お陰お陰のげに生きる。
土曜日とあってか、最寄りの駅から水族館までは人だかりができていた。海に浮かぶ形で展示されている旧南極観測船を横に見ながら、水族館の入り口に到着した。
入口横のチケット売り場から、長蛇の列ができていたが、前売り券を持っているおかげで、それに並ばずに済んだ。
金山駅で安曇を待っているときは、冗談にならないくらい緊張していたが、彼女と話しながら電車に揺られているうちに、それも随分と和らいだ。細いところを通るたびに、安曇が手を握り直してくるのには難儀したが。
ゲートで館員にチケットを見せ、俺たちは中へと入った。
最初の大水槽で飼われているのはシャチだ。
隣の安曇は
「わー大きいね!」
と目をキラキラさせながらはしゃいでいる。
「……シャチ、好きなのか?」
「なんか、パンダみたいな柄で可愛いじゃん」
安曇はニコニコとした表情で言った。
「……橘とは逆の意見なんだな」
「え? ……あ、美幸ちゃんとも来てたんだ」
俺の言葉に安曇は少し驚いたような顔を見せた。
「まあ、一応」
「……美幸ちゃん、なんて言ってたの?」
「目が怖いから苦手って言ってたな。……あとイルカを食べるからって」
「ふーん。……そうなんだ」
安曇はそれからじっと水槽の中を力強く泳ぐシャチを見つめていたが
「でも私は好きだよ。目だってよく見たら可愛いし。あと家族とか仲間にはすごく優しいんだよ。……人間だって誰にでも優しくなんてできないでしょう? たった一人にだって優しくできない人もいるんだし、大切な人に優しくできるならそれで十分だよ」
と言い、俺の方をじっと見てきた。
「まあ、それは全くその通りだな」
「あ、あっちの水槽はイルカだね」
安曇は目線を奥にやり、イルカ水槽への方へと近づいていった。
俺はシャチと目が合ったような気がして
「よかったな。安曇さんには気に入られたみたいだぞ」
と海の王者に一人語りかけた。
それから人混みの隙間から、イルカを覗き込もうとしている安曇の方へと近づいていった。
*
イルカ、ベルーガといった水棲哺乳類を一通り観察してから、俺たちはエスカレーターで上の階へと上がった。
そこはイルカショーを目玉とするステージ会場になっている。
ちょうどイルカショーが開かれる時間帯だったので、スタジアムの観覧席へと行き、安曇と並んで座った。
始まるまで暇だったので、客入りがどのようなものか観察した。老夫婦や若いカップルも見受けられたが、やはり家族連れが多い。木枯らしも本格的になってきていると言うのに、盛況なものだ。
さすがに満員ではないし、最前列で水を被ろうと言う猛者は少ないようだったが。
俺はそれを見て
「前はもっと混んでたから、端っこの方になっちまったんだけど、今日はよく見えそうだな」
と言った。
「あー。もう、だいぶ寒くなってるしね。今更だけど、イルカさんとか寒くないのかな」
「海の哺乳類は皮下脂肪が厚いからな。それに水温は気温と違ってそんなに変動が大きくないから、温帯くらいの寒さなら大丈夫なんだろう。実際バンドウイルカなんかは北海道の沖にもいるくらいだし」
まあ、水槽のサイズくらいだと、水温管理には気をつけなければならないだろうが。
「へー。やっぱりまるもん物知りだね」
安曇は感心したような顔を見せている。
「……いや、この前来た時の待ち時間に、橘が楽しそうに解説してくれたやつの受け売りだから」
あいつ、頼んでなくともべらべら解説してくれるんだよなあ。一体どこでそんな知識を身につけてくるのか知らないが。
「あはは、美幸ちゃん動物とか好きだからねえ」
安曇も橘ことを思い出してか、微笑んでいる。
「始まるみたいだな」
調教師と思しき男女数名がステージに出てきたのが見えた。
彼らのハキハキとした明るい挨拶でショーはスタートした。
*
イルカショーを見た後はまた屋内へと戻り、今度は魚類の観察をした。
日本近海の海を再現した水槽内を泳ぐ、魚の大群は圧巻であった。他、細々とした水槽を二人で肩がぶつかるほどにひっつきながら覗き込んだ。
魚屋で見るような身近なものから、珍妙な魚まで、さすが日本でも最大規模を争う水族館なだけあって、その展示数は一つ一つじっくりと見ていては回りきれないほどだ。
前回来た時からそれほど時間が経っているわけではないが、俺もかなり新鮮な気分で観察をすることができた。
少々ぎこちないところもまだあったが、橘に教えてもらった知識を織り混ぜ、和やかに会話しながら、俺たちは時間を過ごせた。
ここ数週間の状況からすれば、上々の雰囲気だったと思う。
途中、館内のレストランで昼食をとってから、熱帯、赤道の生物を見て、本館の目玉の一つであるペンギンの階にやって来た。
ペンギンのアイドル的な可愛さには、安曇さんも首っ丈のようだ。
「わー!」
と分かりやすいくらいの、嬉しそうな悲鳴をあげ、スマホを取り出し、ペンギンの姿をカメラに収めている。
「なあ、安曇知ってるか?」
