だって好きだもん
「最近どうだ」
外野は言いながら、胸元にかっちりボールを投げてきた。流石は現役の高校球児。コントロールは抜群である。
俺はそれを投げながら返した。
「ぼちぼち」
「なんて!?」
外野はどうやら聞こえなかったようで、右手を耳に当てながら聞き返してきた。
「ぼちぼち!」
「あ? あーはいはい」
それで納得したのか知らないが、またビュッとボールを投げてきた。
その球は油がよく馴染んだ革製のグローブに吸い込まれ、パァンっと気持ちのいい音を立てた。それを右手で掴んで、俺はまた投げ返す。硬球を触るのは初めてではないが、慣れているわけではない。外野とは違って、やや高めの位置にボールは飛んでいき、外野は腕を伸ばしてそれを取った。
ここは学校近くの公園だ。そこで俺は外野とキャッチボールをしていた。
なんでこんなことになっているのかと言うと、俺にもよく分からないので説明できないのだが、どうやら誘拐されたらしい。
話は数十分前に戻る。
俺は放課後になり、学校を去ろうと昇降口付近を歩いていた。やや頭を垂れながら。
想像したように、各務原のボウリングの件も、萌菜先輩達との温泉の件も、全部安曇が関わっていた。
それを知って、俺はますます安曇の顔を正面から見ることができなかった。
今更なんと言ってやればいい。蒲郡に言われたよう、ただありがとうと言えばいいのか。そんな言葉一つで済ませていいものなのか。
結局今日一日、俺は彼女に何も言えなかった。
そうして項垂れて歩いていたところをこの男に捕まったのである。屈強な高校球児に、所詮は文化系の俺が抗えるはずもなく、こうして公園まで引きずられてきた。
何をするのかと思ったら、グローブを渡してきて「キャッチボールをしよう」と。
斯々然々この通りで今に至る。
「お前、こんなとこで部活サボってていいのかよ」
俺は塁間ほど離れている外野に向かって、少々声を張りながら尋ねた。
「昨日、試合だったから、投手陣は流しで終わりなの!」
と外野は返してくる。前にどこかで聞いたようなセリフだ。うちの野球部は外野を甘やかしすぎだと思う。
俺はキャッチボールを続けながら
「……試合って公式戦か」
と尋ねた。
「いや、新人戦はもう終わったぞ! 昨日のは交流試合だな」
「ふーん」
「そういう花丸は土日何をしてたんだ」
「……特に」
「かぁー!! 家に引きこもってたんか。外に出て人生楽しもうぜ!」
まるでインドアの生き方を馬鹿にされたようだったので俺はムッとして言い返した。
「……土曜は映画見てたし」
言ってから、結局インドアだったことに気づく。
「はぇー。どうせマドモアゼルと一緒だったんだろ!! この色男!」
「……」
それはあながち間違ってなかったので、黙秘権を行使した。
「ところで新人戦はどうだったんだ」
話を逸らすべく話題を変える。
「二回戦で奇しくも惜敗だったな」
「惜敗って、何対何で?」
「シード校にコールド負けじゃ」
「それ惜敗じゃなくて大敗だろ」
「そうか? ガハハハ」
どうやら三年の抜けた穴を埋めるのは大変らしい。当たったのが私立の強豪ならボロ負けを喫するのも無理はないのかもしれない。
外野は快活に続けた。
「だが春のセンバツの布石は打てたな」
「今のどこに選抜に選ばれる要素があったんだよ?」
「違う違う。再来年の話だ。来年甲子園に出るだろ。そしたら愛知から数年ぶりに公立校、それも進学校が出場したとなって、センバツに選ばれること間違いなしだ。七十年前に旧制神宮中学が逃した、センバツ優勝の夢を俺たちが成し遂げるのさ」
「……再来年って、俺ら学校にいねえよ。なんだ、お前留年する気か?」
