俺が俺がのがを捨てて
バッティングセンターから家に戻る途中、俺は愛車には跨らずに、ずっと逡巡しながら歩いていた。
安曇と話をする。
そう決意はしたものの、二学期に入ってから今に至るまで彼女に素気無く接していたことを、どうやって落とし前をつけようかと、考え始めたら、袋小路にラビリンスしていたのだ。ラビリンスするといえば、なんだか抱えている問題が可愛いものに思えてきて、俺の気分もサラサラの髪のように軽やかになるのではと淡い期待を抱いたのだが、自分の迷走具合がこの上なく表現されていて、大変よろしくない。ちなみにうちのリンスはラックススーパリッチシャインダメージリペアである。癖っ毛が治る気配はない。
いや言うべきことは分かっている。それは蒲郡に言われたように俺が彼女から受け取ったものに対する礼をすること以外に他ならない。だが明日学校で会ったところで、いきなり「ありがとう」と言ってこの俺の伝えたいことが伝わるかというと、疑問符を付すのに一切の余地を許さないことは、官吏に無知蒙昧の民と嘲笑われる某国の諸国民の乳飲み子でさえ神速の首肯で以て同意するところであろう。
ただ一言言っただけで、俺が今まで彼女にしてきた仕打ちの全てを帳消しにできるなんて、都合の良いことは言わない。忍耐強く俺に付き合い続けてくれた彼女に対し、俺は山よりも高い敬意と海よりも深い誠意で以て答えなければならない。それを少なくとも彼女一人が理解できる形で、言葉を紡ぐ必要があるのである。
そうして初めて、彼女は心の底から笑うことができるようになるのだ。
結局徒歩で時間を稼いだのに、帰宅するまでに答えは見つからなかった。
続きは荷物を置き、着替えてからにしようと、家に入るため玄関を開けてすぐに違和感に気がついた。なにか自分の家ではないような雰囲気を感じた。
目を落とせばローファーが土間に並べられてあったのだが、その数が通常より多かったのだ。うちにあるローファーは妹が使っている一足だけのはずなのに、見たところ二足ある。そして家の奥から女子の喋る声がぼそぼそと聞こえてきた。
他人の家と間違えたのかと少々ギョッとした俺だったがすぐに、妹が友人を連れ込んでいるらしいと言う考えに思い至った。危うくそのまま扉をそっ閉じして、表札を確認しに行くところだったぜ。
「……ただいま」
無愛想な兄がいるとなれば、クラスにおける妹の立場も危うくなるに違いないと思い、一応帰宅を告げるため挨拶をしたが、客人に聞こえたかはわからない。
靴を脱ぎ洗面所で手を洗いながら、顔を出して挨拶をすべきか迷っていた。
泡を洗い流し、水を止めたところで、話し声が消えていることに気がついた。ふと顔を上げたら、鏡越しに扉の隙間から顔だけ出している穂波と目があった。
「ただいま」
もう一度口に出して言ったら、妹は
「お兄ちゃんおかえり。遅かったね」
と返してきた。
「……友達来てるみたいだな」
「うん」
仕方ない。客人に一言挨拶だけして、それで一口だけ飲み物を飲んで上に上がろうと、首だけ娘の横を通って中に入ったところ
「あ先輩、おかえりなさい」
「おう、ただいま」
俺はそのまま冷蔵庫の扉を開いて、作り置きのお茶を手に取り、コップに注いだところで
「……って蒲郡。なんでお前がここに?」
あまりに自然に迎え入れられたので、危うくスルーするところだった。君いつうちの子になったんだね?
