市民参加型サーカスが開かれ、そして誰もいなくなった
夏の後期補習も終わり、学校祭開催まで一週間を切った。校内は学校祭に向けた準備で賑わい、至る所華やかな飾り付けがなされている。
応援演舞の練習も佳境に入ったようで、グラウンドからは各群団のテーマソングが入れ替わり立ち替わり流れてくる。
俺はそれを一人、放送部部室で聞き流していた。
こんなところで何をやっているのかというと、端的に言えば何もやっていない。サボタージュである。義務の放棄であり、とどのつまり人間失格である。
この世界がラブコメワールドだったなら、ここで眼鏡をかけたお下げの委員長キャラ(主人公に好意あり)に、怒られて引き戻されるという、ワクワクシーンがあるやもしれぬが、悲しいかなここは全ての現象が物理法則に則った、非常に非情で無上に無情な現実世界であるので、そんな絵に描いたようなラブコメ展開など起こりようもない。
実際的なことを言えば、この世界にも似たような現象は起こりうるのだが、それは「ちょっと男子! 真面目にやりなさいよっ!!」というヒステリックじみた狂気であり、理想と現実の乖離を受け入れられない者の悲痛な魂の叫びである。それが我々に与えるのは罪の意識で、甘美な喜びなど表出しようもない。終いには教師まで出動し、男子全員が怒られ、一応は取り組んでいたやつまで巻き添えを食らう展開になる。弾劾裁判の原告はだいたい女子で、被告たち男子諸君の有罪は端から確定している。
しかしながら、教師諸氏の信頼を勝ち得るような、学校行事に熱を注ぐ人間に限って、授業中は寝ていたりするので、どうやら学校というものは勉強をするところではないらしい。曰く勉強は家でもできる、死んだらあかん、人生は冒険や!
知らんがな。
とにかくにもこの世にはラブもコメも存在しない。現実世界にラブコメなんて存在しないのだ。
しかしこれまでのところ学校行事にお約束のヒステリーによって、俺の良心の呵責がやる気を出す事態には至っていない。
思うに男女の比率のせいだろう。
うちの高校はもともと女子が少ない。さらに我がEクラスは理系であり、なおさら女子の比率が低いのである。彼女らはいわゆるリケジョという生き物なのだが、俺が観察する限りおとなしい性質の個体が多い。そんな彼女らが声を張り上げて、クズになった僕を糾弾するなんてことは、まずないのだ。
そしてもう一つの理由であり、むしろこっちが主たるものだと思うが、彼女らは悟ったのである。
駄目なやつは何を言っても駄目、ということを。
…………。
ふふふ、何という洞察力だろうか。もし隣に誰か居たのなら、すぐにでも話したに違いない。
横に誰かいてほしいなんて、別に求めてないけど。
てなわけで対女子特化型のコミュニケーションスキルが、鈍る一方の今日このごろ。元々大して高くないなんて知ってても言っちゃいけない。
それはそれとして、蒲郡に連れられ喫茶店に行ってから一週間経つが、あれから毎日彼女は部室に来ている。忙しい忙しいと言っていたが、多分暇なのだろう。いや暇ではないのかもしれないが、暇を作り出すことに関しては、彼女には天賦の才があるのだ。俺も欲しい。社畜とは無縁の生活を送りたい。
……。
やはり誰も何も答えない。もし返答があったら、それはそれで怖いが。
「……やはりここにあるのは虚無だけ」
つまりは何もないのである。
*
虚空を虚無で満たした一週間は過ぎ、学校祭を迎えた。
思うに学校祭が「学校祭」たる所以は、その準備にあるのであり、準備が本体みたいなところもある。故に準備をまともに手伝っていない俺がそれを楽しめるはずもなく、一人で無為な時間を過ごした。
いや読書に勤しんでいただけ、多少は有意義だったかもしれない。
安曇は、一日目は俺を催しに引っ張り出そうと、声を掛けてきたが、俺が頑として首を縦に振らなかったので、それ以降は声を掛けてこなかった。
その代わりに蒲郡が何度か部室に顔を出した。
彼女が戸を叩き
「どうしたんだ蒲郡。また俺に会いに来たのか?」
と俺が軽口を叩けば
「いや違いますけど? 人目のないところでサボ……休もうと思っただけです」
と高潔な市民に叩かれるような理由を吐く。
つい本音が口からこぼれてますよ、蒲郡さん。あと人目がないって、俺が見てるんだけど。何かな俺は人外扱いですか、そうですか。
それは照れ隠しというわけでもなく、蒲郡は本当にサボるだけサボって、またどこかへと立ち去ってゆく。
