飛翔
行けばいいじゃないか。
胡桃は言った。
別世界に行かなければ、目的を達せられないなら、そこに行ってしまえばいいじゃないかと。
別世界に行くこと自体は不可能なことではない。
産業革命以前から、人類は高い山脈を越え、広い海を渡り、灼熱の砂漠でさえ横切って、活動域を延ばしていたのだ。そんな人類の叡智を以てすれば、ちっぽけな俺一人を二千里離れた土地に運ぶことくらい訳ないだろう。時間と金をかければ、もちろん叶わない夢などではない。
けれど俺にはそんな余裕はない。文句ひとつすら言わせてもらえなかった人間に、大人になるまで待って、金を貯めろだなんて悠長なことができる訳ない。
今すぐにでもすっ飛んでいって、あの高慢ちきの鼻面をとっ捕まえてやりたい。
問題は、特別な方法を取らない限り、普通の高校生にできることではないということ。だけど俺は、その特別な方法というものを知っていた。
橘が外国にとんずらこく前からその方法を知っていた。
普通に学校生活を送っていたなら、知らないでいるのが難しいくらいだった。
生来、怠け者の性格なので、よほど利する理由がなければ、行動を起こすことはできなかった。
まして自分磨きなどという曖昧模糊とした理由で海外に行こうと思い立てるほど、エネルギッシュでもない。
でも今の俺には十分な理由があった。いやできたと言った方が正確かもしれない。それも得するとか損するとかそういう次元を超えた理由だ。
その理由を手にした時、俺はすぐに学校のファイルをひっくり返して、プリントを漁った。
随分前にもらったものだが、捨ててはいないはずだ。
その他有象無象の中に、雑然とファイリングされていたそのプリントを認め、引っ掴んでざっと目を通した。
「まだ、間に合う」
俺は必要な事項を埋めた。
翌朝、いつもより早くに学校に着いた俺は、職員室の扉の前に立っていた。
結局何も変わらないかもしれない。ただ傷つくだけかもしれない。
だけどそんなもので諦められるくらいなら、とうの昔に綺麗さっぱり忘れていたはずだ。
何も変わらなくても、もっと傷ついても、俺にはどうしてもやらなくちゃいけないことができたんだ。
俺は職員室に入り、まっすぐ担任の先生のところに向かった。
「先生、おはようございます」
担任の綾子先生は、まだ学校に来たばかりらしく、淹れたてのコーヒーのいい匂いがするカップを、大事そうに持ちながら、若干赤くなった指を温めていた。
俺の声に反応して先生はピクリとこちらを見た。
「え、あ、おはよう、花丸くん。どうかしたの?」
少し驚いたような表情をした先生に対し、俺は昨日書いたプリントを差し出して告げた。
「SSHのブダペスト留学の申し込みをしにきました。よろしくお願いします」
*
それから数週間が経ち、年明けから短期留学のメンバーを選抜する試験が行われた。
この神宮SSHブダペスト留学プロジェクトは、留学費用が文部科学省および科学技術振興機構からスーパーサイエンスハイスクール事業の指定校に支給される資金から補填されるので、参加者は渡航費用や宿泊費などほとんどの旅行代を出さずに海外に行けるというものだ。
今年から英語の外部試験で足切りが設けられるようになったのだが、学内の選考会が設定した点数が高過ぎたため、そもそも志願できる人間が学年に二十人といなかった。
さらに試験で好成績を収めるような人間はそもそも、大学受験の勉強で忙しく、留学には端から興味もない人間も多い。
おまけに科学人材の育成というSSH事業の名目上、選考も理系クラスに有利な内容となっており、今年の倍率はかなり低かったようだ。
不安だったのは、選考内容に一つに二年の夏休みに取り組む課題研究があるのだが、それをやった時点では、短期留学に応募しようなんてこれっぽっちも考えていなかったので、好き勝手にやっていたことだった。
だがそれも何とか切り抜けられた。