「なーに?」
安曇はニンマリした表情でこちらを振り返った。
「ペンギンって哺乳類じゃないんだぜ」
「もうっ! 知ってるよそれくらい! 鳥でしょ! 馬鹿にしすぎ!」
安曇は頬を膨らませ地団駄を踏んだ。
「はは悪い悪い。……安曇はどのペンギンが好きだ?」
「えー、あの子かな」
安曇が指さしたのは、大きな存在感のあるペンギンだ。コウテイペンギンである。あれを選ぶとはお目が高い。日本の水族館でもコウテイペンギンを飼育しているのは少ないのである。
「なるほど。やっぱりコウテイが人気なんだなあ。橘も持って帰りたいって言ってたし」
「……へぇ、そうなんだ」
安曇はそう言い、しばらくペンギンをじっと見入っていた。
ペンギンコーナーを抜ければ、ほとんど出口に近づいている。ヒトデやナマコといった地味な動物が最後に見られ、本館出口横の土産物屋に到達した。
ざっと土産物屋の中を見渡したが、安曇には気に入った商品はなかったようだ。
「ストラップとか買わなくていいのか?」
俺が尋ねてみると、
「……まあ、ちょっとね」
と彼女は肩をすくめた。
無理に勧めるものでもないかと思い、俺たちは本館を出た。
彼女に別館のウミガメを見に行くかと聞けば、行くと答えたので、最後にそこだけ見ておくことにした。
円柱状の水槽をすいすいと泳いでいるウミガメを見て、安曇は
「なんか、亀っていいよね」
とボソリと呟いた。
「どうしてだ?」
「甲羅があるから。何か落ちてきても痛くなさそうだし、怖いときは甲羅の中に隠れればいいし」
「……でも甲羅の中って暗くて何も見えなさそうだけどな」
「だからいいんだよ。何も見えなければ、何かを怖がる必要なんてないもん。誰も入ってこなければ、自分が傷つくこともないし」
「ほう」
「だからって亀になりたいわけじゃないんだけどね」
安曇は照れたように笑ってみせた。
このウミガメ館を出てしまえば、水族館の展示は全て見たことになる。後はもう電車に乗って帰るだけだ。だが俺はまだ今日の一番重要な目的を果たしていない。
ここは人気も少ないし彼女に話をするならここしかない。俺はそう思った。
「……今日は付き合ってくれてありがとな」
「ううん。私こそ楽しかったよ。ありがとう」
「……それで、実は、今日話したいことがあったんだ」
俺はそう言いながら、また朝みたいに心拍数が上がるのを感じた。
「なに?」
安曇は俺の顔をじっと見てきた。
口の中が乾く。顎が小刻みに震える。くだらないことならいくらでも言えるのに、大事な話をする時に限って俺の口は頼りない。
俺は咳払いをして、ようやく声を出した。
「蒲郡から聞いたよ。……その、安曇が色々と気を回してくれていたこと。あと他の奴らにも聞いた。各務原とのボウリングのこととか。萌菜先輩達と温泉行った件のことも。……山本に連絡とったそうだな」
「ああ、茉織ちゃん話しちゃったか」
安曇は恥ずかしそうにぽりぽりと頬をかきながら言った。
「あいつを責めないでくれ。俺が煮えきらない態度取ってるから、しびれを切らしたんだ」
「ううん。別に責めたりなんかしないよ。でもまるもんに余計なお世話だって言われちゃうかと思って、黙っておいてもらったの。他の人たちにも」
余計なお世話か。確かに少し前までの俺だったら、そのようなことを言いかねなかったろう。
「でも今なら、ちゃんとしたことを言えると思う」
俺はひたと安曇の目を見た。
「ちゃんとしたことって?」
「ありがとう。色々心配してくれて。でももう大丈夫だ」
随分と遠回りをしたようだったが、ようやく口に出して言えた。当たり前に言わなければならなかった、当たり前の言葉を。
もう大丈夫だ。
純粋な言葉ではなかったかもしれない。だが今ではそれが本当の言葉ではなかったとしても、言い続けていればいつかはそうなる。悪い言葉を吐けば気分が落ち込むように、前向きな言葉を言えばいつかは本当に前向きになれる。
今では嘘でもいつかは真実になる。
だから俺は彼女に宣言する。
俺はもう大丈夫だ。
安曇は呆然としたように口を半開きにして聞いていたが、はっとしてから
「ううん! とんでもない。まるもんが元気になったのなら良かった」
と言って笑った。
「……それとなんだが、実はあんまり言うなって蒲郡には怒られたんだけど、やっぱりお前には申し訳ないことをしたと思ってるし、これだけは言わんとなと思って。……その、すまなかった」
「え?」
「いや、その、やっぱり二学期に入ってから、俺がお前に対してしていた態度はやっぱり冷たかったと思う。だからごめん」
「あ、なんだ。そんなことか。そんなの全然気にしなくていいのに。……まあ、でもそうだね、これからまた仲良くしてね」
「ああ」
「えへへ」
安曇は気恥ずかしそうに笑った。
言ってみれば呆気なくて、俺も妙に照れ臭い気分になった。
そんな気持ちを押し隠すように
「えと、じゃあ、帰りますか」
と告げた。
「うん!」