先輩の予感
額に汗を滲ませた残暑もだんだんと和らいでいき、気づけば露に濡れる季節になっていた
三年生は受験も大詰め。連日のように補講が開かれているようで、三年生の教室からは陽が落ちた後も煌々と明かりが漏れていた。
二年生もそろそろ進路について真剣に考え始める頃で、教師との面談で具体的な学部だったり、大学名が出されるようになってきている。
俺も例外ではなく、今まさに、担任教師である綾子先生と面談をするため、職員室前の廊下で待機している。
俺がパイプ椅子の座り心地の悪さに、もぞもぞし始めた頃
「先輩、なにしてるんですか?」
自称次期生徒会執行部執行委員長、通称神宮の小悪魔が俺に声を掛けてきた。
「……瞑想中」
「迷走中? いや、確かにその通りかもしれませんけど。そんな卑下しなくても」
はてこのかわい子ちゃんは何を言ってらっしゃる。
俺が蒲郡の言葉を理解できずに眉を顰めていたところ、彼女は同じ質問を繰り返す。
「なにしてるんですか?」
「これから面談」
俺は顎で職員室隣りの小部屋を示した。我がクラスの面談はその部屋で行われるのである。
「あー、なるほど。先生とお喋りですか」
蒲郡は納得したように頷いた。
「お喋りではない。人生相談をし、己の生き方を見つめ直すのだ」
「へー。なにか悩んでるなら私が聞きますけど?」
「……そうだな。現代人の心がどんどん冷たくなっているのが、最近の悩みです」
「いや、いきなり何言ってんですか」
「人類は生きる目的を見失ってしまったようです」
「ほんとに何言ってるんですか?」
どうやら蒲郡には少々高尚すぎて分からなかったようだ。仕方がないからかみ砕いて説明してやろう。
「人は皆俺みたいに生きる目的を明確にしていなければならない。だが大概の人間にそれができていないから、俺はそれを心底儚んでる。それが最近の悩みだ」
蒲郡は胡乱げな視線を向けてきた。
「えらく上から目線ですけど、先輩の生きる目的ってなんなんですか」
「……あれは、俺が八歳の頃だった」
「え、どこから回想始めようとしてるんですか」
俺は蒲郡があからさまに嫌そうな顔をしたのを無視して、話を続けた。
*
俺は八歳の時から悩んでいることがある。それは、何のために人間という生き物はこの世に生を享けるのか、ということだ。
生きていく上で一番重要なことは何なのか。何のために生きるのか。
人生の命題は何か。
最近になってようやくその答えが、見えてきた気がする。
それは日本の夜明けに活躍するような大それたものである必要はなく、日々の生活における自身の行動を規定する拠り所であればいい。
要するに手前の行動原理が何か分かっている必要があるということだ。
しかしながら最近思うところ、世の中の皆々様はそれ以前のところで立ち尽くしているように見えてならない。人間という生き物が自分が人間であるということさえ分からなくなってきているのではと。
何か自分が大いなる意志の力によって、神聖な使命を与えられたかのように話す人間が増えているように思うのだ。
いや、昔からその手の輩はいたのだろうが、近年発達したソーシャルネットワークというやつのせいで、「勘違い野郎」に活躍(笑)の場が与えられ、彼奴らの跳梁跋扈を許した。
日夜ネット上では頓珍漢な主張が繰り広げられ、いつもどこかしらかが燃えている。
何か有益な情報を与えるならまだしも、人が何かするにつけ、意味がない、コスパが悪い、頭が悪い、と文句ばかり言う。全く無益なものだ。誹謗中傷をする時間が一番無駄だと彼らには分からないらしい。
思うに、彼らには人生における確固たる信念、つまりは生きる目的がないのだろう。だから金や時間といったわかりやすい物差しでしか、他人の人生を、そして自分の人生も、評価することができないのである。
生きる目的はなにか。
俺ならこう答える。それは実りある人生、豊かな人生を送ること。
そして人生を豊かにする秘訣は快楽を求めることだ。それは決して、他人から搾取したり、他人を嘲笑したりして得られるような物ではない。
快楽と聞いて眉を顰めたくなる気持ちは分からなくない。
しかしそれは快楽主義というものを履き違えているに過ぎない。
快楽というものは必ずしも目の前にあるものだけを追い求めるわけではないからだ。