最終選考の面接が終わって数日、合格者三人が決定し、見事俺も選ばれていた。ようやく俺の運命の女神様がやる気を出してきたようだが、この前までどん底だったのでそれくらいでちょうどいい。むしろ足りない。今後一生困ることのない強運を与えることを彼女には望みたいところである。
今日は最初の説明会で、初めてその三人がご対面する日だったのだ。安曇はまさか俺がブダペストへの短期留学に応募しているとは思っていなかったようで、説明会の行われた教室に俺が現れた時、ひどく驚いた顔をしていた。
説明会が終わってから、どちらが切り出すわけでもなく、俺と安曇の二人は一緒に帰っていた。
*
正月の終わりに、珍しく雪が積もり、建物の陰にはまだ少し雪が残っている。
それのせいかは分からないが、空気がひんやりとしている。俺も安曇も、皮膚の薄い首を晒さないように、マフラーに埋まっていた。
道ゆく人は皆、手袋をするなり、ポケットに手を突っ込むなりして、各々寒さをしのいでいる。
俺は冷気に曝され悴んだ手に、交互に息を吹きかけた。自転車があるから、両手をポケットに突っ込むわけにもいかない。霜焼けになりそうだなとぼんやり考えながら、手袋をしてこなかったことを猛省した。
そっと隣の安曇を見た。俺と同じように自転車を押しながら歩いているが、間抜けな俺と違って、ちゃんと手袋をしている。
だが、鼻先や耳は無防備なので、血管が広がって赤みが差しているのが見てとれた。
安曇は学校を出てから静かだった。俺が何も言ってなかったのがショックだったのかもしれない。
そんなことを考えていたら
「外に出ていくだけに見合うもの、できたんだね」
不意に安曇が呟くようにそう言った。
「え? なんの話?」
俺は思わず聞き返した。
「ほら、前にさ。えっと梅雨の初めくらいかな? 短期留学興味ない? って聞いた時、まるもんそう答えたじゃん。目的もない奴が外国行ったってなんも得られないって。だから、理由を見つけられたんだなって思って」
俺は安曇の発言を受けて、会話の内容を思い出した。
「……そういえば、そんな話もしてたな。そうか、安曇はその頃からハンガリー行く気だったんだな」
俺がそう言ったところ、安曇は軽く睨むように見てきた。
「……ていうか私が応募してたの説明会の前から知ってたぽいじゃん。なんで?」
「……知らなかったんだけど、応募用紙出した時に綾子先生から聞いた」
「もう、綾子ちゃんおしゃべりだな」
「いいじゃないか。どうせ知ることになるんだし」
「そうだけど! ていうか私だけ知らなかったのおかしくない?!」
「どうどう。落ち着け安曇さん」
「もうもう! ……ていうかまるもんギリギリで応募してよく通ったね。課題研究とか大丈夫だったの?」
言葉とは裏腹、安曇があまり怒ってないことがわかったので、俺は安堵しながら、彼女の質問に答えた。
「ああそれな。俺、空気バイク作ったんだけど、なんかSSH担当の先生に受けたみたいで、来年から顧問やってる技術部の研究テーマにするとか言ってたな」
俺が課題研究で制作したのは、圧縮空気で走る自動二輪だ。
空気で走るおもちゃの車のエンジンをばらして、その拡大版を元金型職人の祖父に鋳造してもらい、そして大学の部活が自動車部だった父親にアドバイスをもらいながら、自転車にエンジンを取り付けたのだ。
人手と金と時間と労力をかけ、凝り性の花丸家総出の作品となったが、出来上がったのは、エンジンとガスボンベの自重のせいで最高時速が3キロしか出ない悲しきモンスターだった。それも空気を空気入れで汗だくになりながら入れてである。
夏休み明けの研究発表時にその作品を走らせたのだが、それを見た外野の高笑いする声が体育館の天井に跳ねていたのをよく覚えている。
曰く
「空気入れ使った労力で自転車漕いだほうが速いやろがい!」
外野に正論を言われてムカつく日が来たことに驚いている自分がいた。
ムカつく顔を記憶の外に追い出しながら、今度は俺が彼女に尋ねた。