それを除けば、ガヤガヤとした売り子の声と、時折上がる歓声が、窓の外で響いているのとは対照的に、放送部の部室はいつになく静かだった。
*
文化祭に引き続いて開かれる体育祭も、恙無く終え、イベントは後夜祭のボンファイアを残すのみとなった。
去年見たものをまた見ようとは思わず、俺は体育祭の閉会式が終わるなり、すぐに学校を後にしようとしたのだが、安曇に呼び止められた。
「あ、あのさっ!」
「……どうした?」
彼女は躊躇うような様子で
「……後夜祭見てく?」
おずおずと俺に聞いた。
俺はなんと言って断ろうか逡巡し、適当な文句を思いつく。
「……勝った奴らの満足げな顔だけで、俺はお腹いっぱいだな」
安曇はそれを聞き苦笑いする。
「あはは、うちの群団ドベ2だったもんね」
体育祭は競技部門、応援部門、群団旗部門、マスコット部門の四つに分かれるのだが、三位入賞を果たした、安曇たち応援団以外は目も当てられない結果だった。
特に悲惨だったのは群団の中でも我ら二年クラス。殆どの競技でポイントを稼ぐことができなかった。
安曇には順位がどうだったとかは、ボンファイアを鑑賞することに関しては、さしたる問題でもないらしく、続けて
「でも見なきゃ損だよ。ボンファイア、今年もゴリ押しで通したみたいだから、来年やれるか分かんないし」
と言う。
夜に校庭で火を焚いて、騒ぎ立てる行為が、なんの遺恨もなく行えるはずはなく、昨今のコンプライアンス意識の高まりを見て、教師たちは辞めさせたがっているのが本音ということだ。全く誰だ。小市民にコンプラ棒なんて物を渡したのは。コン棒で殴られて朽ちていった者たちの死体の山ができているではないか。正義の執行者となり脳内麻薬で恍惚とラリっている連中には、ジーザスの「コンプラ棒で誰かを殴っていいのは、一度もやましいことを考えたことがない人間だけだ」という言葉を授けたい。
それを聞いてもなお、溺れた犬は棒で叩けと言わんばかりに、コン棒を振りかざす人間が後を絶たないのだから、素晴らしい時代になったものだ。この国は聖人に溢れているらしい。
黄金の国ジパングの末裔たちの心は今日も鈍色に輝いている。
小市民たちが正義の執行者となるなら、俺は判官贔屓のちょいワル親父にでもなろうか。
まあ、どちらかというと俺はコン棒で殴られる方なんだけどね。
……。
それはそれとしてボンファイアについては、俺としてはやってもやらなくてもどっちでもいいと思っているので、来年見れなくなろうが、心残りは特にない。海を超えて渡ってくるPM2.5を、わざわざ自分たちの手で生産する必要もあるまいし。
……そもそも一年前、一緒に見ようと言ったやつがいないのだから、興も何も冷めきっているというのが、大きな理由であるが。
俺はそんな本音などおくびにも出さず
「まあ、それはそれで仕方ないだろうさ」
と肩をすくめる。
安曇は残念そうな表情をした。
「……そっかぁ。うん、分かった。ごめんね、無理に誘って」
「いや、いいんだ」
「おーい、安曇さーん!」
誰かが彼女の名前を呼ぶ。群団の先輩だろうか。
安曇はその声にハッとして
「あ、応援団のみんなで写真撮るんだった! ごめん。行くね。まるもんもお疲れ!」
「ああ。……安曇も」
安曇はささっとスマホを取り出し、何かを打ち込んでから、すぐに先輩らの待つ方へと駆けていく。
安曇はしっかりと自分の足で立って歩いている。目的も何もない俺と違って、意味のある毎日を過ごしている。ふとそんなことを思った。
俺は小さくなっていく彼女の後ろ姿を、淀んだ感情の残滓がせり上げるのを抑えながら見やり、足を引きずるようにして教室に行った。
教室で手早く着替えを済ませた俺は、そそくさと校舎を出て、自転車置き場に向かう。
すると蒲郡が何故か2年E組の駐輪スペースの前に立っているのが見えた。
どうせ俺に話しかけてくるんだろうなと、警戒しながら駐輪場に近づいたところ、思った通りに
「あ、先輩だぁ。偶然ですねぇ」
と蒲郡はわざとらしい声を上げた。
「……いや、わざとだろ?」
「そんなわけないじゃないですか」
彼女は嘘臭さを隠そうともせずにそう答えてきた。
「……何の用だよ?」
一日中校庭で残暑の日の光を受けて疲れているのだ。俺は若干の目眩を感じながら蒲郡に尋ねた。
「別に用があるって訳じゃないんですけど、ただなんとなく先輩が茉織ちゃんとボンファイア見たいのかな、なんて思ったり」
回りくどい言い方をする蒲郡に対し
「いや別に」
と俺は即答する。
さて彼女はどうごねてくるだろうかと、次の口上を考えていたら
