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常態が変態

相談内容【夏が来ました】

「そうだね!」


相談内容【太陽は俺の情熱でできている。そして君は宇宙。百三八億年の歴史。それが君】

「……? ごめんなさい。私はどちらかと言うとお姫様に近いので宇宙ではないです」


相談内容【野球部が夏の大会二回戦を勝ち抜きました。試合で活躍したら女の子にモテそうなので、今からでも野球部に入ったほうがいいでしょうか?】


「悪いことは言わねえ。やめとけ」

「そうねえ。そんな心持ちではじゃがいも頭にされて終わるのが関の山よね」


 そのように俺と橘が否定的なコメントをしたら、安曇が躊躇いがちに言った。

「……逆にそれが好みっていう娘もいると思うんだけど」

「心当たりがあるのか?」

「い……言わない」



   *


 七月に入ってから体にまとわりつくような暴力的暑さが殴るようにやってきた。さんさんと照りつける太陽光の下、我が校の野球部が六十年だか、七十年ぶりの全国出場を目指して汗を流して奮闘する中、そよそよと冷房のよく効いた部屋でゆるりと過ごしている生徒たちがいた。

 そう放送部一行である。


 流石の橘も猛暑日にホットティーを飲む気にはならないようで、エスプレッソマシンで淹れたコーヒーをロックで飲んでいて最高にロックである。部室のQOLが上がりすぎてやばい。


 神宮高校は文武両道を校訓の一つに掲げているが、公立進学校の御多分に洩れず運動部の実績はいまひとつだ。去年もインターハイに出たのは、怪物的だった金本がワンマンで勝たせたサッカー部だけで、大概の部活はせいぜいが県大会に出場するだけで終わってしまう。そういう俺は何もしていない。

 そもそもの話、高校生活におけるスポーツの優先度が第一位になる人間はうちを選ばないのだ。設備や人的資源から言って、ここはスポーツをするのにふさわしい環境であるとはお世辞にも言えない。生徒の九割以上は一般入試で入学しており、中学の体育大会で全国レベルの成績を取っている人間はほとんどいない。

 おまけに愛知県は激戦区だ。野球に限って言っても全国区の強豪がゴロゴロしている。

 市内において、優秀な選手の供給源であった少年野球も、時代の流れか解体と統合が進んでいる。神宮高校野球部の前途は多難らしい。

 クラスで外野が、「旧制中学時代に春の選抜で準優勝したときの栄光を再び」とわめい……いや、熱く語っていたが、すでに暑いから勘弁してほしかった。ベビーブーマーより前の世代の話をされても困る。

 そんなに勝ちたいのなら、K Y人軍みたく有望な選手を金に物を言わせて引っこ抜いてくればいいのだ。知らんけど。

 

來那(らな)ちゃんから聞いたんだけど、もし勝ったら十年ぶりらしいよ」

 俺がブツブツと教室での出来事を思い返しながら考え事をしていたら、不意に安曇が喋った。


 訳が分からず訊き返した。

「何の話だ?」

「野球部が今度勝って四回戦に出場したらって話」

「ああ、まり投げてみたき広場の話か」

 今度は安曇が不可解そうな顔を見せた。

「え? 何の話?」

「野球の話だろ?」


 安曇は助けを求めるように橘を見た。

「何言ってんのか全然分かんなくて気持ち悪いんだけど、どういうこと?」

 ねえ、気持ち悪いって何?


「まり投げてみたき広場や春の草。野球好きだった正岡子規が、病床に臥せりながら見た春の野原を詠んだ歌ね。でも普通の人は知らないし、今は夏だから安曇さんが分からなかったのも無理ないわ」