制服姿でうちのリビングの椅子に座って、お菓子をぼりぼり食べている蒲郡は
「いちゃ悪いですか?」
と先日の口論もあってか、少々ぶっきらぼうに返してきた。
「いや、別にいいんだけど……」
俺はそれ以上突っ込まれる前に、そそくさと二階の自分の部屋に退避しようとしたのだが
「あ、今コーヒー淹れてますけど先輩も飲みます?」
と蒲郡は俺に勧めてきた。まるで家人のように言っているが、ここはひょっとしなくても花丸家のはずなのだが。
とは言えせっかくの申し出を無下にするのも申し訳ないので頂くことにする。
「じゃあ、もらおうかな」
「カップ一つ取ってください」
蒲郡に言われるまま、自分のカップを取り、妹もまた席について、俺も卓に並んだ。
「お前ら、そんなに仲良かったのか」
二人が互いを認知していることは前から知っていたが、家に来るほどだったとは知らなかった。
「まあ、同じクラスですしね」
蒲郡は恭しく俺のカップにコーヒを注いでくれた。
「……それにしても店ではなく家で菓子を持ち寄り茶会をするなんて、やっていることが壮年のママ達すぎやしないか。女子高生というものは、マックでポテトを食うか、スタバでフラペチーノを飲む種族なんじゃないのか」
と俺が言えば
「いやいや先輩、この世に女子高生が何人いると思っているんですか。女子高生が全員放課後にマックとスタバに行っていたら、他のお客さんが座れないじゃないですか。つまり私と穂波ちゃんは家でお茶会をすることによって、マックブックを脇に抱え、バリスタおすすめコーヒーと買ったばかりの自己啓発本を持って、店内でウロウロと遭難する人を未然に救っているんですよ。要するに社会貢献をしているんです」
と蒲郡は主張した。若干マックブックを持ってスタバでウロウロしている人を馬鹿にしているような気もしなくはなかったが、不当に長い時間居座るべきではない、という意見は尤もだったので俺は黙った。
「……ま、そんなことはどうでもいいんですけど、先輩はちゃんと安曇先輩と話をしたんですか?」
不意に急所をつかれた俺は「そ、それは」とどもりながらコーヒーを飲んで気を落ち着かせようとしたが、手が震えてポタポタとコーヒーがこぼれてしまう。
「わかりやすいくらい動揺してるじゃないですか」
と蒲郡は呆れた顔をし、穂波もまたため息をつきながら首を振っている。この態度から見るに、蒲郡から事情を詳しく聞いているらしい。お兄ちゃん恥ずかしいんだが。
ひとまず深呼吸して気を落ち着かせた俺は
「……話はできていないんだが、でもその気にはなっている」
「口だけ言ってても分かんないですよ」
「いや、本当に本気だ。……実は今日、友達に説教されてな。それもそんなこととても考えてなさそうなやつに『周りの奴の気持ち考えろ』って。流石に反省した。だからちゃんと話をしようと思ってる。でも、なんて話せばいいかわからなくて、さっきからずっと考えていたんだ。……どうやって安曇に話しかければいいと思う?」
「どうやってって、逆に先輩はどうするつもりなんですか?」
「……『やあ、安曇。元気か? 今日はいい天気だな』みたいな?」
「……はあ」
「ああ、お兄ちゃん」
蒲郡と妹は半ば憐れむような目で俺を見てきた。
「おいお前ら、ため息つくなよ」
「……いや先輩コミュ障ですか」
「うん前からなんとなく気づいてた」
「いや、それにしても酷いですよ。どれくらい酷いかというと、マックでメニュー表も、クルーの顔すらも見ずに、下を向いて早口で『チキンクリスプ二つ、水。以上です」って呪文みたいに早口で捲し立てる人くらいコミュ障ですよ」
「おい。俺及び、チキンクリスプを愛する民とマクド○ルドに謝れよ」
「いやいや先輩。彼女と来てるのに、『チキンクリスプ二つ、水。以上です』って捲し立てるように注文して、隣の彼女ドン引きしているのに気づいて気まずくなりながらも、無償の笑顔を振り撒かなきゃならないクルーの身にもなってくださいよ。男児たるもの、ビッグマックのバリューセットぐらい躊躇いなく注文して欲しいですよね」
「馬鹿野郎何言ってやがる。『チキンクリスプ二つ、水。以上です』って呪文唱えて、「えっ?」って戸惑うような顔を見せないくらい訓練されたクルーってのはなかなかいなんだからな。なめんなよ」
「うわー想像以上に酷かった。これはダブルチーズバーガーじゃなくて、チーズバーガーを二つ頼んで、『こっちの方が安いんだぜ』ってドヤってる男並にやばいですよ。あとハンバーガー二つ重ねても、ビッグマックにはなりませんからね。勘違いしないでください」