「ハッハッハ。君はものをよく知らないようだな。留年しても大会の参加資格は延びるわけではないのだよ! 偉業を成し遂げるのは、俺の意志を受け継いだ後輩である!」
「あ、そう」
「今年度中にチームの練度を極限まで練り上げて、春頃には神宮高校の新たな伝説が幕を開けるぜ。甲子園に出た暁には、高校にメディアが押しかけること必至だな」
「そりゃ大変だ」
「おう!」
俺は皮肉で言ったにも関わらず、外野は真に受けたようでニカッと歯を見せている。
「……夢はいくらでも語ればいいが、現実見てなきゃ足を掬われるぞ。……甲子園出場とか、どうせ無理なんだから」
俺がそう言ったら、外野はピタリと動きを止めた。
「……どした? 足攣ったか?」
外野は問いかけには応じず、その代わりに強いボールを投げつけてきた。
やつのボールを受け取った俺の手はじんじんと疼いた。捕りそこねたら大惨事になるところだった。
文句を言おうと口を開こうとしたところで
「できるできないの問題じゃない。やるかやらないかの問題だろ」
外野が真っ直ぐ俺の目を見て、強く厳かな口調で俺にそう言い放った。
ああ。
俺は彼の目を見て、自分の発言を反省した。
「……すまん。思慮のない発言をした。謝る」
「わかればよし。賢明な判断をしろ。なにせお前は俺の良識ある友人略してセフ──」
「その先は言わなくていい」
外野はまだなにか言いたげな顔をしていたが、言葉が出てこなかったのか、代わりにずんずんと公園の出口に向かい
「ああもう。お前ちょっと付き合え!」
といつになくぷりぷりした口調でそう告げた。どこかに行きたいらしい。
彼の機嫌を損ねたのは俺としても本意ではない。恭しく応じることにした。
どこに行くのかと思ったら、一旦学校に戻り、自転車に乗ってからしばらく漕いでいく。
十分ほどしてから、外野は漕ぐのをやめた。
そこはバッティングセンターだった。
外野は何も言わなかったが、自転車をそこに停め、中に入っていくので俺も従い、外野に続いて中に入った。
彼がバッティング練習するのを横で見ていればいいのだろうかと、ぼんやりしていたら外野は打席の一つを指差し
「メダルを三枚やる。それでホームランを打て。打てなかったら俺の勝ち。打てたらお前の勝ちだ」
と唐突に告げた。
「……俺の勝ちって、何があるんだよ」
「お前が勝ったらジュースを奢ってやろう」
気分を悪くした割には気前のいい事を言う。それほど怒っていないのだろうか。
だが、負けたらひどいことをしてくるのかもしれない。
そう思って俺は尋ねた。
「……俺が負けたらどうなるんだ?」
「花丸が負ければ、罰ゲームだ。……そうだな、放送委員長を腹の底から笑わせてやるっていうのはどうだろう?」
「……なんだそれ」
放送委員長、つまりは安曇のことだ。それを腹の底から笑わせてやれと? 藪から棒に訳の分からない罰ゲームを申し付けるものだ。
「そんなことして何になるんだ?」
どう転んでも外野の得になるようなことはない。むしろメダルの代金分外野は損しかしないはずだ。一体この男は何を企んでいるのか。
俺が訝しんで尋ねてみれば
「笑う門には福来るという言葉を知らんのか」
と言っていつもみたいにしたり顔をして笑った。ああ、俺も間抜けなことを聞いた。何故外野守はそのようなことをするか、という問いに、外野守だから、という答え以上のものがあるはずがないのだから。
俺は小さくため息をついた。
口は災いの元とは言うが、こんな訳のわからないゲームをするはめになるとは。
このような遊びで、体を痛めるのはもっと不幸だと思い、一通り準備運動をして、学業で衰えた腰を労るようにストレッチをしたところで、通路の脇に立て掛けてあるバットを物色し始めた。
