霹靂
全てを忘れる。
そうするより他はないことは、誰にだって分かってたはずだ。だが誰もそれを指摘することはなかった。
胡桃は皆が口にしなかったことを敢えて言った。
それで良かったのかもしれない。
俺に引導を渡すのに彼女以上に相応しい人間もいないだろうから。
フラフラとした足取りで家に帰ってきた俺は、深々と自室の椅子に座った。
体を捩らせズボンのポケットに入っているスマホを取り出した。
スマホのストレージには彼女との写真が数百枚残っている。一年の頃のものもあるが、写真の多くは、彼女と過ごした最後の数ヶ月で撮ったものだ。
それから俺はベッド下の引き出しにしまっていた、アルバムを取り出した。アルバムと言っても100均で買ったL版のクリアファイルに写真を入れただけなので、大したものではないが。
そこにある写真は、橘や安曇がわざわざ印刷してくれたものが主だ。
それを机に上に置き、じっと見つめた。
唇を噛み俺は考えた。
全てを忘れるためには、彼女の事を思い出させるようなものはすべて捨てなければならない。思い出と一緒に。
むしろ今までずっと捨てずにいたのが自分でも不思議なくらいだった。何もかも終わったと己の薄幸を嘆いておきながら、俺はその思い出の中に囚われていたということか。
それでも一思いにすべての写真を消すのは忍びなく、最後に全ての写真に目を通してから消そうと思った。
それで一切を忘れよう。
俺は写真を時系列順で見た。
掘り返せば懐かしい写真が出てくるものだ。
一年の四月頃の写真からあった。俺も彼女も大して変わっていないと思っていたが、少しあどけなさが感じられる。この頃は本当に橘美幸という人間が何を考えているのか分からなくて、本気で悩んでいた。
それから春の遠足の写真。
明治村で民族衣装を着て撮ったツーショット写真だ。少々露出の多いアジア系のドレスで着飾った橘に、ドギマギしたのを覚えている。
そのスナップの他にも、橘が遠足中に取った写真と、彼女に命じられて俺が撮った写真が二十枚近くあった。
確かブツクサ文句を言いながら展示を見て回っていたはずだが、写真の中の俺は意外にも楽しそうな顔をしている。
写真を見ているだけなのに、その時感じたことや食べたものの味、写真には写っていない風景などが思い出されて、何か体の奥底から込み上がってくるものがあった。
それを堪えながら写真を次々と見ていけば、そのうち安曇が加わり、胡桃も混ざって、また萌菜先輩や、各務原に蒲郡、そして外野や山岳部の連中と他にもたくさんの人間が登場してきた。
ずっと一人でいたと思っていたのに、写真の中の俺はたくさんの人間に囲まれていた。
橘美幸という人間に出会わなければ、これらほとんどの人達とも関わることはなかっただろう。
彼女に出会わなければ、今も俺は本当に一人ぼっちだったはずだ。
涙ぐみそうになるのを抑えつけながら、俺はフォルダのページをめくって、橘が一人ベンチに座りこちらに微笑んでいる写真が出てきた。夏に島で撮った写真だ。
青空と白い砂浜を背景に、ワンピースを着た橘が風に飛ばされぬよう帽子を押さえている。
何気ない一枚だった。
綺麗だ、と素直にそう思った。
写真はそれが最後だった。
後はツールボタンをタップし、すべての写真を消去すればいい。紙の写真は切り刻んで燃えるゴミに捨てよう。
それで終わりにしよう。
あいつに抱いていた思いも、それを呼び起こさせる思い出も、いま胸の中に渦巻く苦い感情も全て、それと一緒に捨ててしまおう。
そうすればきっと楽になれる。
刺激的ではないかもしれないが、平穏な日常に戻れる。もとよりそうあるべきと願っていたはずだ。
それ以上何を望もうか。
俺は意を決した。
じっとりとした汗で湿り冷えた指を、ゆっくりと消去ボタンの方へと滑らせていった。
その時
「あら、可愛い娘ね。あんたにはもったいないくらいだわ」
俺は心臓が口から飛び出すかと思った。
「な、なんだよ母ちゃん。驚かすなよ!」
いつの間に部屋に忍び込んだのか知らないが、母親が俺の後ろに立って、スマホを覗き込んでいたのだ。
「あ、ちょっと。もっとよく見せてよ」
俺が咄嗟に伏せたスマホの画面をもう一度見ようと、お袋は手を伸ばしてくる。
「やめれ」
「いいじゃん、けち」
俺はスマホの電源を切ってしまった。
しかしお袋は机の上に広げてあった紙の写真を奪い取った。
「あらあら。こんな格好させちゃって」
お袋が取ったのは、明治村で撮った民族衣装の写真だ。
「おい返せよ」
「この子ガールフレンドなんでしょう」
「そういうんじゃねえよ。早く返して」
「名前教えてくれたら返してあげる」
意地の悪そうな顔をする母親を前に、言わなければ今後一週間同じ話題をするであろうことが予見されたので、俺は渋々教えることにした。
「……橘」
「下の名前は?」
「みゆきだよ。橘美幸」
俺は言いながら写真を取り返した。
だがお袋は
「……ちょっともう一回写真見せて」
と言いながら今度は別の写真を奪っていった。安曇が一年の秋の遠足で行った長浜城の前で撮って、印刷までしてくれたやつだ。
「っておい……」
「これみゆきちゃん?」
「だからそういってるだろ」
「まあ、ずいぶん綺麗になったけど、面影あるわねえ」
「……は? 何言ってんの?」
俺はお袋が一体何を勘違いしているのかと思って、聞き返した。
だがお袋は軽い調子のまま、衝撃の事実を口にした。
「え? これ同じ保育園に通ってた美幸ちゃんでしょ。あんたよく一緒に遊んでたじゃない。女の子とばかりいっしょにいるもんだからちょっと心配だったんだけど、今も一緒にいるのね。いったい誰に似たのかしら?」
……………………??
