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その選択が正しいと信じることしかできない

 夜は()()べて暗闇だと思っていたのに、影ができている。目に見える明かりは月明かり一つだけ。満月の夜がこんなにも明るいということを私は知らなかった。そんな夜空の下、波が浜に寄せる音が響いている。人がここに足を踏み入れるずっと前から、そうして岸を打ち続けているのだろう。そんな波の音がひたひたと聞こえてくる。この音は私たちがここを去った後も、ずっとずっと途絶えることはないのだろう。


 それでもすごく静かだと私は思った。どうしてかは分からない。

 

 満月に照らされ、長く伸びた人影を私は踏んだ。

 彼女はテラスの手摺(てすり)に手をかけ、穏やかな海と満天の星空が混ざり合うところをじっと見ていた。

 私がテラスに踏み入ったことは足音で気づいているはずだ。やってきたのが私であるのもわかっているはずだ。それでも彼女はこちらを振り向きはしなかった。

 

 私は彼女に問いかける。


「このまま何も言わずに行っちゃうなんてことないよね」

 彼女はそこでようやく、一度だけこちらに目を向け、小さく息を吐いてからまた前を向いた。


「……すべきことはするわ」

 すごく落ち着いた声だった。すべての感情を洗い流したかのような冷静な声だった。

 

「本当に行っちゃうんだね」


 私は肩を落とした。もう私にできることなど何もないことはとうの昔に知れていた。彼女にとってこれが、そう簡単に決断できたことではないこともよく分かっている。

 悩んで苦しんで、きっと今だって後ろ髪を引かれる思いだろう。


 けれど彼女は行くのだ。


 彼女は熱を孕んだ瞳で私を見た。

 見つめられた私は心臓がきゅっと(ちぢ)こまるような感覚を覚えた。


 ああ、本当にお人形さんみたいに綺麗な人だ。

 創造論を信じる人たちの気持ちも分かる気がする。こんな芸術作品みたいな子が、ただの偶然で生まれてきたなんて信じられない。


 その綺麗な眼差しに、狂おしいほど恋い焦がれて、その宝石みたいな眸子(ぼうし)に、燃えるように嫉妬した。


 彼女は神様の最高傑作だと思う。


 そうでなくとも、彼女の視線はいつだって私にとっては特別なものだった。


 一度もはっきり確かめたことはなかった。確かめる必要さえないと思っていた。彼女が彼に向ける視線に友愛以上の意味が含まれている事なんて、傍から見ても明らかだったのだから。

 

「今まで世話になったわね」

 振り向いて私を見た美幸ちゃんは言った。私に返しきれない恩を、今まで知りえなかった本当に大切なものを与えてくれた彼女が、その言葉を言った。


 私はふるふると首を振る。

「ううん、それは私の台詞だよ」

 心からそう思う。私を地獄から救い出し、ここまで一緒に歩いてくれた彼女に、私は世話になりっぱなしだった。


「いいえ。ちゃんとお礼を言っておきたいの。本当にありがとうございました」

 それでも美幸ちゃんはそう言って深々と頭を下げた。


「ううん。本当に私、何もしてないよ」

 私は手を横に振り、笑って答えた。本当に私は何もできなかった。何もしてあげられなかった。


 彼女は顔を上げて、微笑んだ。

「後のことは任せたわ」

「……うん! 任された」

 私は片手で胸を叩いた。でも響いたのは空虚な音だった。


 叩いたところが痛かった。すごく痛かった。

 私は何もできない。彼が傷つく姿を見るだけで、私にできる事なんて何もない。それを誰よりもわかっているのに、明るくそう振る舞う自分自身が気持ち悪かった。


 もう私と彼女の会話に意味なんてなかった。そこにあるのは、本音の上に嘘を塗りたくり、偽りで固めた何か。それに私は価値を認めるのだろうか。本当は何の価値もないものを、それを認めるのが怖くて、自分をだまして、それが守るべき大切なものだと自身に言い聞かせているだけではないだろうか。