簡単な例で言えば、一粒の豆があったとして、それを今食べてしまうか、植えて育てて半年後に何十倍にも増えた豆を食べるか、どちらの快楽が大きいか考え、大きな快楽を得られる方を選ぶのがより快楽的という話だ。そのためなら苦痛だって受け入れる。
快楽主義というものは利己主義とも違う。利己主義は自分が良ければそれでいいというものだが、善く生きることに快楽を感じれば、善い人間に徹するため、人を助け自己を蔑ろにし苦しい行為も耐え忍ぶことができる。そして苦しみの先にあるカタルシスを得て恍惚とするのだ。むしろ真の快楽主義者は苦しみそのものに快楽を感じる。要するにレベルの高い変態なのである。違う、俺は変態じゃない。
サディストが君を攻撃すれば、快楽主義者は君を笑わせよう。
コスパ馬鹿が君の道楽を笑えば、快楽主義者は金で買えないものを君にやろう。
そして俺も君も一緒に気持ちよくなろう。みんな気持ちいいのが一番だ。
快楽主義者にはそれができる。この世の中を支配するのが人々の快楽であることを理解し、その快楽の形は百人百様であることも理解してるからだ。自慰をするように功徳を積む変態的な真快楽主義者が、この世の中を浄化する。いわば真快楽主義者こそ、この世で唯一カタルシストたりえるのだ。
俺はそんなエキセントリックないいやつになりたい。
「つまり世の中を救うのはセルフプレジャーってことですか」
「……違う。あと女の子がそんなこと言うもんじゃありません」
隣でつまらなさそうに俺の話を聞いて、最後にとんでもないことを言っている蒲郡を窘める様に言った。
「やだなぁ。私がこんなこと言うの、先輩にだけですよ」
「全然嬉しくないんだが。……大体お前、男子にエロい目で見られるの嫌だって言ってたのに、なんで下ネタ言うんだよ」
「男子にいやらしい目で見られるのは嫌ですけど、女子が内輪でする下ネタは別物ですよね。ライオンに襲われるのは嫌だけど、猫を触るのは好き、みたいな。女子同士の内輪なら襲われることはないので」
「俺はその内輪に入ってないだろ」
「ほら、先輩って私のこといやらしい目で見ないじゃないですか。だからいいかなって」
「それはそうかもしれないけど」
「……」
蒲郡は押し黙り、なぜかこちらを睨んでいるように見えた。
「……どしたの」
「いや、あの、普通そこは、ちゃんと女の子として見てるよって言うところですよね」
ですよねって呆れ顔だけど、俺今悪くないよね。
「いや知らんし。なんなの君。女として見られたいの、見られたくないのどっちなの?」
「ほらあれですよ。男子が向けてくる好意って一日履き終わった靴下の匂いみたいなものですよ。嗅ぎたくないけど、そこにあるのは当然で、どんなものか確認したくなってしまう、みたいな」
「絶妙に意味不明な例えだし、後輩に性癖を暴露される先輩の身になって?」
「別に性癖じゃないですから!」
俺は鼻息を荒くしている後輩を宥めようと優しく声を掛けた。
「まあいいじゃないか。そう言う男女の関係があっても。俺はお前をいやらしい目で見ない。だから安心しろってことだ」
「……なんか面と向かって言われるとムカつくんで、ちょっとくらいは女の子として見てくれてもいいですよ」
「ちなみにその矛盾した気持ちはどういう?」
「そもそも入る気はなかった店だったんですけど、店の前を通りかかった時に店員から一方的に『お前はうちの店に来るには品性が足りない。お前みたいな客に売る商品はない』って言われるような感じです。買う気なんてそもそもないんですけど、そう言われたらカチンときますよね?」
……ああ、なんかあれだな。
「蒲郡って普通の女子と違うのかなって思ってたけど、普通にめんどくさいな」
蒲郡はむっと不満げな表情を見せた。
それからまた気だるそうに、髪をくるくると指に巻き付けるようにいじり始め
「まあどうでもいいんですけど、さっきの、快楽?の話を先生にするんですか?」
「……」
「……先輩の頭の中ってアホなことで埋め尽くされてるんですね」
蒲郡は鼻で笑うように言った。
*
端から地に落ちている人生の先輩としての威厳が、奈落まで落下したところで、小部屋の扉が開き、面談の番が来たことを告げた。