「おい、お前マックに詳しすぎだろ。お前絶対こっち側の人間だろ」
「一緒にしないでください」
「大体な、世の中のお父さん達はお昼ご飯にワンコイン以上使えないの。この三十年間、物価は上がり続けてるのに、お小遣いは上がってない世のお父さん達の気持ち考えたことあるか? 花金の飲み代を捻出するために昼飯代をケチらざるを得ない戦う男達の哀愁漂う背中をお前は見たことあるのか? 頑張って昇進して額面の収入上げても、手取りはさほど上がらず、むしろ控除は減り手当の対象から外れ、実質収入が減っているような気持ちすら覚えながらも汗水垂らして働いてんだよ。おじさん達舐めんなよ」
おいおいどういうことだ。働けば働くほど税金は毟り取られるというのに、御上はこっちにびた一文たりと寄越さねえじゃねえか。あいつら中産階級をコケにしすぎだろ。時間と金と労力をかけて社会でのし上がるも、本物の富裕層には敵わず精神すり減らしながら働いている中間層になんて仕打ちしやがる。ああやだなあ。大人になりたくないなあ。やっぱり働いたら負けなんだなあ。
さすがの蒲郡も気まずくなったのか、気を使うように
「あ、いやほら、色々いいこともあるじゃないですか。やり甲斐とか」
と言う。
「それはただのやり甲斐搾取なんだよなあ」
お国主導でやり甲斐搾取しにきてるから、どう頑張っても豊かになれないんだよ。どうすんだよこれ。責任者はどこだよ。責任者だせよ。
「ねえちょっとお兄ちゃん、うちのパパのお財布事情をよその家の子に暴露するのやめてあげて。パパのスラックスのポケットから、チキンクリスプと水って印字されたレシートが出てきたの二人だけの秘密にしようって言ったのお兄ちゃんだからね?」
おっとうっかり口が滑っちまった。危ない危ない。出世したと言うのに、「でも高校の就学支援金貰えなくなるんだよなあ」ってぼやいて悲しそうにしていた親父の嘆きが怨恨となって俺に憑依してしまったらしい。くわばらくわばら。
「ていうか、マックの話はどうでもいいんですよ! そうじゃなくて安曇先輩のことでしょう? 今更『やあ、元気?』じゃないですよ! 誰のせいでこんなことになってると思ってるんですか?!」
「もしかして俺?」
「もしかしなくてもです。ほんとにもうっ……」
蒲郡は唇を噛んで、眉間に皺を寄せ、何かを考えているようだったが
「ねえ、穂波ちゃん、悪いんだけどさ、あれやっぱりあげちゃっていい?」
「うーん、まあ、仕方ないか」
「ごめんね」
「ううん、悪いのはうちの兄だから。むしろ私がごめん」
と妹と怪しげなやりとりをし始めた。
「おまいら、急になんの話だ」
と俺が訝しんでいたら
「もう、本当にどうしようもない先輩のために、私と穂波ちゃんで身を切ることにします」
と物騒な宣言をしたかと思ったら、カバンから何やら封筒を取り出した。同様に妹も同じ封筒を取り出す。
そして彼女らはそれを俺に手渡してきた。
「なんだこれ」
俺が聞けば
「水族館のチケットです。それで安曇先輩誘ってデートしてきてください。それでいい雰囲気になってから、先輩がしなきゃいけない話をしてください」
と蒲郡は言った。
俺は考えた。水族館に誘って、これまでのわだかまりをなんとか溶かして、それから今までの感謝を伝える。ただ言葉一つで済ませてしまうよりは、いい作戦に思える。海の動物を見ながらであれば、気まずい沈黙に耐える必要もないだろう。
「そのチケットいくらしたんだ?」
俺は自分の財布を取り出しながら彼女らに尋ねた。
「お代は結構ですよ」
蒲郡はそう答え、穂波もまた頷いている。
「……え、でもこれお前らのなんだろう?」
俺が恐縮しながら二人に言えば
「ええ、今度の土曜日穂波ちゃんと二人で行く予定だったんです。でも先輩があまりにどうしようもないのであげます」
「だからちゃんと梓さんと仲直りするんだよ」
と彼女らは返してきた。
俺は感極まってつい涙が溢れそうになるのを堪えながら
「……すまんなあ、本当」
と声に出した。
「だから先輩?」
蒲郡が膨れながら俺を睨んできたので、俺はああと思い出し
「ありがとう」
と言い直した。
それから
「じゃ、そろそろ私帰りますね」
と蒲郡は言い、立ち上がってコートを羽織った。
穂波がそれを見て
「うん、今日はありがとう。お兄ちゃん、もう暗いし駅まで送ってあげて」
と言ってくる。
「あいよ」
俺は彼女の荷物を持ってやり二人で外に出た。
すっかり日は落ち、星が燦然と輝いている。街の明かりで南の星空はよく見えないが、情緒を感じるのには十分な景色だ。