「安曇は何したんだ?」
「私は一言で言えば断熱材の研究」
「ほう」
「あ、ほら、今SDGsって流行ってるでしょ。断熱材の主流って鉱物が原料のグラスウールなんだけど、鉱物だからいつかはなくなっちゃうじゃん。だから天然素材とかでできたらいいなと思って」
「天然素材か。……綿とか、紙とかかな」
「うん、そんな感じ。あとウールとか炭とか色々あるんだけど。それでいろんな断熱材を使った家の模型作って、保温性能とか、透湿性とか耐火性とか調べたの」
「はぇ~、結構ガチじゃん」
「じゃなきゃ短期留学行けないし」
「まあそうだわな」
またしばらく歩いてから、思いつきを口に出した。
「……今考えると、今年の選考のテーマってエコとかそんな感じだったんだろうか? 俺のも安曇のもそんな感じだろ、課題研究」
「ああ、言われてみれば。まるもんのもエコと言ったらエコだもんね。でもそうだったならラッキーじゃん」
それから会話が途切れた。
俺は彼女を見ながら思った。
安曇は俺がどうして今になって奮起し、ハンガリーに行くと言い出したのか気にならないのだろうか。
それとも全て分かった上で、何も聞いてこないのだろうか。
……おそらくはそうなのだろう。
彼女にしてみれば、この俺という人間が、ハンガリーに行く理由に、「それ」以外のものを見出すのもあり得ない話か。
俺たちは歩く。
彼女は怒っていない。
それでも微妙な空気感が漂っている。
体表を線虫が這いずるような、なんとも言えない不快感だ。
沈黙に耐えられなくなった俺は、彼女に尋ねた。
「……安曇はさ、どうしてハンガリーに?」
安曇はすぐに答えてくれた。
「……外国の建物見てみたいなと思って。ほら私建築志望って言ってたでしょ。……だから」
「……」
それが、ただの言い訳だってことは分かった。
彼女の顔を見るまでもなく分かった。
彼女もその嘘が通じるとは到底思ってなかったようで、
「……ていうのは建前で、本当は最初から美幸ちゃんに話したいことがあったからだったんだと思う」
と続けた。
「話したいこと?」
「……いや、具体的にこうって決まってる感じでもないんだけど、とにかく行って、面と向かって話しておかなきゃなって。やっぱり、美幸ちゃんが外国行くことは分かってたとは言え、言えてないことたくさんあったから。……まるもんもそうなんでしょう? 私以上に言えてないことたくさんあると思う」
「俺は……そうだな。まあそうなんだと思う」
安曇はそれを聞いてしっとりとした笑みを浮かべた。
「というかまるもんは何一つ言うべきこと言えてないんじゃないの? 一番言わなくちゃいけないことさえ」
「それは……そうなんだろうか?」
「うん、そう思うよ」
安曇はそこで立ち止まって、俺の方を向いた。
「だからさ、お互い、ちゃんと言うべきこと言って、きちんとした留学にしよ。約束」
それから小指を俺に突き出してきた。
俺は黙って自分の小指を彼女の小指に絡ませた。
小指を解いてから、安曇は少しだけ照れたように笑った。
俺も面映くなり、視線を逸らしながら照れ隠しに
「……学校側としてはSSHの不正利用極まりない二人組に映るだろうな」
と言った。
俺がそう言うと安曇は眉を顰めて返した。
「今更体裁とか気にしてる場合じゃないでしょ。あなたは」
「おっしゃる通りで」
*
それからの数週間は、現地の学生に対するプレゼンテーションなど留学の準備に明け暮れた。
学校の授業と並行して行うので、三学期は大忙しだ。
そんな日々を過ごしていたある日、俺は息抜きに例の自販機コーナーで一人、一服していた。
一月、二月は大学入試のおかげで三年生はもちろん、先生方もバタバタしていたし、予餞会や、卒業式の準備で執行部はじめ在校生もてんてこ舞いといった感じだった。
かの暇づくりの天才、神宮が産んだ小悪魔、自称世界一の後輩もまた、部室に来ることがなくなっていたので、猫の手も借りたいほど忙しかったことは察せられた。