挨拶もそこそこに先生との面談が開始した。
至極熱心そうに進路調査票を見つめている綾子先生をぼんやりと見た。
彼女の担当は英語なので、理系の進路選択というのは縁が薄いはず。若いから尚更だろう。真面目さが服を着て歩いているような先生なので、教え子たちの将来を考えて頭を悩ませているんじゃないかと、俺は心配している。
なぜか上から目線の俺の心の内なんて知らずに、彼女は調査票から顔を上げ
「うーん。なるほど。私もよく考えたんだけど、すごくあってると思う、花丸くんに。私も診てもらうなら花丸くんみたいな人に診てほしいって思うし」
と言ってきた。
「あ、はい。ありがとうございます」
褒められたっぽいのでとりあえず礼を言う。
「なんか、見学とか行ったりした? この夏に」
「いや、今年は行ってないですけど、去年は行きました。一番近くのところに」
「あ、そっかぁ。そんな早くから考えてたんだね。……確かに去年から希望変わってないもんね」
彼女はそう言って、前の担任である井口先生から引き継いだらしき資料に目を落としている。
それから目を上げて続け
「今まで通りしっかりやれば大丈夫だと思います」
「はい、分かりました」
「それで今度、うちの卒業生で今大学に通っている人が、どんな感じか説明しにきてくれるんだけど、参加してみる? 医学部説明会」
「……ああ、いいかもですね」
説明会が開かれることは知っていたが、強いて出るものでもないかと思っていた俺はスルーしていたのだが、先生に勧められたのを断る理由も特にないので、適当に頷いておいた。
「じゃあ、花丸くん参加に丸しておくから。はいこれ」
「あ、はい」
先生はそう言って説明会についてのプリントをファイルから出して、手渡してきた。
「あと最後に。進路とはあまり関係ない話なんだけど、これも興味あったら是非応募してみて欲しいです」
そう言って綾子先生は一枚の用紙を渡してきた。
「……ああ。これまだ締め切ってなかったんですね」
俺はそれを見ながら呟く。同じ内容のポスターが、春のうちから教室や廊下の掲示板に貼られていたはずだ。
「というか、今年の学年は奥手みたいで、定員割れそうなの。まあ、今年から英語の外部試験で足切り設けたせいでもあるとは思うんだけど。こんなチャンスなかなかないはずなんだけどね」
「一応貰っておきます」
突っ返すのも無礼だろうと思って受け取った。
「少しでも興味出たら、気軽に相談してください。あ、進路のことでもね。何か他に気になってることはある?」
「大丈夫です」
「うん、じゃあ以上で終わりです」
「はい。ありがとうございました」
俺は頭を下げてから立ち上がり、個室を後にした。
*
綾子先生に紹介された説明会は金曜の放課後、学校の視聴覚室で開かれた。それとなくどんなやつが来ているのか見渡してみれば、真面目そうなやつからチャラそうなやつまでざっと五十人くらいいる。入試までまだ一年以上あるから冷やかしで参加しているような奴もいるのかもしれない。
卒業生が来ると言っていたが、少なくとも二個上なので俺の面識のある人ではないだろう。一個上でも交流がある先輩はほとんどいないが。
萌奈先輩が来るんなら、秒ですっ飛んでいくどころか、むしろお捻りを投げるまであるが、あいにく彼女は現在進行形で受験生なので来ない。悲しい。もし来年先輩が講師として呼ばれたら行こうかしらん。そしてプロポーズして盛大に振られよう。
振られるの確定してるのが味噌。
などと説明会が始まるのを席で待つ間、ふざけたことを考えていたら、無愛想な顔をしたやつと目があった。まるで死んだばかりの魚を食べているような目だ。
「……お前何してんの」
そいつは不遜にもお前呼ばわりで、ぶっきらぼうに俺に尋ねてくる。
「見りゃわかんだろ。説明会受けにきたんだよ」
俺はそいつに対しそう答えた。
「……はーん。お前医者になりたいんか。似合わねえな」
「あ?」
お前謝れよ。俺を推しだと公言している(していない)綾子先生に今すぐ謝れよ。
その男、深山太郎は何も言わずに、なぜかどっかりと俺の横に座った。近い。俺とお前の心の距離は二万キロだから。物理的にもっと離れてほしい。この二つの次元の距離のミスマッチは即ちこの世界の歪みであり、その歪みは世界破滅のもとだ。だから離れろ。そして俺たち二人でこの世界を救おう。