一際強く光る星を見つけついぽろっと
「月が綺麗だな」
と口からこぼれた。今思えば、夏からまともに夜空を見上げたことなんてなかった気がする。久しぶりに見た夜空は、怖いくらい綺麗で、涙が出るほど美しかった。
隣を歩いていた蒲郡はギョッとしたように
「え、なんですか。とうとう私を口説きにきたんですか? 他の女とデートしろって言ってるのに、なんで私を口説こうとしてるんですか? 馬鹿なんですか?」
と俺を罵倒してきた。
「違うよ。大体『月が綺麗』=愛の告白って誰が決めたんだよ。漱石がそんなこと言ったって証拠ないんだかんね。勘違いしないでよね」
「いやほら、月って言うと、月経の月じゃないですか。つまり月とは女性の子宮のことを表していて、『月が綺麗』=『子宮が綺麗』=『もう赤ちゃん産めそうな体だね』=『君と番いになりたい』って言う意味になるんですよ。これ以上の口説き文句ありますか?」
「……お前、ときどきえぐい下ネタ言うよな。びっくりしちゃうんだけど」
「これくらい普通じゃないですか?」
「えぇ、女子ってそんな下ネタ言うの?」
「むしろ今のは上品な方だと思いますけど」
ええ、女の子怖い。
いかんいかん。蒲郡に乗せられて話が逸れてしまった。
「……なんか思い出したんだよな」
「何をですか?」
「……橘が、日本にいるとき最後に言ったのがさ『ずっと月が綺麗だといいわね』って言葉だったんだ。あれどう言う意味だったんだろうなって思って」
あの南の島での最後の夜。満天の星空のもと、彼女が最後に告げた言葉。あれから月なんて見るのも嫌だったから、思い返すことなんてなかったが、久しぶりに月をまじまじと見てふっと疑問が湧いてきた。
蒲郡はしばらく考え込んでいるようだったが最後には
「さあ、私には分かりません」
と肩をすくめた。
駅につき、彼女に荷物を渡し、俺は引き返して自宅へと戻った。
*
その週末。
金山駅のコンコースを行き交う人々の中、俺は彼女を待っていた。自分から誘っておいて遅刻なんてすれば、印象は最悪だ。そう思って俺は早めに家を出ていた。
話すこと。いや話さなければならないことを纏めようと、目を閉じ何度も反芻する。
先日は蒲郡や妹に相談したい衝動に駆られ、情けない姿を晒した俺だったが、こればかりは自分の言葉、自分の気持ちをそのまま伝えなければ意味がないのだ。
心臓がバクバクと跳ねるのが分かる。気を落ち着かせるため、深呼吸をしたところで、彼女が人混みの向こうに現れたのを見た。彼女は俺の顔を見て照れたように小さく手を振った。俺はそれに会釈で応えたが、遠くからでは分かりにくいかと思い、軽く手を上げ直した。
半ば小走りで彼女は俺の方に近づいてきた。
ボルドーのコートにマフラーを巻き、下はスカートに黒タイツ、そしてハイカットのブーツを履いている。
安曇は頬を紅潮させ軽く息を切らしていた。ホームからの階段を駆け上がってきたのだろう。
「……えと、おはよう」
「ああ」
「……待った?」
「いや、時間通りだから」
「うん。だよね」
「……」
「……」
気まずい間が流れる。
「……じゃあいきましゅか」
やべ、噛んだ。そして何が面白いのか、ご主人様の意思に反して、膝が勝手に笑っている。
気づいているかいないか分からなかったが、安曇は俺が噛んだことには反応してこなかった。
「えと、名港線だよね。どっちかな」
安曇はキョロキョロと案内板を探し始める。
「こっちだ」
予習していた俺は地下鉄のホームの方を指し示して、安曇が付いてくるのを確認してから歩き始めた。
彼女は初め、二、三歩離れたところを歩いていたのだが、十メートルほど歩いてからこちらに近づいて
「迷子になったら困るから」
と言い、俺のコートの袖を軽く掴んできた。
「……俺、そんな小さい子じゃないんですけど」
「違っ! そうじゃなくて、私がってことなんだけど……だめ?」
「……いいけど」
「……じゃあ」
安曇は顔を俯かせながら、俺が手を突っ込んでるポケットの中に手を入れ、指を絡ませてきた。
「……あ、えっと、……安曇さん?」
戸惑った俺は彼女の方を見た。
彼女はやはり顔を俯かせたままで、また耳を真っ赤にして
「……袖伸びちゃうと悪いし」
ときまり悪そうに言う。
そう言われてしまえば返す言葉はない。まさか腕を組めと言うわけにもいくまい。ただ両生類の粘液が如く、ヌメヌメと分泌されている手汗を気色悪いと思われないかが気がかりであった。
よしもう一度だけ深呼吸をしよう。
ふーっ。
……。
まだ会って数分というのに俺のライフは半分ほど削られているような心持ちがした。