今日はじめて触る、それも安物のバットだ。よもや手に馴染むわけはないが、わざわざ自分に不利な物を選ぶ必要もあるまい。俺は二、三本触ってから手頃な重さのバットを抜き取った。
打席に入る前、入口のネットを持ち上げたところで一度動きをとめ、外野の方を振り返った。
一つだけ外野に確かめておきたいことが思い浮かんだからだ。
俺は慎重に言葉を選んだ。
「……誰かに何か言われたのか?」
外野守は余人にできないことをする。ならばそれを利用する輩がいるかもしれない。うちの守ちゃんを悪用して、良からぬことをするやつがいるのならば、成敗せねばならない。
「何の話だ?」
外野はいつもみたく、ヘラヘラと笑いながら答えた。
他人に翻弄され続けたせいで、余計なことを考える癖がついてしまったようだ。冷静になろう。この男は外野守だ。突拍子もない事をさせたら世界一の男である。今日も息を吐くように瓢箪から駒を出しているだけなのだ。
*
バットを握ったのはいつぶりだろう。かつて俺がバットを握っていた頃より、体は大きくなり、筋力もついたはずなのに、その重さの記憶との齟齬に俺の小脳が怖気づいているのを感じる。
とりあえず、二、三素振りをしてから、外野にメダルを入れてもらった。
一ゲーム目。
初めの三球。振り遅れて全く当たらない。悲しいほどにバットが空を切る。俺が下手なのか、あのマシンが名投手なのかいずれかだな。多分後者ではない。五球目に初めて当たったが。前に飛ばない。その後も空振ったり、掠ったりで、ホームランどころかヒット性のあたりすら出ずに終わった。
二ゲーム目。
なんとか当てられるようになってきたが、五年分のブランクが十数球で取り戻せるはずもなく、ピッチャー返しのライナーが一本出ただけで、あとはさっぱりだった。
二打席目が終わってから、俺は打席の外に出た。
「何だ花丸。もうへばったのか」
外に出た俺に対し、外野が尋ねる。
「そうだ。俺は疲れた。こんな茶番もうやめだ」
「おい、まだ一枚残ってるぞ」
「だから、もういいって。疲れた。どうせ無理なんだよ。ホームランなんか打てるか。いいよ俺の負けで」
俺は投げやりにそう言って、バットを元あった場所に戻した。罰ゲームがどうのと言っていたが、適当にはぐらかしておけば、外野もそのうち忘れるだろう。
だが外野はなおも続けさせようとする。
「いいだろ、もう一回ぐらい」
「だから、無駄だって。できるわけないだろ。やる気もない。俺が無駄打ちするくらいなら、お前が自分で使ったほうがいいだろ」
外野は顔を強張らせた。
「……お前、俺がさっき言ったこと忘れてないか」
「……なんだよ」
「なんですぐできるできないで考えるんだ。俺がやれつってんだから、やれよ。やる前から諦めてどうする。そうやって逃げてお前は成長できるんか? あ?」
「……るせーな」
俺は苛立ちを隠さずに、外野を睨み、もう一度バットを引っ掴んだ。そんなに無駄打ちさせたいならさせてやる。
俺は根性論でどうにかなると思っているやつが嫌いだ。力ずくで誰かを従わせようとするやつが嫌いだ。理不尽なことが嫌いだ。だからその巣窟である体育会系は大嫌いだし、その代表格である野球も大嫌いだ。
だがそれを口に出しては言わない。自分の考えを押し付けてはいけないからだ。だから、そちらの住民も俺の生き方に口を出さないでほしい。
三ゲーム目。
俺はバットを振らなかった。
プレイ中、外野は何も言わなかった。
ふてくされた態度で、ボックスから出て、バットを戻した俺を見て、外野は呟いた。
「……花丸よ。お前は何が不満なんだ」
「……別に」
「何が気に食わないんだ?」
「だから別に」
外野は声を荒げた。
「そんなわきゃにゃーだろ。お前はどうしてほしいんだ? 何を主張したいんだ? そうやっていじけてるのは、みんなに慰めてほしいからか? みんなに慰めて貰えれば、お前は満足するのか?」