深山はそれからじろりと俺のことを見てきて、口を開いたかと思ったら
「医者になってもいいことないぞ。きついし、責任は重いし、割りに給料低いし。知ってるか? 医者の平均年収引き上げてるの美容整形とかの院長で、勤務医は言うほどだぞ? それにお国は地域医療構想っていうので、病院の数減らそうとしてるし。医者なんてなるもんじゃない」
と唐突に医者のネガキャンを始める。ソーシャルディスタンスの遠いやつは、大体こういうことをしがちである。思い遣りというものに欠けているのである。
俺が戦々恐々とした気持ちで深山を見つめ
「……お前えげつないな。そうやって隣のやつ蹴落とそうとしてんのか。まじえげつない」
「なあに言ってんだ。案外軽い気持ちでなろうってやつが多くて、ミスマッチに喘いで大学辞める奴もしょっちゅうなんだからな。その点本当のことを教えてあげている俺はまし。むしろ超優しい。だから悪いことは言わねえ。金が欲しいなら他を当たりな」
「……お前、2◯ゃんねるの見過ぎだろ」
2○ゃんねるの住民は、ソーシャルネットワークには近いが、社会からは遠いので、彼らの意見を当てにしてはいけない。
「ほんとほんと。綿貫から聞いたもん」
綿貫家は、全国に系列病院を持つ医療法人の経営者一族だ。深山のいう綿貫とは萌菜先輩の従妹で、夏に南の島で一緒に勉強合宿をした綿貫さやかのことだろう。
「名家の娘の名前出せばみんな震え上がると思ってんだ。えげつないわー。さすが女に振り向いてもらいたい下心で医者になろうとしている奴はやることが違う。さやかちゃんもきっと悲しんでるだろうな」
綿貫さやか、というか綿貫家の気を引くのに、深山太郎が医者になることは、プラスにはなりえてもマイナスにはならないだろう。もちろんそんな俗っぽい理由だけで、医者になろうなんてやつはいないとは思うが、俺は深山をからかってやろうとそう言った。
ムキになって反論してくるに違いないと踏んだのだが、深山は真面目な顔で
「下心ではなく真心。つまりは愛だ」
と答えてくる。どこまでもふざけた男である。
真面目に応対するものあほらしいので、俺もすっとぼけて答えた。
「アイ? あーはいはい知ってる。虚数単位ね。つまりは実在しないものだ」
「可哀想な奴め。愛を知らんとは」
「哀なら知ってる。それは人生であり、この世の真の姿だ」
「まあいいさ。愛を知らない奴はまともな大人になれない。ばあちゃんが言ってた」
「ふーん」
深山はそれきり前を向いて、なにも言わない。
「……え、まじで、女の気を引くためなの?」
冗談を言われたのだとばかり思っていた俺は、驚いて尋ねた。
「当たり前だろうが」
え、やばい。なにこの高校生。
「うわー。なんだよ。志望理由が女かよ。うわー」
俺は異世界の住民を見る心持ちで、深山のことを見た。
「ばーろ。男が頑張れるとしたら好きな女のためだろ。他になんかあるか」
「……はあ」
まあ、俺には関係ないので、リア充は適当に幸せになって爆発でもしておけ。バルスバルス。
俺がぞわっとした気持ちになったところで、深山は尋ねてきた。
「それでお前はなんで医者になりたいんだ。金か?」
「違う。お前と一緒にするな」
「だから俺は愛だ。いい加減覚えろ」
「覚えたくないから覚えない」
深山は笑うように鼻を鳴らして
「まあ、金なら金のためでもいいと思うけど。お金は大事」
「……さっきと言ってること違う」
「俺は臨機応変な男なのだ」
「日和見主義というのでは?」
深山はなおも食い下がって尋ねてくる。
「じゃあ、なんか行きたい科とかはあるんか?」
「それがほぼ志望理由みたいなもんなんだが」
「分かった。女とお喋りしたいから、産婦人科だな」
「診察をお喋りだと思ってるやつは医者になれないと思う」
「だがナースはいるぞ」
「ナースならどの科でもいるだろ」
「じゃあ何科なんだ?」
答えなければいつまでも聞いてきそうなので、仕方なく答えた。
「リハビリ医」
深山は一瞬きょとんとしたような顔を見せたが、すぐに
「……リハビリテーションか。へぇ。またマイナーなところを。なんでだ」
と返してきた。
「だからそれが理由になるっつってんだろ」
