地球温暖化故
「おい、花丸。聞いとるのか?」
「あ? なんだ?」
大きな声で呼ばれ、びくりと俺は身を震わせた。
先程からがなりたてるように声を上げている外野が、睨むように俺のことを見ている。
それと同時にふっと周りの喧騒が、まるでスピーカーのつまみを回したように、耳に入ってきた。
俺たちがいるのは教室だ。
今の今まで意識は身を離れ、ぽよぽよと四次元あたりを浮遊していた。それに従い外野の話も異空間にワープしていたので、その内容は宇宙空間のさらにその先に飛んでしまっている。スプラ・ムンドゥスである。
かといって、何か物思いにふけっていたわけでもなく、単にフリーズした脳に流れていたのは待機電力みたいなものだ。花丸元気は生来省エネ設計なのである。
ブォンという起動音は聞こえないが、とりあえず脳は再起動した。
はて、こいつは何を話していたか。
俺が遥か彼方の銀河系より帰還し、聴覚野のあたりをざわざわと探索し始めたところで、外野は鼻息荒く、
「だから、この世には球など存在しないという話だ」
と答えた。
「……ああそう」
「例えばだが、野球ボールも縫い目があり、その表面は滑らかでない。それはつまり球体の方程式を満たしていないことになり、球体とは呼べないということだ。そしてどんなに滑らかに見える球体があったとしても、分子レベルで見れば凸凹しているはずであるから、この世には球体など存在しないということになる」
「……ああそう」
「おい聞いとるのか?」
「聞いてる聞いてる」
つまり玉無しということだろ。ホモサピエンス様の高性能な中枢神経を起動させてまで、聞く話でもなかったようだ。
俺は再びスリープ状態に戻ろうとしたのだが
「ところでコーヒー豆はコーヒー豆と呼ばれるが、コーヒー豆はコーヒーノキになる実の種であるから、当然それは豆ではない」
と外野は話をやめない。
「……ああそう」
「であるからして正しくはコーヒー種と呼ばなければいけないと思うのだがいかがだろうか」
「……じゃあ素振りして手にできるポッチを豆と呼ぶのはなんでだ」
「……なるほど。そういえば女子のお股にあ──」
「黙れ」
「……ヌハハハ。われはまだみなまで言っておらぬぞ」
「……なあ外野よ」
俺はため息をつきながら、眼前の男の名を呼んだ。
名前を呼ばれた外野は至極嬉しそうな顔をする。
「なんだなんだ」
「少し静かにしていてくれないだろうか」
「ふぅむ」そう呟き、黙ってくれるのかと思ったら「…………………………ところで──」
その沈黙は一分と持たなかった。
「お前の『少し』は二秒で終わりなのか?」
「ふははは。堅いことを申すでない」
ああ、どうして外野は外野なのだろうか。
その問いには誰も答えない。
*
夏の後期補習が始まり、学校生活は滞りなく進んでいた。まるで何ら欠けているものがないように、何事もなかったように夏休みが終わろうとしている。
決定的に違う点があるはずなのに、誰もそれに気づいていないかのように日常が紡がれている。
かくいう俺も普通に学校に来て、授業を受け、こうして外野のとりとめのない話を聞かされている。
それでも俺の頭の中から一つの観念が一瞬たりと消え去ったことはなかった。
どうして。なぜ。
同じ疑問がぐるぐると頭の中で反響しても、誰もそれに答えてくれない。唯一答えられるはずの人間がもうそこにはいない。
ズキンと頭の奥で何かが疼いた。
あの日だって、俺は電話で彼女に尋ねたんだ。
「どうして何も言ってくれなかったんだ?」
と。
彼女は言った。
『……言い忘れていたわ』
「言い忘れていた? そんな大事なことを?」
『だってどうでもいいじゃない。私がどこに住もうかなんて』
どうでもいい?
俺がお前に向けていた気持ちも、一緒に過ごしたこの三ヶ月も、全部どうでもいいと言いたいのか?