「うるせーって!! 黙れよ! お前に何がわかるんだよ!」
外野の言葉にカチンと来た俺も、負けじと声を荒げた。
「だからわかんねえから聞いてんだろ」
外野は今度は少し泣きそうな顔で聞いてきた。
その顔を見た俺は気勢を挫かれ
「……もうほっとけよ。ウジ虫が隅で腐ってたところで、どうでもいいだろ。俺がお前らになにかしたか? なんでみんな俺に構うんだ?」
「そら、お前がそうしてるだけで傷つくやつがいるからな。まあ、俺はそんなお前でも受け入れてやるが、そうもいかないやつもいるだろ。周りの人間に心配させて、無理に愛想笑いさせて、それで平気なお前なのか。俺の知ってる花丸元気という男は、人の気持ちを踏み躙って平気な顔をしていられるようなやつじゃなかったぞ。花丸も大人になりたいんなら、自分の機嫌くらい自分で取れ」
俺はそこでようやく悟った。外野は誰かに言われてこんなことをしているんじゃない。自分の頭で考えて行動しているんだ。何も考えていないと思っていた男に俺は説教をされている。
ふつふつと湧いた感情は、萎んてなくなり、その残滓が俺の心を弱々しく引っ掻いた。
俺はへこたれれたように、ベンチに座った。
「なんでお前はこんなことするんだよ?」
萎れた声で外野に尋ねる。
「花丸が好きだから」
「そんな恥ずかしいセリフ、よく真顔で言えるな」
「えへへ、ありがとう」
「褒めてないし」
「このツンデレさんめ♡」
「ええい、気色悪い」
こんな状況なのに、いつも通りのふざけた態度をとる外野を見て、俺は呆れを通り越して笑えてきてしまった。対して外野は
「さて、花丸くんに代わりまして、外野選手が代打で出ますかな」
と屈伸をして、バットを取って打席に入った。
外野はメダルを入れ、滑らかな動きでバットを構えた。
ブンブンブンブン、こちらにも聞こえるくらいの音でバットを振り回し、豪快に球を飛ばしていく。
五球目でホームランの板に当て、その後も強い当たりを連発した。そして最終打でもう一本ホームランを追加して、ゲームを終えた。
「ふぅ。一ゲームで二本か。まずまずだな」
外野は肩をストレッチしながらボックスから出てきて、バットを戻した。それから店の奥の方へと歩いていく。
奥から戻ってきた外野は、両手に瓶のジュースを持っていた。
「ほれ。ジュースだ。特別にお前にもやろう」
「……このジュース、ホームラン賞のやつだよな」
勝ったらジュースをやると言っていたが、このことだったらしい。
「……ヌハハハ! 面白い推理だ。君は小説家にでもなったほうがいいんじゃないか」
「それ殺ってるやつのセリフだからな」
けれど、ホームランを打ったのは外野だし、そもそもメダルも外野のものだ。文句は言うまい。
「いやあ、罰ゲームが楽しみだな!」
「……」
わざとらしく言う外野に俺は何も答えなかった。この俺が外野の掌の上で踊らされているみたいで、癪だったからだ。
それを見て外野は
「おいおい花丸ぅ。まさか逃げる気じゃないよな!」
と楽しそうに言う。全く忌々しいやつだ。
「……一応、やるよ」
俺は苦り切った顔をしながら言う。むかつくことこの上ないが、外野の言っていることは、尤もなことだ。大人になってしまえば自分の機嫌を取れるのは自分だけで、周りの人間に八つ当たりしているようでは下の下であろう。俺はそんなみっともない真似はもうこれ以上したくない。
けじめをつけ、前を向いて歩き始めなければならない。
「へへ、これは見ものだぜ」
「お前の前ではやらないから」
「ええっ。なにゆえ!?」
喚き散らしている外野の隣で、さてどうやって話をつけようかと考えながら、ジュース瓶を傾けた。