 周りに、そして自分自身に向けた愛想笑いが剥がれていく気がした。


 本当私は嫌な奴だ。


   *


 長い夢を見ていたのだと思う。温かくて耳触りの良い心地よい夢。大好きな人たちに囲まれて、何気ない日常を謳歌する、そんなありふれた夢を。

 その微睡みの夢は、息を呑むような美しさを、私に見させてくれた。


 だけど目を覚まさなければならないのだ。これは夢だから、私は目を覚まさなければならないのだ。


 目の前の彼女を私はひたと目に入れた。

 彼女は彼に劣らず、私にとって愛しかった。


 愛らしくて素直で優しくて女の子らしい。ため息をつくほど可愛い人。


 これほど素敵な子を私は他に知らない。私が男だったなら、間違いなく安曇さんの事を好きになっていただろう。

 彼と離れること以上に私は彼女と離れなければならないことを悲しんだ。


 今更どうこうすることはできないのだ。まだ肌寒さの残るあの日、私と彼、彼女との別離はすでに決まっていた。


   *


 高校一年の終わり、もうすぐ桜が咲くかという頃、外国にいる父から電話がかかってきた。


『美幸、元気にしてるか?』

「ええ、順調よ。二年からは文系に進むけれど、今まで通り頑張るわ」

『……そうか。それで、ニュース見たか?」

「……パパの会社のこと? ハンガリー支社ができるっていう」

 確か、昨日か一昨日のニュースでそのようなことを言っていた。


『そうそう。……それでなんだが、実はお父さん、そのハンガリー支社の責任者として現地に行くことになったんだよ』

「……それはおめでとうと言えばいいのかしら」

『本当は中村区のおじさんが行くはずだったんだけど、体調を崩して入院することになって、代わりにパパが行くことになったんだ』

「……そうなの」


 父が今いるシンガポールでさえ、遠いのだ。それが東欧の国に変わったところでいまいち違いがあるようには感じられなかった。


 だが父が放った次の言葉には、さすがの私も驚かずにはいられなかった。

『それで、提案なんだけど、美幸、ハンガリーの大学に進む気はないか?』

「どういうこと?」

『ハンガリー支社はヨーロッパでの生産拠点になる予定なんだけれど、腰を据えてやる計画だから、お父さんも責任者となる以上、おいそれと日本には戻れなくなるんだよ。美幸が留学に興味あるんだったら、どうせなら会社の近くの大学に進めば、お父さんや母さんと一緒に住めるし、そっちの方がいいかなって思ったんだ。もちろん日本の大学がいいって言うなら、お父さんは反対しないよ』


 この関係はいつか必ず終わりを迎える。私は……いや、私だけでなく、彼女や彼も、それを口に出して言わないだけで分かっていたはずだ。

 どんなものにも永遠なんてものは存在しない。私達はその当たり前すぎる真実を見て見ぬふりをしていた。


 どんなふうにせよ終わりはやってくる。

 なら私達は、どんな選択をすればよいのだろうか?

 何も選ばずすべてを失うか。

 自ら進んで捨てる選択をするか。

 

 いつかは決めなければならないのだ。


 父の電話はその選択を促すもののように思えた。


「……少し考えさせてくれるかしら」

『そうだね。決まったら電話して』


 私はプツリと途切れた電話を、テーブルに置き、しばらく立ち尽くしていた。



 今まで生きてきて、私の胸を熱くさせたのはたった一つのことだった。それが私の全てだった。それさえあれば他のことなんてどうでも良かった。


 けれど大切なものがもう一つできたのだ。

 十七年間一度も手にすることのできなかったもの。

 それが安曇さんだ。


 私は考えた。

 どうすればみんなが納得できるだろうか。

 どうすれば私の大好きな人たちが幸せになれるだろうか。


 考えた。

 悩んだ。

 でも分からなかった。

 分かるはずなんてなかった。


 だから私は考えるのをやめるために決断したのだ。


 私は彼女にだけは嫌われたくなかった。

 彼女にだけは幸せになってほしかった。


 私は自分の出した結論を父に伝えた。

 

「ハンガリーの大学に進学するわ」 

『そうか。じゃあ──』

 父の言葉を待たずに、私は続けた。

「だから今年の秋からそちらに住もうと思うの。早いうちから現地の生活になれたほうがいいと思うし。だからパパには転入の準備の手伝いをして欲しいの」

『……本当か? だって、友達もいるだろう』

「いいの。そんなに仲のいい友達はいないし、大事なのは将来のことよ」

 父に、そして自分に言い聞かせるように言った。


『……本当にそうしたいんだね?』

 もう迷いなんて無かった。


「ええ」


   *

  