「……お前、俺のことずっと笑ってたのか。修学旅行の時から、ずっと。馬鹿にして笑ってたのか?」
俺はわなわなと震える声で彼女に尋ねた。
『……ええ、そうよ。本当、見ていて滑稽だったわ』
「……なんだと」
『私みたいな性根の腐った女に、引っ掛けられていたあなたが、どうしようもなく滑稽に見えた。でも私は悪くないわ。女を見る目のないあなたが悪いのよ』
「……」
俺は絶句した。
『もう金輪際電話なんて掛けてこないで。さようなら』
ぶつりと電話は切れ、スマホを耳にあてがったまま、俺はそこに呆然と立ち尽くした。
目の前が真っ暗になった。
さすがに精神的に参ってしまい、しばらくは食事が喉を通らなかった。
正直言って学校に行くのも、なんだか周りの人間に笑われるような気がして、気が進まなかったのだが、そんな状態になっても植え付けられた習慣が俺の体を勝手に動かし、家と学校とを往復させていた。
あるいは家に閉じこもっていたら、本当に病んでしまいそうだったから、却って良かったのかもしれない。
橘美幸が学校を去った話は、すぐに広まった。校内で有名人だった彼女だから、それも当然か。
そのことで俺を直接に冷やかしたりするようなやつはいなかった。元々周りの連中と交流が少なかったのが、幸いだったのだろう。
というかむしろ、みんな腫れ物を触るような態度で、どちらかというと俺に優しくなっている気がする。
同輩から向けられる生暖かい目が俺に突き刺さるのだ。ただでさえ厳しい残暑なのだから勘弁してほしい。
家でも穂波が妙に優しく、最近は毎日俺のためにガリガリ君を買ってくるようになった。
二人でガリガリくんを食べながら
「穂波とこんなふうに過ごす老後も悪くないな」
と呟いたら。
「それは嫌」
と断られた。
眼から水が出てきた。多分汗。
最近眼からたくさん汗が出るのはおそらく残暑が厳しいせいで、地球温暖化のせい。だから将来は環境戦士にでもなろうと思う。
この頃よく知らない同級生が、通りすがりに俺の肩を叩き「そのうちいいことあるさ」と唐突に訳の分からないことを言う。そんな都合のいいおとぎ話を誰が信じるだろうか。よくもそんなことが言えるな! と俺は毎度心の中で叫んでいる。
ひょっとしたら彼らなりの優しさだったのかもしれない。だが周りの人間の中途半端な優しさが俺を癒すことはなかった。
冷たい言葉も、冷たい視線も、冷たい態度も消えて無くなり、残ったのは纏わりつくような生ぬるさだけだ。
*
暑いせいか、それとももっと別な原因のせいか、ずんと鈍い頭痛がするのに舌打ちしながら、補習を終えた俺は勉強用具を鞄の中に詰めていた。
クラスの連中は休み明けの学校祭にそなえて、各々の担当にばらけ準備を進めている。
俺はそんな同輩たちを尻目に、このまま帰ってしまおうか、と隙を窺っていた。
そんなしょうもない悪だくみを考える俺に声を掛ける人物がいた。
「……部室行こ」
俺はその人物の顔を見て
「……あぁ」
と静かに返事をした。
声の主はなんとも言えない表情を浮かべていた。
安曇から橘の転校の話を聞いたときは、俺だけ除け者にされたみたいで憤慨したが、そんな気持ちを彼女にぶつけたところで、なんの解決にもならないことは、分かっていた。
それに申し訳なさを滲ませた彼女の瞳を見て、非難できるほど、俺も人間を捨てているわけじゃない。
けどだからといって前みたいな関係に戻るのにはしばらく時間がかかりそうだ。
俺は小さく縮こまっている安曇を前に、天を仰いで呻き声を上げたい気分だった。
*
それから数日が過ぎた。
安曇に勧められたように、俺もクラスや群団の手伝いをすれば、気晴らしになるかと思ったが、楽しそうに学校祭の準備をする皆の輪に馴染めず、フェードアウトしてしまった。
そんな俺に対し、安曇は批判するわけでもなく、ただ寂しそうな目を向けていた。
しばらく安曇は俺と一緒にいたが、体育祭で我が群団の応援団員として演舞をする彼女は、その練習で忙しくなって部室には来られなくなり、俺一人だけぽつねんと補習後の時間を、部室で過ごした。
部活動も実質停止となり、俺がここにいてすることなんてないのだから、帰ってしまっても良かったのだが、俺はそこにいた。ただ安曇に対する一抹の申し訳なさが、俺をそこに留めていたのかもしれない。というのも安曇は練習後家に帰る前に必ず部室に寄って、俺の様子を確かめてから帰宅していたのだ。
