壁に耳あり?
昨日の、最終下校時刻の十分ほど前に、ラグビー部のキャプテンがやってきて、本日の昼の放送で、ラグビー部の宣伝をしたいという要望が出された。橘は突然の申し込みに眉を顰めたが、断る理由も特になかったので、承諾することになった。
聞けば、ラグビー部は今年、新入生の入部が極端に少なかったらしく、現在メンバー数が十五、つまりゲームをプレイするのにギリギリの人数しかいないのだという。三年生が引退してしまえば、秋からの新人戦に出場できなくなってしまう。その危機的状況を打開するために、全校放送を使って、部員の勧誘をしたいのだという。
生徒の半分も聞いているか怪しい、校内放送にどれだけの宣伝力があるのか知らんが、要らんことを言って、筋骨隆々のラグビー部キャプテンの機嫌を損ねるのは、得策ではないと思ったので、何も言わなかった。
ラグビー部部長は、どうやら人前で何かを話すというのには、あまり慣れていなかったらしく、随分とぎこちない放送となってしまったが、何とか最後まで話しきることができた。
彼が去ってから、二人だけになった放送室で昼食を摂り始める。
一応、お悩み相談室というコーナーを作ることにはなったのだが、昨日決定したことで、校内での掲示やらを通して、告示してからでないと、当然お便りも来るはずがないので、本格的に始動するのはまだ数日先になるだろう。
昼食をあらかた片づけたところで、
「最近、孤独死のニュースが多くて、気分が塞ぐよな」
と橘に話しかけた。
どうにも独居老人というのが増えているらしくて、数週間亡くなったのに気づかれないということも有るらしい。身を粉にして働いて、この日本国の復興と、世界有数の経済大国へと押し上げた世代の人たちが、誰にも看取られずに一人寂しく死んでいくというのは、なんともやるせない。
「そうね。あなた一緒にお墓に入ってくれそうな人いないものね」
「別に俺の話じゃないんだが」
順当にいけば、七、八十年後になるであろう未来の出来事を慮って、不安になるような高校生がどこにいるだろうか。
だが、スイッチの入った橘は俺の話など聞いちゃいない。
「あなた、行き場がないのなら、私の家の基礎にでもならない?」
と恐ろしいことを言い始める。
「……俺に人柱になれってか? お前は荒ぶる河の神か何かなのか?」
怒りを鎮めるために、生贄として堤防に生き埋めにする的な。
「何を言っているのかしら。私は美しい女神のような美貌を持つ、普通の女子高生よ」
女神のように美しいかどうかは置いといて、とりあえず普通ではないと思う。
「どうでもいいが、俺はお前のために、生贄になんぞならん」
「あら、女性と一緒に過ごす機会がないであろう花丸君に、またとないチャンスをあげているのだけれど。私の家の一部になれば、私の私生活の全貌が覗けるのよ。あなたみたいな人にとっては、極上の御褒美ではないの?」
「別にのぞき趣味はないんだが。お前の頭の中じゃ、俺はいったいどんな奴なんだよ」
「変態と紳士を足して、二倍して、紳士で割ったようなものね」
「それただのド変態じゃないか?!」
俺はこの女に対して、何かいやらしいことをしただろうか? ……エロいとかぐらいしか言っていない。いたって普通の会話しかしていないはず。
「あなた自分で気づいていなかったのかしら。お家に帰ったあと、私のことを思っては、変な妄想をしているのでしょう」
ははは、まさか。
「……きっと、私は何度もあなたの頭の中で、一緒のお墓に入れられているのでしょうね」
想像の斜め上をいっていたぜ。
「……お前って、怖いものなさそうだよな」
「あら、そんなことないわよ。私、あなたが怖いもの」
どうせまた、欲情した俺に襲われそうとか、そういうのだろう。
「――私に踏んづけられたくて仕方ないはずなのに、それを全く、理性で抑えてしまうあなたが、人間味がなくて怖いわ」
だからどうしてそうなる。
「……その言い方だと、俺が『この卑しい豚めを踏んでくださいまし』とか言ったら、ほんとに踏んでくれそうだな。足を嘗めさせるまで可能性としてはある」
「えっ……、私冗談で言っていたのだけれど。あなた本当に変態だったのね」
……畜生。
「ねえ花丸君。あなた、私のような人間の大きい可愛い美少女でなかったら、とっくにセクハラで捕縛されているのよ。その点分かっているのかしら。だから私に感謝して、その身を私に捧げてもいいくらいなのよ」
わざわざ可愛いという形容詞を使った理由が分からない上、俺にグレーな発言をさせる、橘の口上もなかなかやばいと思う。
「身を捧げるって、お前は中世のお姫様か何かなのか?」