「まあいいじゃないか教えてくれても。俺とお前の仲だろ」
大して仲良くないだろ、と思いつつ渋々俺は答えた。
「……あれだ。簡潔に言うと、友達と約束したからな」
「へえー」
俺は気の抜けた返事に眉を顰めた。
「……お前から聞いておいて、何だその反応は」
「いや、存外真面目な返答が返ってきて、感心してるんだ」
「そりゃどうも」
俺が軽くあしらうように言ったら
「いやいや。マジだって」
と深山は取り繕うように言う。
「お前、ほんとは馬鹿にしてんだろ」
「ほんとほんと。まぢリスペクト。控えめに言って惚れそう」
「……やっぱ馬鹿にしてんだろ」
ああこんな奴の相手をして時間を無駄にしたと、俺は前を向いたのだが、深山は続けて
「ほんとに感心してるんだぜ。だってその友達のためなんだろ」
と幾分か真面目なトーンで言ってきた。
俺はもう一度だけ深山の方に向き直った。
「……そいつのためっていうか、そいつみたいなやつを助けてやりたいというか。まあ、約束と言っても、具体的にそうすると言ったわけじゃないし、俺が勝手にそう思ってるみたいな節はあるんだが」
深山は顎を撫でながらうーんと唸り
「よし分かった。花丸は医者になってもいいよ」
と偉そうに告げた。
「……だからお前は一体何様なんだよ」
*
それからまた季節は変わり、東の空に浮かぶオリオン座を見ては白い息を吐き、朝の霜を見て北風小僧に身震いするようになっても、俺のしみったれた生活はさしたる進展を見せてはいなかった。平穏といえば平穏だ。喉から手が出るほど欲しかったはずのその生活は、いざ手にしてしまえば特段感想を言いたくなるようなものでもなかったらしい。
部室においても、木枯らしが窓を叩く音と灯油ストーブの低調な稼働音が耳に障るばかりで、俺と安曇の会話は極めて寒々しいものへとなっていた。
表面上は何も変わってないように見えたかもしれない。もし俺たちの会話を以前に聞いたことのある人間が、この部屋の様子の映像を見たとしても、以前と変わらないじゃないかという感想を抱くかもしれない。
だが主観的な立場からそれを見ることができる人間には、決定的に違う空気感を即座に感じ取ったろう。
俺たちは会話をしていたのではない。テンプレートに従った意味をなさないやり取りを延々と繰り返したのだ。
いつぞやか、各務原に意識するからうまくできないのだ、と言われたが、これはそういう類のぎこちなさではないのだろう。決定的に変わってしまったのは単に意識ではなく、俺達の関係性である。人と人との関係は有機的なものだ。腐った卵が孵らないように、一度変質してしまえばそう簡単にもとには戻せない。
ただの惰性。ただの義務。
俺たちは、放送部の部員という役柄をただ演じているだけ。
蒲郡や、他の連中が時偶覗きに来ても、それの応対は視覚的に以前の俺たちがしていたものには違いないのだが、神宮高校放送部部員としての花丸元気と安曇梓がするであろう、他者による行動予測のシナリオに則っているに過ぎない。
全ては無意味な茶番だ。
余人が聞けば、なぜそこまでして花丸はその場所にこだわっているのか、と首を傾げたに違いない。
指でひと押ししただけで壊れてしまいそうな、その形骸化した関係性を壊さないでいる尤もらしい理由は、それを壊す気力さえ湧かないという極めて消極的なものだった。
*
「やあ、ご無沙汰だね」
ある日、俺が身支度を済ませ、昇降口に出たところ、執行委員長の山本が通路の壁に寄りかかって、俺を待ち構えていた。
「何か用だろうか」
俺が委員会のことで連絡でもあるのかと想像しながら聞いたら
「用というか、お誘いなんだけど、今度の休みに温泉にでも浸かりに行かないかと思ってね」
とオヤジじみた口調で山本は言った。
「温泉?」
「うん。岐阜の可児市にある温泉なんだけど」
「ふーん。……電車で行くのか」
「いや、綿貫さんちの黒岩さんが車出してくれることになってて。……執行部の先輩も来るんだけど、友だちも誘っていいって言われてるんだ」
黒岩さんと言えば、俺達が夏に合宿をしたときに飛行艇での移動から何まで、色々と世話をしてくれた人だ。
「……俺なんかが行っていいのか?」