この間、山本と会った時に聞いたら、真面目に仕事をしているという。
その時、山本からはとある相談を受けたのだが、……ま、その話は時間ができたらおいおいすることにしよう。
とかなんとか、考えていたら
「げっ」
という、まるで久しぶりに恐る恐る体重計に乗った女子が発しそうな声が聞こえてきた。
「……蒲郡じゃないか。『げ』とは何だ。げとは」
俺はどちらかと言うと、下ではなく、上であろう。
蒲郡は嫌そうな顔をしながら
「いや、なんか、心構えができてない時に、会ったら嫌な人っているじゃないですか」
と宣う。
「……つまり、ノーメイク部屋着で、コンビニに行ったら、そこの店員がジャニ系のイケメンだった時、みたいなシチュか?」
「あの、御自分の御尊顔をジャニ系に例え遊ばしていらっしゃるのでしたら、勘違いも甚だしいので、一回冬の木曽川で寒中水泳なさってきて、考えを改めてきたらどうでしょうかね?」
慇懃無礼とはこのこと。
「茉織ちゃん、辛辣ぅ〜」
「いや、顔面詐欺するなら、せめてマスクしてからした方がいいですよ」
「おいおい何言っているんだい? マスクならつけているだろう? とは言っても俺がつけているのは、この甘いマスクだけどね」
はいここでたたみかけるようにバッチーンとウインク。
完璧だぜ。
「…………」
蒲郡は唖然としていた。
「おい、ドン引きするなよ。冗談に決まっておろうが」
「……あ、なんだ、冗談だったのか。先輩が言うと、ぎりぎり、冗談なのか本気で言っているのか分からないんですけど」
こいつは俺のことを何だと思っているのだろうか。
「俺がいつナルシシストになった?」
「いや、そう言う話じゃなくてですね……。まあ、いいです」
うーむ。何とも腑に落ちないな。
「それはさておき、この間山本に会った時、次の執行委員長誰にすればいいか相談されたぜ」
俺がそう言ったら、蒲郡は特に興味もなさそうに、俺に背を向け、自販機の飲み物を選び始め
「あ、そうですかぁ」
いかにも上の空な声を出している。
俺は彼女が飲み物を買って隣に来るのを待ってから、続きをしゃべった。
「それでだな、俺はお前を推薦しておいたぜ」
「は?」
蒲郡は缶を滑らせ、下に落としそうになった。俺は素早くそれをキャッチした。ナイスプレー俺。
俺が缶を蒲郡に渡してやったところで
「え、え、どういうつもりですか?」
と蒲郡は問い詰めてきた。
「え、だって、お前執行委員長やりたそうだったじゃん」
素直に喜ばれると思っていた俺は、タジタジになりながら答えた。
「え、いや、それはそうかもしれないですけど、だって、先輩……」
蒲郡は何だかモゴモゴ言いながら、俺をジトっと見て、プシュッと缶をあけ、俺に並んで、柵にもたれた。
それから極々小さな声で
「……ありがとうございます」
と告げてきた。
なんだかんだ、嬉しそうだから良しとしておこう。
いや、いいことをした後のコーヒーは格別にうまいな。
と缶コーヒーをペロペロ舐めていたら
「ま、私のことはぶっちゃけどうでもいい話なんですけど、もっと大事な話あるじゃないですか!」
と蒲郡はいつもの元気を取り戻して、声を荒げてきた。
「え、え、何?」
「何じゃなくて!? 聞きましたよ! 先輩、ハンガリー行くそうじゃないですか!」
そう言って蒲郡は俺の肘をぐいぐい引っ張った。
「あ、聞いたんだ」
「私びっくりしましたよ。まさか、先輩がハンガリーに行くとか! 一体どうしたんですか?」
「どうしたもなにも、そういう感じになっただけですけど」
「どうして、何も教えてくれなかったんですか?」
「ええ、だって言う機会なかったじゃん。お前、色々忙しそうだったし」
「そうかもしれませんけど! ていうか、私、ブダペストがハンガリーの首都だってこと、先輩が留学行くってニュース聞くまで知らなかったんですけど」