それを無視するのは何だか忍びなかったのだ。
一人だけの部屋はうるさいほどに静かだった。誰かといた時は気にならなかった物音も嫌に大きく聞こえ、時折くる気味の悪いざわめきが俺を放っておいてくれない。
静かでうるさい。うるさくて嫌いだ。
その不気味な静けさから逃れようと、何か言って気を紛らわせようとしても
「……人はこれを虚無と呼んだ」
出てくるのはそんな言葉。
誰も返事はしない。
……。
死んだような空気感の部屋に、死んだような男が一人。どこが栄えある青春時代だろうか。
ああ、大天使様でも現れて、俺の精神世界を現出させたようなこの部屋の空気感を変えてくれないだろうか。
そのように藁にすがるように神頼みをしていたところ、ガラリと戸が開いた。
「こんにちはでーす」
黄色い声を上げながらその客人は部屋に入ってくる。
「……なんだ、蒲郡か」
大天使どころか、羽をむしる小悪魔が来た。
蒲郡は不服そうな顔をする。
「なんだとはなんですか。私で満足しなかったら一体誰の来訪なら満足できるんですか」
そりゃあれだろ。……オードリーヘプバーンとかなら大丈夫だろ。
蒲郡はキョロキョロと部屋を見渡し
「先輩だけですか。安曇先輩はどうしたんですか?」
と彼女の痕跡がないのを確認しながら尋ねてくる。
「安曇は体育祭の応援合戦に出るから、演舞の練習してるぞ」
「はーん。……そういう先輩は群団の手伝いしなくていいんですか? マスコット制作とか」
「それは三年生が頑張ってるからいいんじゃないか」
「……じゃあクラスの出し物とか」
「……それは、俺がいると空気悪くなるから……あえて手伝わないのだ」
「そうやってサボる方が空気悪くなると思うんですけど」
それはあれですか。いわゆるロジハラと言うやつですか、そうですか。……。僕悪くないもん! ……。
「……それはそれとしてだな、お前こそこんなところで油売ってていいのかよ。執行部も暇じゃないだろ」
「露骨に話逸しましたね。……というか油なんて売ってないですし。仕事しに来たんですよ。仕事」
「ご用件は?」
安曇のことを聞いてきたし、放送委員長である彼女に用があったのだろうか。
俺がそんなことを考えていると、蒲郡は目を逸らし、至極言いにくそうな様子で
「放送委員の副委員長、どうします? その……欠員出ちゃいましたけど」
とおずおずと尋ねてくる。
蒲郡がわざと彼女の名前を出すのを避けたのが分かった。蒲郡なりに気を使っているつもりなのかもしれないが、そうやって意識しているのが伝わってきてしまうと、逆に気分が沈む。
俺としても皆にそのように腫れ物に触るように扱われるのは、なんだか身がそわそわするようで、落ち着かない気分になるのだ。
とは言っても、誰も彼も悪気があってのことでないのは、俺もよく分かっているから、それに対し煩わしさを感じること自体、我儘なことなのだろう。
俺は小さく息を吐いた。
「分かった。俺がやるよ」
みんなに気を使わせたことの罪滅ぼしになるとは思えなかったが、他にけじめの付け方を知らない。それに、今の俺には面倒事を面倒だと言ってのける気力さえなかった。
「あっ、そうですか。分かりました。山本先輩にはそう報告しておきます」
蒲郡の用件はそれだけだったらしく、すぐに踵を返した。そのまま部屋から出ていくのかと思ったら、またくるりと身を翻し
「あ、あと、ついでになんですけど」
「なんだ?」
「先輩なんか暇そうですよね、今日も。だから、放課後コメダ行くの付き合ってくれません?」
「……なぜに?」
「ふわふわかき氷が今日までなんですよ! これを逃すと来年まで食べられないんです! ということで、十六時半に校門前集合でよろしくです!」
「え、えぇ」
俺まだ返事してないけど……。
「あ、あと最後に!」
部屋から出かかっていた蒲郡は、両手の拳を軽く握り、きゅっと脇を締めてファイティングポーズみたいな格好をし
「どんまいです! 先輩!」
と言ってから部室を出ていった。
………………。
お前まで俺に優しくするなよ。
泣けてくるから。
まじで。
*
「それでもうみんな全然役に立たなくてぇ。山本先輩が甘いから、もうちょっとびしって言ってやらなきゃダメなのに。私がもし委員長だったら絶対もっと上手くいくんですよ」
