寝耳に鉄砲水
島から帰ってきて、お盆休みを家でそわそわした気持ちで過ごした俺。これほど強く休みが明けるのを望んだことはなかった。
お盆が終われば、夏の後期補習がすぐに始まる。
その時、橘に出会って、待ち侘びた返事を彼女の口から聞くことができるのだ。
と言っても、今までと大した違いはないのかもしれない。今までの関係性が、ほんの一言で変わるなんてことがあるなんて、今の俺には想像できなかった。
いや、俺が望んだのはそう言う関係か。ずっと今みたいな関係でいたいと思ったからこそ、行動に移したのだ。俺と橘は高校に入学した時から、ただのクラスメートではない、特別な関係だった。
それを不変のものにしたかったから、俺は彼女に宣告したのだ。
今までの感触からすれば、良い返事が聞けるだろう。先のことはわからないが、彼女が俺に向ける気持ちは俺のそれと同質なものであるはずだ。いつからそうだったのかはわからない。俺もいつから自覚したのかは分からない。
しかしながら、人の感情というものはそう言うものだろう。
0か1かではない。無意識に始まり、なんとなくで自覚して、それから本気になる。それが人の感情だ。
定量的に測ることができないもの。だからこそ人はそれを愛おしいと思うのだ。
後期補習初日。
少し早めに起きて、少し早めに家を出た。
夏も盛りを過ぎているはずなのに、セミはその命を燃やし尽くすために懸命に鳴き、蛙がガーコガーコと喚いている。
その音をうるさいと思うか思わないかは、慣れと言うより心の持ちようなのかもしれない。
生物の鳴き声というものは多く、異性へのアピールだ。
ウグイスやホトトギスと言った綺麗な声で鳴く鳥、セミやバッタなど林や草むらから聞こえてくる昆虫、夏の夜の風物詩のかえるの合唱も、例にもれず異性の気を惹こうと必死なのである。
それをうるさいと言ってやらないでほしい。
彼らの異性へのラブコールを容認できる。ソウイフモノニワタシハナリタイ。
学校について、柄にもなくみんなに挨拶をする。
そしてうわついた心で授業を受けた。
教師の言葉が頭の中で機械的に処理されて、意識まで上ってこない。
授業が終わって、俺は放送室へ向かった。
三コマ目の数学は、志望別に別れていたので、安曇とは教室が違った。俺は一人で部室へと向かう。
扉を開けてみれば、ただ安曇が一人で食事をとっていた。
俺は彼女に声をかけた。
「橘はまだ来てないのか」
安曇はびくりとして、驚いような顔で俺のことを見てきた。
「え、どうしたんだ。そんなびっくりした顔して。橘、まだ来てないのか」
俺は再度同じ問いをした。
今度は安曇は顔を曇らせ、小さな声で言った。
「ちゃんと言う、って言ったのに」
俺は訳がわからず彼女に聞いた。
「なんの話だ?」
安曇は唇を噛んでから、俺に言った。
「美幸ちゃん、引っ越したんだよ」
ミユキチャンヒッコシタンダヨ。
俺は安曇が何を言っているのかわからなかった。まるで言葉が頭の中で意味をなしていない。先程の授業と同じ状態だ。
十秒ほどフリーズしてから俺は我に返った。
「……は? 引っ越した? ……どこに?」
おうむ返しに、淡々と聞き返した。頭で理解して話しているというより、ただの反射で口が動いているようだった。
名古屋の高層マンションを引き払って、学校近くに引っ越すから、その作業をしているということだろうか。それともまさか東京に戻ったということか。
俺は前者であってくれと願いながら安曇のことを見つめた。
安曇は目を瞑り、大きくため息を吐いて、それから心底辛そうな顔で答えた。
「ハンガリー」
✳︎
その後のことはよく覚えていない。とりあえず部活をやらずに、早めに帰宅したことは覚えているのだが、どういう経路で家までついたのか全く覚えていなかった。学校を出たのが昼時だったのだが、家に着いた時には三時を回っていた。
全く覚えていないが、やたら遠回りしたらしい。それかどこかで立ち止まってぼーっとしていたのか。
頭がズキズキといたんだ。この強い日差しの中、自転車を漕ぎ続けていたせいか、熱中症気味なのかもしれない。
ガブガブと水を飲んでから、自室にこもってうつ伏せになって眠った。
気づいたら夜になっていた。汗でびっしょり体が濡れている。こんなに暑いのに、冷房も入れず、窓を閉め切って寝ていたらしい。
俺は重たい体を起こして、とりあえず窓を開けた。
夏の虫の声が五月蝿く蝸牛を震わせた。
俺は椅子にどっかり座り、天井を見上げた。
何があったのかよくわからなかった。
スマホを開いてみてみれば、安曇から「大丈夫?」というメールが届いているのが分かった。俺はそれには答えず、橘とのチャットルームを開いた。
こちらからかけた電話はつながらず、メールにも既読はついていない。
俺はスマホを投げ出し、頭を抱えた。
本当に訳がわからなかった。
安曇は言った。俺の理解が追いつかないほど多くのことを喋っていた。俺は何度も同じことを尋ねていた気がする。でも結局安曇が何を言っていたのか、俺が何を尋ねていたのか、今となっては分からなかった。
分かりたくもなかったのかもしれない。頭が理解を拒んでいた。
多少冷静になった頭で、今までのことを振り返った。
いつからだ。いつからだろう。
彼女はずっと俺に嘘をついていたのか。
安曇の話では、ずっと前から決まっていたことらしい。俺は全く知らされていなかった。
ハンガリー。
橘はハンガリーに行った。おいそれといけない場所だ。俺の手の届かない場所だ。
彼女は遠くに行ったのだ。
今の俺の頭で理解できたのはそれだけだった。
俺は顔を机に突っ伏しって呻いた。
まず初めに浮かんだ疑問を口にした。
「ハンガリーってどこだよ」
のっそり立ち上がり本棚の地図帳を引っ張り出して、索引を開いた。