にはそう言っているようにも聞こえた。
私はそんな投げやりな彼女を諌めるように返した。
「すべてを預ける? 私はそんなこと許可した覚えはない。美幸ちゃんには美幸ちゃんの気持ちがある。それと同様に、私には私の気持ちが、まるもんにはまるもんの気持ちがある。それは人に決められていいものなんかじゃない。そんな宝物、そんな……人に与えられた幸せなんて、私はちっとも欲しくない」
「でも私は、あなたには幸せでいてほしい」
「それは欺瞞でしょ」
「そんな……。私は別にあなたを騙そうだなんて」
「してるよ。……逆に聞くけどさ、人から与えられた幸せで、人は本当に幸せになれると思う?」
「……」
「思わないよね? 私の知ってる美幸ちゃんは絶対思わない。私の知ってる美幸ちゃんなら、幸せは自分で得るものだって。そうじゃなきゃそれは偽物だって言うはずだもん。美幸ちゃんは私に幸せになって欲しくないから、それを与えようとするの?」
「違う──」
首を振り美幸ちゃんは弁明しようとした。
「じゃあ私に押し付けないで。私はそんな偽物欲しくない」
それは私の手に入らないもの。手に入らないのに、手の届きそうなところにあって、息を深く吸い込めば、匂いまでつぶさにわかりそう。でも決して私のものにはならない。
そんなの生殺しだよ。苦しいだけだよ。
そんなものなら私は要らない。
「でもあなたは……」
美幸ちゃんは窺うようにこちらを見てきた。
その眼が何を問おうをしてるか分かる。
私が、私達がずっと言えなかったこと。結局出会った日から今日まで一度たりとはっきりと言ったことはなかった。
私は頷いた。
続きをそのまま言おうとしたけれど、なんだか誰かに聞こえてしまうような気がして、彼女の耳元に顔を近づけて、小さな声で言った。
手垢にまみれた言葉かもしれない。
でもとても綺麗で、とても特別な言葉。
消え入りそうな声で言った。
言ってしまった。
ただの一度も言ったことのなかった言葉。言ってしまったら案外こんなものなのかと、あっけなく思えて、私は今まで何を躊躇っていたのかと、不思議な感じがした。
「だったら、どうして?」
私の言葉を聞いて、美幸ちゃんは困惑したような顔を見せてきた。
「だから駄目なの。私じゃ駄目なんだよ。だからちゃんと返しにきた。お願いだから。私の前に捨てたりしないで。奪うならちゃんと奪って。そうじゃなきゃ余計辛いよ。
……あとは全部彼が話してくれる。お願いだから、ここまで、あなたに会う為だけにここまでやってきた彼の気持ちから逃げないで」
私はそこまで言い切って口を閉じた。
言いたいことは言えたと思う。
私は立ち上がり、くるりと身を翻してその場を去った。振り返ることはせず、足早に去った。
彼女が余計な事を考えないようにするため、私が眦に浮かべたものを見せないため、そして私自身がこの気持ちを終わらせるために。