この「俺なんかが行っていいのか?」というセリフは、こちら側の慮りという極めて日本人的な美徳を表しつつも、やんわりとお断りを入れるという、気遣いと思いやりと実用性に溢れた、俺にとって最強に便利な言葉なのである。
要するに行きたくない。
この学校の生徒会を牛耳るほどの山本くんのことであるから、俺がその一言に込めた意味まで汲み取って、ハイコンテクストな返しをして、円満にお別れしてくれるに違いないと、全幅の信頼を寄せていたところ
「まあ、気さくな先輩だから気にしなくていいよ。じゃあ、花丸くんは参加でいいね?」
儚くも希望は打ち砕かれた。
「あ、うーん」
俺は判断を保留しようと、お茶を濁すように言ったつもりだったのだが、山本は
「よし。みんなにも聞かないとな」
とぶつぶつ言いながら立ち去ってしまった。
追いかけて、「いや、行くとは言ってない」と言うのも面倒だったので、諦めて帰った。もうどうにでもな~れ。
*
迎えた温泉当日、黒岩さんはわざわざ俺の家にまで迎えに来るというので、風呂に入る用意をして、土間に足を投げ出し天井を見投げながら連絡を待った。
山本は俺に気を使ってくれたのか、俺の顔なじみをメンバーに加えてくれたらしい。夏に合宿に行ったメンツに加え、各務原、伊良湖、そしておまけで外野。
文系クラスの山本がうちのクラスの連中にもコンタクトを取ったのを聞いたときは、初めは驚いたが、各務原は運動常任委員の委員長だし、外野は問題児だし(あと一応野球部のエースだし)、山本にとっての顔なじみなのも納得である。伊良湖は安曇が誘ったのだろうが、外野がいるので彼女が単独で突入したのだとしても不思議はない。
しかし妙なことに深山がいないらしい。山本と一番仲がいいのはあいつだと思うのだが。
知らない人間がいる場が嫌なのだろうか。あいつらしいといえばあいつらしい。ふふふ深山くん。そういうのにも慣れておかないと、将来困りますよ。
山本からのラインで、家に近づいた、という知らせを受け、俺は扉を開け外に出る。数分と経たずに黒色のハイエースが家の横につけた。
「花丸くん、お待たせー!」
助手席に座っている人物が、パワーウィンドウを開け、楽しそうにこちらに手を振った。
俺はその時やっと、深山がこれに参加しなかった理由と、いきなり山本がこんな企画を立てた理由を理解した。
「ああ萌菜先輩じゃないですか。こんにちは」
「ふふ、こんにちは」
萌菜先輩はまるで朝ドラのヒロインみたいな微笑みを見せて、挨拶を返してきた。
ふーん。相変わらず美人じゃん。
…………。
え、待って、なんで?
*
俺が車に乗り込んでから十分有余。車内は極めて静謐な状態に保たれていた。思ったよりも静かなハイエースのエンジン音と、ロードノイズが耳を撫でるばかりで、誰も何も発しようとしない。
同じ高校とは言え交流に乏しい男女が集まったところで、会話が弾むわけもない。それに、山岳部の連中はともかく、各務原たちにとっては萌菜先輩は、いくら有名人とはいえ、縁の薄い人のはずだ。
萌菜先輩がみんなから尊敬されていたのは確かだが、その御前で馴れ馴れしくできるかどうかは別問題なのである。むしろ尊敬を集める人物だからこそ、一介の生徒が畏まらずにはいられない。
おい山本。このなんとも言えない居心地の悪い空気をどうにかしないか。お前幹事だろ。
萌菜先輩がそんな様子を見かねてか
「えっと、……しりとりでもする?」
と助手席から首を後ろに出し、後部座席でだんまり大会を開催している俺たちに声をかけた。
*
車内でしりとりに興じていた俺たちだが、気づけば目的地に着いていた。
車から降り、俺は温泉の建物の正面入り口に向かおうとしたら
「花丸くん、こっちだよ」
と先輩に呼び止められた。
「え、だって入口あっちじゃ」
俺が入口を指差し、そう言ったら
「違うの。別なところから入るから」
と先輩は答える。
俺は向こう側に見える入口と萌菜先輩の顔を交互に見比べながら、首を傾げ、しかし口に出して抗議することはせずに、萌菜先輩の指示通りに建物の裏の方へと回って行った。
通用口と思しきところに、館員らしき人物が背筋をピンと伸ばして立っている。その人が先輩と後ろに続く俺たちを見て
「ようこそ綿貫様とお連れの皆様。お待ちしておりました。こちらにお部屋をご用意しております」