「へえ。美幸ちゃん物知りだね!」

「そ、そうかしら」

「うん! すごい!」

 そう言って安曇は感心したように目をキラキラさせている。


 なんか俺を放ってゆりゆりしてるが、先に言ったの俺なんだけどな。まあいいけど別に。


「しかしあまり勝ち進むと、三年生の中には逆にハラハラしてるやつもいるんじゃないか」

「どうして?」

「だって三年の選手は、球児であると同時に受験生なわけだろ。試合に出るやつならまだしも、補欠連中はどう思ってるんだろうな」

 昔はともかく今は、うちの野球部からプロを目指すやつはいないだろう。ならば全員進学希望のはずだ。

 数ヶ月の遅れくらい気合でなんとかなる、という根性論には限界がある。

 一年くらい浪人しても構わない、ぐらいドンと構えているのなら、別になんとも思わないが、家庭の事情は様々だろう。

 それとも大学受験なんてものは些末に感じられるくらい、高校野球の思い出というものは重要なものなのだろうか。


「あーでも、体育の先生になるんだったら有利……かもよ?」

 安曇は思いついたように言った。

「ほーん。先生ねえ。個人的感想なんだが……体育教師にはいい思い出がないんだよなぁ」

「確かに花丸くん嫌われそうだものね。何だその舐めた態度は? みたいに」

 ひどい偏見だな。……まさしくそうだが。


 俺はかつて中学の頃、「どういうことだ説明しろ!」「ですから今日は──」「何が今日はだ!? 言い訳するな!!」「……」みたいな理不尽な会話を、とある体育教師に強いられたことを思い出した。話くらい最後まで聞けよ。あと説明と言い訳の違いがよく分からなかったから、説明してほしかった。


 そのやり取り以降あからさまに、彼の俺に対する扱いがぞんざいになり、よくみんなの前で笑いものにされたものである。具体的には不慣れな競技を始める際に、俺がまず悪い手本として前に呼ばれやらされた。紛うことなき公開処刑だ。

 百歩譲って悪い手本にされるのはいいが、教師のくせに笑うだけ笑って、その後正しいやり方を教えないのはどういう了見だろうか。全くふざけている。


 あの邪智暴虐の教師については、顧問を務める部活の部員を、校舎の陰で蹴り倒していたという噂もあったが、あの男ならやりかねない。

 それもあの教師が、不祥事をよく起こしている某体育大出身と聞いてからは、俺は同校に対する悪印象を強めたが、幼気な少年の心を傷つけた当然の報いである。恥を知れ。

 はあはあ。興奮しすぎたぜ。落ち着け俺。冷静になろう。

 あの人にもあの人なりの正義があったのかもしれない。年端も行かないガキに、この世の中の理不尽さを教えてくれようとしていたのかもしれない。あの人なりの愛のムチだったのかもしれない。

 なるほど。

 ……。


 紛うことなきキチガイ!


 憤懣(ふんまん)()る方無く、つい口からこぼれてしまった。


「某体育大を出るとああいう気違(きちが)い暴力教師が出来上がるのか、それとももともと気違いなやつが某体育大に集まるのか、鶏が先か卵が先か、興味のあるところではある」

 俺が二人を前に口にしたのはそれだけだったが、彼女らはどういうことがあったのか察したらしく、憐れむような視線を向けてきた。


「……まるもんの中学校って大変だったんだね。……なんか性格がそんなになっちゃうのもわかる気がする」

 ねえ、安曇さん。そんなって何? という疑問を持ちかけたが、まるもんいけねえよ。それはパンドラの箱だ。パンドラちゃんの持ち物いじってたらストーカー野郎と思われちまうぜ。

 と思って箱には触れなかった。


「……まあ、俺の凄惨な記憶というのは小学生の頃から始まるけどな。殴る蹴る暴言ありの監督の下、血反吐吐くような練習をさせられたわけだが、一番辛かったのは、そんなに練習したのに最後の一年は一度も試合に出させてもらえなかったことじゃなくて、皆が練習している横で草むしりを一人でやらされたことだな。バットどころかボールすら触らせてもらえなかったあの日々が懐かしいぜ。名も知らぬ草を抜きながらよく自問したものだ。『なぜ俺は野球なんぞやっているんだろうな』って」

 ……野球やってたって言うけど、よくよく考えたら俺、野球してないじゃん。卒団式の時、監督には「最後まで続けるとは思わなかった」と言われて、マジでキレる五秒前♡ 俺が球出ししなかったら、あんたノックできなかったんだかんな? プンプン٩(๑òωó๑)۶


「……」

「……」

「……」


 おいおい。この部屋はお通夜でもやってるのかい?