「ああ、そうなの」
「なんか、似たような都市もあるじゃないですか。そっちとごっちゃになってて」
「ブカレストのこと? あれはルーマニアの首都だな」
「……ああ、そうですか。まあ、とにかく、お土産買ってきてくださいね」
「ええ、なんの脈絡もなく、お土産せびってきたぞ、この子」
「だって、先輩一人だけ、青春謳歌しているのがムカつくんですもん。私はまだ好きな人すらできてないのに」
「そりゃ、お前、俺とばっか話してても好きな男できるわけないだろ。良好な人間関係構築の第一歩は、円滑なコミュニケーションだぞ」
「涎垂らしながら話しかけてくる、下心見え見えの男子とどうやって円滑なコミュニケーションが取れるんですか?」
「そりゃ、お前が可愛いのが悪い」
「か、可愛いって気安く言わないでください!」
蒲郡は憤ったようにべしべしと俺を叩いてきた。
「あ、いたっ。あ、いたっ。あ、いたっ」
そんな感じで、せっかく執行委員長に推薦してあげた後輩には、逆にお土産を要求される羽目になってしまった。人生とは不合理である。
*
短期留学自体は年度が変わって四月の最初の週に行われる。
出発日の前日、メンバー全員と引率の二人の先生で最終ミーティングを行った。
解散した後、俺と安曇はまた二人で歩いていた。
もうだいぶ寒さも和らいですっかり春めいてきているのに、各々マフラーに首を埋めていた俺たち二人の口数は少なかった。
今日まで熱に浮かされたような日々を過ごしてきた。
これほど強く長く一つのことに熱中したというのは初めてのことかもしれない。
いよいよ明日だ。
俺は今何を考えている?
一口に言ってしまえば、高揚感みたいなものはあったが、あまりにドラマティックな日々を過ごしてきたせいで、なんとなく他人の人生の映像を眺めているような気分さえあった。
今この瞬間、プツッと電源が落ちて、結局夢オチだった、みたいな展開になっても、逆に納得できてしまうだろう。
人間という生き物は、あまりに必死になると、体だけが先に進んで、気持ちが置いてけぼりになるのかもしれない。逆に言えば、非日常に飛び込むには、それくらいのスピード感がいるということか。
「いよいよ明日だね」
ぽつりと安曇が言った。
「ああ」
「……緊張してる?」
「まあ」
そしてまたチキチキと自転車が転がる音だけがしばらく耳に響いていたが、安曇が割と大きな声を出し
「……あのさ!」
そこで足を止めた。
「なんだ?」
俺は彼女の方を振り向いて答えた。
そうすると安曇は
「……このあと空いてる?」
今度はやや萎んだ声で尋ねてきた。
「予定はないけど」
「じゃあちょっとどっか寄ってかない?」
「……え?」
「あ、ほら。去年水族館行ったとき、またどっか行こうって、約束したじゃん。だから、今からどっか行きたいなって」
俺は首を捻って、記憶を探った。
「そんな約束したかしら?」
「したじゃん! また仲良くしようねって」
安曇は非難するように大きな声を出し、それからむくれてみせた。
「あ、あー……それは言ってたね」
でもそれお出かけしようって意味だったんだ。知らなかった。
「もう。ほんと調子いいんだから」
「ごめんよ」
「ふんっ」
安曇はぷくりと頬っぺたを膨らませた。それがわざとらしくならないのが、彼女が彼女たる所以か。
けれど、出掛けるなら時間がある時の方が良いと思って
「また今度じゃ駄目か? ハンガリーから帰ってきた後でも」
と提案した。
「……今日がいいかな」
「……でもすぐ日が暮れるぞ」
「うん。だから、喫茶店とかでいいの」
「……別にいいけど。でもなんで喫茶店?」
「いいでしょ、別に」
「まあそうだけど」
特に反対する理由はないか。
再び歩き出した俺たちは、彼女の要望通り近くの喫茶店に入った。
本当にただ喫茶店でお茶を飲んだだけだったが、安曇は至極楽しそうにしていた。
*
そしていよいよハンガリーへと向かう日がやってきた。