と腰を低くして出迎えた。
それは従業員用の裏口かと思ったのだが、中は綺麗にしてあり、床に敷かれたふかふかの絨毯はシミ一つ見えず、土足で上がるのが躊躇われるほどだった。
しかし豪華な入口を見せるためにわざわざ遠回りするなんて妙なことをする、と思ったが、通されたのは他の客が入ってこないであろう、これまた豪華なプライベートルームだった。
従業員の人は俺たち一人一人に、恐らくは中の脱衣所で使う鍵の付いたバンドを渡してきた。
「部屋を出て廊下を左に向かいますと、突き当たりの扉から共用スペースに出られます。こちらの部屋へお戻りになる際は、その扉の手前にある電子キーをこのバンドで解除してください」
従業員の人が恭しくお辞儀をして部屋を出ていってから
「じゃ、とりあえず共用の脱衣所で着替えてもらって、あとは各自好きなようにしてもらおうかな。一応部屋付きのお風呂あるけど、みんなで入るのはまずいよね。さすがに小さいし」
と萌菜先輩がみんなに向かってそう言う。だれも異議申し立てはしない。流石の外野も先輩の御前で混浴を主張する気はないらしい。
女子と別れ、男子で連れ立って脱衣所に入ったところで
「おい山本。あの部屋は一体なんだ」
と山本に尋ねた。
「VIPルームってやつだろうね。萌菜先輩が僕たちのために手配してくれたんだよ」
「はぇー。それはたまげた。わざわざそんなものを。山本もなかなか萌菜先輩に好かれてるんだな」
「好かれてるのは僕じゃないと思うけどね」
それはこの場にいない深山に気を引こうと思って、と言う意味だろうか。しかし彼女は奴のことはすっかり諦めているはずだが。……いや、諦めきれずにこうして戻ってきてしまったのか?
下世話な想像もそこそこ、男連中でざぶんと湯あみをして、館内着に着替えてから適当に岩盤浴を回った。
一時間二時間とそうしていると、さすがに火照ってきたので、少し涼もうかと木曽川がよく見える座敷に出たところで、何気なくスマホを見たところメールが届いているのを見つけた。
見れば萌菜先輩からである。
そこには部屋で待ってるから来い、と書かれている。
俺は萌菜先輩に呼び出されたことを、他の連中に告げ、部屋へと向かった。
*
部屋に入ると、萌菜先輩はリクライニングチェアにゆったりと座り、団扇で扇ぎながらパラパラと本を見ていた。単語帳だろうか。
俺は歩いて、彼女の一メートルほど手前で立ち止まり、
「花丸、参りました」
と言った。
萌菜先輩はぱたんと本を閉じ
「いやあ、いきなり呼び出してごめんね」
と俺に笑いかけた。いちいち笑顔が可愛い。
「なんでしょう」
肩もみをしてくれなどと頼まれたらどうしようかと、内心ワクワクしながら、彼女に用件を尋ねた。別に下心はない。お世話になった先輩に対し少しでも御奉公できればという、己の類まれな忠誠心の表れであり、決して女子の体に触りたいなどという、卑しい下心などではない。俺はいつだって先輩には幸せになって欲しいのだ。彼女の幸福追求の一助になることは、それが如何に些細なものであろうと、花丸元気にとって望外の願いなのである。えへんおほん。
と十分に弁明したところで、彼女はぽんと隣の椅子を叩いた。
「まあ、突っ立ってないで掛けなよ」
俺は言われた通り椅子に掛けたのだが、先輩はまじまじと俺の顔を見るばかりで何も言わない。
女子がこういう顔をするときは、何か喋れということだと相場は決まってる。知らんけど。
と沈黙を破るため、俺と彼女の共通の話題を探った。
「もしかして、今回の目的って、深山に会うためだったりします?」
言ってから最悪の話題だったと気づいた。俺は自分が思っている以上に馬鹿なのかもしれない。
俺はどう取り繕うかと慌てふためいたが、
「えー、私そんなに諦めの悪い女に見える?」
彼女は俺の言葉に膨れ、口を尖らせてみせた。やはりいちいち可愛い。
「……割と」
「うーわ、それちょっとショックなんだけど」
「というかそこが先輩の魅力だと思うんですけど」
「どこが魅力なのさ」
萌菜先輩はそれから「んっ」と少々色っぽい声を出しながら、ぐっと伸びをして
「まあ、深山くんのことが完全に整理できたから、今回帰ってこられたんだけど、一言からかってやれなかったのはちょっと残念かな」