「安曇さん。花丸くんに不幸自慢なんてさせたらきりがないわよ。というか聞いている私達の身が持たないわ」

 と橘さんは目頭を押さえ、今にもホロホロし始めそうな雰囲気。


「おい橘。俺の汗と涙で出来た青春の思い出をナイトメアみたく言うなよ」

「事実そのようなものでしょう」

 ぱおん。もう無理。目から水出てきそう。


「……ちょっとトイレ」


「花丸くん。トイレはあなたの目から出た汁を流すところじゃないのよ」

「汁とか言うなよ。雫かせめて水くらいにしとけよ」

 そしたら橘は小首を(かし)げて言った。

「……体液?」

「なんかやだ!?」


 今度は不服そうにプクリとして

「別に泣き顔くらい見せてもいいじゃない」

 と眉を(ひそ)めている。

 

 ようやく優しいセリフを吐く気になったかと思いつつも、訝しがるように聞く。

「俺がお前の前でわんわん泣いたらなんかいいことでもあるのかよ」

「花丸くんの泣き顔を(さかな)に美味しい紅茶が飲めるわ」

「徹頭徹尾私利私欲のためだ!? お前、あの体育の先生よりあくどいな」

「何言ってるの? あなたの不幸な話も笑い話にして、私が幸せになれば、素晴らしいことなのよ。そしてその私の幸せの1%でもあなたにお返しできたら、あなたの人生は薔薇色じゃない」

「花丸元気における薔薇色の人生への閾値が低すぎるんだが?」

「あら。あなたはすぐ幸せになれるってことね。やったじゃない」

「違うそうじゃない」


   *

 

 翌日。


「もし、花丸くん」

「ん? どうした、伊良湖(いらご)」 

 教室で粛々と次の授業の準備をしていたら、おかっぱ頭が視界で揺れ、次いでその主が声をかけてきた。


「……実はあなたに折り入って相談があるのです」

「ほう。伊良湖が俺に相談とは珍しいな」

 伊良湖はかぁっと、恥じるような表情を見せた。

「わ、私だって出来る事ならこんなことあなたに相談なんてしたくありませんでしたわ。ですが、背に腹は代えられないのです」

 お、おう。

「……してその内容とは」

「……あまり人に聞かれたくないので、昼休みに少しお時間を頂いてもよろしいかしら?」


 はて、この和風少女の相談事とは一体どのようなものなのだろうか。俺はそう思いながら、了承した。


   *

 

 昼休み。


「それで相談というのは?」

 俺は自販機コーナーのところにでも行こうかと言ったのだが、伊良湖が人目を(はばか)るというので、本館の特別教室が集まっている階へとやってきた。冷房が効いておらず暑いが、確かに人は来なさそうだ。


 そのように人目を忍んで伊良湖が切り出した話に、耳を傾けた。

「……花丸くんは外野くんと親しいですよね」

「……客観的に見たらそういうふうに見えると思う」

 俺としては甚だ遺憾なわけですが。


「……でも男性として好きというわけではない?」

「……? ごめん、來那(らな)ちゃん。何言ってんのか分かんない」

 なんかとてもとても重要なことを訊き出すかのような表情をしてますけど。


「や、やめてくださいまし!? 殿方がいきなり乙女の下の名前を呼ぶなんて破廉恥ですわ!」

 お? んー? おーい。誰か通訳連れてきて。

 伊良湖は頬を染め、ハァハァと息を荒くした。


 閑話休題。


「では、花丸くんの想い人は外野くんではないのですね?」

 再度確認するように伊良湖は尋ねてきた。

「うん。何が起きてもそんな誰も幸せにならないエンドは訪れないと思うよ」

 絶対に。俺が断固拒否する。


 伊良湖は戸惑うような顔をした。

「でも外野くんは花丸くんのことが好きみたいですよ」

「そうなんだよ。君も気づいていたか。参っちゃうよな。早く君にもらってほしいんだが」


 今度は伊良湖はまた別な意味でぽっと頬を染めて

「出来る事ならそうしていますわよ」

 といじらしい顔をする。


「……あー、相談というのはもしかしてあれか。外野に君のことをどう思っているのか聞いてほしい的な」

「……まあ、要はそういうことです」


 修学旅行を経て少しは仲良くなったと思ったが、それから進展はなかったようだ。この娘が特に奥手なのもあるだろうが、相手が外野というのが大きな原因だろう。

 あの男が何を考えているかなんて、誰にもわからないんじゃないんだろうか。


 俺は少し考えてから言った。

「……俺単独で動いてもいいんだが、何分デリケートな問題だから、部活の奴らと相談したいんだが、どうだろう?」

 最終的には突撃部隊となるのは俺だろう。橘が行っても安曇が行っても面倒な事にしかならない気がする。だが俺が独断専行しても上手くいくとは思えない。あの外野守という男の牙城を切り崩すには、三人寄って文殊の知恵を絞るのが得策だろう。