先程からこのおなごは、口からとめどなく愚痴を吐いている。しかし手元のかき氷を見ると確かに量は減っているから、出すばかりでなく入れる口もあるらしい。一体いくつ口を持っているのだろうか。
俺は学校近くの喫茶店で後輩の愚痴を右から左へと聞き流しながら、アイスココアを飲んでいた。
「って、先輩聞いてますか?」
俺が話半分に聞いているのに気づいたのか、蒲郡はむっとした表情で詰め寄ってきた。
「安心してください。聞いてますよ」
蒲郡は胡乱げな視線を投げてくる。
「じゃあ、私が何の話していたか分かりますか?」
……。なんかよく分からんが、委員会の愚痴を聞かされていた気がする。……よし。
「お前が次期委員長にふさわしいって話だろ」
適当におだてとこう。
「いやっ、そうですけど、そうじゃなくてっ! ていうか、誰が可愛くて、優しくて、頭が良くて、美人な私ほど次期執行委員長にふさわしい人物はいないですってぇ!!」
この女蒲郡茉織。理解不能な言葉を発しながら、くねくねと身をくねらせている。
「ねえ、私の発言が多分に改竄されているんですが」
「ほら、私と先輩って以心伝心みたいなところあるじゃないですか。だから言葉の裏を読み取れるっていうか。あ、インタビュイーの発言を上手に編集して、言ってないことまで補完する優秀な美人記者っていうか、そんな感じですかね?」
「それはただのマスゴミなんだよなぁ。出来れば事実をありのままに伝えて頂きたい」
「そんな、ただありのままに伝えるなんて、ロボットにもできるじゃないですか。人間にしかできない創意工夫こそが重要なんだと思うんです。燃えるような思いが、人の心を燃やすんですよ」
「その結果、いつも燃えているのは報道対象なんですが」
蒲郡は不満げに頬を膨らませた。
「もう先輩駄目ですよ。そんなむすっとしていたら」
「別に……」
そこで蒲郡は何か思いついたように、パッと表情を明るくして
「あ、もしかして、先輩もかき氷食べたかったんですか?」
「いや、いらない」
「はい、あーん」
「話聞けや」
「話聞いてないのは先輩じゃないですか」
俺は身をのけぞらせ、蒲郡の差し出してきたスプーンをよけようとしたが、蒲郡は腰を浮かせてまで俺の口にスプーンを押し付けてきた。ここまでされたら拒んでも仕方ない。俺は仕方なく口を開けてかき氷を食べた。
「ね、おいしいでしょう」
「……まあ」
蒲郡はにこにこしながら、ざくざくとかき氷を食べるのを再開した。
放課後に買い食い。正しく高校生のよくある放課後の姿なのだろう。俺はそんなありふれた光景におかれ、くだらないことが頭をよぎった。
「もし俺とお前が付き合ったらこういう感じになるんだろうか」
俺が戯れにそんなことを口にしたら
「……は?」
可愛らしい容姿に似つかわしくない冷たい声が飛び出てくる。
「え?」
俺が驚いた声を上げたところで、蒲郡は凍てつく視線と声で
「いや、先輩何言ってんですか? 冗談でそういうこと言うのやめてもらえますか?」
「え、え、えー?」
はい、あーん。とかするくせ、妙なところでキレる。どういうこと?
「絶対嫌ですよ、先輩と付き合うなんて。無理、絶対無理、超絶無理、生理的に無理!」
「超絶生理的に無理……」
さすがにそこまで言われるとまるもんショボーンとしちゃうな。
俺がショックを受けている所、蒲郡は睨むように
「だって、先輩私の事別に好きじゃないじゃないですか。なんでそんな人と付き合わなきゃいけないんですか? 私に本気で恋してみろって言ったの、あなたですからね?」
「あ、はい。ごめんなさい」
蒲郡は視線を外しむすっとした顔で、さくりとかき氷をつつきながら
「本当の本当に私のこと好きになったら友達になってあげないでもないですけど」
とぼそりと言った。
「……俺たち友達じゃなかったんだ」
悲しいことを言われた俺はよりしょげた気持ちになる。
蒲郡はそれを聞き小馬鹿にしたように笑い
「当たり前じゃないですか。先輩今のところ私の奴隷ですからね?」
そうなんだ。知らなかった。知らなかったけど、とりあえず奴隷らしく
「……くーん」
と鳴いておいた。
結局蒲郡さんが俺に冷たいのは、何があっても変わらないらしい。先輩であるのに威厳も誇りもなくて自分でも笑えてくる。
その反面、蒲郡にまで態度を変えさせてしまったのかと思い、惨めな気持ちになっていた俺は、いつも通りの彼女を見て、何故か気が安らぐ感覚を覚えた。