脳が音情報を処理しきれない事態に陥るのは、今年に入ってこれで何度目だろうか。
*
日が傾いて、空気がだいぶ冷えてきた。
カラカラの風が顔に吹き付け、乾燥した唇がヒリヒリする。
冷たくなった鼻先から垂れそうになる汁をすすり、俺は門の奥を覗き込んだ。
もう十年か。
周りには新しく建物が立ち、プールは撤去され、庭木は伐採された。
どこかしょんぼりした感じを漂わせるその場所は、工事用のフェンスで囲まれ、重機が中で音を立てながら動いていた。
「すみません。ここ建て直すんですか?」
俺の近くを通りかかった土建屋のおじさんに、そう声を掛けた。
日によく焼け、褐色の肌をしたその人は答えて
「違う違う。更地にすんだよ。建物があっちゃ土地の値段が下がるからな」
それで俺はこの場所が売りに出されることを知った。
「……俺ここの卒園生なんですよ。ちょっと見てってもいいですか?」
おじさんは無精髭の生えた顎を撫でながら、しばらく迷っていたようだが
「いいけど建物には近づくなよ」
と最終的には許してくれた。
俺は言われた通り重機が動いている場所を避けて、園の広場を歩いた。
そこは俺がかつて通っていた保育園だった。
学校の帰りに少し寄ってみたのだ。
特に目的があるわけでもなかった。昨日母親に衝撃の事実を伝えられてから、うんうんと昔の記憶をまさぐったのだが、俺の記憶の中に、幼児の姿をした橘美幸を認めなかった。
いや、ぼんやりとしたそれらしきものはなんとなく思い出せたのだが、彼女とどんなやりとりをして、どんな生活を送っていたのか、はっきりした記憶としては思い出せない。
そのぼんやりとした記憶というのも、本当に事実かわからない。母親に言われたからでっち上げた偽りの記憶かもしれないのだ。
だから昔いた場所に戻れば、その時の記憶を少しでも思い出せるのではと、そんな期待が俺をここに呼び寄せたのかもしれない。
すっかり小さくなった園内をぶらぶら歩いて、木枯らしに吹かれ裸になった桜を見上げていたところで
「どなた?」
唐突に話しかけてくる人物がいた。
声の主の方を向くと、中年の女性が立っていた。工事関係者という風には見えない。
俺はその人物に対し答える。
「あ、ここを卒園したものです。……多分、十年位前かな」
「……十年前。お名前聞いても?」
「花丸元気と言います」
「花丸君? ……ああ! モトキ君か! 大きくなったねえ。すっかり立派になっちゃって」
その女性は何かを思い出すような表情をしていたかと思うと、不意に大きな声で俺の名前を呼んだ。
「えっと、あなたは?」
誰なのか思い出せなかった俺は、彼女に尋ねた。
「もう! 忘れちゃったの? 年長の時の担任だったじゃない。私よ私。ユミコ」
ユミコ……。はて。
俺は場違いにも新手の恋愛詐欺みたいだと思った。
そんなことはおくびにも出さず
「よく覚えてますね」
と答えた。
「モトキ君、ちょっと変わってたから。でも随分立派になっちゃって。いやぁほんと偶然」
「立派かどうかは分かりませんが……。それにしても先生はこんなところでどうしたんですか」
「園舎を取り壊すって聞いたから、最後にひと目見ておこうと思って。園庭の木とかも無くなっちゃうみたいだし」
「へぇ」
それを聞いて、どんなに願っても止められない流れの中に自分たちは生きているのだと改めて実感した。
俺がしみじみと感傷に浸っていたところで、ユミコ先生は
「それでね、モトキ君。去年タイムカプセルの手紙送ったでしょう」
「あ、はいちゃんと届きました」
昨年十五歳の自分に向けた手紙が、保育園のタイムカプセル係から送られてきたのを思い出した。中身はとても六歳児が書いたとは思えない擦れたものだったが。
「あれ一人連絡先が分からなくなった子がいるのよ。橘さん。確かあなたと仲良かったと思うんだけど。……連絡取れたりする?」
ここでまた彼女の名前を耳にするとは。この世界は俺に辛いことを忘れさせる権利も与えてくれないらしい。