「だからさっきも言ったでしょう。私はとても綺麗で可愛いだけの、普通の女子高生よ。そしてあなたは、慈悲深い私が、情けをかけている、変態豚野郎なのよ。あなたに一方的に好意を持たれた私が、それを凄絶に拒絶するまでが、物語の全貌よ」
だから、可愛くはない。とりあえず。
何か文句を言ってやろうと、口を開きかけたところで、放送室の戸を誰かが叩き、中に入ってきた。
驚いたことにやってきたのは、わが神宮高校の校長先生である。
「えっと、どうかなさいましたか?」
と校長先生に尋ねたところ、
「マイク入ってますよ」
とだけ、にこやかに言って、去って行った。
それの意味することを飲み込むのに、数秒かかった。
俺と橘の恥ずかしい会話が、全校に駄々洩れだったのだ。橘はすぐにマイクのスイッチをオフにしたのだが、見てすぐにわかるほど、頬を紅潮させていた。
彼女は、わざとらしく咳払いをして、
「あなたのせいで、恥をかいたのだけれど。きっと、みんなに誤解されてしまうわ。責任とってくれるかしら」
俺のせいなの? と思いつつ、
「もとから十分に、お前が変なやつだってことはバレていると思うんだが」
「……違うの。そうではなくて、もちろん私は変ではないし、ただの可愛い女子高生よ。ただ……私とあなたが……」
橘はそこで言い淀んで、
「――いえ、なんでもないわ」
といった。
不意に橘は立ち上がり、放送室の外の方へと向かっていった。
「どこ行くんだ?」
ドアノブに手をかけた彼女にそう尋ねたところ、
「女性が中座する理由をわざわざ聞くなんて、あなたどれだけデリカシーがないのかしら」
とこちらを振り返ることすらせずに言う。……ああそういうことか。
「大きい方か?」
橘は心底、汚物を見るような蔑んだ眼差しを向けて、何も言わずに放送室を出ていった。
その一件からしばらく、校内では、「放送部の拗らセニョリータ」という言葉が良く囁かれるようになった。それが誰を指しているのかは、わざわざ言う必要もないだろう。
ちなみに、「変態豚野郎」というワードも、話題に上っていたそうだが、これが誰の事を言っているのかはよく分からない。
変化はそれだけではなかった。
俺も橘も、教室ではほとんど誰とも話をしていなかったのだが、放送事故以降、橘は複数の女子に話しかけられるようになったようである。盗み聞きした感じでは(友達がいないのだからしょうがない)、橘は人嫌いだと思われていたらしく、一部の人間と話す以外は、全く言葉を発しないので、周りの人間に敬遠されていたようだが、例の事故で、単なる堅物ではないことが知れたので、周りとの壁が幾分か取り払われたということらしい。
俺はというと、以前と変わっていない。いや、女子からは、じっと見つめられることが多くなったように思う。若干、眉間にしわが寄っていて、睨むような眼になっている子もいるが。……多分近視なんだろう。
俺が廊下を歩けば、気恥ずかしさから、さっと道を譲ってくれるような子も多数出てきた。女子高生というものを、十把一絡げに色ボケ少女、とするのはどうやら間違っていたらしい。こんなにも俺のまわりに純情な子がいたとは知らなかった。
この間なんて、俺を見てひそひそ話を始めた三人組がいたから、ニコリと笑いかけたら、キャーと黄色い声を上げて、向こうに走って行ってしまったな。モテ期が来たのかもしれん。
橘はかなり応えたのか、二、三日口数が少なくなったのだが、「周りのうわさを気にして、あなたに気を使うなんて馬鹿みたい」と言って、再び俺と話をするようになった。
「教室で、あなたの視線を感じるのだけれど、あまり見ないでもらえるかしら。誤解を解くのが大変だったのよ」
「あ? ああ。お前が人と話すようになったのが、新鮮だっただけだ」
「そう、そんな些細な私の変化も気になってしまうほど、私を凝視しているということね」
「……あのな、前は俺としか話していなかったんだから、気づいて当然だろうが」
「あら、妬いているのね」
「ちっげーよ! むしろ清々している」
「そう? でも私は、あなたと話している方が楽しいのだけれど」
「えっ、お前」
「だって、花丸くんほど、毒舌を吐いて、罪の意識を感じない人は、そうそういないもの」
「感じろ。お願いだから感じてくれ」
「花丸くんがもっと必死に喘いでくれたら、私も優しくしようとは思うのだけれど。あなた喜んでいるじゃない」
「今の発言だけ切り取るとなんかエロいな」
「……汚れなき乙女に向かって、卑猥なことを言うのはやめてもらえるかしら」
汚れなき乙女、というワードも、変態紳士が使いそうだと思ったことは、あえて口にしなかった。
とまあ、俺と橘の雰囲気も日常? に戻ったわけだ。
期末考査を迎え、一週間が経ち、終了するころには、すでに校内の関心事も別の物に移っていて、俺と橘の事を指さして、ひそひそと話をするようなやつも少なくなっていた。