と笑ってみせた。
「そっすか。でも、受験の方は大丈夫なんですか。もうそんな余裕ぶっこいていられる時期でもないと思うんですけど」
現にうちの学校の三年生は皆、容貌は峭刻となり、肉落ち骨秀で、そのうち漢詩を詠む虎にでもなりそうな顔をしている。
それとは対照的に、ぷっくりうるツヤ肌をキープしている萌菜先輩は
「見てみ」
とスマホの画面を俺に見せてきた。
「……あ、なるほど」
それに提示されていたのは、直近に行われたオープン模試の結果だ。先輩の本命がその大学なのかは分からないが、各科目の順位欄には最もシンプルと言っていい数字がずらりと並んでおり、これならどんな大学を受けようとぶっちぎりで受かるに違いない。こんな成績を取っていれば、先輩でなくとも余裕ぶっこいていられるだろう。
「失礼、お見逸れいたしました」
俺は改めて畏敬の念すら抱く気持ちで、頭を下げた。
「意外かもしれないけど、こう見えて私、小さい頃から英才教育受けてるから」
「いや、それはなんとなくわかりますけど」
むしろうちの高校のレベルでさえ、彼女には不釣り合いであるとかねがね思っていたほどだ。というか萌菜先輩は世界レベルだから。日本という器でさえ小さいくらいだな。萌菜たんマジ女神。略してMMM。モエナ教の教義に付け足しておこう。
俺が敬虔なるモエナ教徒としての責務を果たしているところで彼女は続けた。
「まあ、足元掬われないようにしなきゃいけないんだけど、たまに温泉に浸かりながら頭を休ませるのもいいかなって思うし。一応勉強用具は持ってきてるけどね。でも花丸くんは気にせずゆっくり楽しんでね」
なるほど。受験戦争を勝ち抜くためにはこのような悠然とした心の余裕が必要なのか。
「……なんか、萌菜先輩の休日邪魔して悪いっすね」
「いやいや。みんなの顔見られただけで私は十分だから」
なんか、たまにしか会えない孫に会えたおばあちゃんみたいなこと言い出したぞ。俺の知らない間に孫まで作るなんて!
「なんか思ったよりも元気そうっすね」
俺は素直にほっとした気持ちになった。
「なぁに。いくら男の子に振られたからって、何ヶ月もメソメソしてるわけにはいかないでしょう」
「……おっしゃる通りで」
耳が痛い事を言われ、顔が引き攣るのを誤魔化しながら言った。
萌菜先輩はそれを知ってか知らずか
「……あ。それを今の君に言うのは酷だったかな?」
はぅあっ!?
「……ど、どこでその話を?」
俺はすでに二度ほど抉られた心の傷口を抑えながら、なおも平静を装い先輩に尋ねた。
「どこでって、神宮界隈じゃ割と有名な話なんだけど。そう言うのに疎いさやかでも知ってるくらいだよ」
「えぇ、なんでさやかちゃん、自分に関することさえ知らないのに俺のことは知ってるんですか」
「それくらいみんなが気にしてるってことでしょ」
ああ、俺の醜聞が大阪に転校したような人にまで知れ渡っているとは。軽く死ねそう。
俺が半ば宇宙の塵になっている所で、彼女は続けた。
「だから、今日もそう言うことだから」
「……どういうこと?」
「花丸フレフレ大会」
「企画者は?」
「善意の第三者で心優しい女の先輩」
「ほーん。惚れそう」
「じゃあ、付き合っちゃう?」
萌菜先輩はいたずらっぽい笑みを見せた。この人はこうやって男子をからかうのを生きがいにしているのである。彼女の生きがいを奪うのは本意ではない。どう楽しませるかが重要なのだ。だから俺みたいに訓練された信者は即座にイエスとは言わない。
最適解を演算して出した初手。
「萌菜先輩と付き合ったら俺ダメになりそうなんで、遠慮しときます」
「何その断り方」
「あと俺萌菜先輩のこと恋愛対象にできそうにないですし」
「それはシンプルに傷つくんだけど」
「いや、嫌いってわけじゃないんですけど、俺の中で萌菜先輩は神格化された存在で、話しかけるのも烏滸がましいというか、まさしく俺のアイドル、神棚に飾りたい。つまりむしろ大好きです。だから結こんし──」
「ごめん、それは嫌かな」
「……せめて最後まで言わせてくださいよ」
「君が何言うかなんて分かるよ」
「えへへ、以心伝心ですね。すでに夫婦なのでは?」
「違うと思う」
「が~ん」
萌菜先輩は楽しそうにころころ笑った。