「……ですよね。じゃ私、色々準備とかあるのでこれで失礼します」
と存外蒲郡はさっぱりとした態度でそそくさとその場を後にした。
俺は彼女の不可解な言動に首を傾げながら、帰路についた。
*
学校祭は週明けの片付けを以て、全日程を終了し、その熱気を辺りに淀ませたまま、二学期の本格的な始動となった。
多くの生徒は、精根尽き果てたのか、気の抜けた様な態度で授業に望んでいるように見えた。それでも三年生はこの土日で模試を受けたというのだから、中々なハードスケジュールではある。明日は我が身というか、来年は我が身となるわけなのだが、同輩諸氏は中弛みを満喫中らしい。
呑気にそんなことを観察している俺が言えた義理ではないが。
そのようにゆるゆるとハレからケへと移行している俺に、各務原が声をかけてきた。
「今度の土曜日、暇か?」
一日の最大の楽しみである、一人で摂る穏やかな昼食を前に、休日の予定を聞く各務原。
「予定は未定だが」
いったい何を企んでいるのかと訝しんでいると
「良かった。じゃあ十時に駅前集合な」
と彼は快活に言った。
「……なぜ?」
「たまには息抜きするのもいいだろ。ボーリングにでも行こうぜ」
「地質調査か」
「そっちが息抜きになるのか?」
「でも俺やったことねえな」
「俺もだ。重機とかないし」
「残念。ボーリングは無理そうだな」
「だから球転がす方ならできるだろ?」
俺はなんて返事をしようか迷ったが
「……まあ、たまには良いか」
と最終的には言った。
ボーリングというと、前にしたのは小学生の時に子供会で連れて行かれたのが最後で、ほとんど経験がない。誰でも一度はしたことがあってルールもシンプルだから、大勢が親睦を深めるためにワイワイやるのにちょうど良い、くらいの認識を持っている程度だ。
野郎二人で行って仲を深めてさてどうしようか、みたいな気持ちもなかったわけではないが、無碍に断るのも大人気ない。
*
当日、動きやすそうな服装をして、チャリンコをこぎこぎと漕いで、集合場所へと向かった。
「よう、来たな」
俺が集合場所のボーリング場の入り口に行ったところ、すでに各務原は来ていた。
「遅れたか」
俺がそう問えば
「いや、早い方だな」
と各務原は答えた。
「各務原はここで来るの大変じゃなかったか?」
俺と各務原の家は近くはない。それでも各務原は俺に気を遣ってくれたのか、俺の家に近いところのボーリング場を選んでくれたようだった。
「いや。部活で走り込んでいるから、ちょっと自転車で走るくらい大したことないさ」
各務原は涼しそうな顔をして答える。
俺は自転車を停めて、そのまま中へと入ろうとしたのだが、各務原は動こうとしなかった。
「どうしたんだ? 早く入らないのか」
夏が終わったとはいえ、残暑はまだ続きそうだ。早く熱った体を冷やしたい。
ところが各務原は
「いや、みんな来てからの方がいいと思って」
と答えてきた。
「……みんな? 他に誰か呼んでたのか?」
「あれ、言ってなかったか。外野と伊良湖さんと、あと安曇さんも呼んでるぞ。修学旅行のメンツ」
それは初耳ですぞ。
俺が予想外の情報を受け戸惑っているのを見てか、各務原は
「ほら、こういうのはみんなでやった方が楽しいだろ」
と弁明するように言った。
「なんだ。お前と二人きりじゃないのか」
「よせやい気持ち悪い」
「俺なりの愛だわい」
俺がそう言ったら、各務原はそこら辺にうっちゃるようなジェスチャーを見せた。
「おい、捨てるな」
「捨ててない。他のやつにやるんだ。お前の愛は俺には重すぎる」
「やめろ。振られるときにガチで言われそうなセリフを言うの」
と男二人で茶番を繰り広げていたところ
「何してるんですか」
と後ろに怪訝そうな顔をした伊良湖が立っていた。ボーリングをするとあってか、ジーパンにTシャツというラフな格好をしている。
「……挨拶かな」
「というか社交辞令かな」
まさか聞かれていたとは思わず、なんとなく恥ずかしい気持ちになった俺たちは、口々にそういう。
「はあ……」
伊良湖は気味悪いものを見るような目で見ていた。
それからどこかで合流したのか、安曇と外野が一緒に来て、五人でボーリング場へと入っていった。
ただ修学旅行を一緒に回った仲というだけの、五人がボーリングをしたところで、ドラマティックなことなど起こるはずもなく、緩い雰囲気でゲームは進んでいき、二ゲームを終え、各々片付けを始めた。
「たまにはこういうのもいいよね」