それと同時に、母親が言っていたことの裏付けが取れてしまい、自分の底知れぬ間抜けさが証明されて、暗澹な気持ちになった。
彼女とは古い繋がりがあった。
だが俺はそんな重要なことをすっかり忘れていた。
複雑な感情を抱きつつ俺はユミコ先生に答えた。
「……同じ高校です」
言ってから、ああそれはもう嘘になってしまうのだと気づいた。どうして咄嗟にそんな嘘をついてしまったのか自分でも分からなかった。
俺が訂正する間も無く、ユミコ先生は声のトーンを上げ尋ねてきた。
「そうなんだ!? どこの高校?」
「神宮です」
「あらあ、優秀じゃない」
「いえ、別にそんな」
彼女は俺の反応を月並みの謙遜と捉えたようで、ニコニコと笑っていた。
「あ、えっと、それで悪いんだけど、橘さんに手紙渡しておいてもらってもいいかな」
俺は黙って頷いた。
今更、橘はもう神宮高校にはいないと告げ、経緯を彼女に説明するのは至極億劫に感じられたのだ。
だからと言って無責任に頷いたわけでもない。
向こうの住所は安曇なり萌菜先輩なりが知っているだろうから、エアメールで送ってしまえば届けることは不可能ではないだろう。
手紙はユミコ先生が個人で保管しているという。
ユミコ先生の家はすぐ近くだと言うので、俺はそのままついて行って手紙を直接受け取ることにした。
家に入ってジップロックに入った封筒を持ってきたユミコ先生だったが
「……それで、橘さん、こっそり二通手紙入れてたみたいなの」
と俺に告げた。
「はぁ」
「その、相手が、一通は橘さん宛てなんだけど、もう一通があなた宛てなんだよね……。だからなんか今日あなたに会えたのもすごく運命的に思えちゃって」
先生の言ったように手紙は、橘が十五歳の彼女自身に宛てたものの他に、「みらいの花丸くんへ」と大きな字で書かれた封筒の二つ入っていた。
先生は袋を俺に渡しながら
「まさか十五年前の手紙を宛名通りに送るわけにもいかなくて、二通とも送り主に返そうと取っておいたんだけど、今も交友があるなら渡してもいいわよね」
と言った。
俺は小さく「はい」と言いながらそれを受け取り、暇を告げ帰路についた。
*
椅子に座り自宅の天井を仰ぎながら考えていた。
読んでいいものか。
読まないという選択肢を選ぶこともできる。
その場合は俺の手で捨ててしまうか、あるいはもう一通と一緒に橘に送り、処分を委ねるかになる。
ユミコ先生の口ぶりからは読んでもいいだろうと思っていることはわかった。
だけど先生は俺と彼女の関係を知らない。
送り主の許可なく手紙を開封したり、捨てたりするのは道義的に問題があることはわかる。そもそも俺宛てだから読んでいいのだという論理が、十年という時を経ても通じるかというと微妙だ。
書いた本人がそんなこと忘れている可能性もある。
頭の中で押し問答を繰り返し、意味もなくジップロックの口を開け閉めしていた俺だったが、封筒の外から透かして見るくらいならいいだろうと、手前勝手な論拠に因って、透明な袋から手紙を取り出した。
封筒に書かれた文字は拙くはあったが、確かに橘美幸の筆跡を思わせる文字だった。
「みらいのわたしへ」という手紙と「みらいの花丸くんへ」という手紙。
俺宛ての封筒を照明に透かしてみる。
折りたたまれて入っているらしい手紙は、光に透かしたくらいじゃ読めなかった。
結局開封する勇気が出ないまま、それを恨めしそうにひっくり返してみた。
裏面を見て息が詰まった。
「ゼッタイよめ」
と書かれてあったのだ。六歳児に俺の行動が見透かされているのが恐ろしかった。
読みたい気持ちとせめぎ合っていたのは僅かばかりの理性。
だが俺の耳クソみたいな理性は、幼女のたった一言のメモにより容易く消し飛んだ。
俺は封を切って、読んだ。
平仮名ばかりの文を、一字一句読み落とさないように読んだ。
最後の行にいき、頭に戻ってまた噛み締めるように読んだ。
三回四回と繰り返し読んだ。
それからギュッと瞑った目を手でこすり、長い息を吐いた。
「こんなんありかよ」