 だが伊良湖は少々不安そうな表情を見せた。

「……どうでしょうか。安曇さんならともかく、橘さんは笑ったり、言い触らしたりしないでしょうか」

 おいおい橘さん。君があまりに傍若無人な振る舞いを俺にするもんだから、周りの評判最悪だぞ。言わんこっちゃない。


 しかしながら、ガールフレンド(仮)の尻拭いをするのも、俺の役目か。


「いや、あれのああいう態度は俺に向かってだけだから大丈夫だぞ。ちゃんとしてる奴には優しいし、相談者の事になれば親身になるやつだからその点は心配しなくてはいい。むしろ君が橘より俺の方を信頼していることに驚いた」


「べ、別にあなたのことだって信頼しているわけではありませんわ。ただ外野君がお慕いなさっている人だから、あなたを頼んで()()()()()こうして来たのです。勘違いしないでくださいまし」

「……なんか嫌われちゃったな」

 とは言いつつ橘さんを彷彿とさせるツンにかなりぐっと来ている私。たまに俺は、自分がドMの変態なんじゃないかと心配になる。心の中の村上先生に聞いてみれば『そうかもしれないし、あるいはそうじゃないかもしれない。しかし人間は皆変態と言うし、変態が常態ならば、常態が変態なのかもしれない』と仰せられた。つまり俺は変態じゃない。なぜなら変態だから。うむ変態だな。


 伊良湖は俺の心の内を知ってか知らでか、胡乱げなものを見る目つきで答えた。

「もとから好きではありませんわ」

「俺は君のこと嫌いじゃないけどな」

 そしたら今度は本格的に睨んでくる。

()い人がいるのに女性を口説くなんて。外野君のご友人でなかったら心底軽蔑しているところです」

 まだ軽蔑されてないことに感動すら覚える。今のレベルでさえこれだ。この子にとことん嫌われれば、俺は未だ見たことない新たな世界を望むことができるのではないだろうか?

 あと、俺の名誉のために言っておくが、別に口説いてるわけじゃないから。


 伊良湖は、取りあえずは俺に対する個人的感情は捨て置いてくれたようで、俺の提案を噛み砕くように、うつむいてから

「分かりました。お二人にもお話を聞いてもらいましょう」

 と言った。


   *


 放課後、伊良湖を連れて部室に行き、事の次第を話してもらってから、作戦を練るということで、ひとまず伊良湖には帰ってもらった。


 さて、作戦を練ろうかというときに

「ごめんなさい。ちょっと待っててくれるかしら」

 と橘が席を立ち上がった。


「どした?」

「お茶菓子。切れたから」

「ほーん。俺も行こうか」

「いいわ。一人で行けるわよ」

「そうか」


 そういうのであれば仕方ない。そのまま出ていった橘の後ろ姿をみやり、俺と安曇とで部屋で待つことにした。


 さっきまで四人いた部屋が半分になれば、途端にそこはかとない静けさを感じる。安曇も一気に静かになったのが気まずく思えたのか、俺をちらと見てから

「……えへへ」

 と照れるように笑った。


 俺は他に言うことが思いつかなくて、それを茶化した。

「どした? ワライタケでも食べたか?」

「た、食べてないし!」

 割合に大きな声で反応されたのでビクついてしまった。

「おい、ムキになるなよ。冗談だって」

「あ、……ごめん」

 また安曇はバツの悪そうな顔をする。

「いや、謝んなくてもいいけどさ」


 そうは言ったものの、安曇はしゅんと俯いてしまった。

 ……。

 そんな顔されると、今度は俺が気まずくなるんだけど。ほんと、ごめんね。


「あ、その、なんだ。……いい天気だな」

「……ていうか暑いし」

「……だな」

 ……。

 シーンとなった部屋とは対象的に、外では夏の虫たちがジリジリと鳴いている。


 おい、ほんと暑いな。クーラー壊れてんじゃないか。ていうかセミうるさいし。ミーンミンミンじゃないよ、全く。


「あのさ」

 不意に安曇が声を上げる。


「なんだ?」

「……最近どう?」

「……何が?」


「……別に」安曇はそこで一旦黙りかけたが、ムスッと不機嫌そうな顔をしてから「いや、ていうか分かるでしょ。……美幸ちゃんとどうって意味!」

 と語気を強めた。

 

「お、おう。そうか。えっと、何だ。あれだ。まぁ、……まぁまぁかな」

「……ふーん、そっか。そうだよね」


 ……。

 …………。

 ………………。


 ちょっと、楽しい楽しい恋バナのはずなのに、なんでさらに気まずい空気になるの? おかしくない? ねえ、おかしくない?