俺がレーン手前の通路にあったベンチで、ボウリングシューズから自分の靴へと履き替えていたところ、安曇が声をかけてきた。
「そうだな」
ちょこんと脇に座った彼女の方を向き答えた。
こう言うイベントは本当に初めてだ。そこら辺の学生にしてみれば何気ないことなのかもしれないが、俺にとっては未知の体験で、おっかなびっくりと言っては大袈裟かもしれないが、新鮮なことは確かだった。
思い返してみれば、夏からあまり運動もしていない。ただ頭ばかりぐるぐると考えても仕方のないことばかり考えて、体の方はすっかり鈍り切っていた。これがいわゆる観念奔逸というやつかと、部屋で独り合点をしていたところだ。各務原に誘われなかったら、高校卒業までそんな状態が続いたかもしれない。
「えへへ。私全然駄目だったよ」
安曇は笑いながらスコア表を振り返っている。
「俺も似たようなもんさ」
「でもストライク取れてたよね。私一個もなかったもん」
「まあ……」
「えへへ。……あ、もう行かないとね」
安曇はそう言って、ぱっと立ち上がり他のやつらと一緒に出口の方へと向かっていった。
俺は言いようのない気だるさを拭い取るように、目の辺りを手で押さえた。
その時突然、首に刺すような刺激が加わった。
「冷たっ!」
驚いて振り返ってみれば、各務原が缶ジュースを俺の首に当ててきたのだった。
「ほれ」
各務原はそう言い、そのジュースを俺に差し出してくる。
「なんだ、くれるのか」
「あれだ、みんなのこと黙ってたから、そのお詫びだ」
「……やっぱり、わざと黙ってたな」
「だって、言ったら花丸来ないだろうと思って」
各務原は肩をすくめる。
ピタリと俺の行動心理まで当ててくるところが、なんだか憎い。
各務原は続けて
「どうだ調子は?」
と尋ねてきた。
「……ぼちぼち」
「はは、そうか。でも、仲のいい奴らでわいわい遊ぶっていうのも、悪くないだろ」
「仲がいい……」
「なんだ。なにか不満でも」
「……俺はあいつらと仲がいいと言えるのだろうか」
各務原は他のやつなら笑い飛ばすようなところを、真面目に答えてきた。
「うーん。少なくとも、安曇さんとは仲いいだろ。同じ部活だし。あと外野はお前のこと大好きだし。それに伊良湖さんもお前のことじっと見てたぜ」
伊良湖のそれは多分、外野によく話しかけられる俺を妬んで、睨んでるだけだと思う。
「……でも、分かんねんだよな」
「何が?」
各務原は不思議そうな顔を見せた。
俺の中にはある種の気持ち悪さがあった。その気持ち悪さは、多かれ少なかれ安曇も感じているものだろう。気持ち悪さ、不快感、漠然とした不安。
ただそのことを各務原に言うべきかは正直迷った。元来、悩み事を人に言うのは憚られる質だ。
でも
「安曇とはもっとうまく話せてた気がするんだ。でも今は分からないんだ。あいつが何かを求めるように、無邪気そうに笑っても、俺はなんて言ってやればいいのか、どういう顔をすればいいか、どういうことを思えばいいか、全く分からない。以前はうまくやれていたはずなのに。今じゃ何か一言言うにも緊張してうまく口が動かない」
喋りだしたら、あとは口が勝手に動いていた。
もしここがいつもの教室だったなら、こんなとらえどころのない、それどころか羞恥すら誘うような話を、各務原に話しはしなかっただろう。
体を動かしたことで、体だけではなく、心と口まで火照って柔らかくなってしまったらしい。
俺の言葉を聞いた各務原は真剣な様子でうーんと唸った。
それからゆっくりとした口調で
「……花丸は考えすぎだと思うぜ」
と言ったのだった。
「考えすぎ、か」
「ああ。考えるからできなくなるんだ。友達と話をするときにいちいちごちゃごちゃと考えないだろ、普通。前はうまくできていたって言うけど、それは全部無意識にやっていたからじゃないのか。ほら、あれだ、歩くのと一緒だ。足の出し方とか、着地の仕方とか、膝の角度とか、色々考えながらやるとうまく歩けないだろ。うまく歩くには無意識にやれるよう練習するしかない。最初はぎこちなくても、繰り返す内だんだん良くなるんじゃないか」
各務原の言っていることは尤もだ。
「俺は歩くのが下手な大人になっちまったんだな」
俺は自嘲するように笑った。
「まあ、色々あったみたいだし、それも仕方ないだろ」
各務原はそう言って立ち上がり、続けて「また、気が向いたらどっか遊び行こうぜ」
と俺に笑いかけた。それから入口の方へと歩いていく。
一人残された俺は、ジュースの蓋を開けた。
さっきは冷たかったはずのそれは、何故か生ぬるく感じた。