 彼女にはすぐに伝えた。こんな私を好きになってくれた彼女に黙って去るのはあまりに忍びなかったから。

 彼女は、驚いた。当然だと思う。

 驚いて「本当?」と一言聞き返してきた。

 私は頷いた。


 私の家の事情、将来の話、そんな建前ばかりを私は口にした。


 本当はもっと話すことはあったと思う。ただそれだけで彼女が納得したなんてことはなかったと思う。

 けれど彼女はそのやり取りだけで「……そうなんだ」と呟き、私のことを抱きしめた。

 彼女は泣いていた。

 私も泣いていた。


 彼女も分かっていたんだと思う。でも彼女は何も言わなかった。


 それから一度だけ彼女と衝突した。

 委員会に入るかどうかで揉めたときのことだ。  


 私は学校を去る以上、責任ある役目を引き受けるのは道理ではなかった。 

 それでも彼女は少しでも長く一緒にいられることを望んだ。

 私が頑固で捻くれ者であることは、呆れるほどよく自覚している。それでも今回ばかりは彼女は折れなかった。最終的には彼が仲介に入り、私は委員会に入ることになったが、彼女の懇願がなければその結果には至らなかっただろう。


 でも彼女としたそのやり取りの中でも、ただの一度もそのことは話題に登らなかった。

 不思議なことに一度も。


 どうしようもないほど、私達二人は分かっていたからだ。

 話す必要さえないほど、私達は分かっていたのだ。

 二人とも分かっていて、話せば二人とも傷つく。だからあえて避けてきた。


 安曇さんがいなかったら、私は外国に行くことを承諾しなかっただろう。

 安曇さんがいるから、私はすべてを任せてここを去ることができる。


 彼女には幸せになる権利がある。私のような救いようのない人間が持ち合わせていない権利が彼女にはあるのだ。


 誤算だったのは彼のその後の行動についてだった。彼があんなことをするなんて思いもしなかった。

 

 私は驚きを通り越して怒りすら感じていた。もちろんそれが身勝手な八つ当たりだってことは分かっている。でも「なんで今更になって」。そんな言葉が喉元まで出かかった。

 嬉しくないわけじゃなかった。嬉しくないわけなかった。

 彼と一緒に過ごしたこの二ヶ月は本当に楽しかった。できることならこの時間が永遠に続けばいいと思った。


 それでもその選択肢は既に失われてしまったものだ。


 彼は私を恨むかもしれない。

 でも彼だってそのうち気づくはずだ。

 私みたいな面倒な女と一緒にいては、幸せになんてなれないと。

 

 涙など流さない。私にとっての宝物達が進む道を思って涙を流すなんてことが、できるはずがないのだから。

 もし辛さを感じるのだとしたら、それは人の気持ちをもてあそんだ私への罰だ。大人になることのできなかった自分への罰だ。


   *


「今まで世話になったわね」

 どこか不安がるような顔をしている彼女に対し、すっと出てきたのはそんな言葉だった。


「ううん、それは私の台詞だよ」

 彼女は首を振りながら言う。


 言葉で言い表せるなんて思ってはいない。でもそれを言わないでは私の気が済まないのだ。

「いいえ。ちゃんとお礼を言っておきたいの」


 安曇さんはじっと私の目を見た。


 私はその目をしっかりと見て

「本当にありがとうございました」

 そう言って、頭を下げた。


 私は自分の行為がどれだけ彼女を傷つけるか自覚していた。それをありがとうだなんて手前勝手も極まりないが、他の言葉を私は知らなかった。私のわがままを聞いてくれた彼女に対し、それ以上に相応しい言葉など知らなかった。


「ううん。本当に私、何もしてないよ」

 私の気を楽にするためか、彼女は手を振りながらそういう。

 でも私はあなたに感謝している。感謝してもしきれない。


 ありがとう。

 時間を与えてくれて。


 ありがとう。

 友達になってくれて。


 ありがとう。

 隣にいてくれて。

 

 だから……

「後のことは任せたわ」


 あなたになら全部あげても惜しくない。だから全部あなたに任せる。


「……うん! 任された」

 彼女は突き抜けるような笑顔を私に見せる。ああ、本当に可愛い人。私は素直にそう思った。


 私も彼女もはっきりしたことは言わない。お互いがすべてを分かっているうえでなおも分からないふりをして、最後の最後まで道化を演じている。大切にしてきたものが容易く壊れてしまうことを恐れて、滑るばかりの言葉を吐く。本当馬鹿なピエロ達だ。

 ……いや、道化をしているのは私だけで、彼女はどこまでも幼い私に付き合っているだけか。


 もう二度と手に入れることのできないものを捨てる覚悟は、とうの昔にしていたはずなのに、今更になって、どろどろしたものが体の奥底からこみあげてきた。それを抑え込むため、私は最後のサヨナラをした。

 宝物を守るため、それらに背を向けて。

最終章に続く

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