 何か言わねばと思い、俺は口を開いた。

「……いや、てか、バレてたんだ」

「逆にバレてないと思ったんだ。私達、そこそこ付き合い長いよね?」

「いや、まあ、そうだけども」

「まあ、見てればどんな感じか分かるけどね。どうせ今までと大差ないんでしょ。美幸ちゃんがとんでもないこと言って、それに振り回されて、でも美幸ちゃんは楽しそうで、まるもんも満更でもなくて。そして、まるもんは『これでいいんだろうか』と一人でブツブツと小難しく考えてる……」

「やだ。まるで見てきたように言うじゃない。もしかしてほんとに見てた?」

「見なくても分かるよ。それくらい。自分のこともままならないのに、よく人の恋愛相談乗るよね」

 言葉のとげとげしさとは裏腹に、安曇は優しそうに笑っていた。俺はグウの音も出なくて、苦笑いする。

「耳が痛い」


 (いた)く反省したところで、ガラッと戸が開いた。


「あ、美幸ちゃん。おかえり」

「ただいま」

 スーパーの袋を提げた橘が戸口に立っている。


「何買ってきたんだ?」

 俺が尋ねたら、橘はレジ袋から赤い包みを取り出し、声高らかに言った。


「キットカットかっとかんといかんかったのに、あんたがかっとかんかったから、私がかいにいかんといかんかったんだわ」

 ほぇ?

「え、何その呪文?」

 キットカットがなんて?


 橘は繰り返す。

「キットカットかっとかんといかんかったのに、あんたがかっとかんかったから、私がかいにいかんといかんかったんだわ」

「いや、だからなんですの?」


 やりきった顔をしている橘の代わりに安曇が答えた。

「まるもん知らないの? 名古屋弁の早口言葉だよ?」


「……もしかして橘さん、それ言うためにキットカット買ってきたの?」

 俺が目をじっと見て聞いたところ、橘は我に返ったのか、頬を染めてから目を逸らした。

「……別に。生なごやんもあるわよ」

 そう言って別な菓子を取り出す。


「あ、えっと、美幸ちゃん、ありがとうね」

「いえ」


 若干赤い顔のまま、橘は自分の席についた。


 ……一体、どういう反応をしてほしかったのだろうか? というか君いつも東京弁話してるよね?


 閑話休題。


 気を取り直して、作戦会議を始める。


「どうしようか。穂波のときと違って絶望的じゃないから、少しは気が楽だが、相手はあの外野だ。一筋縄じゃいかないぞ」

「うーん、そうだよねえ。感触は悪くないと思うんだけどなぁ」

 安曇は唸りながら言う。


「あれは軽口ばかり言っているし、女子にもすぐちょっかいを出すが、本当のところ女に興味あるのだろうか?」

「えぇ、そこからなの? ちょっかい出すなら、興味あるってことでしょ」

「いくら馬鹿でも、あんな鬱陶しい絡み方してたら女子に嫌われるの分かるだろ。だからあえての女子避けとしてああやってるのかもしれんぞ?」

「うーん。でも來那(らな)ちゃんはそれにぞっこんなわけだし」

 ……そうでした。


 不意に橘が咳払いした。

「二人で話しているところ悪いけれど、そもそも外野くんは今、女の子に構っている暇なんてないんじゃないかしら」

「なんでだ?」


「だって彼、野球部よ」


「……そうだった」


 夏の大会の最中。あいつがレギュラーなら、確かに恋人を作る気になんてならないか。レギュラーでなくても、先輩や周りの選手が真剣に野球してるのに、呆けたことをする度胸があるとも……いや、それはあるかもしれない。


 まず外野が背番号を貰えているかどうかを確かめるところからだなと、思った矢先


「ガラガラドーン。放送部の部室ってのはここかい?」

 

 わざとらしい言い方で登場したのは、でかい図体の坊主頭。


「……ご本人がやってきたみたいね」


 全くだ。噂をすればなんとやら。



「おいおい花丸ぅ。みんなが暑い中汗を垂らして運動しているというのに、お前は別嬪さんたちと楽しくおしゃべりかい? くぁぁ! 人生楽しそうだな!」

 俺からすればお前の方が楽しそうだよ。


 そこでガタリと橘が席を立ち

「少し空けるわ。クリープが無くなってるの忘れてたわ」

 と言って部室の外に出ていってしまった。さっきスーパーに行ったばかりなのに、そそっかしい子である。大方、キットカットの下りをやるのを思いついたせいで、クリープのことは頭から抜け落ちていたんだろう。


 それを見た外野は何をどう解釈したのか知らないが、

「ハハッ。シャイなお嬢ちゃんだ。この俺と話すのが恥ずかしいみたいだ」

 とほざいている。

「恥ずかしいのはお前の頭だよ」

 

 だが俺の言葉も効果は今一つだ。外野は意に介さないで様子で

「ところでクリープとはなんぞや」

 と訊いてくる。

「……粉ミルクみたいなもんだ」

 流石に部室に生の牛乳は置けないので、我社はクリープを採用しています。天然素材にこだわるのが放送部クオリティです。


「ほほう、粉ミルクとな。……放送部は赤ちゃんプレイのサービスでも始めたんか? もしかして、哺乳瓶で別嬪さんたちがミルクを飲ませてくれるのか?!」

「いや、お前何言ってんの?」

「だが、俺は直接派だな。つまり(じか)()に──」

「お前それ以上喋ったら、ぶん殴るぞ。……全く、時代錯誤も甚だしい。今どきの粉ミルクは高品質なんだ。お前みたいなやつがいっぱいいるから、日本の旧態依然とした社会は、いつまで経っても新陳代謝が進まないんだ」


 そこでだんまりを決め込んでいた安曇が口を開いて言った。

「いや、そういう問題じゃないでしょ」


   *


 橘が戻ってきたところで、話を再開した。

「それで何の話をしに来たんだ?」

 まさかうちの女子部員にセクハラしに来ただけとか言わないよな。いや、他に理由があってもセクハラはだめだけど。


 俺が聞けば外野は

「実は……」

 と一変して険しそうな顔を見せた。


「何だ? 話してみろ」


「……エスカレーターってあるだろ」

 外野が世界の真相を話しているかのような厳粛な面持ちをしているから、その話の内容とのギャップに戸惑い、一瞬何を言われたのか分からなかった。

「……エスカレーター?」

「何だ花丸。知らんのか? デパートとかショッピングモールにあるやつだ。階を移動するのに使う」

「それは分かる。だが、それがどうした?」

 世の中には要領の得ない話し方をする人間がいる。そういう人間の、話の序盤だけを切って、分かりやすく話せと怒鳴りつけても仕方ない。最後に重要な落ちがあるかもしれないのだ。俺はぐっと堪えて、続きを促した。


 外野は依然厳粛な様子で続ける。

「上の階に上がるときはエスカレーターに乗ればいける。だが下の階に行くときはどうだろうか? 俺たちは下の階にいくときでもエスカレーターに乗る。つまり下に行ってるはずなのに上昇(エスカレート)しているのだ! 何ということだろうか!」

「……」

「……」

「……」


「同様にだ! エレベーターも上る(エレベートする)ときだけでなく、下るときもエレベーターに乗ると言うではないか! 何たること! 言葉の乱れだ! ここは正しく、上るときをエスカレーター、エレベーターとし、下るときはデエスカレーター、デエレベーターと言うべきではないか!」

 ……。


 下っているつもりが実は上がっていた。


 哲学的な問いに聞こえなくはないが、こと外野に限ってそんなことはない。


「……なあ、橘。明日って委員会何時からだっけ?」

「授業終了の三十分後よ」

「あ、なんか、学校祭の準備についてだったよね」

「ええ、そうね」


「おい! 花丸ぅ、聞いとるのか!」

「なんじゃい、うるさいな。今忙しいんだ」

「であるから、下りるときはデエスカレーターと言うべきなんだ。そうは思わんか?」

「思わない」

何故(なにゆえ)!?」

 外野はくわっという音が聞こえそうなくらいな勢いで目を見開いた。


「お前、こんなところで油売る前に練習しろよ! またすぐ試合あんだろ!」

「ふふっ、俺は昨日ちょいと投げたから、今日は流しで終わりなのだ。どうだすごいだろ」

「だったら帰って寝てろ」

 こんなやつにピッチャーを任せなければならないナインが不憫でならない。


「ところがどっこいそうはいかないんだな」

「何だよ」

「相談があるのだよ」

「だ・か・ら、なんでも好きなように呼べばいいだろ。デスパレードでも、ターミネートでも」

「花丸くん。それだと多分昇天してるわよ」


「デデンデンデデン」

 外野は嬉しそうに口ずさんで「I'll be back」と呟いている。ほんとにこいつは何がしたいのだろう。

 そしてこんなやつを好きだと言っている伊良湖のことが心底心配になった。



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